セウェルス朝の断絶以降、50年の間に70人もの皇帝が生まれては消えるという軍人皇帝の時代が続いた。
はじめこそ皇帝は元老院の意向を尊重して決まっていたが、激化する外敵との戦いのため、やがてバルカン半島出身の叩き上げの軍人が擁立されていく。
また実力さえあれば行政官の経験をしなくても皇帝へと上り詰めることができた。しかしこれは皮肉にも皇帝の権威を低下させ、求心力を失う結果を生んでしまう。
軍人皇帝時代の混乱を収めたディオクレティアヌスは、この事態を解決するため、皇帝の権力を強化する改革に乗り出したのだった。
■帝政ローマ末期の年表
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年 | 事柄 |
---|---|
285年 | ディオクレティアヌス、マクシミアヌスを第2正帝に任命。 |
292年 | 帝国4分割統治制(テトラルキア)開始。 |
301年 | ディオクレティアヌス、最高公定価格令発布。 |
303年 | ディオクレティアヌス、キリスト教徒の迫害開始。 |
305年 | ディオクレティアヌス、皇帝を退位。 |
306年 | コンスタンティヌス1世、皇帝に即位。(~337年) |
313年 | コンスタンティヌス1世、ミラノ勅令を発布しキリスト教公認。 |
325年 | ニカイヤ公会議で三位一体説を正統に。 |
330年 | コンスタンティノポリスを建設し、ローマ帝国の都を遷都。 |
337年 | コンスタンティヌス1世死去。 |
360年 | ユリアヌス、皇帝に即位。(~363年) |
375年 | 西ゴート族、ローマ領内に移動、ゲルマン民族大移動の開始。 |
378年 | テオドシウス1世、皇帝に即位(~395年) |
380年 | テオドシウス1世、正統派キリスト教を国教化。 |
391年 | テオドシウス1世、キリスト教以外の信仰を禁止。 |
395年 | テオドシウス1世死去。ローマ帝国が東と西に分裂。 |
410年 | ローマ、西ゴート族により陥落。 |
476年 | ゲルマン人傭兵オドアケル、ロムルス・アウグストゥスを廃位し、皇帝位を東ローマ帝国に返上。西ローマ帝国滅亡。 |
1453年 | 首都コンスタンティノープルがオスマン帝国により陥落し、東ローマ帝国滅亡。 |
元首政から専制君主制へ
皇帝ディオクレティアヌスの改革
ローマ帝国を4分割して統治するテトラルキア導入
ディオクレティアヌスは、広大な領土を一人で治めるのは困難と考えた。
そこでローマ帝国を東と西に分割し、さらに東西の領土を2つにわけ、それぞれ正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を配置し治めるようにした。
- 東の正帝(ディオクレティアヌス)
- 東の副帝(ガレリウス)
- 西の正帝(マクシミアヌス)
- 西の副帝(コンスタンティウス)
4つに分割して治める、いわゆるテトラルキアを導入したのである。
帝国全土を12の管区に再編
さらに4つの領土を12の管区に分け、文官と武官を切り離すようにした。
これにより、武官が行政区間にとらわれることなく軍事行動を取れるようになったのである。
税制の改革とインフレ対策
しかし行政区間を細分化したことで兵員が倍増し、軍事費がさらに大きくなってしまった。
そこでディオクレティアヌスは税制改革を行う。
ディオクレティアヌスは、これまで別々に徴収されていた人頭税(カピタティオ)と土地税(ユガティオ)を組み合わせる「カピタティオ・ユガティオ制」を導入し、合理的な徴収を目指した。
さらに税を確保するべく、帝国全土で土地の測量も行った。
また、帝国各地で進行していたインフレ対策として、最高価格を定める勅令をだした。
ただ、この方策が実際に施行されうまくいったかは疑わしいようだ。
ローマ古来の神々を復興
さらにディオクレイティアヌスは自らをユピテルの子とし、西の正帝マクシミアヌスをヘラクレスの子であると宣言。
民衆にローマの神々への礼拝を義務付けた。
さらに臣下にはディオクレティアヌスのことを「ご主人様(ドミヌス)」と呼ぶように命じる。
これは、今までかぶっていた共和政を守るローマ市民の第一人者という仮面を脱ぎ捨てる、という行為に他ならなかった。
ディオクレティアヌス以降、元首政ではなく、専制君主政へと変化したのである。
キリスト教の弾圧
このように皇帝を権威付けるため行った宗教改革は、すでに帝国に広まっていたキリスト教徒との軋轢を生むことになった。
はじめはローマへの神々を礼拝すれば、キリスト教を認めるとしていたディオクレティアヌスだったが、キリスト教はこれを無視してローマの神々へ礼拝を捧げなかった。
これに業を煮やすと、ディオクレイティアヌスはキリスト教徒を徹底的に弾圧。
処刑されたものは数千人に及んだという。
ディオクレティアヌス、皇帝を退位する
こうして3世紀の危機を乗り越えたディオクレイティアヌスは、在位22年で自ら皇帝を退位した。
さらに西の正帝マクシミアヌスにも退位を要求し、東西の副帝が新たな正帝となった。
ディオクレイティアヌスは余生を別荘で静かに過ごしたという。
しかしディオクレイティアヌス退位後に、東西の4皇帝が対立し内乱が勃発し、テトラルキア(4分割統治)は崩壊。
これを最終的におさめたのが、コンスタンティヌス1世、後に大帝と呼ばれる皇帝である。
皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)の改革
画像
コンスタンティヌス1世
カピトリーノ美術館 [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]
ディオクレティアヌスの改革を強化
コンスタンティヌスは基本的にディオクレティアヌスの政治路線を踏襲する。
ディオクレティアヌスが分けた行政官を、皇帝直属の組織として再編、皇帝の権力をさらに強化する。
また『野戦機動隊』を創設し、騎馬隊や戦車隊を強化した。
さらに税収入を確保するため、小作農の移動を禁じ、職業を世襲化するようにして職業選択の自由をなくしたのである。
首都を東に移転
コンスタンティヌスはディオクレティアヌスと同じく行政区を12に分け統治した。
そしてこれまで行政の中心だったローマから、新たに作ったコンスタンティノポリスに首都の機能を移転。
ついにローマはカプト・ムンディ(世界の首都)から1行政区へと変わり、ローマ世界は西から東へと重心を移動させることになった。
通貨改革
コンスタンティヌスはディオクレティアヌスの行ったインフレ対策を徹底するため、通貨の改革にとりかかる。
彼は良質な金貨と銀貨を発行し、金貨1:銀貨24のレートを守らせた。
この結果、インフレは徐々に回復した。
またコンスタンティヌスの作らせた金貨ソリドゥスは、この後700年もの間、世界通貨として通用する金貨となった。
キリスト教を公認
皇帝権力を強化するために神の権威を利用したディオクレティアヌス。
その路線を踏襲したコンスタンティヌスだが、彼はローマ古来の神々ではなく、キリスト教へと鞍替えしたのだ。
コンスタンティヌスはミラノ勅令でキリスト教を宗教として認めると、自ら洗礼を受けてキリスト教徒となった。
これ以降、ローマ帝国で急速にキリスト教が普及していった。
コンスタンティヌスの死後
コンスタンティヌスがなくなると、再び帝国は混乱。
一時期ユリアヌスが帝国を収め、腐敗したキリスト教徒と教会を弾劾してローマ古来の神々を復興させる動きをみせた。
しかしユリアヌスの治世が短命に終わるとこの流れも続かず、さらに東のフン族により押し出されたゲルマン民族の大移動が始まって帝国の混乱はさらに加速。
この混乱を収めたのがテオドシウスであり、1人でローマ帝国を統治した最後の皇帝となった。
皇帝テオドシウス1世の政策
ゴート族に同盟者として帝国内移住を認める
民族大移動によってトラキア地方に侵入していたゲルマン民族の一つであるゴート族を、テオドシウスは納税義務のない同盟者として移住することを認めた。
これによりドナウ川周辺は安定したが、ローマ領内のゲルマン民族化が加速することになった。
キリスト教をローマ帝国の国教に
テオドシウスは熱心なカトリックのキリスト教徒だった。
そのためカトリック以外のキリスト教徒(異端派)とキリスト教以外の宗教(異教)の信仰を禁止する勅令を布告し、キリスト教をローマ帝国の国教とした。
ローマ帝国はついにキリスト教の国へと変貌することになったのである。
ローマ世界の終焉 -ローマ帝国の滅亡-
テオドシウスの死後、ローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂。
2つの帝国は二度と統一されることはなく、別々の道を歩むこととなる。
西ローマ帝国の滅亡
テオドシウスが死ぬと、同盟者として移住を許されていたゴート族が反乱を起こし、その他のゲルマン民族もローマ帝国領内に侵入する。
そして410年、ガリア人によって陥落してから一度も落ちることのなかったローマが、西ゴート族によって800年ぶりに陥落。
さらにヴァンダル族によって北アフリカも奪われてしまう。
そして476年、ゲルマン人の傭兵オドアケルによって、最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスが退位させられた。
オドアケルは皇帝の位を東ローマ帝国に返上。
こうして西ローマ帝国は静かにその幕を閉じた。
東ローマ帝国の滅亡
一方東ローマ帝国は西ローマ帝国滅亡後も存続。
一時期ユスティニアヌス帝によって最大版図を誇り、かつての西ローマ帝国領まで回復することもあった。
しかし新興国家イスラム勢力との争いにより、徐々に領土は縮小。
最後はオスマン帝国により、1,453年首都コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国も滅ぼされてしまったのである。
ローマ建国から約2,200年後のことだった。