カルタゴⅠ ―建国から黄金時代、ヒメラの戦いまで―

西地中海の覇者 海上帝国カルタゴ

カルタゴとは、紀元前の古代世界で西地中海の交易により発展した海上帝国だ。
3回にも渡るローマと死闘(ポエニ戦争)を演じたことは、高校世界史の教科書にも載っているので、あなたも一度は名前を聞いたことがあるだろう。

実際カルタゴの名将ハンニバルと、ローマの将軍スキピオとの戦いは、漫画にもなっている。

しかしカルタゴが具体的にどんな国だったのかを問われると、はっきりと答えることができる人は少ないような気がする。
実はカルタゴは、ローマ建国以前から存在した、ローマより歴史の古い国なのだ。

そこで今回は、海上帝国カルタゴが、

  • どんな国で
  • 何をして発展し
  • ポエニ戦争以前はどのような歴史があったのか

を、『興亡の世界史 通商国家カルタゴ(栗田伸子・佐藤育子著)』を主な参考文献としてざっくりと紐解いていく。

カルタゴという国を知ることで、ポエニ戦争の展開をより深く知る一助になれば幸いだ。

※タイトル下のイメージは、Wikipedia より拝借しました。

カルタゴ建国伝説

カルタゴの建国は、前1世紀の古代ローマ史家ポンペイウス・ドロクスが著した『フィリッポス史』(後3世紀のユスティヌス著作による抄録で確認できる)にある伝承によると、紀元前814(813)年のことだという。

建国は女性に率いられた者たちによって行われた。
女性の名はエリッサ。
まずは女王エリッサと彼女に付き従った人々が、どのような経緯でカルタゴを建国したのかを見ていこう。

テュロス市脱出

後にカルタゴを建国するエリッサは、もともとフェニキア人都市テュロス市(現レバノンの漁村スール付近)を治める王の娘だった。

王は、エリッサと王の息子ピュグマリオンをテュロスの後継者として指名する。
しかし王が亡くなったあと、人々が王に選んだのはピュグマリオンの方だった。

後継者から脱落したエリッサは、叔父であり王に次ぐ地位のメルカルト神の神官と結婚。
だが王ピュグマリオンは、エリッサの夫が隠し持っていた財宝に嫉妬したため、彼を殺害してしまったのである。

不当な理由で夫をなくしたエリッサは、王を憎む貴族や元老院議員たちとともに、テュロスを脱出する。
彼女は脱出の際、財宝とともにメルカルト神の祭具を持ち出したという。

キプロス島に立ち寄る

故国を船で脱出したエリッサたちが、最初に訪れたのはキプロス島だった。
キプロスでは、同行を申し出たユピテル(ユノー)神官の協力により、キプロスの娘約80人を部下の妻として連れ去ることができたという。

彼女たちは、浜辺で婚前売春をしていた娘たちから選び出された。
この婚前売春は、持参金を稼ぐと同時に、結婚後の貞操を祈願して、ウェヌス女神に捧げる供物を贖うためだったらしい。

現代の私には、結婚後の貞操を祈願しながら春を売るという行為が矛盾しているように思えるが、古代では神への神聖な儀式だったのだろう。

女王エリッサの知恵と悲劇

牛の皮一枚分の土地

ともあれキプロスを出発したエリッサ一行は、「多くの試練」を経験しながら地中海を西に進み、港に適した土地を見つけ上陸した。
そこは現在のチュニジア北東にあるカルタゴ市。

集まってきた住人たちにエリッサは言う。

ただ一頭の牛の皮で覆えるだけの土地がほしい。そこで長い航海で疲れた仲間たちを休ませたあと、出発しますから

興亡の世界史 通商国家カルタゴ 第四章 カルタゴ海上「帝国」

一頭の牛の皮で覆える土地など、たかが知れたもの、と現地の人々は思ったにちがいない。彼らはこの申し出に快諾した。

するとエリッサとフェニキア人たちは、牛の皮を細く切って長い紐(ひも)を作ると、その紐で後背の丘もろとも囲っていく。
エリッサたちは、知恵で大きな土地を得ることに成功したのである。

ちなみに囲った土地は「ビュルサ」。
ギリシア語で「皮」の土地と呼ばれている。

夫の下に旅立つ

こうして都市国家カルタゴは建国された。
だが女王エリッサの運命はハッピーエンドで終わらなかった。

カルタゴ市完成からまもなくして、女王のもとに現地アフリカ先住民(マクシタニー人)の王、ヒアルバスから結婚話を持ちかけられた。
しかしこの結婚を断れば、戦争をしかけるという、いわば強要である。

王から話を聞いたカルタゴの有力者10人は、女王に結婚のことを隠しこう言った。
「王とその部下たちは、アフリカ人たちに文明的な生活を教えてくれと求めているが、果たしてあんな野蛮人の下に行くものはいるのか」と。

それに対し、女王エリッサは次のように答える。

場合によっては命さえも捧げるべき祖国のために、少々厳しい生活をすることを拒むのか

興亡の世界史 通商国家カルタゴ 第四章 カルタゴ海上「帝国」

この言葉を聞いた有力者たちは、まんまと罠にかかった女王に結婚話を打ち明け、自らの言葉に従って王のもとに行くよう問い詰めた。

自分と辛苦をともにした部下たちに裏切られた女王は嘆き悲しんだあと、「自分はこの都市と自分の運命が呼ぶところに行く」と言い、3ヶ月かけて作らせた薪の山に登って彼女は次のように言った。

あなた方が望んだように私も夫のところに行きます

興亡の世界史 通商国家カルタゴ 第四章 カルタゴ海上「帝国」

そして彼らの方を見つつ、剣で自らの命を絶ったのである。
彼女が言った夫とは、アフリカ王ヒアルバスではなく、ピュグマリオンに殺された亡き夫だったのだ。

ローマ建国伝説の中のディードー

実はローマの建国伝説にも、名前を変えたエリッサが登場する。
彼女の名はディードー。
アフリカ先住民の言葉で「さすらう者」のような意味をもつ。
 

アエネアスとディードー
アエネアスとディードー
ピエール=ナルシス・ゲラン


ローマの詩人ウェルギリウスの著作によると、トロイヤの英雄であり、後のローマ建国に関わる人物アエネアスは、陥落したトロイヤを落ち延びたあと、放浪の末にカルタゴに上陸。

そこでディードーの愛人となるが、結局アエネアスは神々に促されてイタリアに向かい、ディードを見捨ててしまう。
絶望したディードーは、遠ざかるアエネアスの船を見て自らの命を絶ったという。

ただしこの話は創作の可能性が高い。
エリッサ伝説を下に、建国伝説の上でもローマがカルタゴにちゃっかりマウントを取ったのである。

黎明期のカルタゴ

上記はあくまで伝承であり、前814年と言われている建国も、考古学的には半世紀ほど経った前7世紀中頃~後半にずれるらしい。
それでは建国(植民)当初のカルタゴは、どのような様子だったのだろうか。

カルタゴ市の地政学的特徴

まずは様子を見る前に、カルタゴ発展の要因となった位置を見てみよう。
カルタゴのある場所は、次の3つの大きな特徴がある。

  1. 地中海のほぼ中央に位置する
  2. シチリア島にも近い
  3. 2の条件から、北アフリカからイタリアにかけて貫く南北路の南端を押さえられる

この位置にあることで、フェニキア人たちの西ヨーロッパ(おもにイベリア半島)交易路の中継地点として発展し、やがてカルタゴ独自の植民市ネットワークを築いていくのである。

先住民アフリカ人との関係

前5世紀には、カルタゴが北アフリカの住民たちを支配することになるが、建国当初は彼らアフリカ先住民たちに、貢租(いわゆる土地代)を毎年おさめていたようだ。

カルタゴ(フェニキア)人たちは、彼らから土地を借り、地中海交易の拠点としていたのである。

「本国」テュロス市との関係

建国伝説にもあったように、カルタゴはテュロスというフェニキア系の都市を母体とする植民市である。
ではカルタゴと「本国」であるテュロス市は、どのような関係だったのだろう。

通商国家カルタゴ 』によると、彼らは従属関係にあったというより、ときに交易のパートナーであり、一方では商売敵でもあったらしい。

テュロス市に住むフェニキア人は、イベリア半島で算出する金・銀・銅・錫(銅と混ぜると青銅になる)などの鉱物を、東方で流通している安い雑貨類と交換して利益を得ていた

儲けを優先するなら、テュロスの商人はなるべく途中の都市に寄港して、交易物を落とすことなく母市に戻りたい。
しかし中継地として便利なカルタゴに立ち寄らざるを得なくなり、徐々に鉱物資源獲得交易の起点がカルタゴへと移っていったようだ。

カルタゴの植民市に対する支配体制

またカルタゴは、テュロス市や同フェニキア都市シドンと、彼らが築いた植民市との関係とは違った形で、植民市とのネットワークを形成していく。

それまでのフェニキア人植民市が、母市と力関係の差が小さい、いわば「水平的ネットワーク」であるとするなら、カルタゴと彼らが築いた植民都市は、カルタゴを頂点とする一極的な関係、つまり「垂直的ネットワーク」を展開したようだ。

カルタゴが植民市と結んだこの関係は、商業的なものだけでなく、軍事的にもカルタゴを頂点とするものだった。
カルタゴは、いわば西地中海の軍事チャンピオンにもなっていくのである。

カルタゴのライバル、ギリシア人の台頭

ギリシア人の西地中海進出

初期のカルタゴは、先述したように、フェニキア系ネットワークを活用した交易で富を得ていた。
しかし前6世紀に入ると、東地中海でギリシア人の都市国家が栄え始め、カルタゴやフェニキア人と商売の利益をめぐるライバルとして、イベリア半島の鉱山を狙うようになる。

特にアナトリア半島(小アジア)西部にほど近い、イオニアのギリシア都市のポカイアは、マグナ・グラエキア(南イタリアやシチリアなど、ギリシア系植民都市が多数ある地方)の交易網を広げる形で、イベリア半島南部にまでその勢力を広げていく。

下記はポカイアが、西地中海に植民市を建設した都市だ。

  • マッシリア(南フランス・マルセイユ、紀元前600年頃)
  • エンポリオン(現スペイン北西部のアンプリアス市)

これらを経由してさらにジブラルタル海峡を越え、カルタゴ(やフェニキア人)の交易拠点カデスにほど近いタルテッソス(現グアダルキビール川流域)へと達した。

少し先になるが、前4世紀にはマッシリア市のギリシア人が、大ブリテン島(現イギリス)を周航している。

フェニキア人都市の衰退

フェニキア貿易の本拠地であるイベリア半島へのギリシア人進出に加え、フェニキア本国周辺では劇的な変化があった。
前612年に起こったアッシリア帝国の滅亡である。

帝国滅亡後、オリエントでは次の4カ国による四国割拠時代へと突入する。

  • 新バビロニア(ティグリス・ユーフラテス川流域)
  • リュディア(小アジア西部)
  • メディア(新バビロニアの北から現イラン)
  • エジプト(ナイル川流域)

アッシリア帝国という金属取引の大きな受け口から、四国の割拠へと変化したことで、それまでのフェニキア人販路を混乱、複雑化させた
例えれば、大企業が解体して4つの会社へと商品を売りにいかなければならなくなったようなものだ。

さらに追い打ちをかけるように、新バビロニアによる13年間の包囲の末、前573年に母市テュロスが陥落したのである(その後復興)。

こうした東方のフェニキア都市の混乱により、従来のフェニキア人交易ネットワークに空白が生じてしまった。

イベリア半島をめぐる争い

フェニキア人たちの空白時期ができた結果、イベリア半島ではフェニキア人たちと交易のあった従来の都市(カデス・トスカノス・セクスィなど)が衰退し、代わってギリシア勢(この地点ではポカイア人)がイベリア半島南部に進出を試みる。

特にタルテッソスはイベリア半島の金属産出の本場であり、ギリシア勢はこの地域に楔を打ち込みたかった。
そこでギリシア勢のマッシリア(ポカイア人が建設した植民市)は、この地域に植民市(マイナケ)を建設したのである。

このままではフェニキア人が作ったイベリア半島の交易ネットワークが奪われてしまう――この危機を救ったのがカルタゴだった。
カルタゴは母市テュロスの亡命政権という性質から、フェニキア本拠地の混乱に直接影響を受けなかったことが幸いした。

さらにテュロス市の2度の包囲戦(実はアッシリア帝国時代にも、1度包囲されている)で、戦いから逃れた人々が同じフェニキア系都市のカルタゴに殺到し、爆発的な人口増加が起こっていたのだ。

カルタゴは人口増加を、ギリシア人からイベリア半島進出阻止のための拠点づくりに利用する。
彼らはスペインの南東部に浮かぶ、バレアレス諸島のイビサに本格的な拠点を作った

この拠点づくりで、ポカイア人のイベリア半島南部接近に備えつつ、フェニキア人のイベリア最重要都市カデスを先住民の攻撃から守った。

この結果、スペイン北東部はポカイア人が占拠したが、肝心の半島南部「タルテッソス」はフェニキア人とカルタゴの勢力圏に留めることができたのである。

シチリアでの抗争

カルタゴとギリシア人たちが争うもう一つの舞台がシチリア島だ。
ここでざっくりとカルタゴ、ギリシア人到来前のシチリア島の歴史を振り返ってみよう。

  1. イベリア半島からやってきたシカノス人が住み着く
  2. イタリア半島からシケロス人がやってきて、シカノス人を島の南西部に追いやり、自分たちは中央部&北岸へ住み着く
  3. そのシケロス人たちと交易をするため、フェニキア人が島の周囲に割拠する

要するに、先住民を追い払ったシケロス人と交易をするため、フェニキア人はすでにシチリア島に先鞭をつけていたのである。

しかし前8世紀にギリシア人が続々と到来すると、フェニキア人たちは交易拠点を捨てて島の西部に移り住み、ここを領土とする
理由は次の2つ。

  • 島の西部に住むエリュモス人(トロイア戦争の落人?)と同盟していたため
  • カルタゴにより近かったため

のちにシチリアにおけるカルタゴ最大のライバル、シュラクサイ市の建設が前734年なので、フェニキア人の西部移動もこの頃と推測される。

時は移り前580年頃、島の西部に入植しようとしたギリシア人(クドニス人)を、フェニキア・エリュモス人連合軍が撃退した。
この戦争にカルタゴも関わっていたようで、前6世紀末までに島の西部はカルタゴの支配下へと組み込まれていくのである。

ティレニア海を支配し、西地中海海上帝国の頂点へ

マルクスの軍事クーデター

しかしシチリアの戦争がサルディニアに移ると、カルタゴはこの地で軍の大半を失う大敗北を喫してしまう。
この時の将軍が、マルクス(マルケス)と呼ばれる人物だ。

マルクスはシチリアの一部を支配し、アフリカ人との戦争でも成果を挙げた。
にも関わらずカルタゴ政府は、サルディニアの大敗を受けて責任を問い、彼を追放処分としたのである。

しかしこの処分にマルクスと兵士たちは怒りを爆発させた。
なんと残った軍船でカルタゴに押し寄せて包囲し、補給線を絶ったのである。
マルクスはカルタゴを占領したが、結局王権を目指したとの罪に問われて失脚、処刑されたという。

この事件は、戦争終了後に将軍たちが本国によって何かと因縁をつけられ失脚するという、カルタゴの政治的な弱さを後に露呈していく最初の例になっているのではないかと思う。

アレリアの海戦

それはともかく、マルクス失脚後カルタゴの実権を握るのは、マゴとその一族だった。
彼らは3代に渡ってカルタゴの指導者に君臨したため、研究者はこの時代をマゴ王朝と呼ぶらしい。
この時代に、カルタゴとギリシア人の戦いは決定的な段階を迎えた。
それがコルシカ島の植民市アレリアをめぐる戦い、アレリアの海戦である。

この頃イベリア半島を狙った例のポカイア人は、ペルシア帝国により祖国を追われ、新天地にコルシカ島を選びアラリアを建設した。
しかし彼らの海賊行為に対してエトルスキ(エトルリア人。ローマの北に位置するトスカーナ地方に住む人々)とカルタゴが手を組み、アラリアを攻めた。

この戦いでポカイア人は辛くも勝利したが、大半の船が使い物にならなくなったため、アラリア市を放棄してレギオン(イタリアの「つま先」)に逃れる。
結局カルタゴとエトルスキは戦いに敗れたものの、ティレニア海(イタリア半島西部の海)の制海権を手に入れた

その後マルクスにより失ったサルディニアを回復し、コルシカ島も確保。
またマッシリア(のポカイア人)が建設したタルテッソスのマイナケ市は、前500年頃に放棄された。
こうして西地中海はカルタゴの海となり、海上帝国として君臨することになったのである。

カルタゴの交易

カルタゴはアレリアの海戦後、

  • ギリシア人とのさらなる抗争
  • 西方進出を狙うペルシアとの関係
  • アフリカ本国の周辺地域との軋轢

などで難しい局面を迎えつつあったが、ここで一旦足を止め、黄金時代を迎えつつあったカルタゴがどのような交易をしていたのか、イタリア半島との関係を踏まえつつ見ていこう。

カルタゴの交易方法

フェニキア・カルタゴの交易路のちず
フェニキア・カルタゴの交易路
通商国家カルタゴ より

カルタゴが隆盛を誇っていたこの時代、貨幣はなかったか、それほど流通していなかった。
ではカルタゴはどのように交易をしてたのだろうか。

彼らの交易方法は、基本的に物々交換だった。
また、言葉の通じない西方の先住民との間では、沈黙交易と呼ばれる方法で交易を行っていた

沈黙交易では、次の手順をとったようである。

STEP1 カルタゴ商人ターン
商いを行う土地に船で到着後、波打ち際に積荷を並べて狼煙(のろし)を上げる
STEP2 先住民ターン
カルタゴ船から降ろされた品物の代金に黄金(やその他特産品)を置く
STEP3 カルタゴ商人ターン
品物と代金が釣り合っていれば黄金を持っていき、少なければもう一度船に戻って代金の追加を待つ

※代金が釣り合うまで、STEP2と3を繰り返す

この方法だと、先住民との会話がなくても品物の交換が成り立つ。
これが沈黙交易と呼ばれる理由である。

そして沈黙交易では、品物の価値を知っているカルタゴ側が常にイニシアチブを取れる、というメリットがあった。
先住民はカルタゴ商人が「ふっかけた」としても、知るよしもないのである。


これほど「おいしい」商売ルートを、カルタゴは常に死守した。
つまり、カルタゴ商人にとって交路の秘密を厳守することこそ生き延びる道であり、繁栄の源だったのである。

その証拠に、ある時ローマ商人がカルタゴの船をしつこく追い回してきたため、追い回されたカルタゴの船はわざと交路を外れ、ローマ船もろとも座礁させたことが、ストラボンの著作に紹介されている。

カルタゴの交易品

「本国」テュロス市との関係でも述べたとおり、フェニキア本国やそれを引き継いだカルタゴが西方から仕入れるものは、金・銀・銅・錫などの鉱物資源だ。

それではカルタゴが引き換えにした品物は、どのようなものだったのか。
また、ギリシアやエトルリアなど、文明化された地域との中継貿易で取引された商品は何だったのか。

ここでは各産地ごとに見ていこう。

エジプト製品

  • 護符
  • 軟膏ビンなどのガラス製品
  • 神々の小立像

など。

ギリシア製品

  • コリントス製陶器(アテナイ製は紀元前4世紀から)
  • テラコッタ製の小像

など。

フェニキア(本土)製品

  • 象牙細工
  • 貴金属細工
  • メッキ細工
  • ガラス製品
  • 赤紫色で染められた織物

など。

この他、戦争などで獲得した奴隷を売り買いすることもあり、カルタゴ本国の農業に従事させたり、鉱山で大量に奴隷を使役したりしたようである。

イタリア半島との関係

エトルスキとの同盟

カルタゴ交易の成否は、制海権を保持し続けられるかどうかにかかっているといっても過言ではない。
それを支えた一つがイタリア、とくにティレニア海を支配し、西地中海海上帝国の頂点へで述べたエトルスキ(エトルリア人)との同盟関係だった。

彼らとの同盟は、次の二つを目的としていたようだ。

  1. サルディニア、コルシカ間の海を、カルタゴとエトルスキの両勢力がコントロールする
  2. 大西洋岸(イギリスやイベリア半島)の錫を地中海に運ぶ道の確保

特に2について、コルシカに植民市を築こうとしたポカイア人は、このルートを遮断し自分たちに組み込む意図もあったらしい。

こうした背景での軍事同盟はもちろんあったが、その他にカルタゴの金・銀・錫と、エトルリアの鉄・銅を互いに必要としていた。
つまり、軍事同盟以上に商工業(や文化・宗教)の協力関係を築いていたのである。

対ローマ条約

この頃、カルタゴはローマ市と第一回の条約を結んでいる。
ローマ市は前509年、エトルリア人の王タルクィニウス・スペルブスを追放し、共和政に移行した。

この共和政以降1年目、つまりローマ人がエトルリアからラテン人に政権を取り戻した初年度に、カルタゴと条約を結んだのだ。

この条約の内容は、要約すると次のようになる。

  1. カルタゴとローマ両勢力圏の確認
  2. 相手の勢力圏に入った場合の禁止事項設定
  3. ローマ人がカルタゴの領域にきて商売をする条件の設定

もっとわかりやすく言うと、

カルタゴとローマはここまでの範囲を互いに認め合い、してはいけないことを決めておこうね。ローマ人はカルタゴ圏で勝手な商売をしないでね

という内容になる。

ただし、この条約は対等のもの、というより、どちらかというとカルタゴが西地中海は自分たちの領域ということを主張しつつ、ローマには一定の利害を認めた、というものでしかなかった。

カルタゴはギリシア人などに手を焼いていたため、それ以上他勢力からちょっかいを掛けられたくなかったし、ローマとしてもラティウムに勝手な拠点を作られて自分たちの領域を侵されなければ、地中海がカルタゴの海だろうと問題なかったのである。

カルタゴ、ヒメラの戦いで大敗北を経験する

ペルシア、カルタゴに使節を派遣する

このように、西地中海の一大交易ネットワークを形成し、我が世の春を謳っていたカルタゴだったが、前5世紀に入ると次第に地中海情勢が変化し、難しい局面に入りつつあった。

地中海東方では、オリエントを再統一したアケメネス朝ペルシアがダレイオス一世の下で最盛期を迎える。
このペルシアからカルタゴに、ある要請を伝えるため使節が派遣された。
ペルシアの要請は次の2つ。

  1. カルタゴの野蛮な風習(人間の生贄や犬の食用禁止、土葬から火葬を採用)を改めること
  2. まもなく始まるギリシア侵攻の際、カルタゴも援軍を派遣すること

カルタゴは(1)に従いペルシアに恭順を示しつつ、(2)の援軍要請は断った。
なぜならカルタゴと近隣諸国(シチリアやアフリカ先住民)との間で、戦争が始まっていたからだ。

ちなみにペルシアがカルタゴに伝えたギリシア侵攻とは、イオニアの反乱を契機に始まるペルシア戦争のことである。

アフリカ先住民とカルタゴの関係

アフリカ先住民との戦争は、ティレニア海を支配し、西地中海海上帝国の頂点へで紹介した将軍マルクスの頃からすでに始まっていた。
ではカルタゴとアフリカ人が争う要因は何だったのだろうか。

通商国家カルタゴ 』によると、争いの要因は次の3つを挙げている。

  • カルタゴが先住民へ毎年支払う『地代(いわゆるシャバ代)』が曖昧になっていたことによる、先住民たちの要求
  • 先住民の支配層が、フェニキア・カルタゴ交易ネットワーク以外の情報を手に入れだした
  • 地中海中に植民したギリシア人たちに、先住民が刺激を受けた

要するに、先住民が甘んじて組み込まれていたフェニキア・カルタゴネットワーク以外の選択肢が増え、彼らが徐々に自立し始めたということだ。

カルタゴは、次第に成長する彼らに対して、対策を迫られていたのである。

シケリア戦争への道

そしてもう一つ、シチリアをめぐる争いも新たな局面に入った。
先のペルシア戦争では援軍を断ったカルタゴだが、前480年、ダレイオス1世の後を継いだクルセクセス1世のシチリア攻撃要請には乗ったようなのだ。
理由は次の2つ。

  1. シュラクサイで強力な反カルタゴ政権の誕生
  2. メッシナ海峡喪失の危機
シチリア島の地図
シチリア島
通商国家カルタゴ より

【理由1】シュラクサイで強力な反カルタゴ政権の誕生

理由の1つ目は、シュラクサイの政変である。
当時カルタゴの権力を握っていたマゴ政権の長ハミルカルは、シュラクサイの支配層ガモローイを母に持つ。
このガモローイを通じて、カルタゴはペルシアやギリシア、フェニキアへの道を確保していた。

しかしシュラクサイは近隣にあったゲラ市出身のゲロンが、従来の支配層ガモローイたちに代わって権力を握ってしまう。
このままでは東の道への橋頭堡を失うハミルカルは、ふたたびシュラクサイで足がかりを得るために、ゲロン政権を叩く必要があった。

【理由2】メッシナ海峡喪失の危機

もう一つの理由がイタリアとシチリアの間にあるメッシナ海峡をめぐる問題だった。

イタリアのつま先にある都市レギオンの支配者アナクラシオスは、対岸にあるシチリアに作り上げた都市メッセネを通じて、メッシナ海峡を支配していた。

その彼は、シチリア北岸の都市ヒメラの独裁者であるテロリスの娘を妻とし、同盟関係を結んでいたのだが、このテロリスとハミルカルが属するマゴ家とは客人関係にあったのだ。

そしてマゴ家(カルタゴ)は、このヒメラを介した協力関係を巧みに利用し、メッシナ海峡をコントロールすることができていたのである。

しかしシチリア南部の都市アクラガスの支配者テロンがヒメラに進軍し、テロリスを追放することで、状況が一変する。
テロリスはカルタゴとの関係を頼みとして、ハミルカルに出兵を依頼し、またアナクラシオスも息子をカルタゴに人質として差し出してまで、ハミルカルを説得した。

言うまでもなく、メッシナ海峡は地中海の東西をつなぐ要衝であり、ここを抑えるかどうかが地中海交易の鍵を握るといっても過言ではなかった。
もしここを失うことがあれば、東西交路の喪失だけでなく、エトルスキとの同盟で確保したティレニア海の制海権すら危うくなるのである。

ここでテロリスを見捨てればレギオン&メッセネとの同盟も崩れ、カルタゴはメッシナ海峡を失ってしまうだろう。


メッシナ海峡確保とシュラクサイ政権打倒のため、ついにハミルカルはシチリアへの出兵を決意する。
前480年、第一次シケリア(シチリア)戦争は、こうして幕を開けた。

ヒメラの戦い

ハミルカルがシチリア遠征に用意した軍勢は、次のような規模にのぼった。

  • 軍船200隻以上
  • 輸送船3000隻超
  • 兵の総勢30万

古代の戦いで、この兵の規模は誇張が入っているだろう。
しかしカルタゴが用意した軍勢が、未曾有の大軍だったことは疑いない。

彼らは、以前からの同盟の地、シチリア北西部の都市パレルモス(現パレルモ)に無事上陸すると、ヒメラを攻撃して打ち破った。
この大軍を前にして、独力では歯が立たないテロンは、シュラクサイの支配者ゲロンに救援を求めたのだ。

これに応じたゲロンはすぐさま軍を整える。
規模は次の通り。

  • 歩兵5万
  • 騎兵5,000

ゲロンが急行したヒメラでの、カルタゴ対シュラクサイの戦い、いわゆる「ヒメラの戦い」はどうなったのか。
なんとゲロン率いるシュラクサイ軍が、カルタゴ軍を完膚なきまでに叩きのめしたのである。

ヒメラの戦いの経緯については詳しく書かないので、もし知りたい方は『通商国家カルタゴ 』を読んでいただくといいだろう。

ともかくカルタゴの大軍と大船団は、一日で壊滅してしまったのである。
この戦いでハミルカルは戦死(もしくは自殺)。
フェニキア・カルタゴとギリシアの西地中海での勢力図は、1日にして入れ替わってしまったのだ。

しかしこの大敗北を受け、カルタゴは自らの改革に着手する。
そして数十年後には、西地中海に再び覇を唱えるまでに復興するのである。

本記事の参考図書

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