古代ローマの駅伝、郵便制度 ―古代ローマ以前からアウグストゥスの創設まで―

アウグストゥスが創設した駅伝/郵便制度

長距離ランナーたちが一定区間を走った後、たすきをつなぎゴールを目指す――。
「駅伝」と聞くと、あなたはこのようなことを想像するのではないだろうか。
日本では箱根駅伝がお正月の風物詩となっているので、毎年テレビ中継を見る方もいるだろう。

だが本来駅伝とは、ランナーがたすきをつないで競争するものではない。
走る人は国家の命令を受けた役人であり、つなぐものは情報である。
その情報を目的の場所に素早く届けることが、駅伝の本来の役割だ。
つまり駅伝とは、郵便制度のことなのだ。

ではいったい彼らは何のために走り、情報をつなぐ必要があったのだろうか。
この記事では、古代ローマの駅伝と郵便制度について見ていくことにしよう。

駅伝、郵便制度は何のために作られたのか

駅伝や郵便制度が作られた目的。
それは統治者(や中央政府)が国を効率よく治めるために作られたものである。
ではなぜ駅伝制度が、国を効率よく統治することにつながるのか。

国の規模が小さい間は、情報の伝達にもそれほど気を使う必要はない。
しかし版図が広がるにつれ、統治者がいる中央(首都)と地方の距離は、格段に遠くなる。
つまり中央の意思を地方に伝える速度が落ちてしまい、さらに監視の目もゆるくなるのである。

また地方に危急の自体が迫っているにもかかわらず、王や中央政府に情報が届かないと、対応が後手に回ってしまうことになる。
そこでいかに素早く情報を伝えるのかが課題となるのだが、この課題を解決したのが駅伝制度なのだ。

古代では、高速で移動する手段とは馬に騎乗するか、馬に車を引かせて走ることだった。
しかし、目的地まで何千キロもあると、途中で人も馬も疲れてしまう。
そこで一定距離を全速力で走った後は次の走者に交代し、情報だけを受け渡すようにした。
そのほうが断然早かったのである。

こうして駅伝制度は誕生した。
そして遠方にいる人にたいして、情報(や物資)を運ぶという郵便制度にもつながっていくのだった。

アウグストゥス帝以前の駅伝、郵便制度

古代ローマで駅伝、郵便制度を創設したのは、初代皇帝アウグストゥスである。
しかし郵便制度は、アウグストゥス帝以前にも存在していた。
ではアウグストゥス帝以前の駅伝、郵便制度とはどのようなものだったのだろう。

古代ローマ以前 ―王の道の駅伝、郵便制度―

駅伝制度は古代ローマ人の独創ではない。
では古代ローマ以前に作ったのはどの国か。

大規模な駅伝制度を世界で初めて導入したのは、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス一世だろう。
ダレイオス一世が統治していたアケメネス朝ペルシアの最盛期は、現在のエジプト、リビア、マケドニア、トルコ、シリア、イラク、イラン、パキスタン、アフガニスタン等を含む大帝国だった。

ダレイオス一世はこの大帝国を治めるために、首都スーサからトルコ西端のサルディスを結ぶ、全長2500kmにも及ぶ高速道路、「王の道」を建設した。
そしてこの王の道に駅伝制度が整備されていた。

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、ペルシアの駅伝制度について次のように記している。

この世に生を受けたもので、このペルシアの飛脚より早く目的地に達しうるものはない。これはペルシア人独自の考案によるものである。全行程に要する日数と同じ数の馬と人員が各所に配置され、一日の行程に馬一人、人員一人が割り当てられるという。雪も雨も炎暑も暗夜も、この飛脚たちが全速で各自分担の区間を疾走し終わるのを妨げることはできない。最初の走者が走り終えて託された伝達事項を第二の走者に引き継ぐと、第二の走者は第三の走者へというふうにして、ちょうど……松明競争のように、次から次へと中継されて目的地に届くのである。この早馬の飛脚制度のことをペルシャ語ではアンガレイオンという。

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ちなみに王の道をサルディスからスーサまで駅伝で踏破する日数は、9日から10日程度。
これは1日250km~280kmという計算になる。
途中でチグリス・ユーフラテス川も挟むのだ。
車も飛行機もない古代では、圧倒的なスピードである。

余談だが、ヘロドトスによると王の道沿いには宿場数が111箇所もあり、6つの川には渡し船が用意されていたという。
日本風に言えば、「王の道111次」というところだろうか。
安全確保のために守備隊も置かれていたようだ。

共和政ローマの郵便制度

アウグストゥスが確立した帝政以前のローマ、共和政ローマでの情報伝達制度はどうだったのだろう。

実は共和政ローマでも、次の4種類の郵便制度があった。

  1. 中央政府(ローマ)が属州総督に対して方針や命令を連絡する訓令兵
  2. 国家の文書連絡係
  3. 国に営業権料を支払う用益賃借人郵便
  4. 料金と引き換えに、頼まれれば誰に対しても手紙の輸送を引き受ける郵便(奴隷や解放奴隷)

この内(1)と(2)は公共の郵便であり、(3)と(4)が民間の郵便になる。

民間の郵便を利用した人として名高いのがキケロである。
彼はナポリ近郊の別荘滞在時、ローマからの手紙を4~5日で受け取っていたようだ。

アウグストゥス帝が創設した駅伝、郵便制度(クルスス・プブリクス)

アウグストゥスは、共和政時にあった郵便制度をより効率よく運営するため、独自の駅伝、郵便制度を創設した。
ただし古代ローマ以前 ―王の道の駅伝、郵便制度―でも記述したとおり、駅伝、郵便制度はローマ独自の発想ではない。

アウグストゥスは「王の道」を基にした郵便制度を、プトレマイオス朝エジプト遠征時に自分の目で見たのだ。
また義父カエサルもエジプト遠征での滞在時に調査をおこなっている。
おそらくこの経験が基礎となって、アウグストゥスは郵便制度を作ったものと思われる。

ではアウグストゥスが創設した駅伝、郵便制度はどのようなものだったのだろうか。

駅伝、郵便制度の基本型

アウグストゥスが創設した駅伝、郵便制度とは、主要幹線道路(軍用に作られたローマ街道)に馬や馬車などの輸送期間と、食事や宿泊施設を提供する駅などを一定間隔で設け、その施設を利用して情報を運ぶ、というものである。

この駅伝、郵便制度は、基本的に公の制度であり、国(皇帝)が必要とする情報を運ぶものだった。
そのため各施設を利用するには、皇帝や属州総督が発行するディプロマ(証明書)が必要だったのである。

情報の伝達から人の伝達へ

この駅伝、郵便制度ができた当初は、ペルシアと同じく情報のみの伝達を行っていた。
しかし、アウグストゥスの治世後半になると、彼が首都ローマを離れることが少なくなったので、地方からのより正確な情報を必要とした。

そこで駅伝・郵便制度はスピードを重視したものではなく、情報の確かさに重きを置いたものに変わっていく。
つまり情報を持参する本人に質問できるよう、馬車などで人そのものを伝達できるようにしたのである。

情報の収集について、ローマ皇帝伝『神君アウグストゥス伝』にも、次のように書かれている。

属州のどこで何が起ころうとも、それが直ちに、より早く報告され、知ることができるように、最初軍用道路に沿って、適当な間隔ごとに、若者の駅夫を置き、後に駅馬車を配置する。このほうが一層便利と思われたのである。というのも、何か必要な事情が起こったら、遠方の地から直接手紙を持参した当人に、質問できるからである

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「ゆっくり急げ」や「なんでも申し分なく立派にやりとげたら、申し分なく早くしたことになるのだ」などの格言を好んだアウグストゥス。
駅伝、郵便制度も、何事も慎重かつ確実に行う彼の性格を、よく反映していると言えるだろう。

人を運んだ車両

情報ではなく、次第に人そのものを伝達することになったのは先に述べた通りだが、彼らを運んでいた車両はどのようなものだったのか。

アウグストゥスの時代には、様々な馬車があった。
1人乗り、2人乗りはもちろん、大勢を運べる屋根付きの馬車や、他の動物たちに牽引させて運ぶ荷車もある。

その中でも、急使や軍用などに使われていたものは、2人用の馬車である。
御者一人とディプロマを持った伝令係が一人で、御者と馬車は中継地点ごとに交代していた。
またスピードを重視しない定期的な郵便制度もあり、こちらでは4頭立ての馬に四輪の馬車が使われた。

古代ローマの4輪車両
古代ローマの4輪車両
Nicolas von Kospoth (Triggerhappy) [CC BY-SA 3.0]

ただしこの時代の車輪はゴムでできたタイヤもなく、車体にスプリングが効いているわけではない。
車輪には摩耗防止用に鉄板が巻かれていただけである。
またローマ街道が、いかに平坦に作られていたからと言って、石と石の継ぎ目が完全になくすことは不可能だ。
そのため、おそらくこの頃の車での移動は振動が激しく、騒音も大きかったことだろう。
さらに車軸が固定されているので、急なカーブにも対応できない。
このような理由からも、ローマ街道はなるべく直線で平坦な道でなければならなかったのである。

ちなみに古代ローマでは、乗馬の補助となる足の置き場所である鐙(あぶみ)はまだ発明されていない。
そのため一旦馬から降りてしまうと、他の人の助けなしでは再び馬の背に乗るのが難しかった。
そこでローマ街道には、一定間隔ごとに少し高めの石を設置し、その石を使って騎手が馬に乗れるよう配慮されていた。

古代ローマの駅伝のスピード

では情報から人の伝達へと変化した古代ローマの駅伝のスピードは、どの程度だったのだろう。

6世紀の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の歴史家プロコピオスによれば、通常の郵便の配達速度は1日約60kmから120kmほどだったと記載している(研究者ウィリアム・ラムゼーが現代の距離に換算)。

またアウグストゥスの後継者候補と目されていたガイウス・カエサルが、小アジアのリュキア(現トルコ南部のリミラ)で亡くなった。
このときピサにいたアウグストゥスのもとに知らせが届けられるまで36日以上かかり、距離にして約2,165kmを陸路で届けられた。
研究者によると、この走破距離がだいたい1日平均すると80km程度と試算している(若干計算が合わない気もするが)。

中継地点の施設の種類

1日で踏破できない距離を進むには、どうしても休憩するための中継地点が必要になる。
また上記でも説明したように、車輪にクッションがないため壊れやすく、それを修理するための施設も必要だ。

では中継地点の施設は、どのような種類があったのだろうか。

マンシオ(またはマンシオネス、公用の宿泊施設)

マンシオとは、ディプロマを持った公式な使者が使用できる、公用の宿泊施設である。
食事やベッドはもちろん、浴場、御者のための着替え、替え馬や馬車、御者、馬丁、隣の宿泊施設に乗り換えた後の乗り物や動物を送り届ける係、荷運び人、獣医、車大工、さらには馬や牛、ロバなどの牽引動物のための家畜小屋や飼料貯蔵庫など、旅に必要なあらゆるものが提供されていた。

このマンシオ、使節や使者などの公用で利用するもの(ディプロマを持つもの)は、なんと無料で利用できたのだ。
しかし公用での使用者は数が限られているため、使用の優先順位は下がるものの一般の旅行者にも有料で提供されていたようである。

ゴッドマンチェスターのマンシオ

マンシオの中でも大規模なものとして有名なのが、属州ブリタンニア(現イギリス)の州都ロンディニウム(現ロンドン)と、北方の軍団基地ヨークを結ぶ中間地点にあった、ゴッドマンチェスターにあったマンシオだ。

中庭がある宿舎(母屋)は230m2の2階建て。
受付と食堂のほか、各6頭程度の牽引動物を収容できる厩舎が2ヶ所あり、一回に9室、2回にそれ以上のベットルームが配置されている。
屋外には車両を置く場所もあった。

ゴッドマンチェスターのマンシオ
ゴッドマンチェスターのマンシオ
交路からみる古代ローマ繁栄史

しかしなんと言ってもローマっぽい特徴として、母屋の向かい(受付の対面)に80m2の浴場を備えていたことだろう。
一般のローマ風呂の作りと同じく、冷浴室、温浴室、熱浴室を備えており、それが2ヶ所もあったのだ。

ゴッドマンチェスターのマンシオが大きかった理由に、伝令のみでなく、軍人や属州高官なども宿泊に訪れていたからだと推測される。
これほど大規なのマンシオは、帝国中を探してもそれほど多くなかったのではないだろうか。

ムスタティオ(またはムスタティオネス、車両と動物のメンテナンス施設)

ムスタティオとは、現代日本でいう「道の駅」のことで、マンシオよりも小規模な施設である。
マンシオ同士の間にあることが多い。
車大工や獣医の医療サービス、二人乗り馬車の乗り換えサービスなど。
そのほか、簡単な食事の提供やベッドもあった。

例として、イタリア北部の町アクィレイアからアルプス超えの途中にあるムスタティオは、14.5m × 6.4m(約93m2)の大きさで、マンシオよりも小さいことがわかるだろう。

タベルナーエ

街道沿いにある、小型の宿泊施設。
設立初期のころはユースホステルのような宿だったが、次第にホテルのような規模へと変化していった。
また大きなタベルナーエでは、ワインやチーズ、ハムなどを貯蔵する大きな樽があったという。

カウポナ

民営の宿泊施設。
マンシオの近くで営業していることが多いが、

  • 泥棒が出る
  • 売春が行われている

など、評判が悪かったようだ。

ディプロマの不正使用

マンシオやムスタティオはディプロマを持っている限り公式の使者とみなされ、無料でサービスがうけられ非常に便利だ。
そしてディプロマの発行は皇帝のほかに、(数に限りはあるが)属州総督も行うことができた。
このディプロマをプライベートで利用する属州総督がいたのである。

ローマ初の博物誌を記し、ウェスウィオ火山の大噴火によりポンペイで亡くなった大プリニウス。
その甥である小プリニウスは、トラヤヌス帝の治世で属州総督として赴任していたが、彼もまたディプロマをプライベートな使用で発行した一人である。

小プリニウスはトラヤヌスに宛てた書簡の中で、言い訳がましい文章を記している。

陛下、私は今まで一度も、誰かにディプロマを融通したことはありませんでした。(中略)妻が祖父の死の知らせを聞き、急いで叔母に会いに行きたいと言ったとき、私は彼女にディプロマの利用を拒むのは冷酷すぎると考えたのです

交路からみる古代ローマ繁栄史 | 第三章 ローマ街道を使った国家統治・防衛と旅の安全・楽しみ方

おそらく小プリニウスは、皇帝トラヤヌスに対してわざわざ不正使用を報告するほど真面目な性格をしていただろうし、妻以外に発行していないことも真実だろう。

この真面目な小プリニウスですら、プライベートのために使ったことを告白しているぐらいだ。
小プリニウスよりも世渡りのうまい他の属州総督たちは、もっと多くの事例がこの影に隠れていると思われる。

郵便制度の運営費用

ではマンシオやムスタティオなどの公用施設に対する運営の費用は、どれほどかかっていたのだろう。

運営費用については実のところ、よくわかっていない。
そもそもこの運営費用は、施設のある属州の管轄だった。
しかし負担が大きかったために、ハドリアヌス帝(治世117年~138年)は中央政府(ローマ)の管轄とすることに決め、さらにその後セプティミウス・セウェルス帝(治世193年~211年)の時代に宿舎の費用のほとんどを国庫で賄うことに決めた。
だが3世紀の危機と呼ばれる軍事皇帝時代を経て、コンスタンティヌス大帝の時代になると、再び費用は地元の負担となった。

交路からみる古代ローマ繁栄史』という本の中で、瀬戸大橋建設にも関わったことのある著者、中川良隆氏がこの費用を簡単に資産されているので、紹介する。

マンシオはだいたい50kmごとに一つあったといわれている。
この情報をもとに帝国でマンシオのあった数を計算すると、だいたい1600ヶ所程度。
マンシオ一つにつき、馬20頭、係が40人必要になると仮定すると、帝国全土では馬32,000頭、係が64,000人必要な計算だ。

ところでこの時代の支出で一番大きな割合を占めていたのが軍事費で、全体の7~8割だったという。
帝国全土の防衛に必要な軍団兵が30万人で、そのうち馬が20,000頭程度だと仮定した場合、宿泊施設の維持にかかる費用がおおよそ想像できるのではないだろうか。

中川氏は同著書のなかで、大規模なマンシオと小規模なマンシオが交互に存在していたのではないかと推察されている。
この考えは、現代日本の高速道路にあるパーキングエリアを想像してもらうと、分かりやすいのではないかと思う。

駅伝、郵便制度の変遷

このように金食い虫の駅伝、郵便制度も、時代とともに次第に変化していくことになる。

セプティミウス・セウェルス帝時代

セプティミウス・セウェルス帝の時代になると、軍隊のための食糧輸送も加わった。
軍を優遇したセティミウス・セウェルス帝らしい施策といえる。
このためディプロマは以下の2つに別れることになった。

  • 輸送機関の利用のみを許す部分的許可証(エウェクティオ)
  • 輸送・宿・食事まで保証する全面的許可証(トラクトリア)

しかし食糧輸送が増えると、荷馬車や牛に引かせる車が多くなる。
このため、一日の移動距離も遅くなり、宿泊施設も多くならざるを得なくなる。

この結果、ただでさえ金食い虫だった駅伝、郵便制度の規模が拡大してしまうことになったのだ。

コンスタンティヌス一世(大帝)時代

コンスタンティヌス1世は、ローマ皇帝で初めてキリスト教を公認した皇帝である(その後テオドシウス1世により国教になる)。
キリスト教徒たちは、自分たちの宗教が公認されたことにより、より一層の布教活動をするようになり、同時に都市から都市への移動も多くなった。
コンスタンティヌス一世は、このような教徒たちに対して、郵便制度で使う乗り物の使用を許可したのである。

さらに後の皇帝は、宿泊や食事で使用することまで保証した。
キリスト教徒の総ディべロマ所有化とでも言える現象だ。
これで彼らは布教に加え、観光にまで利用する聖職者がでる有様だった。

このようなキリスト教徒達の過剰使用などにより、クルスス・プブリクスは「ローマの悪疫(悪い病気)」とまで揶揄されるようなる。
さらにテオドシウス一世によってキリスト教が国教となると、聖地エルサレムへの巡礼者が多くなり、公営の宿まで作られるようになっていく。

この結果、アウグストゥスの描いたクルスス・プブリクスの制度は徐々に崩壊し、機能不全に陥ったのだった。

今回のまとめ

古代ローマの駅伝、郵便制度クルスス・プブリクスについて、もう一度おさらいしよう。

  • クルスス・プブリクスはアケメネス朝ペルシャの「王の道」を模倣して作られた
  • クルスス・プブリクスを創設したのは、初代皇帝アウグストゥスで、帝国統治のため公式文書の通信用だった
  • クルスス・プブリクスは情報の伝達ではなく、人を伝達する手段にかわっていった
  • ローマ街道沿いにディプロマ(証明書)を持つものが無料で利用できる各種サービスステーションが一定間隔で設置されていた

帝国の防衛と統治のために創設した駅伝、郵便制度は、民間人にも解放されていたため、人の往来が活発になり、ローマ帝国全体の経済が発展する効果もあったのだった。

なお駅伝、郵便制度に欠かすことのできないインフラ事業であるローマ街道については、ローマ街道 ―地球2周分にも及ぶ大事業、古代ローマインフラの一つ―にまとめているので、参考になるだろう。

すべての道はローマに通ず ローマ街道 ローマ街道 ―地球2周分にも及ぶ大事業、古代ローマインフラの一つ―

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