アレクサンドリア ―世界の知が集まったプトレマイオス朝エジプトの首都―

世界の知の集結地 アレクサンドリア

アレクサンドリアといえば、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
ムセイオン、大図書館、世界の七不思議に数えられた大灯台、そしてクレオパトラ・・・。

実はこのアレクサンドリア、古代のエジプトを代表する都市でありながら、エジプトの歴史からすれば、比較的新しく建設された都市なのである。

一時は100万人以上も人々が暮らしていたというアレクサンドリア。この都市はどのようにして生まれ、そして発展したのだろうか。

この記事では、

  • 古代都市アレクサンドリアの誕生から、イスラム世界に組み込まれるまでの歴史
  • アレクサンドリアに集まった古代世界の科学者たち

を見てみよう。

アレクサンドリアの歴史

アレクサンドリア誕生

「アレクサンドリア」は他にもあった?

アレクサンドリアはエジプトにありながら、エジプト人の手で作られた都市ではない。この都市は、ギリシア人(正確にはマケドニア人)によって構想、建設されたのである。

アレクサンドリアの建設を命じたのは、アレクサンドロス3世。アケメネス朝ペルシアを滅ぼし、インドにまで遠征を行った、アレクサンドロス大王だ。エジプトを征服したとき、王国の西の端に自分の名前をつけた都市を作ろうと計画した。

実はアレクサンドロス、エジプトのアレクサンドリア以外にも、征服地に自分の名前がつく都市、アレクサンドリアを70ヶ所以上も建設している。軍事要塞としての役割を持つものや、戦勝を記念して建設した都市もあった。

例えば次のとおり。

  • アレクサンドリア・エスカテ:現タジキスタンのソグド州にあった都市。帝国の北東の果てに位置する
  • アレクサンドレッタ:現トルコのイスケルデン市。アレクサンドロス大王とダレイオス3世が戦ったイッソス付近に、戦勝記念として建設

エジプトのアレクサンドリアも、アレクサンドロス大王が新たに作った都市の一つだったのである。以後、この記事ではエジプトの新都市を単に「アレクサンドリア」と表記する。

新都市アレクサンドリアの位置

では大王は、アレクサンドリアをどこに建設しようと考えたのか。
それは次の場所である。

  • 地中海に面し、マレオティス湖と海に挟まれた土地
  • 北にファロス島がある場所

この場所には、ラコティスという小さな漁村があったが、更地も同然だった。アレクサンドロスは、なぜ人気のない土地に、新都市を建設しようとしたのか。

理由は次の通り。

  • 東にカノポス港があること。つまり肥沃なデルタ地帯を通って、紅海へ出るのが簡単なため
  • ファロス島と本土を堤防で繋げば、東と西に2つの大きな港できる
  • 運河を作れば、ナイルの支流とマレオティス湖、マレオティス湖と海がつながり、地中海側との交易が行いやすい

アレクサンドロスは、地中海から紅海へと抜ける海の道、さらに東からの陸の道の拠点となることを狙ったのである。

さらにもう一点見逃せないことがある。それは、湖のほとりにも関わらず、疫病が起こりにくいということ。

ほかの湖では通常、夏になると水が干上がってまわりが沼地ができあがる。沼の近くでは菌が繁殖し、病気になりやすい。このことを、古代人は経験から知っていた。

ところがマレオティス湖は、毎年夏になるとナイルの増水で湖の水も増えるので、沼地になることをある程度防ぐことができる。

加えて、海と陸から風が吹くことで空気が流れ、病気になりにくかったのである。

交易の拠点かつ健康が確保できる土地。この地をエジプト支配の中心地とする予定だった。

アレクサンドリア、プトレマイオス朝エジプトの首都に

将軍プトレマイオス、エジプトを領有する

ところがアレクサンドロスは、アレクサンドリアを二度と目にすることなく、32歳の若さで死んでしまう。

アレクサンドリアを受け継いだのが、大王の側近であり、ディアドコイ(後継者)の一人、プトレマイオスだった。

プトレマイオスは軍事と外交両面をたくみに操り、エジプトの領有に成功する。彼は始めから、大王の征服した領土をすべて受け継ぐ気などなかったのである。

プトレマイオスはアレクサンドリアを、統治する王国の首都とすることに決めた。ほかのディアドコイたちと戦う上で、軍事拠点としても便利だったのも理由の一つだった。

とはいえアレクサンドリアは、まだアレクサンドロスが大雑把な青写真を描いたにすぎない。プトレマイオスは、新首都の建設をロードスのディノクラテスに任せることにした。

ディノクラテスの都市計画

アレクサンドリアの地図
アレクサンドリアの地図
Friedrich Wilhelm Putzger, nach O. Puchstein in Pauly, Real-Encycl. / Public domain

ディノクラテスが参考にしたのは、建築家ヒッポダモスの都市計画。ヒッポダモスはギリシア・アテナイのピレウス港を造った人物である。

ディノクラテスは、格子状に道路を走らせ、できた区画に住宅や王宮、公共建築物などをはめ込むプランを立てる。

このプランなら、どの場所からも道路に出やすい。道路に面したところで商売を行うことができる。一方、区画の内側では、プライバシーを守ることも可能だ。日本で言えば、京都の街並みを想像してもらうといいだろう。

また、ディノクラテスにはもう一つ大事な仕事があった。それは2つの港の建設である。

まず、本土からファロス島まで、幅180m、長さ1,3kmの堤防でつなぐ。そうすると、東西に大きな囲いができるのだ。この囲いを港として利用した。

ちなみに堤防の名はヘプタスタディオン。ギリシアの単位で、長さが7(ヘプタ)スタディオンあったことから、この名がつけられた。

できた東西の港は、

  • 東側:大港
  • 西側:エウノストス港

と呼ばれた。エウノストス港には、マレオティス湖を横切る運河への入り口があり、ナイル川の支流へとつながっていた。

プトレマイオス1世の宗教改革と神殿の建設

前305年、プトレマイオスはエジプト王を名乗り、統治することを宣言する。しかしエジプトはギリシアと違い、

王=神(ファラオ)

として見られる必要がある。ただしこの当時には、ギリシア人もエジプトに数多く住んでいた。

そのためプトレマイオスは、ギリシア人にも配慮して統治しなければならない。ところがギリシア人たちの間では、神は不死の存在であり、生きた人間が神になるのはタブーだったのである。

つまりプトレマイオスは、神としてエジプト人に認識されつつ、人間が神になることを認めないギリシア人たちを、人間の王として統治しなければならなかった。

矛盾したこの難題を、プトレマイオスはどのように克服したのか。

彼はこの問題を解決するため、ギリシア神話とエジプトの宗教を融合し、新しい宗教を創設したのである。

ギリシア人にとっては、異国を支配する神として。
そしてエジプト人にとっては、受け継いできた信仰が新しい形で表現される象徴として。

新宗教には、エジプトのアピス神が利用された。アピス神は聖なる雄牛の姿をしている。重要なのは、「生きた牛」がそのまま祈りの対象となること。この生き神様にエジプト古来の神オリシスを合体させ、セラピス神として崇めることにしたのである。

セラピス神の像の画像
セラピス神
甦るアレクサンドリア より

さらにギリシアの医神アスクレピオスの杖をもたせることで、癒やしの神としての性格を与えた。病気はどんな人にも悩みのタネだったから、ウケを狙うには都合がよかったのだろう。

そしてプトレマイオスは、このセラピス神を祀る神殿をアレクサンドリアに建設する。「アピス神が永遠に眠りにつく場所」と同じ名前、セラペウムと名付けられた神殿には、後に建設される図書館の分館も抱えることになる。

ムセイオンと大図書館の建設

アレクサンドリア図書館のイメージ
アレクサンドリア図書館
O. Von Corven / Public domain

プトレマイオスの事業の一つに、ムセイオンと大図書館の建設がある。

そもそもムセイオンとは何か。

もともとは学芸と音楽の神ムーサ(英語名ではミューズ)のいるところ、つまり神殿だった。ところが女神の性格から、神殿自体が学芸を修める場所、つまり学堂としての役割を果たすようになった。

プトレマイオスは、このムセイオンを総合学術センターとして設立したのである。またムセイオンの施設の一つとして、書物を収める場所、つまり図書館が作られた。

ではなぜプトレマイオスは、ムセイオン(と図書館)を建てようと考えたのか。

一つは彼が幼少期に教育を受けた、アリストテレスの影響だろう。

アリストテレスは、リュケイオンという研究所をアテナイに開いた。リュケイオンにはアリストテレスの収集した標本が多数あり、世界中から様々な書物が集まっていた。おそらくプトレマイオスは、アリストテレスの活動を知っていたはずである。

もう一つは、デメトリオスの進言だ。

ファレロンのデメトリオス

アリストテレスのリュケイオンで学んだ政治家・哲学者。前307年にアテナイを追われ、アレクサンドリアに亡命する。

彼はプトレマイオス朝エジプトと、その首都アレクサンドリアを、他のヘレニズム国家のような「武力」ではなく、「知」で治めるべきだと考えた。

そのためには、学術センターとしてのムセイオンを設立し、世界中の書物を一箇所に集める図書館が必要だと説いたのである。

また、アレクサンドロス大王の伝記を書くために、プトレマイオスが以前から収集していた書物を、もっと増やすようにも促した。そのほうが、大王の伝記をもっと具体的に書くことができるだろうと進言したのだ。

プトレマイオス1世のもとで構想したムセイオンと大図書館は、次の代のファラオ、プトレマイオス2世のころに完成した。

アレクサンドリアの王宮近くに建設されたムセイオンには、次の施設が備えられていた。

  • 寄宿舎
  • 集会所
  • 研究所
  • 観測所
  • 動物園
  • 植物園

など。いわば世界初の総合科学センターといったところだ。

そして大図書館。ブルケウムと呼ばれる、海のすぐそばの地域に建てられた本館は、ムセイオンと連絡できた。本館に入り切らない蔵書は、セラペウムの中にある分館に保管された。

では図書館本館の作りはどうなっていたのだろう。

まず10の大広間があり、その一つ一つに各分野が割り当てられていた。例えば

  • 修辞学
  • 演劇
  • 天文学
  • 数学

などである。大広間の壁のくぼんだ区画に、パピルスの巻物が並んでいた。

また、大広間とは別に小さい部屋も用意されている。この部屋で読書や執筆、議論、共同研究が行われていたという。

ファロスの大灯台建設

ファロスの大灯台
ファロスの大灯台
Emad Victor SHENOUDA [Attribution または Attribution]

もう一つ、アレクサンドリアといえば、有名な建築物がある。それがファロス島に設置された大灯台だ。当時から世界七不思議の一つとして数えられ、観光名所としても有名だった。

建設を計画したのは、クニドスのソストラトスといわれている。だが大灯台の設計をしたのか、資金提供だけだったのか、はっきりしたことはわかっていないようだ。

ローマ人たちもファロスの大灯台を目指し、アレクサンドリアへ旅したことは、古代ローマ時代の旅行についてに詳しく書いているので、興味ある方はご覧いただきたい。

古代ローマ時代の旅行について 古代ローマ時代の旅行について

ではこのファロスの大灯台、

  • なぜ建設され
  • どれぐらいの規模(大きさ)で
  • どのような構造

だったのだろうか。

建設理由

当時ファロスの大灯台は、世界最大級の大きさを誇る灯台だった。ではこの巨大な灯台が建てられた理由とは何か。それはアレクサンドリアの地形と海の特徴にある。

まず、海岸線が平坦で港が見つけにくいこと。

次に海岸に浅瀬が多いこと。近づきすぎると、浅瀬のサンゴ礁や砂州にはまり、よほどの熟練者でないと抜け出すのは困難だったからだ。

そこで遠く離れた船からも、航行の目印となるものが必要となったのだ。それもとびきり遠くまで届く目印が。

大灯台の規模

では大灯台の大きさはどれぐらいか。

まず高さは122m。これは現在のビル44階建てに相当する。

次に構造だが、大灯台は三層構造になっていた。

最下段 四角形。灯台の明かりを燃やすのに必要な、作業員のスペース
中段 八角形。周囲に彫刻が施されている
最上段 円形。上部に反射鏡を設置

※真鍮(しんちゅう)製。凸面鏡になっていて、50km先まで光が届いた。

さらに大灯台のてっぺんには、三叉のほこにもたれた海神ポセイドンの巨大な像が飾られていた。

大灯台の内部

昼間は太陽の光を鏡に反射させれば、船に陸地を知らせることができただろう。問題は夜だ。船にとっても夜間の航行は危険が伴う。そして灯台は太陽の光をつかうことができない。ではどうするか。

答えは、燃やした火(かがり火)の光を反射させ、船に知らせるのである。しかしかがり火を焚くためには、燃料である木材を運び上げる必要があった。

そのため、灯台内部は螺旋階段と燃料引き上げのためのウィンチが設置されていたのだ。このウィンチを使い、アカシアやギョリュウなど木材の束を上に運び上げていた。


ファロスの大灯台建設には、12年の歳月がかかった。プトレマイオス1世の治世から始まったプロジェクトは、その子プトレマイオス2世のときに完成する。

プトレマイオス朝エジプト時代のアレクサンドリア

アレクサンドリア、地中海経済の中心地に

アレクサンドリアは、プトレマイオス朝の創始者プトレマイオス1世(救済者)の死後、プトレマイオス2世の時代に経済が大きく伸びる。

理由は、陸と海双方の交流点であり、東西貿易の拠点となったからだ。そのためアレクサンドリアは

世界の結び目

と呼ばれていた。

ではアレクサンドリアで、どのような品物が取引されていたのだろう。以下、表にまとめてみる。

輸出品 パピルス紙、油、亜麻布、書物、美術品、ガラス器、香水、宝飾品など
輸入品 アラビアの香料、インドのスパイス、オリーブ、ぶどう酒、木材、金、象牙、奴隷、黒檀、野生動物、塩など

※ヘレニズム風彫刻、モザイク画など

このほか、造船業も栄えた。地中海と紅海防衛のための艦隊に船が必要なのはもちろんのこと、商船の需要も高かったからである。

世界の知の集結地、アレクサンドリア

さらにプトレマイオス2世や、その子の3世の代には書物の収集にも熱心だった。

彼らの書物の集め方はユニークだ。まずアレクサンドリアに持ち込まれた品物の中に書物があれば、一旦それを押収する。次に図書館でそれを学者に筆写させる。最後に原本ではなく、コピーしたものを返すのである。

王たちの熱心な収集の成果で、アレクサンドリア図書館の蔵書は40万点(一節には70万巻)にも登った。

また王たちが学者を庇護したおかげで、学術都市としてもアレクサンドリアは大きく花開く。

世界の頭脳とも呼べる科学者たち、例えば次のような人材が、アレクサンドリアに集っていた。

  • エウクレイデス(幾何学の父)
  • ヘロフィロス(解剖学、生理学)
  • エラシストラトス(解剖学、生理学)
  • アリスタルコス(天文学)
  • エラトステネス(天文学、地理学)
  • アルキメデス(数学、物理学)

アレクサンドリアに集まった科学者については、アレクサンドリアの科学者たちで説明するので、そちらを見ていただきたい。

この時期のアレクサンドリアに集まった人材を見ると、世界の知がすべて集結していたのではないかと思える。


しかしプトレマイオス朝エジプトは、プトレマイオス4世の頃から次第に陰りを見せる。周辺諸国との争いに加え、祭典などによる莫大な国費の出費と、王たちの学問への関心が薄れたことも、事態に拍車をかけた。

そして地中海の西では、カルタゴを滅ぼしたローマが、東地中海のヘレニズム諸国にその触手を伸ばしていく。

プトレマイオス朝エジプトの滅亡とローマ帝国時代

クレオパトラ7世とローマの将軍たち

ポンペイウス

前48年、ひとりのローマ人がエジプトを訪れたことで、プトレマイオス朝とアレクサンドリアの命運が大きく動くことになる。

彼の名は、グナエウス・ポンペイウス。
かつてはローマ随一の実力者だったが、ファルサルスの戦いでカエサルに敗れたため、エジプトへと向かった。

エジプトはポンペイウスが庇護していた国で、軍を立て直すための資金を期待したのだ。

クレオパトラ7世

ところがこの時、エジプトは宮廷内で権力争いの真っ最中だった。一人は姉のクレオパトラ7世。いわゆるあの有名なクレオパトラである。5ヶ国語を操ることができる才女だった。

もうひとりはクレオパトラの弟で、現ファラオのプトレマイオス13世。ポンペイウスが到着したころのエジプトは、ちょうどプトレマイオス13世が姉を宮廷から追放し、権力を握ったところだった。

王は戦いに破れたポンペイウスを、歓迎するふりをして上陸前に殺してしまう。そしてポンペイウスの首を、追ってきたカエサルのもとに届けたのだ。

クレオパトラとカエサル

王としては、これで勝者カエサルの関心を買ったつもりだったが、カエサルは激怒した。さらにクレオパトラがカエサルに、自分の身体をつかって庇護を求める『策謀』を画策。

クレオパトラの狙いは当たり、カエサルの仲立ちで弟とのあいだに調停を結ぶことに成功した。さらに共同統治者となることで、権力の座に帰り着いたのである。

クレオパトラとカエサル
クレオパトラ(左)とカエサル(中央)
ピエトロ・ダ・コルトーナ [Public domain]

この処遇に納得のいかない王(とその取り巻き)は、少数で乗り込んできたカエサルをエジプト軍で攻めた。カエサルは、援軍到着まで時間をかせぐため、あらゆる手段で対抗した。

この時、敵に軍艦を渡さないよう船に火を放つことも行った。ところがアレクサンドリア大図書館に火が燃え移ってしまい、何十万巻もの書物が消失したという。

援軍到着まで生きのびたカエサルは、エジプト軍を破った。この戦いでプトレマイオス13世は戦死。その取り巻きたちも一掃され、クレオパトラはもうひとりの弟プトレマイオス14世と共同統治を再開することになった。

アレクサンドリアでの顛末は、ユリウス・カエサルⅦ ―クレオパトラとの出会いから「来た、見た、勝った」まで―でも書いているので、詳しく知りたい方は、ご覧いただくといいだろう。

ローマの礎を築いた男 ユリウス・カエサル ユリウス・カエサルⅦ ―クレオパトラとの出会いから「来た、見た、勝った」まで―

彼女はこのあと、カエサルの子を身ごもり、後に出産することとなった。しかしアレクサンドリアでの戦いから4年も立たずに、カエサルはローマで暗殺されてしまう。

クレオパトラとアントニウス

カエサルの死後、後継者の一人としてクレオパトラと密接に関わるのが、アントニウスである。

アントニウスはローマの東方統治を担当すると、エジプトの代表者としてクレオパトラを呼び出した。この時クレオパトラはアントニウスの気を引くため、エジプトの富を惜しみなく使って、あらゆる催しを企画した。

これで彼女を気に入ったアントニウスは、以後公私をともにするパートナーとしてクレオパトラに協力する。

アントニウスはクレオパトラに、さまざまなものをプレゼントした。その中でも特筆すべきものがある。

当時アレクサンドリアと肩を並べるほどの蔵書数を誇っていた図書館が、ペルガモン(現トルコ、イズミル近く)にあった。その図書館にある書物20万巻を、カエサルが消失させた書物の穴埋めとして、クレオパトラに贈ったようだ。

もしこの話が本当であれば、5ヶ国語を操り知を愛したクレオパトラにとって、何よりも嬉しい贈り物だったのではないだろうか。

オクタウィアヌス

しかし時代は彼女に味方しなかった。

アントニウスと、カエサルの養子オクタウィアヌスとの対立が決定的となると、前31年、彼らはアクティウムで衝突。クレオパトラもアントニウスとともに戦った。しかしこの戦いでアントニウスはオクタウィアヌスに敗れてしまう。

アクティウムの海戦
アクティウムの海戦
Lorenzo A. Castro

勝敗が決定的となってしまったため、絶望したアントニウスは翌年自ら命を断つ。さらにローマに連行されて見世物になることを嫌ったクレオパトラも、後を追って自殺。

約300年続いたプトレマイオス朝エジプトは滅亡し、アレクサンドリアはローマ帝国に組み込まれたのである。

なお、アントニウスとオクタウィアヌスの戦いについては、オクタウィアヌスⅨ ―アクティウムの海戦~アントニウス、クレオパトラの死まで―に詳しく説明しているので、興味のある方は読んでいただければ幸いだ。

オクタウィアヌス カエサルの遺志を継ぐ青年 オクタウィアヌスⅨ ―アクティウムの海戦~アントニウス、クレオパトラの死まで―

ローマ帝国の時代へ

ローマ帝国に組み込まれて以降、経済都市としてのアレクサンドリアはまだ繁栄を続けていたが、学術都市としての機能は徐々に低下していく。

それでも4代皇帝クラウディウスは、アレクサンドリア図書館を大きくしてみせた。

また、ローマ帝国のアレクサンドリアでも、次のような人物を輩出してはいる。

  • ヘロン:数学、物理学理論を機械に応用。蒸気機関の原型器具を発明
  • クラウディオ・プトレマイオス:天文学、地理学者。地図を作成
  • ガレノス:医者。臨床を重視

※詳しくはローマ帝国時代に活躍した科学者を参照

しかし学問への予算削減、さらに他都市の図書館の評判が大きくなるにつれ、アレクサンドリア図書館の地位は相対的に下がることになった。

キリスト教の台頭

代わってアレクサンドリアで台頭してくるのがキリスト教だ。

紀元1世紀後半から、アレクサンドリアでのキリスト教徒が少しずつ増えてくる。ただしこの頃のキリスト教は、できて間もない頃だったので、信者の数も微々たるものだっただろう。

どちらかといえば、アレクサンドリアで幅をきかせていたのは、ギリシア人とエジプト人を除けば、当時世界最大のディアスポラがあったユダヤ人たちだった。

またローマ帝国初期のころは、キリスト教は弾圧の対象であり、キリスト教への批判も多かった。

それでも180年ごろには、世界初のキリスト教神学校「ディダスカリア」がアレクサンドリアで創設されている。

ディダスカリア

キリスト教の神学校。ただし、キリスト教徒だけではなく、ギリシア哲学の学徒や聖職者を目指すものも一緒に学んでいたようだ。

教えていたこと

聖書 / 科学/ 教学 / 物理学 / 化学 / 天文学 / 医学 / 音楽など

ただし、202年には時の皇帝セプティミウス・セウェルスが、アレクサンドリアでキリスト教を弾圧するなど、相変わらずキリスト教徒への逆風は吹いていた。

カラカラ帝の大虐殺

ローマ皇帝カラカラ
カラカラ
国立考古学博物館 (イタリア) [Public domain]

そんな中、アレクサンドリアで一大事件が発生する。皇帝カラカラが、アレクサンドリア市民を大量虐殺したのである。

東の大国パルティアと戦う、いわゆる東方への遠征の途中215年から216年にかけて、カラカラはアレクサンドリアを訪れた。彼はアレクサンドロス大王マニアでも有名で、自分もアレクサンドロス大王になってみたいと思うぐらい入れ込んでいた。

そのため、大王グッズの収集はもとより、彼が率いたマケドニア式ファランクスを真似して、実際に当時の武器を装備させて軍を編成したのである。そんなカラカラだったので、アレクサンドリアは憧れの都市だったことだろう。

ところがアレクサンドリアでは、皇帝の弟殺しが正当だという言い分をあざ笑う詩が流行していた。これに激怒したカラカラは市民2万人を虐殺。それに飽き足らず、彼はアレクサンドリアの街そのものも攻撃の対象とした。

カラカラ帝のアレクサンドリア虐殺については、カラカラ ―兄弟喧嘩を帝位に持ち込んだ心狭き皇帝―に詳しく載せているので、参考にしていただくといいだろう。

カラカラ 弟を憎み兵を愛した皇帝 カラカラ ―兄弟喧嘩を帝位に持ち込んだ心狭き皇帝―

ムセイオンの破壊

カラカラ虐殺の影響もあってか、アレクサンドリアの凋落はとどまる様子を見せなかった。

アレクサンドリアは一時、ローマ帝国から独立したパルミュラ王国に組み込まれたが、272年に時の皇帝アウレリアヌスによって奪回された。

しかしアレクサンドリア奪回をめぐる戦いで、ムセイオンと大図書館のある地区が破壊された。

さらにディオクレティアヌスによるアレクサンドリア包囲(と陥落)により、アレクサンドリアは大きなダメージを負っただろう。

おそらくこの2つの攻撃により、ムセイオンと大図書館は破壊されたものと思われる。

セラペウムと知の破壊

しかしアレクサンドリアには、図書館の分館があったセラペウム神殿がまだ残っていた。このセラペウム神殿は、キリスト教徒「ではないもの」にとって、重要な巡礼地だったのである。

だがセラペウムも、運命の時を迎える。

セラペウムでは、学者たち、特に哲学者たちの講義がまだ行われていた。この学者たちとキリスト教信徒(の過激派)との間で対立が激化し、その結果キリスト教徒によってセラペウムと分館である図書館が破壊されてしまうのである。

さらには当時独自の「哲学学校」を開いていた女性哲学者ヒュパティアが、アレクサンドリア司教キュリロスと総督オレステスの和解(両者は以前から対立していた)を妨げたとして、またしてもキリスト教徒の過激派の手にかかり、無残な殺され方をしてしまうのである。

この様子については、映画『アレクサンドリア』でも描かれているので、一度ご覧いただければよく分かるのではないかと思う。

ちなみに映画『アレクサンドリア』の見どころを紹介している記事もあるので、どんな映画かを知りたい方はどうぞ。

映画アレクサンドリアの見どころ紹介 映画『アレクサンドリア』 ―古代ローマ末期の女性天文学者を描いた作品―【見どころ紹介】

アレクサンドリアはローマ帝国が東西に分裂した後も、しばらくは東ローマ帝国の支配下に置かれていた。しかし641年、エジプトに侵攻してきたイスラム教徒たちにより、ついにアレクサンドリアはローマ帝国からイスラム世界へと編入されることとなった。

アレクサンドリアの科学者たち

さて、アレクサンドリアでは、プトレマイオス朝時代からローマ帝国に組み込まれた時期に、世界からさまざまな知識を持った人たちが集まっていた。

ここではその中でも、特に数学や医学などの分野で活躍した科学者たちを、簡単に紹介しよう。

プトレマイオス朝エジプト時代に活躍した科学者

エウクレイデス(ユークリッド)

エウクレイデス
エウクレイデス
Photograph taken by Mark A. Wilson / CC BY-SA

『幾何学の父』と称される人物。エウクレイデスの理論は、現代の教科書にも載っているほど有名。ただし彼の著書『原論』は、複数人で書いたという説もあるようだ。

また、プトレマイオス1世がエウクレイデスに、

数学(幾何学)を簡単に学ぶ方法はないか

と訪ねたところ、

学問(幾何学)に王道なし

と答えた話も、有名な逸話として語り継がれている。

ヘロフィロス

ヘロフィロスのレリーフ
ヘロフィロス
Ecelan / CC BY-SA 3.0 ES

医学の中でも、特に解剖学の祖。ギリシアではタブーとされていた人体の解剖が、エジプトではミイラづくりのために比較的ゆるやかだったため、発展していった。

ヘロフィロスは、それまで心臓が精神(こころ)のある場所とされていたのを、解剖によって脳こそが人間の考える場所(こころの在りか)だと突き止めた。

彼はさらに動脈と静脈の違いなども発見した。

エラシストラトス

ヘロフィロスと同じく、医学、その中でも生理学の祖として知られる。

エラシストラトスは脳のなかでも大脳と小脳の区別(と命名)、運動神経と感覚神経の区別、さらに心臓弁膜の構造と機能などを明らかにした。

アリスタルコス

天文学者。

この時代、すでに地球が宇宙にある天体という概念はあった。ただし地球は動かず、地球を中心としてその他の星が回転する「地球中心説」が主流だった。

アリスタルコスは、太陽を中心に地球すら太陽(恒星)の周りを回っている天体だと主張する、「太陽中心説」を唱えた。ただし、当時の人に、アリスタルコスの主張が受け入れられなかったようだ。

エラトステネス

エラトステネスの画像
エラトステネス

数学者であり天文学者でもあるが、多岐にわたる分野で活躍した『万能の人』。

エラトステネスの業績で一番有名なのは、地球の大きさを測ったことだろう。それもエジプトから外に出ることなく、現代の測定値との誤差が318kmしかない(諸説あり)、驚異的な精度で円周をはじき出したのである。

また彼は地軸の傾きも計算。その精度も高かった。

アルキメデス

アルキメデスの絵画
アルキメデス
ドミニコ・フェッティ / Public domain

数学者にして物理学者であり、発明家。もともとはシュラクサイの人物だが、アレクサンドリアに遊学していたこともあったようだ。

「アルキメデスの原理」を発見したときのエピソードはあまりにも有名。「てこの原理」を応用した防衛兵器を数多く発明した。

ただしアルキメデス自身は数理的な美しさを愛しており、原理を実用化する発明自体にはあまり興味がなかった。

アルキメデスがどのような兵器を発明したかは、一人でローマ軍二万を足止め!?シラクサの天才アルキメデスの防衛兵器を見ていただくといいだろう。

一人でローマ軍を苦しめた天才アルキメデス 一人でローマ軍二万を足止め!?シラクサの天才アルキメデスの防衛兵器

ローマ帝国時代に活躍した科学者

ヘロン

ヘロン
ヘロン

数学者、天文学者であり、工学者。

ローマ帝国時代に活躍した人らしく、ヘロンは理論を応用して実用的な機械を発明することを第一とした。

彼の発明品は多岐にわたる。

  • 自動ドア
  • 自動販売機
  • 風力オルガン

などだ。その中でも群を抜いているのが、『汽力球』と呼ばれる蒸気を利用した回転装置。

『汽力球』は蒸気機関の先駆けと呼べるもので、蒸気が吹き出す推進力を利用して、恐ろしい速度で球を回転させる装置である。

ただし、エネルギー効率の悪さから、実生活に役立つものに応用するまでには至らなかった。

クラウディオ・プトレマイオス

クラウディオ・プトレマイオス
クラウディオ・プトレマイオス

数学者、地理学者、天文学者だが、エラトステネスと同じく「万能の人」だったようだ。

クラウディオ・プトレマイオス(以後、単にプトレマイオスと表記)の業績として有名なの書作が、『アルマゲドン』という天文書と『ゲオグラフィア』という地理学書。

プトレマイオスの地図の画像
15世紀ごろに複製されたプトレマイオスの地図
Credited to Francesco di Antonio del Chierico / Public domain

とくにゲオグラフィアに収められていた地図は、世界で初めて経度線と緯度線をもとに描かれたものだった。

ガレノス

ガレノス
ガレノス
Pierre-Roch Vigneron [Public domain]

ローマ帝国で活躍した医師。マルクス・アウレリウス帝から3代に渡って皇帝の侍医を務めた。

ガレノスは、故郷のペルガモンを出たあと、アレクサンドリアで学んだ。ローマでタブーとされている解剖も、比較的自由に行えるアレクサンドリアで学んだことにより、貴重な経験ができたようである。

彼はその後剣闘士の治療医となって、臨床(実際の医療現場で行う治療)を重視するようになった。彼の生涯についてはガレノス ―1,500年もの間、著作が医学の規範となった古代ローマ一の名医―に詳しく書いているので、これ以上のことが知りたければ読んでみるといいだろう。

古代ローマ一の名医ガレノス ガレノス ―1,500年もの間、著作が医学の規範となった古代ローマ一の名医―

今回のまとめ

それでは古代都市「アレクサンドリア」について、おさらいしよう。

  • アレクサンドロス大王が創設した都市の一つだった
  • アレクサンドロスの死後、プトレマイオス朝エジプトの創始者プトレマイオス1世により、王朝の首都となり都市が整備されていった
  • 代々の王が学問を重視したおかげで、アレクサンドリアには世界から様々な学者が集い、数学や医学で偉大な人物を輩出した
  • 「世界の結び目」と呼ばれ、交易の中心地として発展し、ファロスの大灯台も建設された
  • ローマ帝国時代になり徐々に繁栄の陰りが見え、時の皇帝の影響やキリスト教徒により、図書館などが破壊された
  • しばらくはローマ帝国の支配下にあったが、641年イスラム帝国に組み込まれた

ただの漁村だった場所が、一人の号令によって古代世界最大級の都市にまで成長したアレクサンドリア。

手厚い庇護によって世界の最先端を走っていた知の都市も、その価値がわからない人物に渡ってしまえば、知性は泡のように消えてしまう。

アレクサンドリアの運命を見ていると、将来への投資とはどのようなことか、考えさせられるのではないだろうか。

本記事の参考図書

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