あなたは古代ローマの共和政と聞くと、どのようなイメージを持っているだろうか。
古代ローマの共和政は「貴族政」や「寡頭政」ともいわれるので、少数の貴族(金持ち)たちだけで、政治を思いのままに操っているような想像をしている方もいるかもしれない。
しかし古代ローマにも、市民の声を反映させる機関があったのである。
それが「民会」と呼ばれる市民の集まりだ。
だが古代ローマの民会は現代の民主議会や、古代ギリシアのアテナイなどで行われた民会のような、市民が政策を話し合う場ではなかった。
では古代ローマの民会とは、どのようなものだったのだろうか。
さっそく古代ローマで行われていた民会について見ていこう。
古代ローマ共和政期の民会の特徴
古代ローマの民会は、共和政期と同時代に行われていた、古代ギリシアの民主政国家であるアテナイの民会とは違う特徴があった。
その特徴は、次の2つだ。
- 決議するだけの機関
- 複数の種類がある
古代ローマの民会は決議するだけの機関である
古代ローマの市民たちは、招集された民会に参加しても、市民同士で議題に対して話し合うことはなかった。
ではこの民会では何をしていたのか。
古代ローマの民会は、もっぱら政務官が提出した議題に対して、賛成か反対か、または誰を選ぶのかを投票する議決の場だったのだ。
また、選挙に立候補した政務官に票を入れて、選出するのも民会の役割だった。
古代ローマの民会で政治的な会議が行われなかった理由
ではなぜ古代ローマでは、民会で市民同士の話し合いが行われなかったのだろうか。
理由は2つあった。
- 会議をするには市民の数が多すぎる
- ローマの指導層が、民衆の意見をあてにしていない
1つは民主政だった他の都市国家と比べて、ローマの人口が圧倒的に多かったことだ。
都市国家としてローマが存在していた頃ならまだしも、紀元前396年ウェイイ攻略でローマの領土が大きく膨らむと、人口もそれに比例して多くなったのである。
その後もローマは領土の拡大を続け、人口は加速度的に増えていった。
こうなると、すべてのローマ市民を1ヶ所に集めて話し合いを行うことは不可能になるし、首都ローマの市民だけでも意見を一致させることが難しかっただろう。
また通信網の発達していない古代では、代わりの代表を立てて会議に参加してもらう、間接民主制をとることもできなかったに違いない。
もう1つの理由は、そもそも寡頭政(少数制)だったローマの指導者たちが、民衆の政治的な意見をあてにしていなかったことだ。
日々の生活を慎ましく送る一般的なローマ市民は、良くも悪くも明日のことを考えることで手一杯だった。
ところが政治的な判断を下す指導者は、長期的な計画に沿って国家ローマの政策を決める必要があるため、各個人の利益だけを考えていては国政を運営することができないと考えていたのである。
また、全市民が国政に参加する、古代ギリシアの都市国家アテナイの民主政の行く末が、目先のことばかりを追いかけて国政が迷走する衆愚政になっていった経緯も、ローマの指導層は知っていたのだろう。
以上の理由から、共和政ローマでは民会の役割を制限したと考えられている。
古代ローマの民会には複数の種類がある
また古代ローマの民会には、区分けの違う複数の民会があった。
その種類は次の4つ。
- クリア民会
- ケントゥリア民会
- プレプス民会
- トリブス民会
もちろんこれらの民会が同時期に開始されたわけではなく、共和政期の長い時間の中で1つずつ始められた。
だが、古い民会の機能のいくつかが新しい民会に取って代わられても、共存していたことは確かなのだ。
このように複数の民会が存在することは、古代ギリシアの民主政社会でも見られない、古代ローマ独特の特徴だったようである。
古代ローマ共和政期のそれぞれの民会について
それでは古代ローマで開かれていた4つの民会について、
- いつ頃、なぜ作られたのか
- 各民会の役割
を見ていこう。
クリア民会
民会の説明の前に、まず「クリア」や「トリブス」とはどういうものなのかを説明しよう。
ローマの古い言い伝えによれば、ローマは3つの大きな部族によって始まったという。
この各部族のことをトリブス(3を意味するトレスからきた言葉と考えられている)といった。
さらに各トリブスを10に割ったものをクリアといい、そのクリアは10のゲンス(氏族)によって構成されていたといわれている。
つまり、トリブス・クリア・ゲンスを図式にすると、次のようになる。
3トリブス × 10クリア × 10ゲンス
このうち、クリアごとの票で決議をするのがクリア民会である。
上記の図式を見ていただければおわかりかと思うが、クリアは
3トリブス × 10クリア = 30クリア
なので、票数も30になる。
クリア民会は王政期から存在し、創設当初は法律の成立や新しい王を承認する役割があったと言われているが、共和政中期には他の民会にほとんどの役割を移譲していたようである。
それでもクリア民会では、次のことを票決していた。
- 祭司や政務官の権限承認
- 養子縁組や遺言の承認
ケントゥリア民会
ケントゥリア民会の「ケントゥリア」とは何か。
ケントゥリアとは、百を意味する「ケントゥム」を動詞化した「ケントゥリオ(百に分ける)」の、さらに名詞化したものである。
さらにいうならケントゥリアとは、軍隊の中で100人に別けられた部隊をさす「100人隊」のことを指す。
つまりケントゥリア民会とは、上記説明からも分かるように、軍隊を母体とした民会であり、ケントゥリア民会そのものが擬似軍会なのだ。
ケントゥリア民会の票数を決める、ケントゥリア制度
ケントゥリア民会は軍事制度と深く結びついているので、軍の部隊編成による等級(クラシス)とその数で票数が決まっていた。
では票数を決めた部隊編成の制度であるケントゥリア制度とは、どのようなものだったのだろうか。
下記は、6代目の王セルウィウスが実施したといわれている、軍政改革で定めたケントゥリア制度を表にしたものである。
等級 (クラシス) |
ケントゥリア数 | 装備義務 | |||
---|---|---|---|---|---|
現役 | 予備役 | 防御武器 | 攻撃武器 | ||
騎士 | 18 | ― | ― | ||
重装歩兵 | Ⅰ | 40 | 40 | 兜・丸盾・すね当て・胸当て | 槍・剣・投げ槍 |
Ⅱ | 10 | 10 | 兜・長盾・すね当て | 槍・剣・投げ槍 | |
Ⅲ | 10 | 10 | 兜・長盾 | 槍・剣・投げ槍 | |
Ⅳ | 10 | 10 | 槍・投げ槍 | ||
Ⅴ | 15 | 15 | 投石器 | ||
等級外 | 1 | 装備免除 | |||
職工 | 2 | 装備免除 | |||
ラッパ吹き | 2 | 装備免除 |
実際にセルウィウス王が制度を作ったかどうかはともかく、共和政中期には部隊編成の種類決まっており、ケントゥリアの数も193に固定されたようである。
またさきほども記述したが、ケントゥリア民会はあくまで擬似的な軍会なので、
民会での区分け=軍隊の編成
ではなかったことに注意したい。
ケントゥリア制度の特徴
ではケントゥリア制度を具体的に見ていこう。
まずケントゥリア数は、100人の隊を1とした数である。
つまり、騎士等級(エクィタス)であれば、
18部隊=18票
の票数を持つことになる。
同様に、重装歩兵の第Ⅰ等級であれば、現役(17歳から45歳まで)と予備役(現役より上の年齢)の部隊を合わせると80部隊なので、
80部隊=80票
の票数を持っている。
以下、第Ⅱ等級~第Ⅴ等級までが20票ずつの合計80票に、軍備を揃えられない等級外のもの(プロレタリイ)が1票、工兵などの職業集団が2票、軍楽隊のラッパ吹きが2票となっている。
ちなみに共和政期の軍隊は市民兵であり、自分の装備は自前で用意するものだったので、より豪華な装備を揃えられるもの=裕福なものが等級の上位に位置し、馬を用意できるほど裕福なものが、騎士階級となったのである。
上記を踏まえてケントゥリア制度の表を、もう一度眺めていただきたくと、お気づきになるかと思う。
そう、実はケントゥリア民会の票数は、騎士階級と重装歩兵の第Ⅰ等級だけで98票あり、全票数193の過半数を上位2クラシスで独占しているのだ。
つまり、かぎられた裕福なもの=貴族が結託すれば、ケントゥリア民会の議決を操作できるようになっており、貴族に対して圧倒的に有利な制度だったのである。
また古代の寿命を考えると、現役世代よりも予備兵世代の人数が少ないので、重装歩兵に限ってみれば、年輩のものがより有利な制度だったとも言えるだろう。
ケントゥリア民会の開催場所と決議内容
ケントゥリア民会の冒頭でも書いたとおり、ケントゥリア民会は疑似軍会だ。
そして古代ローマでは、軍隊はローマ市内(この場合、セルウィウス城壁内)に入ることを許されていない。
つまり、ケントゥリア民会もローマ市内で開くことはできなかった。
そこでケントゥリア民会は、セルウィウス城壁とティベリス川の間にある「マルスの野(カンプス・マルティウス)」で開催された。
またケントゥリア民会では、次のようなことを議決していた。
- 執政官、法務官、監察官などの高位政務官の選出
- 市民の死刑判決
- 法律の制定
- 開戦や和平の決定 etc
しかし193の投票単位で構成されるケントゥリア民会は、開催の運営がとても大変で負担が大きかったため、紀元前287年のホルテンシウス法でプレプス民会(とトリブス民会)の決議でも比較的多くのことが決められるようになると、徐々にそちらの民会へと移譲していった。
ただし、疑似軍会という名残りから、インペリウムを持つ上級政務官(執政官と法務官)については、ケントゥリア民会で選出されたのである。
なお共和政期の政務官については、政務官 ―共和政の行政を支えた古代ローマの官職―でも説明しているので、参考にされるといいだろう。
プレプス民会
プレプス民会は、別名「平民会」とも言うとおり、平民(プレプス)のみで集まって開催する民会である。
共和政初期の頃、貴族(パトリキ)とたびたび衝突し、自分たちに不利な法律や政務官を勝手に決められないように、「護民官」という平民の代表を選出するために、平民たち独自で集まり開催したのが始まりである。
それ以降、次のようなこともプレプス民会で議決した。
- 平民の政務官である護民官や平民按察官の選出
- 死刑を除く裁判
- その他平民に関わる決定 etc
また、プレプス民会の票の区分は、次のように決まっていた。
- ローマ市内(セルウィウス城壁内)に4地区
- ローマ郊外に31地区
この地区単位で投票をし、票決したのである。
しかし貴族と平民との対立が徐々に収束し、平民のなかから貴族の仲間入りを果たすニュー貴族(ノビレス)が現れる。
この貴族は貴族でありながら平民会にも参加できたので、平民の意向を反映させる集まり、という意味合いが薄れていった。
また、プレプス民会をもとに、貴族も含めた誰もが参加できるトリブス民会が作られたため、プレプス民会の役割のいくつかはトリブス民会に移譲していった。
とはいえ、ホルテンシウス法によってプレプス民会でも法律の制定が可能になったので、プレプス民会のみで法律が成立することもあったのである。
そして平民を対象とした政務官である
- 護民官
- 平民按察官
も同様に、平民会で選出され続けることとなった。
トリブス民会
トリブス民会は、プレプス民会でも記述したとおり、平民貴族の身分関係なく、ローマ市民であれば誰もが参加できるよう、もともとあったプレプス民会(平民会)をまねて作られた民会である。
トレブス民会でもローマ市内とローマ郊外を35地区に分け、それぞれの地区単位で投票し、決議する方式が採られた。
トレブス民会には、ケントゥリア民会にはない次の利点があった。
- 35地区だけの票で決議でき、比較的運営が楽
- ケントゥリア制度のような身分による有利不利が比較的少ない
このため、比較的軽い罪の裁判や、国家の行く末に関わることがない法律・議案は、トリブス民会で票決されることが多かった。
そのほか上級按察官や財務官などの政務官も、トリブス民会で選挙が行われた。
今回のまとめ
古代ローマの民会について、もう一度おさらいしておこう。
- 古代ローマの民会は、議決をする機関だった
- 古代ローマには4つの民会が存在していた
- 各民会は、政務官を選ぶ、開戦や和平の可否を問う、法律を成立させる、裁判の判決を行うなどの役割があった
様々な役割を果たした民会も、共和政末期には有力な政治家の道具として使われだし、また帝政へと移行すると民会そのものの存在意義がなくなって、紀元後3世紀には消滅してしまった。