コンモドゥス帝の悪政に加え、天然痘の流行やインフレによる穀物価格の高騰など、しだいにローマ帝国は傾きをましていく。
そしてコンモドゥスの死後に起こった皇帝乱立を制したのは、北アフリカ出身のセプティミウス・セウェルスだった。
ローマ帝国はついに民族を超えた国際的社会を実現させるが、同時にこの社会の均一化がローマ帝国の屋台骨を揺るがしていくことになる。
■帝政ローマ後期の年表
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年 | 事柄 |
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193年 | セプティミウス・セウェルス、皇帝に即位。 |
211年 | セプティミウス・セウェルス死去。カラカラ(~217年)、ゲタと共同統治開始。 |
212年 | カラカラ、弟ゲタを暗殺。アントニヌス勅令制定。 |
235年 | セウェルス朝最後の皇帝、アレクサンデル・セウェルス暗殺。 軍人皇帝時代開始。 |
259年 | ウァレリアヌス、ササン朝の捕虜になる。 |
270年 | アウレリアヌス即位(~275年) |
272年 | アウレリウス、パルミラ王国を攻略。 |
274年 | アウレリウス、ガリア帝国を攻略。ローマ再統一。 |
284年 | ディオクレティアヌス、ローマ皇帝に即位。 |
セウェルス朝の開始と終焉
皇帝セプティミウス・セウェルス
皇帝乱立の混乱を収めたセプティミウス・セウェルスは、相次ぐ他民族の侵攻に対して軍事力強化に着手する。
彼は帝国の防衛に配置されていた25軍団、多いときで30軍団を33軍団に増加した。
さらに補助兵の強化も実施し、東方属州から志願兵が多く集まったという。
また軍団兵の給料をこれまでよりも倍近く増加し、軍を優遇する措置をとった。
これによりコンモドゥス帝のときに一時縮小していた軍事費が大幅にアップし、民衆は軍を支えるために重税を負わされる結果となった。
この軍事力を背景に、セプティミウスはローマ帝国の拡大政策につとめる。
東はパルティアを攻め、南はアフリカの国境を大幅に拡大し、北はブリタンニアの国境をさらに北へと移動させた。
そして晩年、セプティミウス・セウェルスは、子どもであるカラカラとゲタの兄弟に、
「共に仲良くせよ。軍を富ませよ。他は無視せよ」
と言い残して亡くなったという。
皇帝カラカラ
公衆浴場の建設でも有名なカラカラは、共同統治者としてともに皇帝に即位した弟ゲタを早々に殺してしまう。
さらにゲタが描かれた肖像を剥ぎ取るなど、すべての公式記録から抹消する『ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)』を実行するなど、その憎しみは相当のものだった。
そしてカラカラは、ローマ帝国を激変させることをやってのけたのだ。
だれもがローマ市民権を獲得することに
カラカラは、ローマ市民権を帝国全土の自由民に適用する『アントニウス勅令』を公布した。
カラカラはこの勅令で、市民に義務付けられている『遺産相続税』や『解放奴隷税』などを課すことで税収の増加を狙ったと言われているが、結果は次の点で完全に裏目に出た。
- これまで特権であったローマ市民権をもつ人の誇りがなくなった
- 属州民があこがれていた市民権が与えられたことで、向上心をなくしてしまった
- 軍役を勤め上げるとローマ市民権が得られる特典がなくなったため、ただでさえなり手が低下していた補助兵がいっそう不足するようになった
この結果、思ったように税収がアップしなかったばかりでなく、社会的な活力さえ失われてしまうという最悪の事態を招いたのである。
セウェルス朝の終焉
カラカラは自分の名を残すために、豪華な公衆浴場をローマに建設するが、そのわずか2年後に個人的な恨みから近衛兵に暗殺されてしまった。
カラカラの死後、セウェルス朝はエラガバルス、アレクサンデル・セウェルスと2代つづくが、いずれの皇帝も暗殺されてしまう。
そしてセプティミウス・セウェルスによって始まり、カラカラが決定づけた軍隊優遇政策の結果、ローマ帝国各地で軍事力をバックにした皇帝が次々と名乗りを上げ、軍人皇帝時代へと突入するのであった。
3世紀の危機 -軍人皇帝時代-
セウェルス朝を滅ぼし、新たに皇帝となったマクシミヌス以降、50年の間に次々と皇帝を名乗るものが現れた。
その数は、(元老院が認めた)公式に記録されている皇帝で26人、勝手に皇帝だと名乗りを上げた僭称帝を含めると70人にものぼる。
いずれも軍隊の力をバックにつけた皇帝であり、この時代が軍人皇帝時代といわれる理由でもあった。
この中でも重要な役割を果たした皇帝が3人いる。
帝国を分割して共同統治の先鞭をつけたウァレリアヌスと、その子で軍制改革をするガリエヌス。
そして世界の復興者とよばれるアウレリウスである。
皇帝ウァレリアヌスと皇帝ガリエヌス
皇帝ウァレリアヌスの分割統治
マクシミヌスから何人かの皇帝が即位しては殺されるという事態がつづいた。
その後を継いだウァレリアヌスは、息子であるガリエヌスとローマ帝国を東西に分割して統治することを試みる。
これまでも共同統治の例はあったが、分割して統治するしたのは、彼らが初めてだった。
しかし父ウァレリアヌスは東方の防衛中、ササン朝ペルシアの王シャープール1世に捕まってしまう。
結局彼はそのまま敵地で生涯を終えることとなってしまった。
皇帝ガリエヌスの軍制改革
父ウァレリアヌスが敵に捕まったことで、ガリエヌスは再び帝国全土を統治することとなる。
ガリエヌスは外敵の侵入や軍事力低下に対応するため、皇帝直属の騎兵隊を創設した。
しかし彼の治世で2つの大きな事件が起こる。
一つは西方の属州、ガリアの独立。
もう一つは東方パルミラ王国の独立である。
ガリア帝国とパルミラ王国の独立
260年、ガリア地方を任されていたゲルマニア総督のポストゥムスが、皇帝ガリエヌスの息子を殺害して皇帝を名乗る。
そして任されていたガリア地方を独立させてできたのが、ガリア帝国である。
もうひとつのパルミラ王国は、東方戦線を任せていた同盟国のパルミラが、女王ゼノビアの代になってローマ領内にまで領土を拡大した国だ。
ガリエヌスはパルミラ王国をひとまず黙認し、何度もガリア帝国に攻め込むが、いずれも失敗してしまう。
そうこうするうちに、ガリエヌスは暗殺されてしまった。
「世界の復興者」皇帝アウレリウス
ガリエヌスの軍制改革で頭角を表したのが、イリリア地方出身の皇帝アウレリアヌスである。
アウレリアヌスは一兵卒から皇帝にまで上り詰めた、叩き上げの軍人だった。
そしてガリエヌスが創設した強力な騎兵隊長だったのだ。
ローマ帝国再統一
ガリエヌスの死後、短命な皇帝が何代か続いたあと帝位につくと、分裂したローマ帝国の再統一へと向かう。
まずは東方のパルミラ王国を攻めて打ち勝つと女王ゼノビアを捕らえて降伏させる。
返す刀でガリア帝国も打ち破り、皇帝も捕らえて再統一を果たした。
アウレリウスが皇帝に即位してからわずか4年での出来事だった。
アウレリウスの改革
さらにアウレリウスは、カエサルの壊した首都ローマの城壁を再び建設し、蛮族の侵入に備えた。
また、城壁の建設以外にも、次のようなことを行った。
- インフレ対策のための良貨発行
- 太陽神信仰の推奨
- パンだけでなく、肉や油などの配給を行う
このように様々なことを行ったが、世界の復興者と呼ばれたアウレリウスも、即位わずか5年で暗殺されてしまったのだった。
さらに続いた混乱を最終的に収めたのが、皇帝ディオクレティアヌスである。