ポンペイウスⅠ ―誕生からセルトリウス戦争前半まで―

異例づくしの大将軍ポンペイウス

ポンペイウス。
三頭政治の一角をしめた古代ローマの人物として、世界史の教科書にも登場するので、あなたも名前は聞いたことがあるだろう。

また、しばしばドラマや映画などに登場するポンペイウスは、カエサルの敵役として描かれることが多いため、カエサルに破れた人物として限定的なエピソードしか紹介されないことが多い。

しかしこのポンペイウスこそ、カエサル以前に登場する人物として、いやカエサル以降を含めても古代ローマ史の中で異例の出世を果たし、大きな影響を及ぼした人なのである。

カエサル登場前に大きな人気を誇り、さらに地中海全域にまで自分の勢力を持っていたポンペイウス。

  • 彼はどのように名声を得て、勢力を伸ばしたのか
  • また、なぜ異例の出世を遂げることができたのか
  • そして、それほどまで大きな影響を持っていたポンペイウスが、なぜ最終的にカエサルに破れてしまったのか

この記事では上記の問いを踏まえながら、古代ローマの将軍であり大政治家「偉大なる」ポンペイウスの生涯を見ていくことにしよう。

ポンペイウス誕生

ポンペイウスの出自

紀元前106年9月29日、ポンペイウスはピケヌム(アスコリ・ピチェーノ)で生を受けた。イタリア半島を足に例えると、ピケヌムは“ふくらはぎ”に当たるところにある。

ポンペイウスが生まれたころ、ポンペイウス家は非常に裕福だったようだ。しかしポンペイウスの家系は、昔からの貴族であるパトリキや、執政官職の経験者を何人も輩出するプレブスのような、いわゆる名門一族ではなかった

ポンペイウス家はポンペイウスの祖父の代に、法務官(プラエトル)の職を経験したものの、属州総督として赴任した祖父は、マケドニアでケルト人と戦い戦死してしまう。

ポンペイウス家が歴史の表舞台にでてくるのは、その子でポンペイウスの父である、ストラボの代になってからである。

ちなみにストラボとは『斜視』という意味。おそらく身体的な特徴を添え名に持ったと考えられる。

父ストラボは弁論家として名声を得たあと、前93年に法務官に当選し、祖父(ストラボの父)と同じくマケドニアの総督に就任した。

その2年後の前91年、ローマとイタリア諸都市の間に争いが発生する。いわゆる同盟市戦争である。

父ストラボと同盟市戦争

この戦争で元老院の命を受けたストラボは、故郷ピケヌムで兵を集めイタリア同盟軍に戦いを挑む。はじめは苦戦したものの、その後勝利を上げることができた。

これによりストラボの名声は高まり、前89年、ポンペイウス家で初めてとなる執政官(コンスル)に当選することができたのである。

ストラボは引き続き同盟市戦争の指揮を取り続けた。この頃17歳となったポンペイウスは、父のもとで幕僚として従軍している。執政官=最高司令官となったものが、自分の親族を下士官として参加させる慣例が、ローマにはあったのだ。

後にカエサルもガリア戦争で、自分の知り合いや親戚の子弟たちを高級将校として幕僚に加えている。

ポンペイウスの輝かしい軍歴は、同盟市戦争から始まった。

マリウス、スッラの抗争

前89年の戦いで一定の成果をあげることができた父ストラボは、前88年の執政官職を狙うが、これは叶わなかった。

ストラボの代わりに執政官職についたのは、ルキウス・コルネリウス・スッラとポンペイウス・ルフス。特にスッラは、同盟市戦争で目覚ましい活躍を見せており、ますます声望が高まっていた。

スッラ
スッラ
グリュプトテーク [Public domain]

一方この頃、ローマ領東方の小アジアでポントス王ミトリダテス6世が周辺諸国を統合し、ローマに対して不穏な動きを見せていた。

同盟市戦争で軍を派遣できなかった元老院は一段落した翌年、スッラを小アジアの属州総督として派遣し、ミトリダテス6世の討伐を任せることにした。

ところがスッラの政敵マリウスとその一派がこの決定に待ったをかけ、あろうことかマリウスにミトリダテス討伐のインペリウム(命令権。最高司令官の権限の意)を与えることを、民会の議決で決定してしまったのである。

マリウス
マリウス
グリュプトテーク [Public domain]

この決定を無効と主張するスッラは、率いていた軍を途中で引き返し、ローマを制圧したのだ。そしてマリウスをはじめとする政敵を、『国家の敵』としてローマから追放すると、切迫した東方の問題を解決するため、再び東方へと軍を率いて出発したのだった。

父の死

しかしマリウス一派は完全に息の根を止めていなかった。スッラが東方へ姿を消したスキに、マリウス派のルキウス・コルネリウス・キンナが執政官へと就任したのである。

一度は政敵に追放されたものの、キンナは追放先で軍を集め、首都ローマに進軍してきたのだ。

この新執政官に近寄ろうとしたのが、ポンペイウスの父ストラボだった。彼は表向きローマの防衛にあたっていたが、キンナと元老院の間をとりもち、あわよくば政界で影響力をつけたいと考えたのだろう。

しかしもくろみは、キンナ自身によって打ち砕かれる。なんとキンナの差し金で、ストラボは暗殺されかけたのだ。ここで父を救ったのが若きポンペイウスだった。

ポンペイウスは暗殺の計画を事前に知ると、暗殺決行当日に陣幕から父を逃しておき、自らは夜中に警護を固めて見張っていたのである。

暗殺者たちは、ストラボの寝床をめった刺しにするが、すでにそこはもぬけの殻。ストラボがいないことで陣内に暴動が起こったものの、ポンペイウスが兵たちを説得したおかげで、騒ぎが収まったのだ。

その後、父ストラボは執政官の地位を再び狙ったが、疫病にかかり死んでしまう。ポンペイウス、この時まだ若干19歳という若さだった。

ポンペイウス、スッラに付く

故郷ピケヌムでの生活

父の死後、ポンペイウスは故郷のピケヌムで何年かを過ごす。首都ローマは、マリウス派に再び占領され、粛清の嵐が吹き荒れていた時期だった。

そのころ東方では、ミトリダテス6世との戦いを優位に進めたスッラが、和平を締結しイタリアへと引き返してきたのである。

マリウスは前86年に死んだものの、ローマで権力を握り続けていたキンナは、スッラを迎え撃つために軍を編成する。ポンペイウスもキンナの陣に赴いたものの、どうも反りが合わなかったらしい。

キンナは、この軍備の途中で兵の反乱にあい殺されてしまうが、ポンペイウスはいち早く彼の元を去っている。

3個軍団を率いてスッラの元へ

前83年、スッラがブルンディシウム(元ブリンディジ)に上陸すると、多くのものが1個人としてスッラの下に参陣するなか、ポンペイウスは自分の故郷でかき集めた3個軍団(約15,000の兵)を率いてスッラと合流した。

ポンペイウス、この時わずか22歳。ローマで一軍の将になるには、最低でも法務官(プラエトル)に就く必要がある。

しかしポンペイウスは、法務官どころか元老院入りできる最初の政務官、財務官(クァエストル)の規定年齢よりもまだ6歳も若かったのだ。

つまり、ポンペイウスが22歳で軍を率いるのは、異例中の異例だった。彼が軍を指揮できたのは、先祖がこれまで地元で築いてきた庇護民関係(クリエンテラ)にくわえ、父の威光とポンペイウス本人にあった将としての資質だろう。

さて、このポンペイウスに対しスッラはどのような態度をとったのか。

彼はこの後の行動から、共和政信奉者といっても過言ではない。現体制の秩序を重んじ、例外をなくし、元老院体制を強化しようと試みた人物である。

そのスッラですら、3個軍団は非常にありがたい戦力だった。また優れた将でもあるスッラだから、ポンペイウスの将としての才覚を見抜いたのだろう。

彼は参陣したポンペイウスに対し、

インペラトール(将軍)

と呼びかけ、歓迎したのである。

このことは、つまりポンペイウスを一私人としてではなく、軍司令官として認めた、という意味でもあった。

ポンペイウスは、メテッルス・ピウスやルクッルス、さらに後の三頭政治の一角を占めるクラッススとともに、スッラのもとでイタリア制圧を助け、見事マリウスの後継者たちを破ることができたのだった。

独裁官スッラとの関係を強化

ローマやイタリアから政敵を排除したスッラは独裁官に就任し、元老院体制の強化へと乗り出す。

ポンペイウスは、第一人者となったスッラとの関係を強化するため、スッラが提案した結婚を受け入れることにした。

ポンペイウスにはこの時結婚している妻がいたが、彼はわざわざこの妻と離婚し、スッラの義理の娘との結婚を選択した。しかもこの新妻にも結婚していた夫がおり、さらにその夫の子を身ごもっていたにもかからわず、である。

この結婚は、スッラの意見を受け入れず、キンナの娘との婚約を解消しなかったカエサルと比較されることもあるが、私はポンペイウスが仕方なく前妻と別れたとは思わない。

この結婚自体は、身ごもっていた子供と母体の死という、不幸な形で終わってしまったが、スッラとの結びつきを強くするために、ポンペイウスは進んで受け入れたのではないかと思う。

なぜならこの後、元老院を通じてスッラからポンペイウスに対し、属州シキリア(現シチリア島)から、政敵を一掃する任務を任されることになったからである。

この時ポンペイウスはまだ24~5歳。当然軍を率いる官職に付くことはできない。そこで法務官相当(プロ・プラエトル)の権限で、インペリウムが与えられることになった。

シキリア制圧

シキリア島では、現地の属州総督である法務官マルクス・ペルペルナ・ウェイエントが、スッラの迫害を逃れた人々の避難先として、彼らを受け入れていた。

ところがポンペイウスがシキリアに派遣されると、ポンペイウスと戦う前に島を明け渡してしまったのである。ポンペイウスの任務は、ペルペルナが去ったことであっけなく終わってしまった。

ちなみに法務官ペルペルナとは、後にヒスパニアでセルトリウスとともに、再びポンペイウスと戦うことになる。

さてシキリア島にはすでに、属州アフリカ(現チュニジア)から反スッラ派のカルボに率いられた援軍が送られ上陸していた。しかし無血開城とも言える事態に司令官は逃走。

エジプトへと逃れようとしていたところをポンペイウスの部下が捕らえ、ポンペイウスの命で処刑された。

シキリアにスッラの敵対者がいなくなった後、ポンペイウスは道路の建設や訴訟の解決に力を尽くした。前任者のペルペルナが地元民に過酷だったこともあり、ポンペイウスは彼らに感謝されたようだ。

ポンペイウスの行為により、シキリアで一定の住人とクリエンテラ関係を結んだと思われる。後年地中海全域にポンペイウスの影響力が及ぶことになるが、ポンペイウスと庇護民の全地中海的なネットワークは、このシキリアから始まったと言えるだろう。

のちにポンペイウスの次男であるセクストゥス・ポンペイウスが、シキリアを拠点としてオクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)やマルクス・アントニウスに対抗できたのも、ポンペイウスがこの時代にシキリアへの足がかりを作ったからだろう。

アフリカ平定

シキリア制圧後、スッラからポンペイウスへアフリカも反スッラ派の人間から取り戻すよう命令が下る。

属州アフリカではアヘノバルブスが、ヌミディア人ヒアルバスと結び、ローマの元老院に対抗する動きを見せていた。

ヒアルバス

元老院に認められたヌミディア王ヒエンプサルに変わって、王になろうとした人物。

ポンペイウスは6個軍団に加えて120隻の軍艦と800隻の輸送船を用意し、ウティカに上陸。

カルタゴ周辺地図
ウティカ周辺地図
通商国家カルタゴ  より

上陸直後に7,000の兵がポンペイウス側に寝返ったこともあり、わずか40日程度でポンペイウスはアフリカを平定した。

結局ポンペイウスによって、アヘノバルブスは処刑。ヒアルバスはヌミディアに逃れたものの、ポンペイウスは属州アフリカの西に住む、マウリ人の王ボグドを呼び寄せヒアルバスに対抗。さらに西に逃れたヒアルバスをポンペイウスは捕らえ、処刑したのだった。

ふたたびヒエンプサルをヌミディアの王位に復帰させると、ヌミディアとボグドとの関係も修復。ポンペイウスは前80年までこの地にとどまり続け、アフリカ西方のマウレタニアにも進出したため、大西洋にまでポンペイウスの影響が及ぶこととなったのである。

史上最年少の凱旋将軍

前80年、ポンペイウスがウティカに帰還すると、スッラから1通の書簡が届く。そこに書かれていたのは、派遣される総督と1個軍団の到着を待ち、ポンペイウスの軍は解散するように、という内容だった。

これはポンペイウスに凱旋式をさせない、つまりポンペイウスを凱旋将軍としてローマに帰還させないという、スッラの意図があったのだ。

前述したように、スッラは元老院体制を強化する改革を行っていた。その彼が、官職にもつかず例外的な処置で指揮権を手に入れた、ポンペイウスの凱旋式を認めるわけにはいかなかったのである。

しかしポンペイウスは、次のように主張した。

  • 凱旋式を望むのは、兵士たちだということ
  • もし凱旋式を挙行できなければ、自ら死を選ぶということ

スッラはポンペイウスの固い意思に、ついに彼に凱旋式を行うことを認めた。それどこか、ローマに帰還したポンペイウスを町の前で出迎えると、彼を「マグヌス(偉大なる)」と、はっきりと呼び挨拶したのだ。

独裁官スッラを説得したことで、34歳で行ったスキピオ・アフリカヌスを抜き、ポンペイウスは79年3月12日に、わずか26歳の若さで凱旋式を行ったのである。

史上最年少の凱旋将軍誕生の瞬間だった。

ポンペイウス、レピドゥスを討伐する

スッラの死

前78年にはいってすぐ、独裁官、いや政治そのものから身を引いていたスッラが死んだ。ポンペイウスは、この年の執政官の一人であるカトゥルスの提案に賛同し、スッラの葬儀を大々的に挙行する。

このスッラの葬儀に反対したのが、もう一人の執政官レピドゥスだ。スッラは生前レピドゥスに対し、警戒心を強めていた。ポンペイウスが昔のよしみでレピドゥスの選挙運動を応援していたときに、

自分(ポンペイウス)のライバルを一層強力にしてしまうとは

と嘆いたという。

レピドゥスはさらに、スッラの部下だった退役兵士たちに対し、彼らに与えられた退職金代わりの土地を返還するよう、要求したのである。

この要求は、スッラの元兵士たちを無下にはしないと決意するポンペイウスに、レピドゥスとの対立を生んだ。さらに執政官同士の確執も表面化してきていた。

そんな時期に一つの事件が起こる。エトルリアで古参兵たちの入植に対し、土地を取り上げられた地元の人々が暴動を起こしたのだ。

元老院はすぐに暴動を収めるため、両執政官を現地に派遣した。しかしレピドゥスが暴動を起こした人たちに対し、ウラで手を回して支援していることが発覚したのである。

レピドゥス蜂起

暴動が収まった後も、執政官選挙の準備をする必要があったにも関わらず、レピドゥスはローマに帰還することはなかった。彼は次の年に、総督として赴く任地ガリアへの出発準備のためと称し、中部イタリアにとどまったのである。

しかし準備とは口実で、レピドゥスは密かにスッラに虐げられていた旧マリウス派の兵士たちをまとめ上げていた。そして前78年が終わると、次の年の執政官職を要求するため、編成した軍を率いてローマ進軍を開始する。

執政官が決まっていないローマでは、前年度のカトゥルスを執政官代理して、レピドゥスの蜂起を食い止めるため、カトゥルスに全権を委任した。

とはいえカトゥルスにも元老院にも、率いる兵や将がいないことには話にならない。そこで白羽の矢がまたしてもポンペイウスに立てられたのである。

ブルトゥス討伐と処刑

元老院によりインペリウム(命令権)を与えられたポンペイウスは、自分の故郷ピケヌムで兵を募ると、レピドゥス率いるローマ進撃軍ではなく、イタリア北方に向かう。

この地には、レピドゥスのために兵を集めていた護民官、マルクス・ユニウス・ブルトゥスがいたからだ。兵が組織されると大軍になってしまうと予想されたため、ポンペイウスは電撃作戦でブルトゥスのいるムティナ(現モデナ)を包囲し、降伏に追い込んだのである。

護民官ブルトゥスはポンペイウスにより処刑される。ちなみにこのブルトゥスは、後年カエサル暗殺の首謀者の一人マルクス・ユニウス・ブルトゥスの父である。

レピドゥスの死

ブルトゥスの処置を終えたポンペイウスは、南下してローマから逃れたカトゥルスと合流し、レピドゥス軍を攻める。

都市ローマを包囲して執政官職を要求していたレピドゥスも、ポンペイウス・カトゥルス連合軍の前には歯が立たなかった。次第に追い詰められ、エトルリアからサルディニア島に逃れるレピドゥス。

結局サルディニアでも現地の総督に破れ、レピドゥスは失意のうちに世を去った。

レピドゥスの死の真相

もっとも歴史家プルタルコスによれば、レピドゥスが死んだ本当の理由は、妻が浮気をしているという手紙を見て、病が悪化したためだと記述しているが・・・。

ちなみにこのレピドゥスの子が、後年オクタウィアヌスやアントニウスとともに、国家再建三人委員会(第二回三頭政治)を組むレピドゥスである。

ポンペイウス、セルトリウス戦争に赴く

特別大権

レピドゥスの騒動が収まると、執政官代行のカトゥルスはポンペイウスに軍を解散するよう命令を出した。しかしポンペイウスはその要求に応じるどころか、次の戦場に行けるよう、逆に元老院へ新しい命令権を求めたのである。

その戦場とは属州ヒスパニア(スペイン)。この地では、前80年から続く将軍セルトリウスによって、ローマへの反乱が長く続いていたのである。

もちろん元老院も、何も対策をしなかったわけではない。セルトリウスの反乱を収めるため、メテッルス・ピウスを先発で派遣していたのだ。

しかしヒスパニアでの反乱は収まる気配を見せず、ますます戦火が拡大し、セルトリウスの勢いは強くなっていた。ポンペイウスはこの機を逃さず、戦功を立てるチャンスと考える。

あいつぐ反乱に、東方のミトリダテス6世への対応。元老院は苦しい台所事情に、またしても「元老院議員ではない」ポンペイウスの命令権を認めざるを得なかった。

前77年のうちにポンペイウスは、非常事態に与えられる命令権『特別大権(エクストラオルディナリウム・インペリウム』を受け、40日以内に歩兵30,000、騎兵1,000を集めてヒスパニアへと出発したのである。

ところで、ヒスパニアで反乱を起こしていたセルトリウスとは、一体何者なのだろうか。

クィントゥス・セルトリウス

ポンペイウスよりも15、6歳ほど年上のクィントゥス・セルトリウスは、マリウスのもとでガリア人と戦い、戦功を上げた人物だ。そのため、マリウスとスッラが争っていたときも、マリウス(後にキンナ)派に属していた。

ただし、マリウスが行ったスッラ派への粛清や、スッラが行使する反対派への厳しい処断には反対していたらしい。

前83年に法務官となったが、スッラのローマ帰還により運命が暗転。居場所のなくなったローマではなく、任地先のヒスパニアへと向かうが、またしてもスッラの追撃にあい、アフリカの西側マウレタニアへと逃れた。

マウレタニアでスッラ派の軍と戦い、ようやく勝利を収めたところで、ヒスパニアのルシタニアからセルトリウスに対し、現地に赴任してきた総督の圧政から開放してほしいと依頼を受ける。

前80年、セルトリウスはこの求めに応じ、彼らの指導者になることを引き受けた。ただしローマからの独立ではなく、あくまでスッラに反対するローマの「正統政府」としての立場を守ってのことだった。

メテッルス・ピウス

このセルトリウスに対し、当時独裁官だったスッラは、前83年のイタリア帰還時、ともにマリウス派と戦ったメテッルス・ピウスをヒスパニアへと派遣する。

しかしセルトリウスは、巧みなゲリラ戦術でメテッルス・ピウス軍に応戦し、次々と勝利を重ねていた。

さらにポンペイウスが派遣される前77年には、かつてポンペイウスがシキリアに乗り込んだ時、戦わずして島をあけ渡したペルペルナが、レピドゥスの反乱兵の残党をサルディニア島から引き連れ、セルトリウスと合流したのである。

この時メテッルス・ピウスはコルドバで越冬の準備をしていたが、彼単独の軍では強大になっていたセルトリウスに太刀打ちするには、あまりにも貧弱だったのだ。

それどころかローマの人々は、セルトリウスがスペインの軍勢を率いてイタリアに攻撃をするのではないか、という懸念を抱いていたのである。そう、かつてのカルタゴの将軍ハンニバルが行ったのと同様の悪夢が再現されるかもしれない恐怖があったのである。

ヒスパニアへの道のり

イタリアを出発したポンペイウスは、ヒスパニアへの進軍途中、反乱に加わった都市を攻略しつつ、ナルボ(現ナルボンヌ)に越冬の陣を設けた。ポンペイウスはこの地で、ピレネー山脈付近の諸部族と連絡を取り合う。

なぜ彼はイタリアから遠く離れたピレネー付近の部族たちと通じることが可能だだったのか。それは父ストラボのおかげだった。

ストラボはかつてヒスパニア出身者の騎兵を率いていたことがあったのだ。さらにヒスパニアの人々に対し、ローマ市民権を与える助力を惜しまなかったのである。

ストラボの力添えに恩を感じて、ヒスパニアの人々は息子ポンペイウスにも忠誠を誓ったのだ。彼らの助力もあり、前76年春、ポンペイウスはピレネー山脈を無事に越え、エブロ川まで進軍できたのだった。

ラウロの戦い

一方そのころセルトリウスは海賊たちとタッグを組み、カルタゴ・ノウァやその北方にある都市ラウロの占領を狙っていた。

セルトリウスの動きを察知すると、ポンペイウスはヒスパニアの部族たちをローマ側につけながらさらに進軍し、ラウロの救援に向かった。彼はラウロの町を包囲するセルトリウスを逆に包囲する作戦に出たのである。

セルトリウスはポンペイウスのことを、常々

スッラの生徒

と侮蔑をこめて呼んでいたという。その彼に、教訓を教えるときがやってきたと意気込んでいた。

ポンペイウスの兵は多かったが、敵地で食糧を確保することに度々苦しんでいた。今回も近場の食糧を集め尽くしてしまったために、1日ほど行ったところへ食べ物を取りに行く必要に迫られた。

これをセルトリウスは絶好の機械と考える。彼はわざとポンペイウスの食糧確保部隊に攻撃を加えることなく、見逃すことにした。ポンペイウスの部隊は安全に食糧が確保できることを知ると、全輸送道具を運び食糧を仕入れることにしたのである。

これこそセルトリウスが狙っていたことだった。彼はあらかじめ輸送路に兵をしこませておき、油断しきったポンペイウスの食糧部隊を待ち伏せすると、襲いかかったのだ。

ポンペイウスは輸送部隊の救援に、副官のラエリウスを送ったが、待っていたセルトリウス軍の挟み撃ちにあってしまう。

ポンペイウスは本隊をうごかしたかったが、セルトリウスが占領していた近くの高台に6,000の敵騎兵がいることを知っていたため、うかつに動けば本隊もろとも壊滅するのが目に見えていた。

将棋でいうなら、ちょうど敵の角すじにこちらの王が飛び込んでいくようなものだ。助けたくても、ただ自分の部下が敵に殲滅されるのを、見ているしかなかったのである。ポンペイウス、人生初の大敗北だった。

この戦いで被ったポンペイウス軍の損害は次の通り。

  • 食糧を運ぶための全車両
  • ラエリウス軍1万

またラウロの町はセルトリウスに降伏した。セルトリウスは住民を退去させた後、町を徹底的に破壊したのである。助けに来たにも関わらず、手をこまねいて何もできなかったポンペイウスの名声は、大きな傷を追うこととなる。

ポンペイウスはヒスパニアで、初めて有能な指揮官に率いられた軍隊と戦うことになったのだった。

ポンペイウスを映像作品で観るならドラマ「ROME」がオススメ!

奴隷女性に解放を打ち明けるプッロの映像

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