大帝国を作り上げた古代ローマも、はじめは小さなイタリア中部の一都市にしか過ぎなかった。
古代ローマ人はどこから来たのだろうか。
そしてどのように都市国家ローマを作り上げたのか。
まずは伝説に彩られたローマ建国神話と、7人の王が治めた古代ローマの王政時代を見てみよう。
■王政ローマの年表
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年 | 事柄 |
---|---|
前753年 | ロムルス、ローマを建国する |
前752年 | サビニ女の略奪 |
前715年 | ヌマ・ポンピリウス、2代目の王となる |
前673年 | トゥルス・ホスティリウス、3代目の王となる |
前641年 | アンクス・マルキウス、4代目の王となる |
前616年 | タルキニウス・プリスクス、5代目の王となる |
前579年 | セルウィウス・トゥリウス、6代目の王となる |
前534年 | タルキニウス・スペルブス、7代目の王となる |
前509年 | タルキニウス・スペルブスを追放、以後ローマは共和政に |
ローマ誕生! ーローマ建国神話ー
ローマ人のルーツはどこにあるのだろうか。
建国神話では、トロイヤ戦争で有名なトロイの武将アエネアスがローマ人の先祖のようだ。
トロイは現在のトルコ西岸にあった都市。
ギリシアとの戦でトロイが破れ、アエネアスはトロイを落ち延びた。
そして様々な困難の末、アエネアスはイタリアのラティウム地方にたどり着き、この地でアルバ・ロンガを建国したという。
400年が経つ。
アルバの時の王は策略で弟から王位を奪われ、王女である娘は巫女にされてしまった。
その巫女を見初めたのが軍神マルス。
処女であるにもかかわらず、マルスとの間に双子をもうけてしまった。
この双子こそ、後のローマを建国するロムルスとレムスである。
しかし王である叔父は王位を奪われることを恐れ、双子を捨てるよう命じた。
それを哀れんだ兵士は、双子をかごの中に入れ、テヴェレ川と流される。
この双子を拾ったのが川の近くに住んでいたオオカミだった。
オオカミは双子に自分の乳を与え、命をすくった。
やがて双子は牧夫に拾われるとたくましく成長する。
そして出自の秘密を知った彼らは、アルバ・ロンガの王を打倒して祖父を王に戻すと、自分たちは新たな国を作るために旅立ったという。
やがて土地を見つけて新たな国作りを始めるが、双子は対立、ロムルスはレムスを殺してしまう。
こうして前753年4月21日、ロムルスは建国の王となり、彼の名にちなんで国名を「ローマ」とした。
以上がローマの建国神話であり、伝説である。
もちろんこの話がすべて本当に起こったことだとは思わない。
しかしローマ人は、すでに祖先が外の土地から来た人間と認めているのだ。
この建国神話を表したオオカミと乳をもらう双子の像が現在のローマ市に飾られているし、4月21日は建国記念の日としてローマでお祭りが毎年催されている。
建国の王、ロムルス
ローマの王になったロムルスは、周辺に住む人々の移住を奨励。
領土拡大のため、逃亡奴隷や殺人者でさえも受け入れたという。
またロムルスは
- 王
- 元老院
- 民会
の三本柱で国政を運営する、ローマ政治の基礎も作り上げた。
しかし、彼の積極的拡大政策により、当時のローマは男ばかりになってしまい、女性の数が不足する事態に陥ってしまった。
このままではローマが早晩滅んでしまう。
そこでロムルスは近隣の民であるサビニの人々から、未婚の女性を略奪することにしたのだ。
隣国に女性を嫁がせてほしいとロムルスは使節を送るが、周辺諸国は拒否。
そこでロムルスはサビニの未婚女性を罠にはめて略奪することに。
当然サビニ人は女性の返還を迫るがロムルスは逆にこれを拒否する。
両者は対決するが、略奪されたサビニの女性が
「夫や父のどちらかが死ぬことは辛いので、争いをやめてほしい」
と懇願することで両者は対立をやめて和解。
やがて双方の部族を共同で統治することとなった。
ロムルス亡き後、王政は6代続いた
やがてロムルスが治世を終えると、選挙で選ばれた王がローマを統治をすることになる。
王政の終わりまで約200年、6代続いた。
以下、歴代の王とそれぞれの業績は次のとおりだ。
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何代目 | 名前 | 治世年 | 出身 | 業績 |
---|---|---|---|---|
2代目 | ヌマ・ポンピリウス | 前715年 ~前673年 |
サビニ人 |
|
3代目 | トゥルス・ホスティリウス | 前673年 ~前641年 |
ラテン人 |
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4代目 | アンクス・マルキウス | 前641年 ~前616年 |
サビニ人 |
|
5代目 | タルキニウス・プリスクス | 前616年 ~前579年 |
エトルリア人 |
|
6代目 | セルウィウス・トゥリウス | 前579年 ~前534年 |
エトルリア人? |
|
7代目 | タルキニウス・スペルブス | 前534年 ~前509年 |
エトルリア人 |
|
ロムルスも含め、ここに書いた7人の王は伝説に近く、実在するかどうかも疑わしい。
しかし彼らの業績から読み取れるのは、ローマがこの200年で徐々に国としての形を作っていったことだ。
ただし最後の3代の王がエトルリア人であることからも、北方の先進国であるエトルリアから、何らかの圧迫を受けていたのではないだろうか。
属国とはいかないまでも、エトルリアから派遣される人物に従属する形で、ローマを成り立たせていた可能性が高い。
ただし、ローマもエトルリアの先進技術を取り入れて、より豊かに大きくなっていく強かさを持っていた。
最後の王、タルキニウス・スペルブスの追放
しかし最後の王となったタルキニウスは、元老院の意見も聞かず、民会すら通さずに一人ですべてを決定する人間だった。
スペルブスとは(傲慢な)という意味のあだ名である。
彼は建設工事に民衆を駆り出して酷使したため、民衆に不満を抱かれるようになった。
さらに追い打ちをかけるような事件が起こった。
それが『ルクレティアの陵辱』と呼ばれる出来事である。
王の息子であるセクストゥスが、貞淑な人妻であるルクレティアを強姦した事件。
ルクレティアは夫と夫の友人ブルトゥスにすべてを打ち明けたあと、短剣を自らの胸に刺して自殺した。
この事件に起こった民衆は、タルキニウスとセクストゥスら王家一族の追放を決意。
前509年、ついに彼らを追放し、以後王を置かずに『執政官』2人で国を治めることとした。
ここに共和政ローマが誕生したのである。
建国神話と王政時代から見えるローマ人の開放性
以上で古代ローマの王政時代は幕を閉じた。
この約250年間は、古代ローマの歴史が書かれた時期からですら500年以上も前の話であり、半分は伝説に近く、すべてが真実ではないだろう。
しかし、王政時代には下記のようなことが読み取れるのではないか。
- ローマ人が外国出身の王を受け入れていること
- 元老院や民会の意見を大事にしていること
いかに周辺諸国の技術がローマよりも進んでいたとはいえ、外国の王を伝説に使うのは日本では考えられないだろう。
例えるなら日本書紀の天皇に、中国や朝鮮半島出身の王が出てくるようなものだ。
ローマ人の開放性が如実にあらわれたエピソードだと考えられる。
また元老院や民会の意見を聞かない王を追放するとは、
「自分たちの意見が通らないと、たとえ王といえど容赦しない」
と、自分たちこそ国の運営を主導するのだという強い意思が感じられる。
この開放性と自主性により、ローマは共和政となってから拡大を続けるのである。