ピュロス戦争 ―共和政ローマのイタリア半島統一に立ちはだかったヘレニズム君主との戦い―

イタリア統一最後の壁 ピュロス戦争

ピュロス戦争とは、共和政ローマがイタリア半島統一の過程で、ギリシア北西にあるエピルス(エペイロス)の王ピュロスと戦った戦争のことをいう。またこの戦争は、ローマ軍がギリシア(ヘレニズム)諸国の重装歩兵ファランクスと戦った、初めての戦争でもあった。

ピュロスは『戦術の天才』と称されるほどの屈指の名将であり、ローマ軍はピュロスとの戦いで、二度も破れているのである。

しかしピュロスは最終的にローマ軍に敗北し、イタリアからの撤退を余儀なくされた。『戦術の天才』とも言われた名将ピュロスは、なぜローマに「勝つ」ことができなかったのだろうか。

この記事では、ローマとピュロスの戦いを追うとともに、やがてシチリアに戦場を移すピュロスや、カルタゴとローマとの関係にも触れ、ピュロス戦争がどうなったのかを見ることにしよう。

ピュロス戦争の発端

前282年、南イタリアのギリシア系植民都市、いわゆるマグナ・グラエキア地方にあるタラス(現ターラント)は、タラス湾を航行中のローマ船を襲撃し、これを撃沈した。

ローマはタラス市に抗議し、捕虜の返還や実行者の処分を迫ったが、タラス市が拒否したために戦うことを決意する。

一方のタラス市は、ローマを迎え撃つためにピュロスへ支援を要請。この要請をうけて南イタリアに上陸したピュロスとローマの間で戦争が起こった――これがピュロス戦争の発端である。

ではなぜタラス市は、ローマ船を襲ったのだろうか。またローマは、なぜタラス市の近くを船で移動していたのだろうか。

ローマ、マグナ・グラエキア諸都市に迫る

タラス市のローマ船襲撃事件を説明する前に、この頃のローマの状況を見ておこう。

ローマは山岳民族サムニウム人との戦いで、イタリアの中部地方をほぼ手中に収めていた。前295年、その最後の戦いとも言えるセンティヌムの戦いで、ローマはエトルリア・ガリア・サムニウム・ウンブリア大連合軍に勝利すると、ローマの中部イタリアにおける覇権は決定的となる。

ローマは勢力を南イタリアにまで伸ばし、マグナ・グラエキア地方に迫った。

トゥリオイ市とタラス市のライバル関係

前3世紀初頭の南イタリア諸都市は全盛期を過ぎ、隣のシチリア島にあるシラクサにしばしば支配された。

その中でいまだ隆盛を誇っていのがタラスだった。タラスは自前の兵を持つことはなかったが、経済力を背景に外国人傭兵を雇い入れ、ルカニア人(イタリアの土踏まずに住む先住民)やメッサピ人(イタリアのかかとに住む先住民)などの「山の民」に対抗していた。

またタラスは、同じギリシア系の都市トゥリオイとライバル関係にあり、この地方における盟主の座を争っていたのである。

トゥリオイ市、ローマに支援を乞う

そのトゥリオイ市が「山の民」から街を守るため、南イタリアにまで勢力を拡大しつつあったローマに支援を求めたのだ。ローマはトゥリオイ市の要請に応じ、守備隊を派遣する。

かねてからマグナ・グラエキア地方にローマの影響が及ぶのを懸念していたタラスは、トゥリオイにいたローマ兵を攻撃して追い出したのだ。

さらにトゥリオイ市を支援するため、ローマはタラス沖を船で航行していたが、タラスはローマ船がタラス湾を航行するのは、以前に締結した条約の違反と主張し、この船にも攻撃を加えたのである。

ついにローマはタラスと戦うことを決め、タラスもまたローマの攻撃に備えるため、東方で勇名を馳せていたエペイロスの王ピュロス――何度か支援を依頼したことのある――に、援軍を要請した。

ピュロス、タラス市の要請で援軍に向かう

Who is ピュロス?

では、タラス市が援軍を要請したピュロスという人物は、一体何者なのか。

エペイロス王ピュロスの像
エペイロス王ピュロス
Andrea Puggioni / CC BY

前319年、ギリシアの北西、マケドニアから見れば西にあたるエペイロス王国の王子として、ピュロスは生まれた。

ピュロスの生まれた年は、アケメネス朝ペルシアを破ったマケドニアの大王、アレクサンドロス3世が死んでからまだ間もない時期で、大王の跡目を争うディアドゴイ戦争の真っ只中だった。

このような時代だったため、王の座を追われたり奪ったりを繰り返す運命に、ピュロス自身も翻弄されることになる。と同時に、彼自身戦争経験を積み、ヘレニズム諸国で勇名を馳せるまでになるのである。

ピュロス、東方諸国に支援を要請する

上記のような状況にあるピュロスが、ディアドゴイの跡目争いを尻目に、なぜタラスの支援要請を受けたのだろう。

もちろんタラスが莫大な報酬を用意したことも、ピュロスが西方のギリシア系諸都市をまとめて、東方進出の足がかりにしようとした可能性も、理由の一つではある。

ともかく、ピュロスはタラスの要請を受け、エペイロスから軍を率いてイタリアに渡った。その数、歩兵20,000に弓兵2,000、投擲兵500、騎兵3,000。

またこの戦いに備えて、ピュロスはライバルであるヘレニズム(ギリシアとオリエントの文化を融合した地域)諸国の王たちに、次のような支援を頼んだ。

  • マケドニア王アンティゴノス2世:艦船提供
  • セレウコス朝シリアの王アンティゴノス1世:資金提供
  • エジプト王プトレマイオス2世:歩兵5,000、騎兵2,000

ライバルたちは、この都合のいい申し出を受けたのか。
実は受けたのだ。

彼らは戦争の強いピュロスが、西方に目を向けて争いに加わらないことのほうが、都合が良かったのである。

特にピュロスとの結びつきが強いプトレマイオス2世は、兵の提供も惜しまなかった。ピュロスはその見返りとして、プトレマイオスに自国エペイロスの防衛を依頼している。

ピュロス、ヘラクレイアの戦いでローマに勝利する

ヘラクレイアの戦いの進撃路
ヘラクレイアの戦い前後のピュロスの進撃路
Piom, translation by Pamela Butler / CC BY-SA

ピュロス、イタリアに上陸する

前280年、ピュロスはイタリアに上陸してタラスに入ると、平和になれきっていたタラス市の空気を引き締めた。要するに戦闘モードへ突入したことを自覚させたのである。

また彼はローマに対し、自分はあくまでタラス市や他のイタリア人と、ローマの間を取り持つ調停役・仲裁者としてイタリアに来たことを訴えた。だが、軍を率いてイタリアに乗り込んできた他国の王に、ローマは耳を貸すつもりもなかった。

そこでピュロスは、ローマに抵抗するイタリア人と合流するため、軍を北にむける。一方のローマはルカニアで略奪を行うと、軍を分けて要衝を押さえ、ピュロス軍とサムニウムや南東部のブルッティ人との合流を阻止。

狙いが外れたピュロスは、執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス率いるローマ軍と、ヘラクレイア付近(現ポリコーロ)で対峙することとなった。

ヘラクレイアの戦い

両軍の間にはシリス川があったので、ピュロスは川の手前に前衛部隊を配置し、イタリア諸部族との合流を待っていた。一方ローマ軍は、合流前に決着をつけるため、シリス川渡河を決行する。

両軍の、特に歩兵部隊は激しい戦闘を繰り返した。しかし決定的な一撃を与えることはできない。そこでローマ軍は、ピュロス軍の側面を騎兵で攻撃させた。これを見たピュロスは、後方に配置した戦象部隊を投入したのである。

ピュロスの戦象の絵
ピュロスの戦象
Helene Guerber / Public domain

ヘレニズム国家との戦闘経験がないローマ軍の馬は、象の巨体といななきに恐れをなし、騎手を置いて逃げ出したという。

ローマ軍が恐慌状態に陥ったところで、ピュロスは伝家の宝刀テッサリア騎兵を突撃させた。これによりローマ軍は敗走し、シルス川を渡って逃げるしかなかった。

この戦いで受けたローマの戦死者は、7,000とも15,000とも言われている。しかしピュロスもまた、少なからず痛手を負っていたのである。

ピュロス、ローマとの和平交渉に失敗する

ピュロスの勝利により、ローマの同盟市のいくつかが、ピュロスに寝返った。またピュロス軍にルカニア人やサムニウム、プルッティシウムなどの部隊も合流したのである。

ピュロスは途中で略奪を行いながら、ローマの近郊約60kmまで兵を進める。しかしピュロス軍の規模では、ローマを落とすことは難しいし、何よりもピュロス自身がローマを完全に叩くつもりはなかった。

そこでピュロスは腹心のキネアスを、使者としてローマに派遣した。キネアスの目的は、ローマがタラスへの友好と、ローマ船襲撃の免責を認めるという条件での和平だ。

ローマの元老院は、長い間討議を重ねた。ピュロスはいま、イタリアの諸部族を取り込み、大きな勢力となっている。またピュロスは戦上手で、ローマがこのまま戦っても勝利を得られるかどうかわからない。それならば、いっそピュロスと和平をしたほうが得ではないか――。

しかしこの和平ムードに傾きかけた状態に待ったをかけたものがいた。その人物の名はアッピウス・クラウディウス・カエクス。

アッピウス・クラウディウス・カエクス

ローマ初の軍事幹線道路である、アッピア街道の敷設を実行し、同時にローマ初の上水道アッピア水道建設を決めた、ローマインフラの父。

アッピウス・クラウディウスについては、アッピウス・クラウディウス・カエクス 強引伝説の宝庫!古代ローマ「インフラの父」についてに詳しく書いているので、興味のある方はご覧いただければと思う。

このころすでに老齢の域に達していた盲目のアッピウスは、担架に乗って登壇すると次のことを主張した。

  • ピュロスは信用できないこと
  • 和平はローマに有利でないこと

さらに彼は使者のキネアスに対し、

ピュロスが和平を望むなら、エペイロスに帰国してから提案するべきである

と言い放ったのである。

このアッピウスの演説により、和平に傾きかけた空気は一変し、ピュロスがイタリアにとどまる限り戦争を継続することを、元老院は全会一致で可決した。

交渉が決裂したことをピュロスに報告したキネアスは、ローマを次のように評したという。

ローマは王達の街のようだ

こうしてピュロスは、ローマとの戦争継続を余儀なくされた。

アウスクルムの戦いと『ピュロスの勝利』

アウスクルムの戦いのピュロスの進撃路の図
アウスクルムの戦いのピュロスの進撃路
Piom, translation by Pamela Butler / CC BY-SA

ローマ、ピュロスを森林におびき出す

冬のあいだ戦争の準備をすると、ピュロスはアプリア(イタリアの「かかと」に当たる地方)に侵攻した。一方のローマ軍司令官であるデキウス・ムスは、アウスクルム(現アスコリ・サトリアーノ)に進むと、ピュロス軍を待つ。

アウスクルムは山岳の森林地帯であり、デキウスはヘラクレイアの戦いで悩まされた戦象や騎兵も、森の中ではうまく活用できないと踏んでいたのである。

果たしてピュロスは現れ、両軍は戦闘に入った。そしてデキウスの狙い通り、ピュロスはうまく戦力を活用できず、1日目はいたずらに犠牲者を増や結果となったのだった。

ピュロス、平地に誘い出してローマ軍を破る

そこで次の日、ピュロスはデキウスを逆に平地へと誘い出すことにした。これが成功すると、別部隊を派遣して、1日目に悩まされた森林地帯を占拠し、ローマ軍とは平地での対決を試みる。

対してローマ軍はピュロスのファランクス(重装歩兵部隊)に挑み、なんとか突き崩そうとしたが果たせない。この戦いでも戦象部隊が投入されると、ローマ軍はヘラクレイアの戦いに引き続き、負けてしまったのである。

『ピュロスの勝利』の意味

ピュロスはこの戦いでも勝利をおさめることができた。しかしヘラクレイアやこのアウスクルムでも、勝利を得る代わりに彼が連れてきた有能な下士官や副官の多くが犠牲となっていたのだ。

ピュロスはアウスクルムの戦いの後、勝利を称える側近に対し、次のように嘆いたという。

もう一度このような勝利をすれば、我々は破滅するだろう

ピュロスはローマ軍に2度勝利をおさめることができた。しかしローマ軍を屈服させることができず、犠牲者だけが増える結果になったことも、また事実だった。

このように、損害が大きいだけで、得るものが少ない勝利、つまり割りに合わないという意味で、『ピュロスの勝利』という慣用句が生まれたのである。

ローマ、カルタゴと軍事同盟を結ぶ

反ローマ同盟軍の支援も得られず、タラス市民からも厭戦気分から次第に厄介者扱いされたピュロスは、この後シュラクサイから要請を受け、シチリアへと向かうことになる。

このピュロスの動きをいち早く察知したカルタゴは、対ピュロス戦線で強力するため、ローマと軍事同盟を結ぶことにしたのである。カルタゴは、将軍マゴに交渉の使者を一任した。

条約の内容

実はローマとカルタゴの間には、これまでにも数回の条約が締結されていたのだ。しかし内容は互いの活動範囲を明確にし、商業活動などの取り決めを行う不可侵条約としての色合いが強かった。

しかしピュロスという共通の敵を得たことで、これまでの条約に軍事協力をする内容を追加した。その内容は以下の通り。

  1. ローマ・カルタゴ両国は、ピュロスとの(ピュロスに対して、という解釈あり)同盟条約を結ぶ権利がある
  2. ローマ・カルタゴ両国は、ピュロスとの(対しての?)同盟を結んだ場合、もう一方の国に援助する義務や権利がある
  3. 援助が必要な場合は、カルタゴが船を供給する
  4. 自軍の兵士の給料は、それぞれの国が支払う
  5. カルタゴは、海上戦闘の必要があったとき、ローマの支援をする
  6. 同盟者の片方の船の乗組員に、陸上戦闘を求めてはならない

上記をカルタゴの立場から簡単にまとめると、

ピュロスとの戦争で協力しましょう。船や海戦は引き受けるから、ローマさんは自分の軍隊の面倒を見てくれればいいですよ。でも船の乗組員は陸の戦争に使わないでね

という内容だ。カルタゴはローマに全面協力を約束する、かなり好意的な内容とも取れるだろう。ローマに有利な条文を追加した、カルタゴの狙いはなにか。

カルタゴは、自分たちが領有するシチリアに、ピュロス戦争を持ち込みたくなかったのである。なるべくイタリア半島内にピュロスを足止めしたかったのだ。

将軍マゴの対応

そのため将軍マゴは、120隻の船を率いてローマ市に到着すると、カルタゴの援軍を受け入れるように、元老院で演説した。しかしローマの元老院は、感謝の意を表しただけで援軍を断った。

ローマに支援を断られた数日後、マゴはその足でピュロスのところに出向く。彼はローマとの調停者を装いながら、ピュロスのシチリア遠征の計画を探り出そうとしたという。

イタリアに足止めをして、できればシチリア行きを中断させる――結局ピュロスはメッシナ海峡(イタリアの「つま先」とシチリアとの海峡)を渡ったため、この狙いは外れてしまった。カルタゴはこの後ローマに代わり、約3年もの間、ピュロスの相手をすることになる。

レギオン市問題

もう一つ、ピュロスのイタリア侵攻によって、ローマとカルタゴを悩ませていた問題がある。それがマグナ・グラエキアの都市レギオンの問題だ。

レギオンはピュロスが攻めてきた当初、ローマに助けを求めると、ローマもこれに答えて守備隊を派遣した。だが、この守備隊はイタリア中部地方出身者で構成された、いわゆるカンパニア人で成り立っており、守備隊の司令官はデキウス・ウィベリウスという、カプア名門貴族だった。

彼らは、なぜ、ピュロスはシチリアに?で説明するマメルティニーにならってレギオンを占拠すると、メッシナのマメルティニーと互いを支援して、独立をまもり、メッシナ海峡を支配していたのだ。

このレギオン(とマメルティニー)に対しても、ローマとカルタゴは協力し合う必要があったのである。

ピュロスのシチリア遠征

ピュロスのシチリア遠征の進撃路の図
ピュロスのシチリア遠征の進撃路
Piom, translation by Pamela Butler / CC BY-SA

なぜ、ピュロスはシチリアに?

ローマ、カルタゴと軍事同盟を結ぶでも書いたとおり、防衛のためタラス市に兵を残して配下のミロスに任せると、ピュロスはシチリアに渡った。

その理由は、イタリア情勢の変化に加え、シチリアにあるシュラクサイ市から支援要請を受けたからだ。

ではなぜシュラクサイ市はピュロスを頼ったのだろうか。理由は次の3つ。

【理由1】シラクサの指導者争い

シュラクサイ市は、強力な指導者だった僭主アガトクレスが死んだあと、トエノンとソシストラトスという2人が内紛を起こしていた。

アガトクレスは、カルタゴとのシチリアをめぐる抗争で、アフリカまで直接遠征した人物でもある。

彼らは、アガトクレス亡きあとのシュラクサイ支配仲裁のため、ピュロスを呼んだようである。

【理由2】マメルティニー問題

シラクサの指導者争いに加えて、シチリア島ではもう一つの問題があった。

シュラクサイの僭主アガトクレスが前289年に死んだ後、彼に雇われていたイタリア中部のカンパニア出身傭兵たちが行き場を失った。彼らはメッセネに目をつけて、この都市を占領したのである。

この元カンパニア傭兵たちがマメルティニーを名乗った。マメルティニーとは、カンパニア人の言葉(オスク語)で「軍神マルスの子ら」という意味。

マメルティニーによるメッセナ乗っ取りは、ほど近いシュラクサイにとって、目の上のたんこぶだったのだ。

さらにマメルティニーは、レギオン市問題で説明した同郷のカンパニア傭兵たちと協力し、メッシナ周辺を荒らしまくっていたのである。

【理由3】カルタゴとの抗争

さらにシュラクサイを悩ませたのが、カルタゴの存在だった。

シチリア全土の王を自称したアガトクレス死後、権力の空白地帯になった島の支配を、カルタゴは目論んだ。そして彼らはマメルティニーとも協力し、シュラクサイを包囲したのである。


アレクサンドロス大王の後継者を目指すピュロスは、シチリア島支配と、カルタゴ駆逐を狙っていたようだ。

そのピュロスの目論見と、シュラクサイの目的が合致した。ピュロスは野望の矛先を、シチリアへと向ける理由ができたのである。

ピュロス、シュラクサイとシチリア南東部の指導者になる

ピュロスがカルタゴ艦隊の包囲網を抜け、シュラクサイ市へ入城すると、トエノンとソシストラトス両名の和解を仲裁した。さらにカルタゴ艦隊の包囲を解くことに成功する。

この2つの出来事で、シュラクサイでのピュロス人気は高まった。そしてシュラクサイの両指導者から兵の提供と、彼らが支配する領土を任され、シチリア島南東部の指導的立場となったのである。

カルタゴ、ピュロスの包囲を持ちこたえる

カルタゴの圧力を受けていたシチリアのギリシア系諸都市に、ピュロスは熱烈に歓迎された。彼はこの状況を利用して、シチリアにあるカルタゴ支配下の都市を次々に陥落させていく。そしてカルタゴの拠点、リリュバエウムをついに包囲した。

しかしカルタゴは、ピュロスの包囲によく耐えた。その理由は次の3つ。

  • 思った以上の大軍だったこと
  • カルタゴ本国からの海上輸送で補給路を確保していること
  • 城壁に備えた投石機が有効なこと

結局ピュロスはリリュバエウムの包囲を2ヶ月で解く。しかし彼は、カルタゴ攻略を諦めなかった。アガトクレスのアフリカ侵攻に書いたような、カルタゴ本国への直接攻撃を試みるため、シチリアの各都市に艦隊の建造を命じたのである。

シチリア情勢の変化

だが、戦争続行のために資金援助や兵、船の漕ぎ手などをピュロスが強要したため、次第にシチリアのギリシア系諸都市でピュロスの人気が低下した。

またこの頃になると、シュラクサイ市の両指導者との中も悪化。結局トエノンを処刑し、ソシストラトスにも処刑を命じた(が逃げられた)ために、ギリシア系諸都市から反感を買い、ピュロスから離反する都市が相次いだ。

ギリシア系の都市にも関わらず、カルタゴ側へと身を寄せる都市もあったようである。

ピュロス、再びイタリアへ

ベネヴェントゥムの戦いまでのピュロスの進撃路の図
ベネヴェントゥムの戦いまでのピュロスの進撃路
Piom, translation by Pamela Butler / CC BY-SA

タラス市とサムニウム人の支援

このピュロスに、ふたたびタラス市とサムニウム人から、救援を依頼する書簡が届いた。シチリアでの実質的な基盤を失ったピュロスは、再びイタリアへと戻ることを決意する。

ピュロスがシチリア島に渡っている3年の間に、ローマはサムニウム人や南イタリアの征服を進めていた。このローマによる征服で、サムニウム人は多くの犠牲を出したという。

ローマに対し、前275年、ピュロスは戦いを決意。そしてピュロスがローマと戦う最後の会戦となったのである。

ベネウェントゥムの戦い

ローマの執政官マニウス・クリウス・デンタトゥスが、マルウェントゥム(現ベネヴェント)にいることを知ったピュロスは、軍を率いて夜襲を決意する。しかし予想以上に時間がかかっため、ローマの野営地が見えるころには、日が昇りつつあった。

ピュロスの接近を事前に察知していたマニウスは、ピュロス軍が野営地に着くころを見計らって攻撃し、ピュロス軍にいる戦象の約半数を失わせることに成功した。

そして翌日、ローマ軍とピュロス軍は再び激突。

はじめこそピュロスの巧みな戦術に押されていたローマ軍だったが、戦象に投げ槍(あるいは火矢)で攻撃したことで象たちは混乱。その象が自軍に突っ込んだことで勝敗は決した。ついにローマ軍はピュロスに勝ったのだ。

戦闘の勝利後、戦場近くにあった都市マルウェントゥムは「悪しき風」を意味することから、「良き風」を意味する「ベネウェントゥム」へと名前を変更したという。


ピュロスはこれ以上の被害を恐れたため、イタリア半島から故郷のエペイロスに退いた。こうしてピュロス戦争の幕は閉じた。

ピュロス戦争のその後

ピュロスのその後

ギリシア本土へと撤退したピュロスは、その後マケドニアのアンティゴノス2世を追い出し、一時的にせよマケドニアを支配したようである。

しかしスパルタへの介入に失敗すると、前272年、今度はアルゴス(現ギリシアのアルゴリダ県)の紛争に介入。市街戦の途中、婦人の投げ落とした瓦礫にあたったことが原因で死亡した。イタリア半島撤退から、わずか3年後の出来事だった。

ローマとイタリアのその後

一方ローマは、タラス市を前272年(ピュロスが死んだ同年)に降伏させた。さらに前270年、カンパニア人に占拠されていたレギオンを陥落させると、ついにイタリア半島統一を果たしたのである。

だがローマのイタリア半島統一は、シチリアをめぐるカルタゴとの、次なる戦争の序章でしかなかった。

今回のまとめ

それではピュロス戦争について、もう一度おさらいしよう。

  • ピュロス戦争は、ローマの南イタリア侵攻を危惧したタラス市が、エペイロスの王ピュロスに支援を要請して始まった
  • ピュロスは優れた戦術でローマを2度も勝利したが、ローマとの和平に失敗し、犠牲も大きくなったことから、『ピュロスの勝利』という慣用句が生まれた
  • ピュロスはその後シチリアに戦場を移したが、カルタゴとの戦争とシュラクサイ市での行いが原因でシチリアの都市から反感を買い、イタリアに戻らざるを得なくなった
  • 3度めの会戦でローマに破れた後、ピュロスはギリシア本土に撤退し、ピュロス戦争が終了した
  • 戦争が終わった3年後にピュロスが死亡し、南イタリアのマグナ・グラエキア諸都市もローマに下って、ローマのイタリア半島統一が完成した

ピュロス戦争は、ローマ軍がギリシア軍と初めて相まみえた戦争であり、苦戦しながらもローマ軍が互角に渡り合えることを、ヘレニズム諸国に知らしめた戦争でもあった。

さらに何度負けても屈せず、幾度となく立ち上がっては敵に向かう体力と精神、ローマ市と同盟都市との結束の強さは、この後に起こるカルタゴとの戦争で、大いに発揮されることとなる。

本記事の参考図書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA