ポン・デュ・ガール(ガール水道橋)とは、約2,000年前の古代ローマ時代に建設された、南フランスの都市ニーム近郊にあるガルドン川にかかる水道橋(飲み水にも使える水を運ぶために建設された橋)である。
古代ローマの建築物、特に水道橋のなかでも1位、2位を争うほど有名な観光名所にもなっているので、あなたも写真や映像などでご覧になったことがあるだろう。
しかし、ポン・デュ・ガールがなぜあの位置にあり、2,000年前に建設されたにもかかわらず、ローマ人があの巨大建造物をどのように建てたのかをご存知だろうか。
そこでこの記事では、
- なぜあの位置にあるのか
- 橋の規模や構造
- 建設方法(工法)
- メンテナンスは誰がどのように行っていたのか
- いつ・誰が建設したのか
を説明しよう。
またローマ時代以降、ポン・デュ・ガールが歩んだ歴史や、観光のためのポン・デュ・ガールへの行き方、見どころなどを紹介する。
あなたにとって、この記事がポン・デュ・ガールを理解する手助けになれば幸いだ。
ポン・デュ・ガールはなぜあの位置に建設されたのか
ポン・デュ・ガールが建てられた位置を疑問に思う人は、少ないかもしれない。前述したように、ポン・デュ・ガールは水道橋なので、水を運ぶ途中に川があったから橋をかけて上を通しただけなのだ、と。
しかしポン・デュ・ガールを含めた水道のルートを見てみると、なぜこの位置にあるのかが不思議に思えるのだ。
ポン・デュ・ガールはニーム水道の一部
ポン・デュ・ガールは、古代ローマ時代「コローニア・アウグスタ・ネマウサ」と呼ばれた現ニームに、上水を運ぶためにつくられたニーム水道の一部である。
ニーム水道は、ニームの北東にあるユゼスの泉を水源としている。その深層水が到着する最終地点の給水塔(カステルム)までの距離は、直線にして約18km。だがニーム水道の全長は50kmと、直線距離の3倍近くもあるのだ。
地図だけみていると、最短ルートで水道を引けばいいと考えるかもしれない。いったいなぜローマ人は、ニーム水道を東へ大きく迂回させたのだろうか。
ニーム水道のルートが最短距離に設定されなかった理由
ローマ人は、ニーム水道をの建設に最短ルートを選ばなかったのではなく、選べなかったのである。
その理由は次の2つ。
まず1つめは、「ガリク・ド・ニーム」と呼ばれる丘陵地帯の存在。
この丘は、最大でも海抜からの高さが約150mと、決して高くはない。だがニーム周辺の海抜が低い上に、ユゼスの泉ですら海抜76mしかないため、水道を通すためには、最大で10kmほどのトンネルを掘る必要があった。
また深い峡谷もところどころにあったので、トンネル+水道橋を建設するためのコストが大きすぎたのである。
加えてローマ時代には、ガリク・ド・ニームに密林が鬱蒼と生い茂っていた。そのため木々を切り倒していく必要もあり、水道建設としては決して楽なルートではなかった。
その点東に迂回するルートでは、同じ高さの稜線に沿って水道を通せることや、間にあるいくつかの谷も幅が広くないので、建設する水道橋にかかるコストが少なく、メリットが大きかったのだ。
2つ目が、直線ルートの間にあったトンネルの存在。ポン・デュ・ガールはいつ誰が建設したのかでもあらためて説明するが、水道の建設時にはすでにニームと水源の間にトンネルが掘られていた。
このトンネルを避けてルートを設定する必要があったので、ニーム水道は東廻りの道を採用したのだった。
ポン・デュ・ガールの規模と構造
ガール水道橋の大きさ
橋自体の大きさは、全長約275m、高さは48.77m。3層構造のアーチ橋だ。
各階層をもう少し詳しく見ると、次のようになる。
階層 | アーチ数 | 階層の長さ | 階層の横幅 | アーチの高さ |
---|---|---|---|---|
第1階層 (最下部) |
6 | 142 m | 6 m | 22 m |
第2階層 (中段) |
11 | 242 m | 4 m | 20 m |
第3階層 (導水管部) |
35 | 275 m | 3 m | 7 m |
ちなみに図面を見ると1階層目のみ下流側に大きくせり出している。これは18世紀に追加された道路であり、建設当初には存在しなかった。
勾配
高いところから低いところへ、自然の重力を生かして水を運ぶため、水道橋には一定の勾配(坂)がついている。ではポン・デュ・ガールの勾配は一体どれぐらいなのか。
橋全体でも456mで2.5cm下がっているだけで、勾配率にすると18,241分の1(0.005%)という非常に緩やかな坂だ。この坂を意図的に作り出して建設した、ローマ人の技術の高さには、驚嘆するしかない。
ちなみにニーム水道自体の勾配も、水源地が標高76m、最終地点の給水塔が59mと、50kmでたった17mしか下がっていない。
さらにポン・デュ・ガールに至るまでの勾配は、その後の勾配よりも若干大きかった。これはポン・デュ・ガールの高さを押さえて建設コストを下げるため。
だがポン・デュ・ガールの勾配もより小さくなるため、非常に高度な建設技術が要求されることとなった。
送水量
ポン・デュ・ガールの、というより、ニーム水道の総水量になるが、1日に約20,000m3から40,000m3の水を運ぶことができた。
仮に当時のニームの人口が20,000人と仮定すると、一人あたり1m3(1,000リットル)~2m3(2,000リットル)の水が供給されていたことになる。
古代ローマの上水道―構造から水道橋の建設方法、コンテストまであった水質管理まで―のローマ人の水の消費量と各施設の使用割合でも書いたとおり、現代日本の東京都民一人あたりで約233リットルの供給量なので、ニーム水道は東京都の約4倍~9倍近くの量を供給できたのだ。
建築材料
導水管に一部モルタルを使用しているのみで、橋自体の材料は大部分が石灰岩である。これは加工と建築に便利な石灰岩(この地方では赤みがかった独特のシェリル石灰岩)が橋の近くで産出されるので、建築材料に使うことができたからだ。
事実ポン・デュ・ガールで使われた石材は、ガルドン川下流約700mにあるエステル採石場のもの。この石を、船で上流の建築現場まで運んだのだった。
ある試算によると、5年と言われるポン・デュ・ガールの建設期間。2,000年前の技術でこの驚異的な工期の速さを実現できた秘密の一つが、石の規格化のようだ。
同じ場所には同じ大きさと形の石を使うことで、石を切り出すときから形を整えておき、現場での加工の手間を省いたのだろう。
ポン・デュ・ガールの建設方法(工法)
測量方法
ローマ人は、方角を決めるのに『グローマ』と呼ばれる器械を使っていた。
グローマとは、直角に交わる腕木の両端におもり(下げ振り)がついており、このおもりを基準として方角を決める器械だ。
測量者はこの下げ振りがぴったり合う位置と、その先の方角を目で確かめながら方角を測っていた。
ちなみにこちらで1/10のミニチュアモデルが購入できるようだ。
コロバテスの画像
水道の最重要課題である傾斜の測量には、『コロバテス』と呼ばれる水準器と測量用の棒を使っていた。
コロバテスは6mの長さがある台木に、ある程度の高さのある足を取り付けたもの。その台木には溝が掘られ、そこに水をためて水平を出す。基本的な原理は、現代の水準器と同じである。
測量者はコロバテスについている視準を使い、測りたい地点に測量用の棒を立ててもらい、棒のメモリを読んで高さを確認した。
石の持ち上げ方
建築材料でも説明したとおり、ポン・デュ・ガールは近くで産出できる石灰岩を使用している。切り出した石灰岩のブロックは、最大6トンもの重量があったという。ではこれらの巨大な石を組み上げるために、ローマ人はどのように持ち上げたのだろうか。
古代ローマ時代には、すでに滑車を利用したクレーンが存在していた。機材が木製ということ以外は、基本的に現代のクレーンと変わらない。
ただし現代なら50mもあるクレーンを使い、ポン・デュ・ガールの最上部まで石を持ち上げることも可能だが、古代ローマではそんなに大きなクレーンは存在しなかった。
また現代のクレーンと違い、当時のクレーンは旋回(クレーン自体が水平に回転する)も起伏(上下に動かすこと)も難しいのである。ではどうするのか。
古代ローマ人はこれらの課題を、
- クレーン用の移動ソリに乗せる
- 建設中の橋の脇に、何段にもわたるクレーン用の足場を用意する
ことで解決したのである。
例えば、最上階まで石を持ち上げる場合、次の手順で行った。
- 一段目の足場にあるクレーンがある程度の高さまで持ち上げて、橋の中腹部(か石を置くための足場)にいったん置く
- 置いた石を、さらに上段の足場にあるクレーンで持ち上げる
- これを繰り返して、最上段まで石を運ぶ
「水道が語る古代ローマ繁栄史 」の著者であり、明石海峡大橋の設計にも携わったシビルエンジニアの中川良隆氏によると、上記の方法を使っても最上部まで石を持ち上げるには、30分ほど必要だったようである。
また中川氏はポン・デュ・ガールの建設について、現代の大型クレーンを5基使えば1年半で建設可能だが、古代ローマの工法ではクレーン15基用意しても5年はかかるだろうと試算している。
橋脚の基底部
橋脚を組み上げる際には、ある程度地面を掘り、硬い岩盤にあたったところから基礎を作った。
ただし、水量が多く周りを囲ってから水を汲み上げて、そこにコンクリートの囲いを作らなければならないライン川やドナウ川とは違い、ガルドン川では直接基礎を作ることができただろう。
また橋脚の上流側には三角形の突起部分を作った。これは平らにしておくよりも、水の抵抗を少しでも受け流す工夫である。上流から流れてくる水を、突起の先端で「切る」ように設計したのだ。
アーチの組み方
なにもないところから石だけでアーチを組むのは大変なので、ローマ人は木枠の支えに石を置く、いわゆる『支保工』でアーチを組んだ。
ポン・デュ・ガールのアーチ部分に、両側から石が突き出ていることが確認できる。これは支保工の木枠を支えるために、わざと突き出したのだ。
導水管
水道橋の最後にして要となる導水管は、どのように作ったのか。
まず導水管の壁は石で組む。床はコンクリートで施工。ただしこのままだと石の間から水が染み出してしまうので、導水管内部の壁面をモルタル、いわゆるストッコで化粧仕上げを施した。
仕上げに使うモルタルには、ごく小さい陶器の破片が混ざっている。また水が染み込まないように、モルタルの上から次のようなものを混ぜたものを塗った。
- オリーブオイル
- 消石灰
- 豚の脂
- いちじくの汁
基本的には油分で水と反発するようにしたのだろう。この液を使って仕上げると、壁の表面がなめらかなり耐久度が高くなったようである。
最後に導水管の上に蓋をして、外気や雨から水を守った。
ポン・デュ・ガールのメンテナンス
水道橋は建設後のメンテナンスが、長く使えるかどうかのキモになる。ここではガール水道橋のメンテナンスを紹介しよう。
導水管内部の堆積物を除去
水源のユゼス泉近くには石灰岩が広く分布しており、周辺に採石場が点在していた。泉の水は、この豊富にある石灰岩から溶け出す炭酸カルシウムが多く含む。そのため石灰質の堆積物が導水管内にこびりつくのである。
さらに泉から流れてくる植物の根やバクテリアが堆積物と結合し、まるでコンクリートのように固まってしまうため、導水管が狭くなってしまう。
これを防ぐために、導水管内から常に堆積物を排除する必要があったのだ。
メンテナンスを行った人たち
では導水管の維持をしていたのは誰か。
答えは、水道局に所属していた公有奴隷、または元公有奴隷だった解放奴隷たちである。公有奴隷とは、国家や都市などが所有する奴隷のことだ。
彼らが水道を維持するために、導水管を掃除していたのである。
ポン・デュ・ガールの表面にところどころ突き出ているいる石。もちろんローマ人の工法ミスではなく、わざと石を突き出したのである。では一体何のために?
一つは建設途中の足場を確保するために、この石を利用したと考えられている。突起部分の両端に板をかけ、作業がしやすいように工夫した。
だが、これだけが理由であれば、建設終了後に突起部を切り落して整形すればいいはずだ。ではなぜこれらの石を残したのか。
ここからは私の解釈だが、突起部の石はメンテナンス用に残しておいたのだと考えている。水道橋のメンテナンスは、導水管だけではなかったはずだ。橋本体の修繕に、都合がよかったのではないだろうか。
ポン・デュ・ガールはいつ誰が建設したのか
アグリッパ説は本当なのか?
ポン・デュ・ガールを建設したのは誰か。この問いには、初代皇帝アウグストゥスの右腕であるアグリッパだとされていた。
彼はローマ国内が内乱の間は、将軍としてアウグストゥスを支えていた。そして内乱が終了すると、こんどは建設大臣(日本でいえば、国土交通大臣)として、帝国中を駆け回った。またアグリッパは、当時優秀な水道技師集団を抱えていた。
そのため、前19年ガリア地方の属州総督として赴任したとき、ポン・デュ・ガールの建設を行ったとされていたのである。
発掘調査で1世紀中頃と推定
ところが近年の発掘調査で、どうやらポン・デュ・ガールの建設は1世紀の中頃、4代皇帝クラウディウスの治世に行われたのではないかと言われはじめた。
その理由は次の2つ。
- ニームの給水塔遺構(カステルム)から、1世紀なかごろの貨幣より古いものが見つからないこと
- アウグストゥス帝期に掘られたトンネルを迂回していること
アグリッパでないとすれば、一体だれがポン・デュ・ガール(とニーム水道)の建設を指揮したのか。
その謎はわからないとしても、少なくともニームの都市参議会(ローマの元老院のような機関)と有力者たちが、都市のために水道を建設したことは確かである。
ローマ時代以降のポン・デュ・ガール
西ローマ帝国崩壊から水道放棄(~6世紀)
建設以降、300年以上にも渡りニームに上水を届けていたポン・デュ・ガールも、ローマ帝国へのゲルマン民族の侵入により行政が混乱し、次第に水道のメンテナンスが行われなくなっていく。
その結果、泉から運ばれてきた土や有機物からなる堆積物、さらに壁にこびりつく炭酸カルシウムによって最大50cmも導水管が狭くなってしまった。
そして建設から500年後の6世紀、ついにニーム水道とポン・デュ・ガールは町にきれいな水を運ぶ役目を終えたのである。
通行料の徴収(13世紀~)
その後、石を他の目的で使用するため橋の一部が破壊されたが、基本的にポン・デュ・ガールはその姿を留め続けた。理由は、水道橋としてではなく、峡谷を渡る通常の橋として機能したからだ。
13世紀になると、ユゼスに住む船乗りたちが、フランス国王から橋の通行料徴収権を与えられた。のちにこの権利は、ユゼス司教が手に入れることとなった。
ロアン公アンリ2世の破壊(1,600年代)
その後はポン・デュ・ガールにとって、しばらく平穏な時が続いた。しかし1,500年代終盤に差し掛かると、フランス国内でカトリックとプロテスタントの間にキリスト教の宗教対立が起こった。いわゆるユグノー戦争である。
この戦争自体は1,598年に一応の終結をみたようだが、宗教戦争の余波が南フランスにも訪れる。
1,600年代に入ると、この地を治めていたロアン公アンリ2世(プロテスタント=ユグノー派)がカトリックの王党派と対立。彼は戦争で大砲を運ぶため、ポン・デュ・ガールの「邪魔な」第2階層目の橋脚1/3を削り取ってしまったのである。
大砲自体は無事橋を渡ることができたようだが、この「暴挙」によってポン・デュ・ガールの躯体はもろくなってしまった。
水道橋拡張(1,700年代)
1,700代に入ると、ようやくポン・デュ・ガールの修繕が行われ始める。それはひび割れの修繕や、破壊、あるいは奪われた石の交換、さらに橋に刻まれた轍(わだち)を埋めるといったことだった。
また1743年から47年にかけて、ポン・デュ・ガールの下流側に隣接するように、一層目と同じ高さの道路専用橋が建設された。
もっとも『三銃士』で有名な作家アレクサンドル・デュマは、新道路橋建設を、
5世紀の蛮族たちがあえて壊すことがなかった橋の名誉を傷つける行為
と批判したようだが。
ナポレオン三世の登場(19世紀中頃)
ポン・デュ・ガールの修復が本格的に始まるのは19世紀の中頃、ナポレオン3世がこの地を訪れてからだった。アウグストゥスを敬愛し自分に重ねていた彼は、ガール水道橋を見て感銘を受けたようである。
ナポレオン3世が、ポン・デュ・ガール修繕プロジェクトに選んだ人物は、建築家のシャルル=レスネ。レスネはフランス国務省の全面的バックアップを受け、修繕を開始する。
レスネが行ったことは、次のようなものだった。
- 侵食のひどい石の取り替え
- 橋脚補強のために、コンクリートで固定
- 低下していた排水機能を回復させるため、新設した道路橋を水道橋と分離
また、橋の一方の端に階段を設置して導水管の壁を修復し、導水管内を歩行できるようにしたのもレスネである。彼のおかげで、現在でも導水管内を歩いて見学できるのだ。
世界遺産の登録(20世紀以降)
19世紀以降、何回かの修復で補強されたポン・デュ・ガールは、その後現在までに3回ほど大きな洪水を経験したが、崩壊することはなかった。
1,985年、ポン・デュ・ガールはユネスコの世界遺産に登録される。認定の理由は、次の3つである。
- 「人類の創造的才能」
- 「文化的伝統の証拠」
- 「人類の歴史への重要性」
そして現在、ポン・デュ・ガールは2,000年前の姿を私達に見せてくれている。
ポン・デュ・ガールへの行き方と見どころ
この記事を読んでポン・デュ・ガールのことが一通りわかったところで、実際にその姿を見てみてはいかがだろうか。
以下、ポン・デュ・ガールへの行き方と、見どころやおすすめを紹介しよう。
アクセス方法
ポン・デュ・ガールの近くに大きな都市がないため、ポン・デュ・ガールへと向かうには交通機関を頼るしかない。ここでは次の3つの方法で橋まで行く方法を紹介しよう。
ポン・デュ・ガールへの交通費を押さえたいなら、バスが一番だ。たびに慣れている方や外国語(フランス語)に自身のある方、また現地でゆっくり過ごしたい方はこの方法をおすすめする。
バスで行くには、主に近郊都市のアヴィニョン、あるいはニームからの方法がある。
発着都市 | 系統 | 乗車時間 | 運賃 (カッコ内は復路) |
---|---|---|---|
アヴィニョン | A15 | 約50分 | 1.5ユーロ (1.36ユーロ) |
ニーム | B21 | 約40分 | 1.5ユーロ (1.36ユーロ) |
※情報は2,020年度
ポン・デュ・ガール発着便は、基本的に本数が少ないため、帰りのバスの時刻は確かめておくといいだろう。基本的に半日程度の観光時間を見ておくほうがいい。
行動時間に自由がほしい、あるいは素早くポン・デュ・ガールにアクセスしたいなら、タクシーをおすすめする。
タクシーなら片道30分程度で到着でき、いつでも好きな時間に観光を終えることができるからだ。
ただし片道50ユーロとバスに比べて交通費がかさむため、行きはバス、帰りはタクシーなど、スポットで利用するのもアリだろ。
ガイド付きでゆっくりと観光したいなら、現地ツアーに参加するのもありだ。行動時間はある程度制限されるものの、安心して観光することができるだろう。特に海外旅行が初めてなら、なおのこと安心感はほしいところ。
現地ツアーで人気なのは、だいたいポン・デュ・ガールを含め、南フランスの観光どころを半日~1日で回るタイプ。下記、参考までにいくつかのツアーを紹介するので、あなたに合ったツアー探してほしい。
アヴィニョン~
アヴィニョンからニーム周りを回るツアーが、9,000円ほどとお手頃価格であるようだ。またワイン好きなら、ポン・デュ・ガールワインセラーを回るこちらのツアーもいいだろう。
その他のポン・デュ・ガールのツアーはこちらに掲載されているので、上記以外のものは、こちらをご参照いただければと思う。
見どころ・おすすめ
まずは遠方から見えてくるポン・デュ・ガールの全貌を見て、古代ローマ人の技術力に思いを馳せてみよう。
このような橋を2,000年前に、たった5年(10年~15年という説もあるが)で建設したのだから。
また、水道橋の隣の道路まで来たら、ポン・デュ・ガールの石組みの様子が観察できるはずだ。この記事でも紹介した建設方法を、一つひとつ確認してみるのもいいだろう。
ポン・デュ・ガールに来たなら、ぜひ最上階の導水管を見学してみよう。何種類かあるチケットの中で、「Pass Aqueduct」を選ぶと、通常の見学に加えて、最上階のガイドツアーがついてくる。
ナポレオン三世の登場(19世紀中頃)でも紹介したシャルル=レスネが、せっかく導水管に続く階段を設置してくれたのである。登らない手はないだろう。
ポン・デュ・ガールを一通り見終わったら、近くの付属博物館でポン・デュ・ガールの歴史や建設について、もう一度確認してみるといい。模型などでビジュアル的にわかりやすく説明されている。
なおポン・デュ・ガール公式サイト もあるので、事前にチェックされてもいいだろう。
すべての散策を終えたら、ポン・デュ・ガール近くのレストランで食事タイム。水道橋を眺めながら食べる料理で、最高の時を味わおう。
今回のまとめ
それではポン・デュ・ガールについて、おさらいしよう。
- ポン・デュ・ガールはニーム水道の一部で、建築コストと途中のトンネルの関係から、大きく東に迂回したガルドン川に建設された
- ポン・デュ・ガールは3層構造のアーチ橋で、最上部に化粧仕上げされた導水管により上水を運んだ
- ポン・デュ・ガールの建設者はアグリッパだと言われていたが、近年の調査で1世紀中頃に建設されたと推測されている
- ローマ帝国の衰退でポン・デュ・ガールは6世紀ごろまでに放棄されたが、崩壊の危機を乗り越え1985年に世界遺産に認定された
観光名所として名高いポン・デュ・ガール。その歴史的な背景や、ローマ人たちの技術力に思いを馳せると、また違った側面が見えてくるのではないだろうか。