共和政ローマ末期 グラックス兄弟の改革からアクティウムの海戦まで -古代ローマの歴史-

共和政ローマ末期

最強の敵カルタゴを滅ぼし、東方諸国も次々と征服、地中海をほぼ手中にしたローマ。

超大国への道を歩む影で、相次ぐ長期の遠征で農地は荒廃。
さらに安価な穀物がイタリアに輸入されることで、ローマを支えていた中小自作農民の暮らしは苦しくなっていく。

一方一部の富裕層は放逐された農地を手に入れ、奴隷を使った大土地農業を経営し、ますます財を蓄えていった。

かつてローマの敵であったハンニバルはこんな言葉を残している。

いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。
国外に敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。
外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に苦しまされることがあるのと似ている。

まさに今、ローマは疾患に侵された自らの身体と戦うことになるのである。

■共和政ローマ末期の年表
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事柄
前133年 グラックス兄弟の兄ティベリウス、護民官就任
前123年 グラックス兄弟の弟ガイウス、護民官就任
前107年 マリウス、軍制を改革する
前90年 同盟市戦争開始(~前89年)
前82年 スッラ、独裁官就任
前73年 スパルタクスの乱(第3次奴隷戦争、~71年)
前60年 第1回三頭政治(ポンペイウス、クラッスス、カエサル)
前53年 クラッスス、パルティアとの戦いで戦死
前49年 カエサル、ルビコン川を渡る
前48年 ファルサルスの戦いでカエサルがポンペイウスを破る
前45年 カエサル、終身独裁官就任
前44年 カエサル、暗殺される
前31年 オクタウィアヌス、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る

グラックス兄弟の挑戦と挫折

グラックス兄弟
グラックス兄弟
Jean-Baptiste Claude Eugène Guillaume [Public domain]

長らくローマは国の防衛を、一定の資産を持つ農民が支えていた。
その農民が没落し、畑を放棄して都市部に流入、無産市民へと変貌するものが後を立たなかった。

これは社会不安を促すだけではなく、兵の質の低下をまねく、ローマにとって重大な出来事だったのである。
この問題に着手したのが、若きグラックス兄弟だった。

兄ティベリウスの改革

グラックス兄弟の兄ティベリウスは、大土地所有者の土地を再分配するべく、護民官に当選すると農地改革をおこなう。
これは一人の持てる土地の最大面積を制限するという、もともと作られていた法の再施行だった。

しかしティベリウスは、すでに土地所有者の多かった元老院議員の反発にあい、護民官の任期期限後に暗殺されてしまった。

弟ガイウスの改革

兄ティベリウスの遺志を継ぎ、農地改革を行ったのが弟のガイウス。
ガイウスも護民官に当選すると、中途半端になっていた兄の再分配法をもう一度施行するように促した。

さらにガイウスは無産市民たちの救済として穀物価格の統制を行い、市民の軍役年数に制限を設けるなどの法案を成立させようとした。
また後に問題となるラテン同盟市の住民に対してローマ市民権を与えるという構想まであったという。

しかしガイウスも結局は既得権益の保持者である元老院議員たちの反発にあい、ガイウスの過激な行動に対して元老院最終韓国を発動し、ガイウスを自殺へと追い込む。


かくしてグラックス兄弟の挑戦は、あえなく挫折したのである。
そしてこの挑戦が、元老院主導体制の健全化を志した、最後の試みとなるのだった。

マリウスの軍制改革

グラックス兄弟の失敗は、ポエニ戦争以降何世代にも渡って築き上げられた元老院主導体制の硬直が、すでに後戻りのできないことを示す結果となった。

しかしポエニ戦争やギリシアでの戦争が終了し、市民兵の世代が交代すると、兵士の質が低下してしまったのだ。
さらに前112年に北アフリカで起きたユグルダ戦争では、元老院議員たちが何度も賄賂で買収されるなど、指導力の低下も露見してしまう。

この状況を打開するために民衆派の武将ガイウス・マリウスが行ったのが、ローマ軍の改革だった。

マリウス
マリウス
グリュプトテーク [Public domain]

マリウスの軍制改革では、大きくは次の二点のことを行った。

  • これまでの徴兵制から志願制へと変更する
  • 装備と給料も国が支給する

志願制にすることで、

  • 無産市民となった貧民層の救済にもなり、
  • 農業従事者から労働力を奪う必要がなくなるだけでなく、
  • 戦う集団のプロ化を進めることでローマ軍を強化できる、

という一石三鳥の効果があったのである。

だがこれは同時に自分たちがローマを守るという意識が薄れ、兵たちが指揮官へ依存する結果にもなり、皮肉にも個人が力をもち帝政への道を間接的に進める結果になった。

同盟市戦争

マリウスの軍制改革以降、ローマ市民は志願制となったが、同盟諸都市のラテン市民はあいかわらず兵の提供を義務化されていた。
しかしこれまで最も犠牲の多かった軍団の中核部分もローマ市民とラテン同盟市の補助兵が同様に担うことで、同様の犠牲と義務が発生。
さらにラテン市民にはないローマ市民のさまざまな特権(直接税の免除や土地の分配)に、次第に不満をつのらせていく。

そこでイタリアの同盟市は、ローマに対してローマ市民権を要求したが、元老院はこれを拒否。
結果同盟都市の間でローマを抜きにしたイタリア連邦の結成に動き出し、ローマと戦争をすることになる。

多くの犠牲を出した結果、同盟市の降伏でローマは勝利したが、これにこりたローマはイタリア全土にローマ市民権を拡大することになったのである。

民衆派 VS 元老院派

マリウスの活躍により北方のゲルマン民族撃退やユグルダ戦争を集結させたローマ。
しかし、次第に元老院を無視して民会の決議で政治を動かせばいいと考える、マリウスの考えと彼を支持する人々(民衆派)に、元老院は危機感を募らせるようになっていく。

この状況に、旧来の元老院主導のもとで政治を行い、共和政ローマの維持を目指す人々(元老院派)の代表としてスッラが名乗りを上げる。

スッラ
スッラ
グリュプトテーク [Public domain]

スッラの画像
グリュプトテーク [Public domain]

スッラはもともとマリウスの部下として戦争に参加していたが、その後出世を果たし、政敵としてマリウスと対立するようになる。

そして黒海沿岸で反乱が起こると指揮権を巡って民衆派と元老院派が争い内乱に発展。
スッラが武力で指揮権を奪い、見事反乱を制圧することに成功した。

こうして民衆派に勝利したスッラは、将軍としてローマに凱旋すると独裁官に就任。
通常なら半年の任期である独裁官に、なんと無期限で就任したのである。

スッラはこの権限を最大限に利用する。
まずは彼の政敵を徹底的に粛清。
さらに元老院体制の強化と共和政の再建へむけ、次のような国政改革を行った。

  • 元老院議員の定数を300人から600人へ増員
  • 常設の法廷を設置、訴訟手続を整備
  • 属州総督の制度化
  • 退役兵に土地を分配

このような改革をすべて終えたスッラは、独裁官から退任すると政界から身を引いて、余生を静かに過ごしたという。

しかし共和政の再建を目指して就任した無期限の独裁官という前例が、皮肉にも共和政ローマを根底から覆すことになるのだった。

第一回三頭政治からローマ内乱へ

ローマの領土拡大にともなう歪みは、貧富の拡大だけではなく大量の奴隷流入により、社会制度の歪みにもつながった。
これにより引き起こされる、奴隷たちによる3度の反乱は、しばしばローマを脅かした。

なかでも3度目の反乱である第三次奴隷戦争(スパルタクスの乱)はイタリア全土に広がり、約10万もの奴隷や貧民が参加した大規模なものとなった。

このスパルタクスの乱を鎮圧したのが、ローマ一の富豪と言われたクラッススであり、スッラの部下であったポンペイウスである。
ポンペイウスはさらに、地中海全域で暴れまわる海賊の討伐を、前代未聞の軍勢を率いて収めることに成功し、輝かしい武功をてにしたのだ。

第一回三頭政治

しかしポンペイウスやクラッススの功績はあまりにも大きく、個人としての権力集中を避けたい元老院に疎まれてしまう。
元老院の仕打ちに不満を持つ彼らの間を持ったのが、民衆から絶大な人気を集めていた民衆派のガイウス・ユリウス・カエサル。

ポンペイウス・クラッスス・カエサル
ポンペイウス(左)、クラッスス(中)、カエサル(右)
JW1805(左)・Diagram Lajard [CC0](中)

利害の一致した彼らは元老院と対抗するために密約を結び、それぞれの目的を果たすべく動き出す。
第一回三頭政治の始まりである。

この三頭政治の結果、クラッススはシリア総督として東方へおもむき、カエサルはガリア総督としてガリア全土を平定すべく旅立った。
三者の関係は4年後も更新され、3人の主導でローマを動かしていることは誰の目からも明らかとなったのだ。

三頭政治崩壊とローマ内乱

しかしシリア総督として赴任したクラッススが、ローマ東方の大国パルティアとの戦いで戦死すると状況は一変。
ポンペイウスと姻戚関係を結ぶために嫁いだカエサルの娘ユリアの死もあり、次第にポンペイウスは元老院に取り込まれてしまう。
そして三頭政治はもろくも崩れ去った。

ポンペイウスと元老院は、ガリア全土を平定し、今や圧倒的な名声と軍事力を手中にしたカエサルを警戒。
カエサルは、ポンペイウスと元老院に対して、何度も話し合いの場を儲けようとしたが実現せず、ついに元老院最終勧告が突きつけられ、軍隊を解散してローマへの帰還を命じられてしまう。

身の危険を察知したカエサルはこの勧告を無視し、国家の大罪を犯すことを承知で、軍を率いたまま国境であるルビコン川を渡る。
ローマは、ポンペイウスを筆頭とした反カエサル派の元老院議員と、カエサルが対立する内乱へ突入した。

カエサル、ローマを手中にし終身の独裁官に

ポンペイウスの最後と内乱終結

ルビコン渡河後、カエサルはポンペイウスの身柄を確保すべく動くが失敗し、ローマへと帰還した。
その後ポンペイウス派に属するイベリア半島を制圧すると、ポンペイウスが逃げ込んだギリシアへと渡り、彼と対峙した。

はじめはポンペイウスに苦戦したカエサルだったが、ファルサルスの戦いでポンペイウスとの決戦に勝利。
ポンペイウスは体制を立て直すためにエジプトに亡命するが、そこで無残にも殺されてしまう。

カエサルはポンペイウス亡き後も、ポンペイウスの残党と反カエサル派の議員たちを掃討するため各地を転戦し、数年かけてようやくすべての戦いに勝利し、内乱を収めることができたのだった。

カエサルの独裁官就任と改革

そして彼はローマに凱旋すると10年、さらには終身の独裁官となり、数々の改革を断行する。
彼の改革は次のようなものだった。

  • ユリウス暦の導入
  • 植民市建設の推進
  • ローマ市民権を属州民の一部まで拡大
  • 元老院議員の定員を600人から900人まで増員
  • 属州の税制改革

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また、カエサルは今まで敵対していた元老院議員を粛清することなく、寛容にあつかうことで味方となるように促した。
しかしこのことが後に災いし、カエサルは前44年の3月15日、ポンペイウス劇場で暗殺されてしまったのだ。

カエサル暗殺
カエサル暗殺
William Holmes Sullivan (1836-1908) [Public domain]

カエサルの死により、ローマは再び内乱へと突入する。

第二回三頭政治~オクタウィアヌスのローマ統一

絶大な人気を誇ったカエサルの暗殺により民衆は暴動を起こし、暗殺の首謀者たちは首都ローマを退去するしかなかった。
そんな中、カエサルの遺言が読み上げらる。

後継者に指名されたのは、ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス。
後のオクタウィアヌスであり、初代皇帝アウグストゥスである。

オクタウィアヌスはカエサルの部下アントニウス、レピドゥスとともに『国家再建三人委員会』を結成し、カエサルの暗殺者や反カエサル派を次々と粛清していった。

しかし粛清による政敵の排除が終わると、次第に三者は対立する。
まずはレピドゥスがオクタウィアヌスに敗れて姿を消すと、ローマはオクタウィアヌスとアントニウスで西と東に二分された。
そしてアントニウスはプトレマイオス朝エジプトの女王、クレオパトラと結んでオクタウィアヌスと衝突。

アクティウムの海戦
アクティウムの海戦
Castro Battle of Actium

両者はイオニア海のアクティウム沖で激突し、最後はオクタウィアヌスが勝利してローマは再び統一されたのである。

本記事の参考図書