パトロヌスとクリエンテス。
古代ローマのことを知ろうとすると、必ずこの言葉が出てくると言っても過言ではないだろう。
パトロヌスのことを「保護者」、クリエンテスのことを「被保護者」と日本語にされていることがあるが、実際は単に保護し、保護されるだけの関係性ではなかった。
ではパトロネスとクリエンテスとは、どのような関係だったのだろうか。
そこで今回は、古代ローマのパトロネスとクリエンテス、クリエンテラ関係について見ていこう。
古代ローマのクリエンテラ関係とは
パトロヌスとクリエンテス
古代ローマでは、古くからパトリキ(貴族)、プレプス(平民)という社会的階級があった。
パトリキはだいたい裕福で、さらに行政を担当する政務官を独占したり、裁判などの司法でも特権を持っていた。
そこで、「持たざるもの」であるプレプスは、裕福で力のあるパトリキに、経済的な支援や、裁判沙汰に巻き込まれた場合に弁護の支援をしてもらうなど、保護を受けたのだ。
このように、 経済的に苦しく社会的に力のないものの面倒をみる側(親分)を「パトロヌス」、面倒を見てもらう側(子分)を「クリエンテス」という。
そしてこのパトロヌスとクリエンテスのあいだで結ばれた親分子分の関係がクリエンテラ関係である。
親分(パトロヌス)とクリエンテス(子分)は互いに助け合う「相互扶助」関係
さきほどパトロヌスはクリエンテスを法や経済的に支援すると書いたが、クリエンテラ関係が、パトロヌスからクリエンテスへ一方的に与える関係かというと、そうではない。
パトロヌスがクリエンテス対して政治(法律)的、経済的な支援するのと同じく、クリエンテスもパトロヌスに対して様々なことを支援し、互いに助け合う相互扶助の関係だったのだ。
クリエンテスはパトロヌスに対し、次のようなことを行った。
- パトロヌスの邸宅へ毎朝の表敬訪問
- パトロヌスが外出するとき付き従う随行員
- パトロヌスの選挙活動を応援する選挙後援 etc
クリエンテスが目に見える形で忠義を見せることにより、パトロヌスは自分がローマ社会でいかに優れているか、大きな力があるのかを示すことができたのである。
このことは、公職を得るための選挙でも、大いに役立った。
だから裕福なものたちは自分をアピールするために、より多くのクリエンテスを抱えようとしたのだ。
様々な形があったクリエンテラ関係
パトリキ(貴族)とプレプス(平民)というお金や政治的な権利を「持つもの」と「持たざる者」の構図も、 パトリキと プレプスの階級闘争が徐々に終結し、力を持つ平民層を取り込んだ新たな支配階層ノビレスが出現すると、次第に複雑になっていく。
それにともない、貴族と平民という間だけではなく、貴族同士や平民同士でもクリエンテラ関係が結ばれるようになった。
またクリエンテラ関係は、親分と子分は1階層だけではなく、親分の上にさらに大親分、その大親分の上にも大大親分がいる多重構造になっており、ローマ社会に網の目のように張り巡らされていた。
さらにローマの領土が拡大すると、ローマの有力者と地方都市、征服した将軍とその土地の人々(王がクリエンテスなら国と同じ)にも結ばれるようになる。
たとえば地中海の海賊を一掃したポンペイウスは、地中海の沿岸都市のパトロヌスとなり、クリエンテスとなった諸都市から様々な形で助力を得ることができた。
一方ガリアを征服したカエサルは、ガリア全域とクリエンテラ関係を結び、彼らから支援を得たのだった。
なおカエサルがガリア総督となってガリアを支配下に入れる過程は、ユリウス・カエサルⅤ ―ガリア属州総督就任からルビコン川を渡るまで―を読んでいただくといいだろう。
この他にも、主人が奴隷を解放した場合に、主人と解放奴隷との間でもクリエンテラ関係が結ばれた。
ローマ時代の奴隷については、古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―の記事に詳しく説明しているので、ご参考いただければ幸いだ。
パトロヌスとクリエンテスを結びつけたフィデス(信義)
パトロヌスとクリエンテスは、法律によって決まっていた制度ではなく、プライベートで結んだ関係である。
ではパトロヌスとクリエンテスを結びつけていたものは何だったのだろうか。
パトロヌスとクリエンテスは、フィデスと呼ばれる信頼関係で結びついていた。
では日本語で「信義」や「信頼」と訳されることがおおい、このフィデスの正体はなにか。
パトロヌスはクリエンテラ関係を結んだクリエンテスに対して、「持つもの」としての義務を果たすため、当然のように政治的、経済的支援をする。
この心意気に打たれ、保護されるクリエンテスたちも自分たちにできること(選挙の応援や私的警護活動)で、パトロヌスたちに助力する。
このような(ローマ的に)人の道にのっとり、信頼関係で行動する(できる)ものがフィデスだったのである。
ようするに、日本で言われる「義理人情」なのだ。
パトロヌスとクリエンテスのクリエンテラ関係をわかりやすく説明するのに、ちょうどいい例が日本にある。
それは、鎌倉時代の武士たちが将軍と結んでいた「御恩と奉公」だ。
将軍(パトロヌス)は武士たちの日頃の働きに報いるため、土地を治めても良い、という約束をする。
それに対して武士たちは、ひとたび将軍(幕府)にもしものことがあると、「いざ鎌倉!」と駆けつけ、将軍のため「一所懸命」と命をかけて恩に報いようとする。
この関係こそが、ローマ時代のクリエンテラ関係をよく表しているだろう。
ちなみに私はもっと卑近な例で、クリエンテラ関係を極道(つまり893)ではないかと考えている。
元老院 ―共和政期に国政を担った、古代ローマのエリート集団―でも書いたが、初期のローマ成立はマフィア(もどき)の集まりだったことを考えると、納得できるのではないだろうか。
近隣監視の役割を果たしたクリエンテラ関係
古代ローマには、夜警をする見廻り隊のようなものはあっても、治安維持を専門とした警察組織は存在しなかった(帝政期、消防隊が兼用でその役割を果たしていたが)。
警察組織がなかった理由の一つに、パトロヌスとクリエンテスのクリエンテラ関係が、都市の人たちを互いに監視し合う近隣監視の役割を果たしていたことが挙げられる。
タイムトラベルで帝政期の首都ローマを旅してみようというコンセプトで書かれた古代ローマのガイド本、「古代ローマ旅行ガイド 一日5デナリで行く」。
この中に、クリエンテラ関係の果たした役割を具体的に想像できるとてもわかりやすい記述があるので、少し長いが抜粋してみよう。
(前略)……この制度(筆者注:クリエンテラ関係)がどう働くか見るために、ここでひとりの旅人を想定してみよう。
彼はガリア産毛織物の上等なマントを着てローマにやって来たが、暑かったので居酒屋で脱いだところ、ちょっと目をはなしたすきに盗まれた。
警察を呼ぼうにも警察はない。
居酒屋の主人は、彼がよそ者なのをよいことに、店にはなんの関わりもないことだと言い張って譲らない。
マントを取り返す当てもなく、旅人は腹を立てて宿泊先に戻る。旅人の泊まっている家の当主は、マントが盗まれたことよりも、自分の客人が不当な扱いを受けたことに胸を痛める。
そこで友人に連絡する。
この友人は、居酒屋の主人の保護者(パトロヌス)の友人でもあるのだ。
また按察官(アエディリス)に訴えると言ったりもする。
適切に運営されていない酒場を閉鎖する権限を持っているからだ。
こうして圧力をかけられて、居酒屋の主人はついに口を割る。
常連に手癖の悪い男――ランプ作りの通りに住むルキウスという男――がいるのだが、プピナという女給が耳にした話では、その男が上等な服を見せびらかしているという。そこで当主は自家の執事と簡単に打ち合わせをし、執事は家中の屈強な奴隷5人に指示を出す。
古代ローマ旅行ガイド 一日5デナリで行く 6章 法と秩序より
5人は出かけていき、しばらくするとマントを持って帰ってくる。
ルキウスとやらが無実だったら気の毒だと少なからず気に病んで、旅人はそのマントをしさいに調べ、特徴的な模様が入っているのを確認して自分のものと宣言する。
いっぽう不運なルキウスが、偶然にもまったく同じマントを合法的に所有していた場合には、いまこそ怒りをこめて自分のパトロヌスに訴えでるだろう。
するとパトロヌスはあちこちに使者を送り、文明的な(筆者注:暴力とは反対、という意味か)手段で問題を解決しようとする。……(後略)
この例を見てもわかるとおり、パトロヌスとクリエンテスは「その道の」親分と子分の関係に近かったのだろう。
だから、子分が被害を被ると、
うちの組のモンに何さらしとんのじゃワレ!
と、筋をとおすために、親分が乗り込んでくる、という図式なのである。
今回のまとめ
古代ローマのパトロヌスとクリエンテス、クリエンテラ関係についておさらいしよう。
- 古代ローマのクリエンテラ関係とは、「持つもの」が親分(パトロヌス)、「持たざる者」が子分(クリエンテス)となるプライベートな関係だった
- パトロヌスとクリエンテスはフィデス(信義)で結びつき、互いに助け合う相互扶助の関係だった
- 古代ローマのクリエンテラ関係にはさまざまな形があり、社会全体に網目のように張り巡らされていた
「保護者」「被保護者」という説明では分かりにくい古代ローマのパトロヌスとクリエンテスの関係。
クリエンテラ関係は古代ローマ社会を形作る重要な要素として、人々のあいだに根付いていたのである。