現代のローマ市や、イタリアのいたるところで見られる「S・P・Q・R」の文字。
実はこのSPQR、古代ローマ人が自分たちの国(つまり国家ローマ)を表した頭文字をとったものである。
正式には「Senatus Populusque Romanus(セナトゥス・ポプルスクェ・ロマヌス)」といい、「元老院とローマの人民(市民)」という意味になる。
このSPQRの「S( Senatus )」が元老院であり、わざわざ「元老院と」とはじめに表記されるほど、元老院の存在は古代ローマ人にとって重要だった、ということができるだろう。
では元老院とはいったいどういうものだったのか、あなたはご存知だろうか。
そこでこの記事では、説明できそうでできない元老院について、わかりやすく解説することにした。
古代ローマの元老院について、あなたの理解の手助けになれば幸いだ。
なお、この記事の元老院は、存在意義の大きかった古代ローマの共和政中期から末期までの役割を中心に書くので、留意いただければと思う。
※上部イメージは、チェーザレ・マッカリ [Public domain]を使用
古代ローマの元老院とはなにか
建前は助言を与える機関
そもそも古代ローマの元老院とは、いったい何か。
古代ローマを知る事典 によると、次のような説明から始まっている。
元来は王の諮問機関だったと考えられており、(中略)さまざまな案件に関する諮問を行ったらしい。
古代ローマを知る事典 | 長谷川岳男・樋脇博敏著
私はこの説明で、イマイチ理解できなかった。
おそらく「諮問機関」という言葉が原因だろう。
では「諮問機関」とはなにか。
コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」によると、次のように書いてある。
行政機関のうち,行政庁からの諮問に応じて意見を答申する権限をもつもの。(中略)行政機関に付属的に設置される。多くは複数の委員から成り,合議制によって運営される。諮問に対する答申は参考意見にとどまり法的拘束力はないが,行政の適切な運営をはかるために,決定機関にさまざまな分野の意見を反映させることを目的として設置されたものであり,重要な役割をもつ。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 | コトバンク
こちらもパッと見ただけで意味がわかりにくいが、語弊を承知で簡単に要約すると、いろんな専門家がいて、意見をお願いすると答えを返してくれる場所、といった感じだろうか。
このなかで注目なのは、複数の委員(元老院なら議員)の合議制(みんなで話し合って決める制度)によって運営されることと、 参考意見にとどまり法的拘束力はないこと。
以上をまとめると、元老院とは(王や行政責任者の)求めに応じて、様々な意見を答えてくれる行政の専門家集団であり、その意見は元老院議員たちの話し合いによって決まる。
そして決まった意見はあくまで参考意見であり、法的な強制力はもたない機関、といえるだろう。
実際はほぼ命令、決定する機関
だが上記の説明は、建前では、という条件付きだ。
では古代ローマの元老院の実情はどうだったのか。
実際の元老院は、政治を行うものに専門的な立場から助言を与える、という建前を超えて、元老院で決まったことがそのまま命令に近いかたちで実行されていく、という機関であり、元老院こそが共和政ローマの政治を動かしているといっても過言ではなかったのである。
なぜか。
古代ローマの元老院議員の資格でも説明するが、元老院議員になるためには、実際に政治を行う高位の政務官を経験している必要があった。
つまりこれは、現職政務官のOBが元老院議員ということになるのだ。
彼ら政務官の先輩たちの意見はとても重く、簡単に無視できるようなものではなかった。
加えて古代ローマ人は「父祖の遺風(モス・マイオルム)」という、親や先祖の遺志を守ることをとても大事にしていたので、元老院議員たちの意見には非常に重みがあったのである。
元老院を、さらにわかりやすく表現するなら、建前は
参考意見として聞いておいてね
だが、実際は
私たちの意見を無視すると、どうなるかわかっているんだろうね
ということだろう。
古代ローマの元老院が行ったこと
元老院がどのような機関か説明したところで、重要な案件を審議すること以外に、元老院が行っていた職務を紹介しよう。
外交や対外的な対処
外国への使節の派遣や、外国からの使節の受け入れなど、外交に関わることは、元老院が行った。
また戦争の講和条件を見直したり承認することも行った。
例えばエピロスの王ピュロスがイタリア半島に攻めてきたとき、和平交渉のためにピュロスから派遣された使者の対応にあたったのが元老院である。
また、ハンニバルをザマの会戦で破ったスキピオが、カルタゴに講和条約を提案した際、スキピオが決めた講和条件に対して訂正、承認したのも元老院だった。
属州総督の任命
属州とは、イタリア本国以外でローマが直接統治した土地のこと。
属州については古代ローマの分割統治制度、属州とはでも解説しているので、より詳しく知りたい方は読んでいただくといいだろう。
この属州の軍事、行政最高責任者が属州総督である。
どこに、誰を属州総督として派遣するかは、元老院が決めていた。
また属州総督には、治安や反乱鎮圧のため軍が必要になることもあったが、編成する兵の数や予算などを決めていたのも元老院である。
凱旋式を行うことへの承認
凱旋式とは、他国との戦争で輝かしい戦績を収めたり、目覚ましい活躍をした将軍を称えるために行われたパレードである。
古代ローマの男子にとって、凱旋式を行えることは最高の名誉だった。
この凱旋式を行う承認をしたのも、元老院である。
共和政末期になると、個人の台頭が激しくなり、権力の集中を嫌った元老院が、しばしば凱旋式の挙行承認を先延ばしにする、ということもあった。
あのカエサルも凱旋式挙行先延ばしの“被害”にあっており、その様子をユリウス・カエサルⅣ ―第一回三頭政治から初の執政官就任まで―でも書いているので、参考にしていただくといいだろう。
インペリウム(軍指揮権や命令権)の延長
インペリウムとは、国家ローマから権限を託されて持つ、軍の指揮権や戦争後の講和を行う権利、また征服後の統治を行う権利なども含めた「絶対的な命令権」のことである。
戦争が長引いたり、征服後の不安定な情勢を落ち着かせるために、インペリウムはしばしば延長されることがあった。
この延長を決めていたのも元老院だった。
その他、貨幣造りを取り決めたりする財務的なことも元老院が行うなど、ローマの国家規模が大きくなるにつれて、元老院の役割や仕事も大きく多岐に渡っていったのである。
古代ローマの元老院のはじまり
このような古代ローマの元老院は、いつ、どうして創られたのだろうか。
元老院は建国の王ロムルスの創設
元老院のはじまりは、建国までさかのぼる。
古代ローマ時代の著作であるプルタルコスの『ロムルス伝』によると、初代の王ロムルスによる元老院の創設を、次のように説明している。
最もすぐれたもの100人を相談役に指名し、その人々のことをパトリキウスと、その集まりをセナトゥスと称した。セナトゥスとは、老人の集まりを意味する。相談役がパトリキウスと呼ばれた理由を、ある人々は嫡出子の父だったからといい、ある人々はむしろ自分の父を示すことができた人々のことだとし、またある人々はパトロヌスの身分から来たものだといっている。
古代ローマを知る事典 | 長谷川岳男・樋脇博敏著
この中に出てくる「パトリキウス」とは、のちの「パトリキ(貴族)」のことだ。
ロムルスは、指名した100人の相談役を貴族とし、その100人の集まりをセナトゥス(老人の集まり)、つまり元老院としたのである。
家父長の権威
ロムルスが元老院を創設したことに対する真偽の程はともかく、ここで注目するところは「父」という言葉が随所に登場することだ。
そもそも「パトリキウス」も「パトロヌス(私的関係での保護者)」も、父を意味する「パテル」から派生した言葉である。
古代ローマでは、家父長(家族のなかで最年長の男性)の権力は絶大であり、家族の生殺与奪(命を奪う)の権利まであった。
その家父長の有力な人物を集めて、集団の相談役である元老院の原型が形作られたのだろう。
私は「父」と聞いて思い浮かべるのが、映画『ゴッドファーザー』に出てくるマフィアだ。
そもそも『ゴッドファーザー』という名前からして『神たる父』である。
そしてマフィアの集団=ファミリーなのだ。
また、以前放映されていたアニメ『BANANA FISH』にもマフィアが登場する。
この話のなかで、主人公であるアッシュ・リンクスが、昔養われていたマフィアのボスを「パパディノ(ディノ父さん)」と呼んでいたことは、記憶に新しい。
つまり、国家という形をなしていないラテン人の集まりでは、マフィアのようなファミリーが力を持ち、そのファミリーのボスたちにときの王(こちらは大ボス?)が力を貸してもらっていた、というのが元老院の成り立ちを想像しやすい例えだと、私は考えている。
この項目で元老院を「老人の集まり」と説明したが、共和政の中期になると、元老院を構成するメンバーの年齢は、30代から40代のものが多かったと思われる。
元「老」院だからといって、現代日本のような国会議員たちを想定すると、古代ローマの元老院からは的外れになってしまうだろう。
古代ローマの元老院議員の議員数
元老院が当初、議員数は100人だったのは、先に説明したとおりだ。
では元老院を構成する、元老院議員の人数はどのように変化していったのか、古代ローマの時期ごとに説明しよう。
共和政中期
国家の体制がある程度整ってきた共和政の中期には、元老院の構成人数は300人になっていた。
この人数が“上限”だったのか、常に300人だったのかは定かではないが、長らくこの人数で元老院を運営していくことになる。
ちなみに1度だけ、元老院議員数が激減したことがある。
それが第二次ポエニ戦争で、カルタゴの将軍ハンニバルとカンナエで戦って破れたとき、約80人の元老院議員が死亡したとされている。
スッラの改革
共和政も末期になると、国家ローマの領土が拡大するに伴って、皮肉にも元老院の権威が低下した。
その権威を回復し、共和政の古き良き時代を再構築しようとしたのがスッラである。
スッラは元老院の議員数の上限を、600人、つまりこれまでの2倍に増加した。
狙いは元老院の権威回復のほかに、国家規模が大きくなったことによる元老院の各業務に対する処理能力を上げる、ということがあったと考えられる。
カエサルの改革
だが600人に議員が増加しても、元老院の権威が回復することはなく、ますます国家運営に支障をきたすことになった。
この元老院主導体制に限界を感じ、新体制を創ろうと考えたのがカエサルだ。
元老院の権威失墜を図ったカエサルは、元老院の議員数をへらすどころか逆に900人まで増加させた。
カエサルの狙いは、もとから元老院のスムーズな運営を期待したものではなく、カエサルの支持者を増やすことで、個人の行政最高責任者(つまりカエサル)が下した決定を、追認するだけの機関へと変更しようとしたのだった。
だがカエサルの変更により、元老院にはラテン語すらわからない属州出身者も現れたという。
アウグストゥスの改革
カエサルの急激かつ過激な体制変更を嫌った旧体制派により、カエサルは暗殺されてしまう。
この後を引き継いだのが、初代皇帝アウグストゥスである。
アウグストゥスは、(建前上)共和政の復活を掲げたため、議員数をスッラの時代の600人へと戻した。
以後、共和政から帝政へと移行したローマ帝国では、長らく600人で元老院が運営されることになったのである。
古代ローマの元老院議員の資格
権力の集中を嫌った古代ローマでは、政務官の任期は短いものだったが、元老院議員は、原則として終身制だった。
では元老院議員には、どのような人が選ばれたのだろうか。
高位の政務官経験者
元老院議員になるためには、高位の政務官の経験が必要だった。
高位の政務官とは、次の官職である。
- 執政官(コンスル):軍事・行政の最高責任者
- 法務官(プラエトル):執政官の補佐や、司法関係を担当
- 按察官(アエディリス):インフラ整備などを監督、担当
- 財務官(クアエストル):文字通り、財務を担当
- 監察官(ケンソル):ローマの人口などを把握する戸口調査を担当
これに平民(プレブス)を保護するための官職である、護民官を加えた官職の経験者に元老院議員の議席が与えられた。
財産が40万セステルティウス以上あるもの
しかし高位の政務官を経験するためには、とても大きい財産がないとなれないのだ。
ありていに言えば、金持ちに政務官の道が開かれており、その財産は共和政で騎士になれる(戦争のときに、馬を自費で連れていける)ものである。
具体的には、戸口調査のときに40万セステルティウス(現代で約2億円相当)の財産があると認められたものだった※。
※のちに100万セステルティウスに変更された
解放奴隷とその子以外の市民
とはいえ、いくら財産があろうと、解放奴隷(奴隷を解放された市民)やその子どもには、元老院議員の道が閉ざされていた。
しかし裏を返せば、解放奴隷の子どもの子、つまり孫の代からは元老院議員の道が開かれていたのである(といっても、名門の出でもないかぎり、元老院議員になることは、とてつもない困難だったが)。
また、元老院議員は次のことを禁止されていた。
- 一定の大きさの船を保持すること
- 金貸し業
元老院議員(や政務官)は、あくまで公益(国や集団の利益)のために無報酬で行うものであり、「カネ」と政治的な権力を結びつけることは、ローマ人として(建前では)恥ずべき行為だったのだ。
古代ローマの元老院の審議はどのように行われたのか
古代ローマにおける元老院のそもそもの存在意義である、諮問機関(意見を求められたときに答える)の役割は、どのように行われたのだろうか。
審議のはじまり
国家ローマの命運に関わったり、今後の方向性を決める重要な案件がある場合、執政官や護民官などの政務官が、審議(意見を述べて話し合う)をしてほしい項目を、元老院へと提案した。
これを受けて元老院議員が招集され、審議が開始された。
審議が行われた場所
元老院の審議は、現代のように国会議事堂のような決まった場所で行ったわけではない。
ただし、原則として次のような場所で行った。
- 屋根のある、審議をしても恥ずかしくない場所(審議用の建物であるクリアや、神殿など)
- ローマ市内か、市内から1.5km以内の市外
例えば、カエサルの暗殺された日である、紀元前44年の3月15日に開かれる予定だった元老院議会の場所は、カエサルが市内の大改造を行っていたため、ポンペイウス劇場になっていた。
審議の様子
審議に選ばれた場所には長椅子が置かれ、そこに座って話し合いをした。
元老院議員の着席する場所は、決まっていなかったらしい。
元老院議員は議会のあいだ、ずっと着席する必要はなかった。
このため、議事中に席をたったり、勝手におしゃべりをしたりと、現代日本であれば週刊誌にすっぱ抜かれるような行いが、横行していたようだ。
元老院会議は公開の場合もあれば、非公開の場合もあった。
公開するときは、貴族の子弟が見学に訪れた。
また、元老院の会議は、よほどの理由がない限り全員出席が義務で、理由もなしに欠席すると処罰されることもあった。
さらに元老院議員は公務以外の理由でローマを離れるには、許可が必要だった。
発言の順番
古代ローマの元老院議会では、発言の順番は厳格に決まっていた。
なぜなら、はじめに発言できる議員は「首席元老院議員」と呼ばれ、元老院議員の中で、もっとも威厳のある人物とみなされたからである。
ではこの発言の順番は、どのようにして決められたのだろう。
元老院議員の発言順序は、次のルールに基づいて決められていた。
- 政務官職の格の上下(例えば法務官経験者より、執政官経験者のほうが順番が早い)
- 政務官職就任の年次(同政務官職経験者なら、より先に職に就いたほうが順番が早い)
共和政ローマの政務官で一番格が高いのが監察官(ケンソル)だが、例えば前124年に監察官になったものと、前136年に監察官になったものでは、後者のほうがより発言の順序が早くなったのである。
発言時間
元老院議員一人ひとりの発言時間に特に決まりはなく、極端にいえば無制限だった。
また、あらかじめ用意した原稿を読み上げることも認められていた。
そのため、長々と発言をして時間を伸ばし、議決を妨害するものもいたのだ。
この例で有名なのが、カエサルが前59年に執政官をしていたときの元老院議員、小カトーである。
小カトーは、カエサルの強引なやり方に怒りを覚え、原稿を長読みするという妨害作戦を行った(が、2日目にさすがのカエサルも、 執政官権限で小カトーを元老院議会からつまみだしたが)。
審議の評決
議員の発言がひととおり終わると、いよいよ評決に入る。
評決には、次の方法が取られた。
- 賛成と反対の陣営に分かれる
- 各議員は賛成と反対それぞれの陣営に、自ら歩いて意思を表明する
- 主宰者(議題を提出したもの)は、各陣営の様子を見て、多い方を元老院の決定意見とみなす
ここで注目なのは、自ら歩いて意思を表明する、いわゆる「公開投票」であるということ。
これでは影響力を持つものの意見に従わざるを得なくなる。
そのため、元老院の審議は、その時代で有力な者の意見が反映されてしまうことが多かった。
もちろん審議を進めるなかで修正案がでたり、ほかの案件の意見も取り入れることがあった。
その場合は、あらたに意見が求められ、その意見に対する評決を行ったのである。
古代ローマの元老院の最期
このように大切な役割を果たした元老院も、やがてその役目を終える時がくる。
最後に元老院が、時代が進むに連れてどのように変遷していったのか、見てみよう。
共和政末期の元老院の権威の失墜
共和政の時代には、とても重要な役割を果たしていた元老院だが、共和政も末期になると、領土の拡大に伴い元老院が次第に機能しなくなっていく。
このような元老院の状況を立て直そうとしたのがスッラだったが、独裁官に就任して立て直すという、元老院を無視した彼の方法自体が、元老院の機能不全を証明してしまう、皮肉な結果を生むことになった。
そして軍事力を背景としたポンペイウスやカエサルにより、次第に元老院の権威が奪われていくのである。
帝政期の元老院の役割
帝政期に入ると、国政を担った元老院としての役割は低下したが、有能な人材をプール(確保)する役割は機能した。
なぜなら、皇帝の失態により失脚に追い込まれると、次の皇帝はしばしば元老院議員のなかから選ばれている。
また帝国の地方を統括する属州総督も、軍事を経験した元老院議員から派遣されることが多かった。
さらに現職の皇帝を評価し、『国家の敵』とみなしたり、皇帝の死後『ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)』にするかどうかを決めたのも、元老院であった。
ダムナティオ・メモリアエについては、ダムナティオ・メモリアエ -記録抹殺刑や名声の破壊ともいわれる古代ローマで最も重い刑罰-で説明しているので、参考にしていただくといいだろう。
元老院の最期
しかし軍人皇帝が相次いで出現する、3世紀の危機を迎えると、軍隊経験者が政務官の経験もなしに皇帝になる、いわゆる叩き上げの皇帝が続出した。
こうなると、元老院を尊重する必要もなくなるため、元老院の存在意義がますます低下していく。
そして帝国末期には、元老院議員の数が2000人へと膨らみ、また遷都したコンスタンティノープルにも新たに同数の元老院が設置された。
この元老院議員たちには、国政参加の意味はなく、名誉職、悪く言えばお飾りていどの存在でしかなくなってしまったのである。
そして東西に別れたローマ帝国の片側である西ローマ帝国が、476年に滅びた。
だが、元老院自体はゲルマン人たちが、自分たちの正当性を主張するために残したようで、最終的な記録として存在が確認できるのが、603年であり、これ以降元老院の存在は確認されていない。
ちなみに東ローマ帝国の元老院は、9世紀まで存続していたようである。
今回のまとめ
古代ローマの元老院について、もう一度おさらいしよう。
- 古代ローマの元老院は建前上、あくまで求められた意見に対して答える諮問機関であり、決定に対しては強制力はないが、実際は政策の決定といっても過言ではなかった
- 古代ローマの元老院の職務は、対外的な対処や属州総督の任命、凱旋式挙行の承認など、多岐に渡った
- 共和政期の元老院議員の定員は300人だが、時代が下ると変化し、帝政期には600人へと落ち着いた
- 元老院議員になるには相応の資格とお金が必要で、議員として禁止されていることもあった
- 元老院の審議は決まった場所で行っていたわけではなく、また評決は公開投票だった
近年になり、国政を担っていた共和政の時代には、そこまで強引な政治的アプローチを行っていたわけではない、との評価や、帝政期における評価が別れている古代ローマの元老院。
だが古代ローマの元老院が果たした役割が、非常に大きかったことは、時代が変わっても変わらない事実だろう。