共和政ローマ前期 共和政成立~イタリア半島統一まで -古代ローマの歴史-

共和政ローマ前期(SPQR)

エトルリア人の王、タルキニウス・スペルブスを追放したローマは、王を立てず執政官(コンスル)を毎年2人選挙で選び、元老院主導のもとで国家を運営する共和政の道を選んだ。

しかし王の代わりに権力を手中に治めた貴族(パトリキ)とその他大勢の平民(プレブス)の間で、新たな抗争が待っていたのである。

※メインイメージはWikipedia(stemma di Reggio Emilia)より

■共和政ローマ前期の年表
※スマートフォンでは右にスライドできます。

事柄
前509年 共和政ローマ成立
前494年 聖山事件。 護民官が認められる
前450年頃 十二表法成立
前445年 カヌレイウス法成立
前396年 ローマ、エトルリア都市ウェイイの攻略に成功する
前390年 ガリア人によるローマ陥落
前367年 リキニウス・セクスティウス法成立
前343年 第1次サムニウム戦争開始(~前341年)
前340年 ラテン戦争開始(~前338年)
前326年 第2次サムニウム戦争開始(~前304年)
前298年 第3次サムニウム戦争開始(~前290年)
前287年 ホルテンシウス法成立
前280年 ピュロス戦争(~前275年)

貴族と平民との身分闘争の末に、共和政ローマの体制を強化していく

共和政ローマの体制

貴族と平民の身分闘争の前に、まずは共和政ローマの体制がどのようなしくみなのかを見てみよう。

王政ローマ期にあった仕組みである、

  • 元老院
  • 民会

を基本的に受け継いだ形となっている。
だが、権力の独裁を嫌ったローマでは、王の代わりに任期を決めた執政官を選挙で選ぶことに決めた。
また、執政官のほかに、王が担っていた役割を持つ政務官が置かれることになった。

共和政を支える3つの機関の簡単な説明である。

政務官(マギストラトゥス)

行政や軍事を執行する機関。

  • 執政官(コンスル)・・・国政、および軍事最高責任者。定員2名、任期1年
  • 法務官(プラエトル)・・・司法担当。定員4~6名。任期1年
  • 造営官(アエディリス)・・・治安、祭事を担当。定員4名、任期1年
  • 財務官(クァエストル)・・・国庫の管理を担当。定員10名、任期1年

元老院(セナトゥス)

政務官に行政、軍事、外交についての助言を与える機関。
また民会での重要な審議以外の議決も担当した。

定員は300名で任期は終身。
貴族から選出される。

民会(コミティア)

最高決議機関。
政務官の選挙や、市民の死刑確定などの重要な案件を決議する。

ローマ市民(貴族と平民)で構成される。

この三者がバランスよく国政のカジをとっていたかと言われれば、実はそうではない。

この中で最も力があったのは貴族の集まりである元老院だった。
元老院は有力な貴族や政務官のOBが集まっていたので、執政官などの政務官は、通常元老院の意向を無視してまで行動することができなかったのである。

SPQRについて

市役所やマンホールなど、ローマ市のいたるところに刻まれている『SPQR』とはなんだろう。

これは『Senatus Populusque Romanus(セナトゥス・ポプルスクェ・ロマヌス)』の略であり、『元老院とローマ市民』のラテン語で、古代ローマの国家全体のことを指す。
ローマ人はこの『SPQR』にローマ市民の栄光と誇りを感じていたのである。

また、はじめに『セナトゥス(元老院)』があることからも分かる通り、元老院はローマ人にとって尊敬の念を抱かせる存在だったのだ。

貴族と平民との対立の流れ

しかし、はじめからこのような整った体制ができていたわけではない。
前述したとおり、王から取り上げた権力を、貴族(パトリキ)が独占する結果となった。
そしてそれに不満を抱く平民(プレブス)が、貴族たちに権利を求める闘争を200年ほど繰り広げることになる。

貴族と平民の闘争はどのようなものだったのだろう。
ここでは平民が貴族から勝ち取っていく権利の流れを追ってみよう。

前494年
護民官が認められる
権力を独占した貴族にたいして平民が不満を抱き、ローマを退去して北東約5kmにある聖山に立てこもる事件が発生(聖山事件)。

結果:護民官が認められる。

護民官
政務官の一つで平民の権利を守るための役職。
平民が選出。
前450年ごろ
十二表法成立
貴族が非公開にし、独占していた法の公開を平民が求める。

結果:市民の権利や裁判などが12の銅板に刻まれた。

前445年
カヌレイウス法成立
結果:貴族と平民の通婚が認められる。
前367年
リキニウス・セクスティウス法成立
結果:
債務返済、土地に関する規定ができる。
政務官職の制度が整う。
2人の執政官のうち1人は平民でもOKになる。

ここに至って政務官のキャリアが平民にも開かれ、貴族と平民との融合が徐々に行われていく。
政務官となった平民は、新貴族(ノビレス)とよばれ、新しい指導層を形成するようになった。

そして前287年に成立した『ホルテンシウス法』の成立により、平民会の決議は元老院の承認がなくても国法となることが決まった。
これにより、国制上は対等の関係になり、身分闘争に終止符が打たれることとなったのである。

なぜ平民は貴族から権利を勝ち取れたのか

平民たちが度々起こす闘争により、なぜ貴族たちから権利を勝ち取れたのだろう。

それは古代ローマの軍制に関係がある。
古代ローマ、とくに共和政ローマでは平民たちが軍の主力である重装歩兵を担っていた。

このため平民の力を借りることなく戦争に勝つことは難しかったのである。
ただし平民も権利ばかりを要求していては、ローマそのものが滅んでしまう。

そこで両者は妥協しあいながら、徐々に共和政を形成していったのだった。

一進一退だった共和政ローマのイタリア統一戦争

共和政ローマの樹立から100年。
ここまで国内体制を整えつつ周辺諸国との防衛戦争に明け暮れていたローマは、ついに領土拡大を決める。

理由は2つ。
普段農業を営む平民たちが、戦争に駆り出されるたびに困窮し、貴族に対して不満をもってしまう。
これを打開するためにも周辺諸国に攻め込み、土地と戦利品を獲得することで平民たちの不満をそらす必要があった。

また、任期の決まっている政務官(特に執政官)は、任期中に功績を残すことで元老院の地位を確保し、末代までの名誉を手に入れたい思惑もあった。

そこで第一の目標としてローマ北方にあるエトルリアの都市、ウェイイへと攻め込んだ。

ウェイイの攻略

ウェイイは広く豊かな都市だったが、難攻不落の都市として有名だった。
そこで元老院は次の2つのことを決めた。

  • 兵役についた市民への報酬の支払い
  • 名将カミルスの独裁官選出
独裁官
執政官の任命により、一人で行政、軍事を指揮することが可能な政務官。
任期は半年。

カミルスの策があたり、10年もの間攻略に苦戦していたウェイイを陥落させることに成功したローマは、膨大な戦利品と奴隷、さらにこれまでの4倍もの領土を手に入れることに成功したのだった。

しかし些細なことで、ウェイイ攻略の功労者カミルスを陥れたローマは、カミルスが去った後に最悪の事態を迎えることになる。

ガリア人による首都ローマ陥落

カミルスが去って間もない前390年、、ローマはアルプスを越えて南下してきたガリア人たちに為す術もなく敗れ、ローマはガリア人たちの手に落ちた。
建国から366年、ローマ始まって以来の屈辱だった。

幸い大金を払うことでローマの占領を免れることはできた。
だがガリア人たちはローマから身代金を要求する時、天秤に自らの剣をのせてより多くの金を要求したという。

追い詰められたローマは、陥れたカミルスに独裁官として戻るよう頼み込み、それに応えたカミルスによってローマからガリア人を一掃することに成功した。
しかしローマにとってこの屈辱は忘れることができない出来事として、記憶に刻まれることになったのだ。

サムニウム戦争

ガリア人から首都ローマを取り戻したローマ人は、急速に復興をとげる。
そして前343年から領土を広げるべく、山岳民族サムニウム人との戦争に突入した。

しかしサムニウム人は手強く、途中『カウディウムの屈辱』と呼ばれる苦い経験をさせられてしまう。

カウディウムの屈辱
カウディウムの屈辱
むーっしゅ [CC BY-SA 4.0 ]

罠にはまったローマ軍がカウディウムという峡谷に誘い込まれて行き場を失い、サムニウム人に降伏することになった。
その時、命を助ける条件として、3本の槍で作った頸木の下をトニカ(半裸と同意)姿でくぐるという、死よりも屈辱的な『隷属の儀式』をさせられた事件。

ローマ人はこの屈辱を忘れず、復讐を誓ったという。

サムニウム人との戦争は計3回にもおよんだ。
アッピア街道の敷設で軍をすばやく派遣できるなど、ハード面を整えたことも幸いし、前290年、ついにローマは勝利を手にすることができた。

ラテン戦争

共通の言語や風習を持ったラテン人の諸都市は、たがいに同盟を結んでいた。
しかしローマの力が突出してきたことに危機感をいだき、ローマ以外のラテン都市が団結。
ローマに戦いを挑んだ戦争がラテン戦争だ。

しかしローマはラテン都市軍を撃退し、ラテン同盟を解体。
以後ローマとの同盟以外を禁じ、ラテン都市にはラテン市民権を与えることになった。

ピュロス戦争

ピュロスの象
Helene Guerber [Public domain]

サムニウム戦争に勝利した結果、ローマはイタリア半島をほぼ手中にしていたが、唯一残っていたのが南イタリアのギリシア系植民都市だった。
この都市の一つ、タレントゥムに援軍を請われて現れたのが、ギリシアの西岸にあるエペイロスの王ピュロス。
東方ではその名が轟いた武名の誉れ高き王だった。

ローマ軍はピュロスに戦いを挑むが敗北し、大打撃をくらってしまう。
ピュロスはローマに対して講和を求める使者を送ったが、

ローマに対して有利な条件出ない限り、講和には応じない

と拒否し、さらに戦いの準備をすすめた。
何回負けても次の戦いを挑んでくるローマの様子に、ピュロスは

もう一度ローマ軍に勝利したら、我々は壊滅するだろう

と嘆いたという。

結局ピュロスはローマと3回目の戦いをした後、イタリアから撤退した。
これによりローマは最後まで残っていたギリシア系の植民都市を攻略し、ついにイタリア半島統一を成し遂げたのである。

ローマと同盟都市の関係

イタリア半島統一の過程で、ローマは次々と戦いに勝利したが、その過程で降伏した都市や、同盟した都市とはどのような関係を結んでいたのだろうか。

ローマは古代では珍しく、戦いで勝利し、征服した都市を完全に破壊せず、それどころか自治権をみとめ、時にはローマ市民権を与えてもいる。
ただし、それぞれの都市には必ずローマに兵力を提供するような体制にした。

これにより、ローマは戦争に敗北しても兵力を補充することが可能になったのだ。
この恩恵を受けた最たる例がピュロス戦争であり、後にローマ最強の敵ハンニバルとの死闘を演じるポエニ戦争になるのだった。