背教者ユリアヌス。
辻邦生氏の小説にもなっているので、あなたもこの名前を聞いたことがあるかもしれない。
『背教者』とは、日本国語大辞典で次のような人のことを言う。
宗教の教えにそむいた人。特に、キリスト教の信仰を捨てた人。
コトバンク 背教者とは
ではなぜユリアヌスは、皇帝でありながら背教者と呼ばれるようになったのだろうか。
また、政治から程遠い世界に住んでいたユリアヌスが、なぜ皇帝へと上り詰めることができたのだろうか。
今回は、『背教者』とよばれた皇帝ユリアヌスの、劇的ともいえる生涯を紹介しよう。
ユリアヌス誕生から青年時代まで
ユリアヌス生誕
ときの皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)の弟であるユリウス・コンスタンティウスと、小アジアの貴族の娘であるバシリナの子として、ユリアヌスは生まれた。生年は331年か、もしくは332年と言われているが、確かなことはわかっていない。
母バシリナは、ユリアヌスが生まれてまもなく他界。
そのため、ユリアヌスは父ユリウスとコンスタンティノープルで過ごしていたと思われる。
しかし337年、ユリアヌスにとって一大事件が起こる。それはコンスタンティヌス大帝の崩御と、新帝の就任で起こった軍隊の暴動である。
この事件で、大帝の親族は、大帝3人の子供以外すべて殺されてしまう。その中にユリアヌスの父であり、ユリウス・コンスタンティウスも含まれていた。結局子供以外の親族で生き残ったのは、ユリアヌスの異母兄ガルスとユリアヌスだけだった。
軍隊の暴動については、新たに皇帝となった大帝の2番めの子コンスタンティウス2世の陰謀だと噂されていたが、はっきりしたことはわかっていない。『新・ローマ帝国衰亡史 』の著者である南川高志氏によると、コンスタンティウス2世の取り巻きが起こした事件だと推測している。
いずれにしても、ユリアヌスは幼くして親なし児となってしまったのだった。
少年時代
ユリアヌスはその後、母方の祖母からもらった小アジアの北にある、ビテュニアの所領で過ごすことになった。
ユリアヌスの教師は、母の教師でもあった宦官(去勢された官僚)のマルドニオス。ゴート族出身でもある彼から、『ホメロス』や『ヘシオドス』など古代ギリシアの文学作品を学んだ。
一方コンスタンティヌス大帝の晩年に影響を与えた、キリスト教司教エウゼビオスからも、ユリアヌスは教育も受けたようだ。
ただしエウゼビオスのことはユリアヌス自身が思い出したくもないのか、史書による記述のみで、彼自身の著書では一切触れていない。後年に『背教者』と呼ばれるユリアヌスの原点が、早くも見え隠れするエビソードだろう。
エウゼビオスは、340年にコンスタンティノープルの大司教へと登りつめる。彼の移動にともなって、ユリアヌスもコンスタンティノープルへと移り住んだ。
しかしエウゼビオスが死亡すると2年後の342年、ユリアヌスは皇帝コンスタンティウス2世の命により、小アジアの中央に位置するマケルムへと旅立つことになる。
マケルムでの監禁生活とその後の遊学時代
マケルムでの宮殿生活は、豪華な住まいと裏腹に、隔離され監禁状態のみじめな生活だったらしい。
この地でユリアヌスは、異母兄のガルスと再会を果たす。だが、6年間も同じ屋根の下で過ごしたガルスとは、どうも特に仲が良くなった様子がない。
おそらく学者肌で禁欲生活をいとわないユリアヌスと、比較的自由な(そしてガサツな)ガルスとは、ウマが合わなかったのだろう。
348年、ユリアヌスは6年間の監禁生活を終え、ガルスとともにコンスタンティノープルへと戻される。
ガルスは宮廷生活を送ったが、ユリアヌスは比較的自由に過ごすことができた。この時間を利用して、ユリアヌスは様々な土地へと遊学し、学問にいそしむのである。
ユリアヌスの遊学先と学んだ学問は次の通り。
- ニコメディア
- ペルガモン
- エフェソス
ニコメディアでは、有名な修辞学者リバニオスのもとで講義を受けることはできなかった。だが、彼の講義録で修辞学を学ぶことはできた。またペルガモンでは、新プラトン主義哲学を学んでいる。
またコンスタンティノープルでも、ユリアヌスは文法や哲学を修めている。文法は異教徒ニコクレスから学び、哲学は哲学者テミスティオスを教師とした。
ユリアヌスが次第にキリスト教から哲学へと傾倒するのは、彼の学んだことを見てもらえばわかるだろう。
つまり彼は、キリスト教学者からキリスト教を教えてもらうのではなく、異教と呼ばれるローマ古来の神を信奉するものや、哲学者から修辞学や文法、哲学を学んでいるのである。
彼の心はこの頃から次第に、キリスト教より離れていったのだった。
ユリアヌスを取り巻く政治情勢
ここまでユリアヌスの誕生から幼少期、やがて青年になってキリスト教の教えから徐々に離れていく過程をざっと記述してきた。
この間、つまりコンスタンティヌス大帝の死から以後、ローマ帝国の政情も大きく変わっていく。ではローマ世界はどう動いていたのだろうか。
皇帝3人による分割統治から単独支配へ
コンスタンティヌス大帝の死後、ローマ帝国は正帝(アウグストゥス)の座についた3人の息子によって3つの地域を分割して統治することが決まった。
その分割領域は、以下の通り。
- コンスタンティヌス2世(最年長)
帝国西部 - コンスタンティウス2世(次兄)
帝国東部とトラキア地方 - コンスタンス(末弟)
帝国中央部と北アフリカ属州
この3人の正帝の間で領土争いが勃発することになる。
ここからは猛烈な勢いで変化し、やがてコンスタンティウス2世が単独の正帝になるまでの情勢を、時系列で見てみよう。
領土拡大を狙ってコンスタンス領に侵入したコンスタンティヌス2世の軍と、コンスタンス軍が北イタリアのアクィレイアで激突。コンスタンティヌス2世が戦死し、コンスタンスは帝国の西半分を治めることに。
コンスタンス麾下の将軍マグネンティウス、反乱を起こしてコンスタンスを殺害。ローマ帝国西部の正帝を名乗る。
簒奪者マグネンティウス、東進して東の正帝コンスタンティウス2世とムルサ(元クロアチアのオシエク)で激突。双方甚大な被害を出すも、コンスタンティウス2世が勝利。その1年後、マグネンティウスが自殺してコンスタンティウス2世が単独の統治者となる。
この内乱でローマ帝国は再び統一されたものの、内乱の傷跡は帝国のその後の軍事力を、大きく削ぐ結果となってしまったのである。
また疑り深いコンスタンティウス2世は、単独支配者となったあと、ガリアやその他帝国西方地域で、マグネンティウスに味方したものを探し出し処刑した。
特に『鎖のパウルス』と呼ばれた人物の残党狩りは悪名高く、無実の人まで罠にかけて陥れるその手法は、皇帝ともども後々までガリア人たちの恨みを買ったという。
そしてこの残党狩りは、のちのユリアヌスの政策にも、大きく影響することになる。
副帝ガルスの処刑
さらに354年、ユリアヌスの異母兄ガルスがコンスタンティウス2世によって処刑された。
コンスタンティウス2世は、まだマグネンティウスが西方で皇帝を名乗っていたころ、東方地域を任せる人物として、数少ない親類のガルスを副帝に任命した。
とはいえ統治経験もないガルスは単なるお飾りとして存在していればよく、実務はコンスタンティウス2世の部下が執り行うことを期待したのである。
ところがもともと素行に問題のあったガルスは皇帝の部下と対立し、あろうことか皇帝が送り込んだ道長官を殺してしまう。
数地域をまとめて統治する文官の最高位。
現代日本に例えるなら、宮城県や岩手県などの県知事よりも上の権限をもち、東北地域をまとめて担当する地域部長のようなもの。
ついに皇帝はガルスを、自分がいる北イタリアに呼び出し、副帝位を取り上げると、皇帝の部下を殺した罪で処刑したのだった。
皇后エウセビアとアテネへの遊学
ガルスの処刑は、数少ない皇帝の肉親であるユリアヌスの人生にも大きな影響を与えることになった。なぜならコンスタンティウス2世は、ユリアヌスを滞在先のメディオラヌム(現イタリアのミラノ)に召喚したからだ。
ユリアヌス召喚の目的は2つあったと思われる。
- ユリアヌスが皇帝に反旗を翻すことがないか、監視すること
- ユリアヌスが皇帝の代理として、使えるかどうかを見定めること
ガルスが処刑された直後は(1)の理由が大きかっただろう。彼が少しでも不穏な動きや考えを持っていれば、即座に殺す準備があったかもしれない。
ピンチともいえるユリアヌスを救ったのが、皇帝の美貌の妃エウセビアだった。彼女は学ぶことの好きなユリアヌスのことを思い、ギリシアのアテナイへユリアヌスを遊学するよう皇帝に進言したのだ。
エウセビアがユリアヌスに好意を持っていたのは確からしい。ただし、彼女の思惑はそれだけではなく、むしろ夫のために数少ない肉親を残してやりたい思いもあったのではないか。
皇后のおかげもあって、ユリアヌスはアテナイで学ぶことができた。この地でも、新プラトン主義の哲学に親しんだようである。
また彼は、アテナイの近くにあるエレウシスで太古の昔から行われ、五賢帝の一人ハドリアヌスと同じく秘儀に入信し、それを行った。
しかしユリアヌスの遊学は長く続かなかった。この学者肌の青年が、ついに歴史の表舞台に躍り出るときがきたのである。ただしコンスタンティウス2世にむりやり引っ張り上げられるという形ではあったのだが。
ユリアヌス、副帝(カエサル)となりガリアに赴く
ユリアヌス、副帝に任命される
ユリアヌスは、ギリシアから皇帝に呼び寄せられると、355年11月6日、副帝(カエサル)に任命された。なぜコンスタンティウス2世は、政治も軍事も経験皆無なユリアヌスを副帝にしようと思ったのか。
ユリアヌス副帝任命に先立つこと3ヶ月前、将軍シルウァヌスがコロニア・アグリッピネンシス(現ドイツのケルン)で反乱を起こしたのである。
この反乱はすぐに鎮圧されたが、コンスタンティウス2世は帝国西方の統治に、自分の代理となる人間が必要なことを痛感した。
また東方ではササン朝ペルシアが、常に不穏な空気を漂わせている。皇帝みずから東へと遠征するためにも、ユリアヌスに西側の統治を肩代わりしてもらう必要があったのだ。
コンスタンティウス2世は、自分の妹ヘレナを副帝となったユリアヌスに与えた。ヘレナはユリアヌスよりも年上だったという。
おそらくヘレナと結婚させた理由は、皇帝との結びつきを強くするほかに、ユリアヌスが皇帝簒奪を企むといった変な気を起こさぬよう、監視する役割があったのだろう。
副帝となったユリアヌスは、12月にはいるとすぐにガリアへと向かった。
ガリアの状況
この頃ガリアでは、シルウァヌスの反乱鎮圧に向かったウルシキヌス将軍が、鎮圧後もそのままガリアにとどまり続け、後任の将軍マルケルスとともに軍を率いていた。
ところでユリアヌス赴任当時のガリアの領土は、どのような状態だったのだろうか。
同時代人の歴史家アンミアヌスによれば、コンスタンティウス2世は「ガリアがひどい状態だった」との報告を受けていると記述している。しかしローマ史研究家の南川氏によると、著書『新・ローマ帝国衰亡史 』の中で、それほど荒廃は進んでいなかったのではないか、と指摘する。
私も南川氏の意見と同じだが、とはいえ辺境の防備に度々悩まされていたのも事実だろう。度重なる内乱や反乱が、ローマの防衛機能にダメージを与えていた。そしてその事実は、『蛮族』によるある出来事でも証明されるのである。
執政官就任と主力軍への合流
356年1月、ユリアヌスは皇帝コンスタンティウス2世と、執政官(コンスル)に就任した。政軍両方の経験が不足する副帝に、皇帝が権威を与えようとしたようだ。
さて、ユリアヌスはその皇帝から、兵360名が与えられた。護衛程度どもいえるこの兵の少なさは、
- 主力の機動軍が、属州にすでに集まっていたこと
- ユリアヌスの軍務経験が皆無だったこと
が理由だろう。コンスタンティウス2世がユリアヌスに対し、軍務経験もない若輩者が、まともに軍を率いることができないと考えているのは当然だった。
ユリアヌスの最初のミッションは、この兵を率いてドゥロコルトルム(現ランス、以後もランスと表記)にいる主力軍と2人の将軍に合流すること。
しかしヴィエンナ(現ヴィエンヌ)へ向かう途中、フランク族によりコロニア・アグリッピネンシス(以後ケルンと表記)が陥落したとの知らせがはいった。そこで合流後のミッションも決定される。つまりケルンの奪回である。
ユリアヌスはヴィエンナで暖かくなる季節を待ち、北のオータンを目指した。この街がゲルマン系アラマンニ族の攻撃を受けていたからだ。
彼らを撃退してのち、アウグストボナ(現トロア)からランスへと向かい、マルケルス率いる主力軍と合流することができた。第一ミッションは無事クリアである。
コロニア・アグリッピネンシス(ケルン)奪回
ユリアヌスと主力軍は、ランスからディヴォドゥルム(現メス、以後もメスと表記)へと移動し、さらに東進して(途中の蛮族遭遇戦に勝利しつつ)アルザス地方へとはいる。
ライン川西側のアルゲントラトゥム(現ストラスブール)からモグンティアクム(現マインツ、以後マインツと表記)一帯は、アラマンニ族の手に落ちていた。
おそらく2人の将軍の主導プラス、南からのコンスタンティウス2世との共闘により、彼らの作戦、つまりライン西岸地域の奪回は成功し、11月ごろにはフランク族の手から、ケルンを奪還することもできたようだ。
作戦当初、借りてきた猫同然の立場だったユリアヌスも、戦闘を経験することで自信と責任感を持つようになっていったのではないかと思う。
だが、お目付け役の将軍、特にマルケルスはユリアヌスが自信を深めていくことに伴う態度の変化に対し、何らかの負の感情があったかもしれない。
ユリアヌスたちは冬営のためガリア内部に戻り、ユリアヌスはアゲディンクム(現サンス、以後サンスと表記)で冬を過ごすことになった。だが将軍たちの心情の変化が、ユリアヌスのピンチを招くことになるのである。
ガリアでの初試練
356年から357年にかけての冬、ユリアヌスは冬営地サンスでアラマンニ族の襲撃にあう。
彼らは必死に戦い、孤立無援の状態で30日間敵の攻撃に耐えてみせた。攻囲される前に行った城壁の修復工事をしなかったら、陥落したかもしれない。
結局アラマンニ族は、食料がなくなったせいで退却を余儀なくされ、ユリアヌスはピンチを凌ぐことに成功した。しかし彼はなぜ孤立無援状態に陥ったのか。
実はサンス近くには、将軍マルケルスが主力軍とともに冬営していたのである。にもかかわらず、マルケルスは援軍を出さなかったのだ。
マルケルスはユリアヌスを見捨てるかのような態度を示したため、皇帝から更迭を言い渡される。後任の将軍には経験豊富なセウェルスが就任した。
この戦いでさらに自信を深めたユリアヌスは、セウェルスという有能な将軍を得たことで、軍事作戦を自ら行うようになっていく。しかし翌年には、サンス襲撃を凌ぐピンチがユリアヌスを待っていたのである。
アルゲントラトゥム(ストラスブール)の戦い
共闘作戦の失敗
357年、ガリア方面の作戦を主導していたコンスタンティウス2世が、東方のササン朝ペルシアに対応するため、代わりにバルバディオに25,000の兵を預けた。ユリアヌスとバルバディオはアラマンニ族に対し、北と南から挟撃を行う作戦を立てる。
一方のアラマンニ族は先手を打って、ガリア南西方面へと進出し、ルグドゥヌム(現リヨン、以後リヨンと表記)を攻めた。
ユリアヌスは13,000の軍で素早く行動すると、東から彼らの退路を断ち切ることに成功する。
このままアラマンニ族を仕留められるかと思われたが、敵がバルバディオ担当の土地から撤退しようとしたのを、バルバディオはみすみす逃してしまう。
それだけでなく、ユリアヌスがライン渡河用に作らせていた船橋(船を数珠つなぎにしてつくる橋)を焼かれてしまう大失態を犯した。
さらにアラマンニ族の奇襲を受けると、バルバディオはユリアヌスと合流する前に敗れ、撤退してしまう。
この結果、単独でアラマンニ族の大軍を相手にする必要に、ユリアヌスは迫られたのだった。
ローマ軍13,000 VS アラマンニ族35,000
ユリアヌス率いるローマ軍は、アルザス地方で敵軍を待つ。一方のアラマンニ族はライン川東岸から続々と渡ってきた。
彼らが対峙したのは、アルゲントラトゥム近郊の湿地帯。アラマンニ族は、7人の王から選ばれたクノドマリウスとセラピオが率いていたとされている。その数35,000。
ローマ軍から見て左翼側、アラマンニ族からみて右翼側には沼地が広がっていたため、両軍ともに沼地のない一方に全騎兵を配置していた。
戦いが始まると、まずローマ軍の右翼が正面の敵騎兵に挑むが、敗れてあえなく後退した。その間にアラマンニ族中央の歩兵部隊が、ローマの歩兵前衛を突破し、後衛にまで迫っていた。
一方ローマ左翼を率いるセウェルスは、正面にある森に伏兵の気配を感じ、兵を一時停止させる。
左翼を率いたユリアヌスはその後、乱れた騎兵をなんとか立て直すと歩兵後方へと展開。また中央の歩兵も後衛部隊が持ちこたえていた。そこに森に潜んでいた敵軍伏兵が襲いかかってきたのである。
だが伏兵を読んでいたセウェルスは、この伏兵に左翼部隊をぶつけて退けると、しだいにローマ軍は敵軍を押し返す。そして攻勢にでたローマ軍に耐えきれず、アラマンニ族軍は潰走を始めたのだった。
結果、ローマ軍は3倍近いアラマンニ族軍に勝ったのだ。この戦いでアラマンニ族は6,000名以上が命を落とし、また指揮していたクノドマリウスを捕らえることができた。
一方ローマ軍の被害は、4名の将校と243名の兵が戦死したのみである。
戦いの結果
つい一年前まで、軍の指揮はおろか軍務経験すらしたことのない副帝が、3倍近くにも及ぶ『蛮族』の軍に勝利する――。
衝撃の結果に兵たちは、ユリアヌスを
アウグストゥス(正帝陛下)!
と口々に歓呼した。しかしユリアヌスは取り合わず、逆に兵を叱りつけたという。
また、捕らえたアラマンニ族の王クノドマリウスを、コンスタンティウス2世の宮廷に送り、皇帝の戦勝祝いにそえた。
ユリアヌスのこの2つの行為は、コンスタンティウス2世への配慮とともに、彼が皇帝位を狙っている疑念を抱かせないための、予防の意味もあったのである。
コンスタンティウス2世にしてみれば、ユリアヌスの劇的な勝利は予想外であり、歓喜とともに動揺も生じたと、『新・ローマ帝国衰亡史 』では指摘している。
だがササン朝ペルシアの使者が首都コンスタンティノープルを訪れ、脅威が間近に迫っていることを実感するコンスタンティウス2世にとって、西方統治をある程度任せる目処がついた以上、ユリアヌスを頼るしかなかったのだ。
ユリアヌスにしてみれば、この戦いに勝利したことで、ガリア兵からの絶対的な信頼を手に入れることができたことは大きかった。彼の今後の統治は、この軍事力を背景に推し進めてことができるのだった。
そしてそれは他の官僚におもねることなく、ユリアヌスが彼独自の考えで統治ができることを意味したのである。
副帝ユリアヌスのガリア統治
アルゲントラトゥムの戦いに勝利したことで、ユリアヌスは独自の政策を打ち出すことができた。ではユリアヌスはガリアを、どのように統治したのだろうか。
辺境の征服
アルゲントラトゥムでの劇的な勝利は、ローマの軍事的優位を一気に回復することに成功した。この勝利をユリアヌスは有効に活用していく。
357年戦いが終わってすぐ、ユリアヌスはモグンティアクム(現ドイツのマインツ)からライン川を渡り、アラマンニ族の居住区に入ると彼らの村を次々と襲撃した。
また358年には将軍セウェルスとともに、アルザス地方のアラマンニ族を攻め、さらにセウェルスはライン川を渡って軍事遠征を行い、一定の成果を収めた。
ユリアヌスはさらに北進し、将軍セウェルスをケルンへ派遣してフランク族の対処に当たらせた。そしてユリアヌスもフランク族の住む土地へと向かい、マース川沿いの2つの要塞へとフランク族を押し返す。
さらにこの要塞を54日間攻囲して降伏させると、彼らを皇帝の下へと送り、皇帝軍へ編入させたのである。
さらにユリアヌスはフランク族のなかにある2つの部族に対処する。
サリィ族
この部族については、「トクサンドリア付近のローマの土地」に定住させることにしたらしい。
ちなみにトクサンドリアとは、マース川とスヘルデ川の間にある土地で、現在のベルギーからオランダ西部あたりにあるようだ。
後の時代になるが、サリィ族はやがて定住地を拡大し、フランク王国を築くまでになる。
カマウィ族
カマウィ族はフランク族のなかでも、アイセル川とライン川の間に住んでいた部族だ。彼らは居住する土地の位置から、ブリタンニア(現イギリス)からライン川へと穀物が送られる水路を押さえていた。
カマウィ族に邪魔をされると、穀物の輸入がままならず、運ばれる量も増えることはない。実はこの解決をするため、道長官フロレンティウスはカマウィ族に対し、お金を払って解決する方針を決めていた。
しかしユリアヌスはこれに断固反対する。彼はカマウィ族を服従させると、マース川下流に要塞を築いたのである。
この処置で、ブリテン島からの穀物線は、200隻から400隻(あるいは600隻)に増えた。ただしユリアヌスの措置は、フロレンティウスの怒りを買うことになったのだが・・・。
こうして、主にライン川周辺で戦いを継続した結果、ユリアヌスは次のような成果をあげることができた。
- ライン川を3度越え、『蛮族』の捕虜になっていた20,000人の人々を取り返す
- 数多くの町や砦を回復する
これらの成果はユリアヌスの記述による。だがもし彼が誇張して書いているとしても、周辺の土地をローマの下に置くことを成功したのは確かだろう。
- 最高のゲルマニア人征服者
- 最高のサルマタエ人征服者
- 最高のアラマンニ族征服者
- 最高のフランク族征服者
359年以降は軍事遠征が少なくなるとはいえ、ユリアヌスの一連の行動は、周辺の国境地帯をローマのコントロール下に置き、ローマ領ガリアの安定を図ることを意図したものだったである。
そしてそれはユリアヌス統治の下で、一定の成果を収めたといってもいいだろう。
ガリアでの民政
次に、ガリア領民に対するユリアヌスの政策を見てみよう。
彼は次の2つのことを実行した。
- 属州第二ベルギガでの徴税を、適切な水準にとどめた
- さらにガリア全体で調査を行い、人頭税と土地税として負担させていた税額の標準を72%も削減した
確かに物価の向上に加えて、度重なる外敵の侵入に対応するための軍の増強が、民衆に負担を強いていた側面もあった。
それにしてもガリアの徴税運用は腐敗し、ザルのような精度だったのだ。このことが重税に拍車をかけ、一層民衆を苦しめていた。
ユリアヌスは税制を適切に運用することで、ガリアの人々の生活の安定を図ることに成功したのである。
新人の登用
ガリアで民衆の生活を安定させた副産物として、ユリアヌスは国境付近にすむ外部の有能な人々や、ガリア地方出身者の活用もできるようになる。
例えばユリアヌスが登用した人物は、次の通り。
- ネウィッタ:フランク族出身。騎兵長官(軍事最高職)や執政官に昇進
- アギロ:アラマンニ族出身。歩兵長官へ出世
- ダガライフス:ユリアヌスに部隊長に取り立てられる
- マメルティヌス:ガリア出身の詩人。後に執政官へ昇進
彼らの力は、ユリアヌスの政治活動に大きな力を与えてくれたのである。
ユリアヌスのガリア統治は、おおむね順調に進んでいたといっても、差し支えないだろう。
しかし360年に皇帝から送られてきた書簡により、またしてもユリアヌスの運命が大きく動こうとしていた。