古代ローマ、とくに共和政期に国家の行政を担っていた政務官。
あなたも古代ローマを題材とした小説やマンガ、ドラマをみたときに、「コンスル」や「プラエトル」などの言葉を耳にしたことがあるのではないだろうか。
しかし、なんとなく分かっていても、古代ローマの政務官がどのようなもので、それぞれの政務官にどういう役割があったのか、正確に知らない方もいるだろう。
そこでこの記事では、古代ローマの政務官について、次のことを書いていく。
- 古代ローマの政務官とは何か
- 政務官の特徴
- 主な政務官の役割
なお古代ローマの政務官は時代によって役割が変化するため、この記事では共和政中期から末期までの政務官を主に記載することを、心に留めていただければ幸いだ。
古代ローマの政務官とは
古代ローマで使われていたラテン語では、政務官のことをマギストラトゥス(magistratus)という。
行政長官や知事を意味する英語のmagistrateの語源にもなっていることから分かるように、政務官とは政治を行う責任者のことだ。
古代ローマの政務官をむりやり現代日本に当てはめるとするなら、内閣総理大臣をはじめとする各大臣に、東京都知事(首都の知事)や裁判官まで行っていたと言えるだろう。
また、古代ローマ(特に共和政期)では、政務と軍務を分ける政軍分離という概念がなかったため、政務官はしばしば司令官として戦場へと向かう将軍にもなったのである。
古代ローマの政務官の特徴
複数で就任する「同僚制」
古代ローマの政務官は、どの官職でも必ず複数の人で担当する「同僚制」だ。
同僚制にした理由は、古代ローマ人が権力の集中(つまり独裁)を極端に嫌ったからである。
ひとつの官職に同じ権力の担当者が複数のいることで、他者からのチェック機能をもたせ、一人の暴走を止める役割を果たそうとしたのだ。
比較的短いスパンで交代する「任期制」
また、古代ローマの政務官は原則として任期を1年に限る「任期制」だった。
さらに重任、つまり同じ政務官に連続でなることも認められなかった。
これも同僚制と同じく、長い間政務官に就任することで権力が強化されることを防ぐための工夫である。
民会の選挙で選出される「選挙制」
古代ローマの政務官は、どのようにして選ばれたのだろうか。
古代ローマでは、政務官は「民会」と呼ばれるローマ市民の集会でおこなう選挙によって選ばれた。
民会は3種類(平民会も合わせると4種類)あったが、そのうちの「ケントゥリア民会」と「トリブス民会」(護民官のみ、平民だけで構成された「プレブス民会(平民会)」)で政務官は選出された。
これら各民会については話が長くなるので、また別の機会に詳しく書くことにしよう。
戦争では自ら軍を率いて戦う「軍務兼任」
「政務官」という名前から、政治のみを担当していると思われるかもしれない。
しかし古代ローマでは、そもそも政治と軍事を分けて行うという考えがなかったので、一度戦争が起こると政務官自ら戦場へと向かって指揮を取ったのである。
そのためローマ軍が大敗をして司令官が戦死すると、政務官の数が激減する自体に見舞われることもあったのだ。
例えばカルタゴの将軍ハンニバルと戦った「カンナエの戦い」で8万のローマ軍が壊滅すると、政務官経験者で構成されていた元老院議員の4分の1が戦死したという。
出世の道のり「名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)」
また古代ローマの政務官には、政界進出へのキャリアアップという側面もあった。
後述する政務官の中で、
- 財務官
- 護民官
- 按察官
- 法務官
- 執政官
については、「名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)」と呼ばれ、各政務官を経験することで、政治的な頂点を極める道のりになったのである。
名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)は、財務官に選挙で当選することからスタートし、政務官の最高位である執政官に選ばれるまでが道のりになる。
その過程は、次のとおりだ。
- 財務官に選出される(27~30歳)
- 護民官に選出される※
- 按察官に選出される
- 法務官に選出される
- 執政官に選出される(43歳ごろ)
※護民官は平民(プレブス)に限る
ただし、財務官を経験したものが、誰でも執政官になれるわけではなかった。
理由は次の3つ。
- 財務官の定員が10名(共和政中期)なのに対し、執政官は2名しかいない
- 官職は基本的に無給
- 最終的な執政官の就任時期が40歳を超えるので、古代では高齢にあたる
つまり、
- 定員が減っても選挙で勝ち残れるだけの人気があり
- 無給でも食べていけ、選挙戦で宣伝や賄賂に投資するだけの財力があり
- なおかつ40歳になっても頑強な肉体がある
人物でないと、政界のトップである執政官への道は開かれなかったのである。
古代ローマの主な政務官の役割
それでは、古代ローマの主な政務官の役割を見ていこう。
定員 | 2人 |
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任期 | 1年 |
選挙を行う民会 | ケントゥリア民会 |
執政官(コンスル)とは、古代ローマの共和政体において、行政の最高責任者であり、軍事の最高司令官である。
執政官は、行政や軍事の最高責任者としての任務を行うために、インペリウムという絶対的な命令権が与えられた。
インペリウムはローマ国内では、法律を解釈し施行する権利、いわゆる司法権をもち、ときには裁判をおこなわずに極刑を言い渡せる権利もあった。
だが、あまりにも権力が大きいため、執政官の下した極刑は上訴(裁判をしてもらえるよう、国に訴えること)できるように法律で制定されていた。
インペリウムは、どちらかというと国内よりも対外的なこと、つまり戦争で効力が発揮された。
インペリウムを持つ執政官は、戦場では最高司令官であり、単独で判断し行動することが許されていたのである。
また戦争の講和や戦後処理もインペリウム保持者に任されていた(とはいえ最終的には元老院に承認をもらうことも多かったが)。
執政官の権限
また執政官には、次のような権限があった。
民会や元老院の招集権と議案提出権
重要な法律を成立させたり戦争を開始するためには、民会を開いて可決させる必要があった。
執政官にはその民会を開くために、ローマ市民を招集する権利があったのである。
また自ら立案した法律の制定や国家の行く末に関わるような重要なことは、諮問機関(助言をもらえる場所)である元老院にお伺いを立てる必要があった。
執政官にはこの元老院を招集し、議案を提出する権利も持っていたのである。
同僚執政官や下位政務官に対する拒否権
執政官は、同僚の執政官や下位の政務官(法務官など)が下した決定をなかったことにできる拒否権を持っていた。
この権利はとても大きなもので、あとで説明する護民官も同様の権限を持っていたため、しばしば乱用され国政がストップしてしまうこともあった。
独裁官の任命権
執政官は、国家の非常事態と判断すると、あとで説明する独裁官を任命する事ができた。
ただし独裁官は執政官の上を行く職権をもっていたため、慎重に選ぶ必要があったので、実際には執政官単独というよりも、元老院の賛同を得てから任命したようである。
定員 | 6~16人 |
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任期 | 1年 |
選挙を行う民会 | ケントゥリア民会 |
法務官(プラエトル)とは、その名が示すとおり、裁判など司法のことを実行したり、裁定する政務官だ。
プラエトルという名はラテン語で「先を行くもの」という意味があり、共和政初期では執政官の前にプラエトルが政治を執り行っていたと言われている。
だが、執政官(コンスル)がローマの最高責任者となってから、法務官は執政官(とくに行政では司法)を補佐する役割を担うようになった。
司法を担当する関係上、法務官にもインペリウム(絶対命令権)がある。
法務官は執政官が首都ローマ不在のときには裁判関係のことを処理するほか、軍事では軍団を率いて戦場に赴くことも必要とされたのである。
ただし法務官のインペリウムは次席のものとされ、執政官とともに軍団を率いれば、執政官に軍の最高命令権があった。
インペリウムという大権を持つ政務官には、執政官と法務官、後述する独裁官があるが、通常の状態では執政官と法務官のみがインペリウムを保持する政務官である。
そのため執政官と政務官を上級政務官とよび、政務官の中でも上位にランク付けした。
また、ローマの領土が拡大すると、インペリウム保持者が属州を治める属州総督として派遣されるようになった。
しかし執政官や法務官をそのまま派遣すると、政務をとるものがローマにいなくなってしまう。
そのため上級政務官が任期を終了しても、そのままインペリウムが継続される元執政官(プロコンスル)や、元法務官(プロプラエトル)を派遣し、派遣先の管轄のみインペリウムを実行できるようにした。
このような体制をとることで、ローマの領土が拡大しても国家運営に支障が出ないようにしたのである。
定員 | 4~6人 |
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任期 | 1年 |
選挙を行う民会 | トリブス民会とプレブス民会 |
按察官(アエディリス)とは、ざっくり言えばローマ市民の生活を守り、向上させることを目的とした政務官である。
その職務はとても広く、具体的には次のようなことを行った。
- ローマの街路の整備
- 水道の供給や市場の監督など街の管理
- 公有地の簒奪やレイプ、法外な金貸しの取締りなどの平民の保護
- 穀物の配給
- 祭儀の監督や娯楽の提供
例えば共和政中期、按察官に就任したアッピウス・クラウディウス・カエクスは、ローマ初の幹線道路であるアッピア街道や、ローマ初の水道であるアッピア水道を建設している。
また市民の人気を集めるために、按察官時代のカエサルはしばしば剣闘士の興行や模擬海戦などを行っている。
上級按察官と平民按察官
按察官は、貴族(パトリキ)から選出される上級按察官と、平民(プレブス)から選出される平民按察官に分かれる。
といっても職権や職務に違いはない。
ただし上級按察官には、執政官や法務官、後に説明する監察官がつかうセッラ・クルリス(象牙製の折りたたみ椅子で権威の象徴)の使用が許されていた。
定員 | 10~20人 |
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任期 | 1年 |
選挙を行う民会 | トリブス民会 |
財務官(クァエストル)とは、元老院の支持で国庫の管理を任された政務官である。
現代日本で言えば、財務官僚といったところだろう。
財務官はこのほかにもイタリアの各都市や属州に派遣され、属州総督などの下で司法や軍務の補佐をした。
また上司である属州総督が不在だったり職務ができないときは、財務官が上司の職務を代行したのである。
財務官は「名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)」のはじめに位置する政務官で、スッラの時代から財務官を経験したものは自動的に元老院の仲間入りができるようになった。
定員 | 10人 |
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任期 | 1年 |
選挙を行う民会 | プレブス民会 |
護民官とは、その名の通り民(この場合、平民)を護(まも)るために作られた官職で、もともとは貴族(パトリキ)に独占されていた権力に対抗する目的として創設された、いわば平民のリーダー的存在だった。
護民官が持つ職権
護民官は貴族に対抗するため、様々な職権が認められていた。
では具体的にどのような職権があったのだろうか。
身体不可侵権
護民官は任期中、いかなる理由があっても身体を傷つけてはならない、とされていた。
身体不可侵権は「聖山事件」と呼ばれる平民たちのボイコットで、貴族から最初に認めさせた権利である。
政務官の決定に対する拒否権
護民官は、独裁官以外のあらゆる政務官が決定したものに対して、なかったことにできる拒否権を持っていた。
これは貴族たちが平民に対して、不利なことを勝手に決めさせないために与えられたものである。
政務官の決定とは、具体的には以下のようなものだ。
- 政務官の下す裁定
- 政務官を選ぶ選挙
- 法律の制定
このほか、元老院で決定された議案にも拒否権を使うことができた。
平民会(プレブス民会)と元老院の招集権と議案提出権
護民官には民会(平民会のみ)を開くため、平民を招集できる権利があった。
また紀元前287年に制定されたホルテンシウス法で、平民会でも法律の制定ができるようになったため、護民官は平民会に法律の案を出して可決されると、法律を作ることが可能になったのである。
また、護民官は平民会だけではなく元老院も招集できるようになった。
なお招集した元老院で行われていたことについては元老院 ―共和政期に国政を担った、古代ローマのエリート集団―の記事で詳しく説明しているので、参考にしていただくといいだろう。
民官の職権を執政官と見比べてみると、遜色ないほど大きな権限を持っていたことがわかるだろう。
加えて身体を傷つけることが禁止された身体不可侵権まで持っているのだから、ある意味政治的には政務官の中でも最強クラスの権限があったのだ。
定員 | 2人 |
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任期 | 1年半(18ヶ月) |
選挙を行う民会 | ケントゥリア民会 |
監察官(ケンソル)とは、ローマ市民がどこに住み何人いるか、またその人がどれぐらいの財産を持っているのかを調べる戸口調査をおこなう政務官である。
この戸口調査は、次の理由で古代ローマでは重要な仕事だった。
- ローマ市民の数を把握することで、兵士になれる人数を把握できる
- 税を納める人数と財力を把握することで、税収を予想でき、納税もれをふせぐことができる
特に1.は重要で、ローマでは財力によって兵士のランクが決まっていたので、軍の編成を決めるため、ローマ市民の現状を定期的に知っておく必要があったのである。
また戸口調査を行うに当たり、監察官はその人がローマ市民としてふさわしいかを審査する役割も持っていた。
ローマ市民のみならず、終身制である元老院議員についても同様に、彼がふさわしい人物でないと判断したら、議員階級を剥奪し、元老院から追放することもあったのである。
また、財務官に就任した政務官が元老院議員にふさわしいかどうかを判断するのも監察官だった。
監察官は執政官経験者から選出されたため、政治的権限は執政官に劣るものの、非常に権威ある官職であり、「名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)」で執政官よりも上位にある最高位とみなされていた。
実際元老院での発言も、執政官のみ経験している議員より、監察官経験者のほうが順番がはやく、重要な意見とみなされたのである。
定員 | 1人 |
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任期 | 6ヶ月 |
選挙を行う民会 | なし(執政官が任命) |
独裁官とは、国の存亡がかかった戦争や国内が混乱した非常事態にのみ任命される政務官で、他の政務官の拒否権を受け付けない単独での国家最高責任者である。
独裁官は執政官と同じくインペリウムをもち、国内での法の施行や戦争の最高司令官になった。
また、独裁官は補佐役に騎兵長官(マギステル・エクイトゥム)を指名することができた。
独裁官はあまりにも権限が大きいので、任期を最長でも他の政務官の半分(6ヶ月)。
当然独裁官が必要とされた原因が取り除かれたら、即時退任をすることとされていた。
さらに身勝手な行為を防ぐため、独裁官の退任後は在任中の行為が控訴(裁判に訴えられる)対象となった。
このように、独裁を嫌ったローマでは、何重にも独裁防止のシステムを築いたのである。

Wikipedia より
執政官や独裁官など、インペリウムをもつ政務官には警史(リクトル)と呼ばれる護衛が付き従った。
警史は政務官ごとに数が決まっており、例えば執政官は12人、独裁官は24人である。
警史(リクトル)の手にはファスケスという木の棒の束があり、護衛上の理由にプラスして、インペリウム保持者の権力の象徴として持ち歩かれていた。
またファスケスには斧がついている。
この斧は、ポメリウムというローマの中心部では外さなければならなかった(独裁官の警史のみ例外)。
ちなみにこのファスケスが、ファシズムの語源である。
今回のまとめ
古代ローマの政務官について、もう一度おさらいしよう。
- 古代ローマの政務官は、政治を行う政治家とともに、戦争での司令官にもなった
- 古代ローマの政務官は、独裁を防ぐため、複数人が就任する「同僚制」と短い任期で交代する「任期制」だった
- 古代ローマの政務官は、就任順序が決まっている出世の道のりだった
- 政務官でも執政官と法務官は上級政務官とよばれ、インペリウム(絶対命令権)が与えられた
- 政務官は基本的に選挙で選ばれたが、独裁官だけは国家の非常事態のみ執政官から任命された
共和政ローマも領土が広がると、次第に政務官で政治を取りしきる方法に限界が見えてくる。
そして共和政から帝政へと移行した後は、政務官の権限は皇帝や官僚に移譲され、公職への出世街道として名残を残すのみとなっていった。