カルタゴⅡ ―国政大改革からアガトクレスのアフリカ侵攻まで―

西地中海の覇者 海上帝国カルタゴ

カルタゴの大軍が、ヒメラの戦いでシュラクサイに大敗北を喫し、地中海の勢力図を一夜で塗り替えてしまったことは、カルタゴⅠで紹介したとおりだ。

もしあなたがヒメラの戦いに至るまでの経緯に興味があれば、カルタゴⅠをご覧いただくといいだろう。

西地中海の覇者 海上帝国カルタゴ カルタゴⅠ ―建国から黄金時代、ヒメラの戦いまで―

しかしこの敗北は、地中海情勢の変化が表面化したに過ぎなかったのだ。
それは一体何だったのか。

今回の記事では、カルタゴⅠに引き続き『興亡の世界史 通商国家カルタゴ(栗田伸子・佐藤育子著)』を参考に、当時の地中海情勢や、カルタゴがわずか数十年でどのように国を立て直したのか、さらにその後のカルタゴを見ていくことにしよう。

※タイトル下の画像は、Wikipedia (Calips / CC BY-SA )のものを使用しています。

記事の内容

カルタゴ、国政の大改革に着手する

ヒメラの戦い敗戦の予兆

ヒメラの戦い以前から、フェニキア・カルタゴ勢がギリシア勢に脅かされる予兆はすでにあった。
その予兆とは、次の2つが挙げられる。

  1. 同盟国エトルスキ(エトルリア人)の衰退
  2. ギリシア勢軍の変化

同盟国エトルスキ(エトルリア人)の衰退

カルタゴがティレニア海、しいては地中海の制海権を握るうえで、エトルスキ(現イタリア、トスカーナ地方の人々)は重要なパートナーだった。
しかしエトルスキは、すでに全盛期を過ぎ、徐々に勢いが衰えていく時期に差し掛かっていたのだ。

その証拠として、次の2つの事件を挙げることができる。

  • 前524年:ギリシア系植民市クーマエ(現ナポリ近郊)を攻めるが、アリストデーモス(のちのクーマエ僭主)に大敗
  • 前504年:ラテン人と同盟したアリストデーモスにまたも破れる

前504年の戦いは、前509年にローマ市がエトルスキの王を廃して共和政へと移行した、いわばエトルリアからの独立を牽制するための戦いだったと言えるだろう。

しかしいずれの戦いもギリシア勢に敗れたことで、ギリシア勢の優位(とエトルスキの衰退)が浮き彫りになったのである。

ギリシア軍の変化

ギリシア勢が優位にたったの要因は、彼らの軍構成の変化だ。
ギリシア勢は、自前で武装した市民軍が主体となる、重装歩兵的集団戦法を採用したのである。
この市民軍の多くは中堅の自作農民たちで、彼らは都市を取り囲む田園で暮らしていた。

彼らが強かったのは、重装歩兵戦法もさることながら、自分の土地(と利益)を自分で守るという、戦争自体を自分ごとにできたからではないかと思う。

しかしフェニキアやカルタゴの都市は、交易拠点のため基本的に港町という性質しかない。
つまり都市を中心とする田園部をもつなど、フェニキア・カルタゴ系都市から望めなかったのである。

だがカルタゴは、ヒメラの戦いを経験したあとで、交易拠点という「点」の支配から、田園を後背地に持つ都市という「面」の支配へ、180度の方向転換に着手し、わずか数十年で復興に成功するのである。

「点」から「面」の支配へ

では、「点」から「面」の支配=フェニキア・カルタゴ的都市からギリシア的都市へ、どのように移行したのだろうか。

カルタゴは、この支配構造を構築するために、カルタゴ市周辺のアフリカ人(リビア人)を攻め、支配下に置いたのである。
彼らは、攻略した領域を次のように管轄した。

  • 8つの行政管区に分ける
  • 各管区に数十のリビア人都市を組み込む
  • この管区にカルタゴの中下層出身者(下級役人)を配置し、アフリカ人の徴税・監督を行う

カルタゴ市周辺の土地は、現代では考えられないほど豊かな穀倉地帯だった。
特にバグラダス川流域の大平原は、後のローマ時代、ローマ市で必要な小麦の八ヶ月分を入手できたという。

カルタゴ周辺地図
カルタゴの周辺地図
興亡の世界史 通商国家カルタゴ より

カルタゴ人は、もともと農耕をしていた土着の人々(リビア人)を支配し、年貢を取り立てていたようだ。
彼らリビア人は、一種の農奴のような扱いを受けていたと思われる。
彼らへのカルタゴ人の取り立ては厳しく、平時では収穫の1/4、戦時になると1/2もの収穫量を収めなければならなかった。

このようにカルタゴは先住民たちを支配することで、これまで収めていた地代からも解放され、さらに豊かな後背地を手に入れたことで、食料生産に費やす時間を商工業に回すことができた
これがヒメラの戦いで受けた傷を、短期間で癒やす治療薬になったのである。

同時に先住民に対する抑圧は、カルタゴ人への反乱の火種を常に燻ぶらせることにもなっていくのだった。

新たな植民都市の建設

またこの時期、カルタゴは新しい植民市の建設と黄金獲得のため、アフリカの大西洋岸へ探検に乗り出した可能性がある。

通商国家カルタゴ 』によると、カルタゴの王(指導者のことか?)ハンノが、3万人の男女を60隻の船に載せて計4回の航海に望んだ、いわゆる『ハンノの航海』は、この時期かもしれないと紹介している。

ハンノはこの航海で最終的にギニア湾まで行き、カメルーン山を目撃したというのだ。
さらに「ゴリラ」と呼ばれる毛深い女性たち三人を捕獲し、焼き殺して皮をはぎ、カルタゴへ持ち帰ったらしい。

これらの話がどの時期かの特定は難しいが、もしヒメラの戦い敗北後と重なるなら、カルタゴの再建に向け積極的に国力を上げる施策の一環だったのかもしれない。

カルタゴの政治体制

ヒメラの戦いで敗北したカルタゴには、外圧で強制的にせよ大改革をする必要があった。
その結果ギリシア文化とオリエント文化と結びついた、いわゆるヘレニズムの要素を吸収しつつ、カルタゴの政治・軍事・宗教・文化が成熟し、開花したのだ。
この成熟期に、カルタゴの政治はどのような体制へと変化したのだろうか。

カルタゴは建国当初から、富を唯一とする基準で階級社会を形成しており、有力な貴族が政治を取り仕切っていた
時が進むに連れ、次第に特定の家門が力を持つようになり、カルタゴⅠ ―建国から黄金時代、ヒメラの戦いまで―で紹介したように、将軍マルクスが軍事力を頼みに国家権力を手に入れようとしたり、マゴ家が王朝(のような家門で権力を独占する形式)を築いた。

しかしマゴ家の権力独占も、紀元前4世紀前半には終焉を迎え、代わって複数貴族が政治を主導する、いわゆる『寡頭体制(オリガーキー)』へと変化する

では具体的に、カルタゴの政治体制がどのようなものだったのかを紹介しよう。

最高政務官「スーフェース」

カルタゴの行政最高責任者、いわゆる最高政務官はスーフェースと呼ばれる。
スーフェースは次の特徴があった。

  • 一年任期の二人体制
  • カルタゴ全市民の選挙により選出。ただし有力貴族が候補となる
  • 宗教職である「神官長」や、軍事最高責任者「将軍」と兼任可能

1年任期ゆえに、その年を表す表記は、任期中のスーフェースの名が付けられる。
この特徴、どこかで見覚えはないだろうか。
そう、ローマの執政官に似ているのだ。

ただしローマの執政官と違い、スーフェースに軍事的な権限はない(将軍との兼任は可能)。

元老院

成員は数百名。
裕福な土地所有者や商業担当者で構成されている。
任期はなく、終身制。

スーフェースや他の役人に対して外交、和戦、軍隊の招集、支配権の統治について助言していたようだ。
こちらもローマの元老院とよく似た機関と言えるだろう。

そのほか十人会や三十人といった常任委員会のようなものがあり、そのメンバーが将軍に従って海外に赴任したり、政治的な問題の処理にあたったようだ。

百人会

国家最高の監察機関。構成メンバーは名前よりもわずかに多い104人。
元老院とおなじく終身制。

裁判・法廷のコントロールのほか、特に将軍を監督することが多かった。
カルタゴでは、この百人会が次第に大きな権力を持つことになる。

民会

カルタゴにも、ローマと同じく選挙や議題決議機関として、市民が集まって投票する民会もあった。

例えばスーフェースや元老院の意見が一致しない時は、民会の投票にかけられたし、たとえ一致しても両者によって投票を行う場合もあった。

投票は、生まれや富に制限されることがなかった。しかし民会の権限は限定的だったと言われている。
結局役職は上流階級(富裕層)によって占められていたし、現実には富裕層の発言力は大きかったのだろう。

投票グループや単位はよくわかっていない。
この民会も、ローマと比べると面白いかと思う。

将軍

ローマと違い、最高政務官が司令官を兼ねていないカルタゴでは、軍事の最高責任者として将軍という役職を設けていた。

将軍は誰でも自由に選ばれ、任期の制限はない。
しかし実際には、一部の家門(マゴ家や、後にローマを攻めたハンニバルのバルカ家など)が、伝統的に将軍職を務めた。

また将軍は百人会によって厳しく管理され、敗北した時は、追放や磔刑などの過酷な処置が待っていたのである。

カルタゴの宗教

カルタゴで信仰された神々

カルタゴの母市テュロスでは、前10世紀ごろからメルカルト神が主神として崇められていた。
カルタゴⅠのテュロス市脱出でも書いたように、建国の女王エリッサの夫は、テュロス市でメルカルト神の神官を務める人物だった。

カルタゴはもちろん、このメルカルト神信仰を引き継いだが、その他にも様々な神々を「輸入」し、信仰していた。
以下、主な神を列挙してみる。

フェニキア本土の神々

  • エシュムン(癒やしの神)
  • アシュタルテ(豊穣の女神)
  • バアル・シャメン(カナン神話の神)
  • バアル・ツァホン(カナン神話の神)
  • レシェフ(カナン神話の神)
  • シャドラパ

エジプト起源の神々

  • イシス
  • ホルス
  • ベス

ギリシアの神々

  • デメテル
  • コレー

カルタゴで最も崇拝された神「バアル・ハモン」と「女神タニト」

しかしカルタゴで最も信仰された神と言えば、オリエントに起源を持つ(という説が有力な)バアル・ハモンと女神タニトだ。

「香壇の主」バアル・ハモン

バアル・ハモンの名は、「香壇の主」や「アマヌス(山)の主」と言われているが、いまだに決定的な解釈はされていないらしい。
ともあれ、バアル・ハモンが農業神(豊穣の神)という性格を帯びていたのは間違いないようだ。

チュニジアのスースから出土した石碑には、バアル・ハモンが次のような姿で描かれている。

  • 有翼のスフィンクスの王座に座る
  • 山高帽をかぶる
  • 小麦の穂の付いた王笏を手に持つ

このような農業に縁の深い格好をしていることや、ギリシア神話のクロノス、ローマのサトゥルヌス神と同一視されることからも、豊穣を表しているといえるだろう。

テュロス市の守護神はメルカルト、つまり商業を保護を司る神(日本では恵比寿さんのようなもの?)だったのが、アフリカに農業地を持つようになり、信仰する神も変化していったのだろう。

女神タニト

さらに時代が下るとバアル・ハモンのパートナーとして盛んに信仰されるのが、女神タニトである。
タニトは母神であると同時に、死と再生を司る女神だ。

女神タニトのシンボルの写真
女神タニトのシンボル
Wikipedia より

女神タニトは「バアル・ハモンの顔」という添え名をもち、バアル・ハモンと一対の神として崇められていた。
その証拠に、奉納碑文には次のような定型句から始まっている。

女主人「バアルの顔」であるタニトへ そして主バアル・ハモンへ

興亡の世界史 通商国家カルタゴ 第六章 カルタゴの宗教と社会

これは、いつ頃からか農業神バアル・ハモンよりも母神タニトが前面にでてくる、つまり優先されて信仰された証拠ではないだろうか。

とはいえ、女神タニトはポエニ世界共通の男神だったバアル・ハモンと違い、地域によっては導入されなかったようである。

幼児生贄の場所「トフェト」

カルタゴの宗教的習慣として特徴的なものに、「トフェト」という幼児を埋葬する場所が用意されたことである。
史書では、神に生贄を捧げるため、カルタゴ人が幼児を生贄にしていたと記述されており、その生贄にされた幼児を埋葬する場所だったというのだ。

トフェトの写真
幼児のための聖域トフェト
BishkekRocks

しかし最近の考古学調査で、子供の突発的な集団犠牲は否定されている。
ただし、幼児生贄については肯定派・否定派両方の研究もあるので、結論は出ていないようだ。

唯一言えることは、「トフェト」は単なる幼児の共同墓地ではなく、生前犠牲や死後埋葬に関わらず、幼児のためだけの「聖なる空間」として機能した、ということである。

カルタゴ市の都市計画と民衆の暮らし

ここでカルタゴの都市や民衆の暮らしについて触れておこう。
前5世紀後半から前4世紀にかけて、おおいに発展したカルタゴ市は、どのようになっていたのだろうか。

カルタゴの都市計画

カルタゴ都市の図
カルタゴ市の様子
興亡の世界史 通商国家カルタゴより

カルタゴ市の都市計画は、次のようになっていた。

  1. ビュルサの丘(カルタゴⅠの女王エリッサの知恵と悲劇で説明した、建国伝説で獲得した土地)から東へ海岸まで、東西方向に延びるメインストリートがある
  2. このメインストリートと、海岸線に並行に走る道が直行し、東西と南北に何本か走る道で碁盤の目のような形をつくり、長方形の区画に整理されている
  3. 海岸線には城壁があり、メインストリートとぶつかる部分は四角く窪む。そこには二つの塔によって守られた、カルタゴの表玄関『海の門』が設けられている

城壁の近くはダウンタウン、いわゆる『下町』になっており、丘の上は神殿や宮殿、役所、富裕層の邸宅が並ぶ、『山の手』だった。
山の手はローマでいえば、パラティーノの丘のような場所だろう。

また丘の麓(ふもと)には、カルタゴの広場(ギリシアのアゴラ、ローマのフォルム)があったと考えられている。

民衆の暮らし

上記計画によって作られた都市で、人々はどのような暮らしをしていたのだろうか。

時代は違うが、ポエニ時代(前2世紀初頭から前146年まで)に栄えた住居跡、いわゆるハンニバル街や、別の都市ではあるが、発掘調査がすすんだケルクアンを参考に見てみよう。

ケルクアンでは石工や陶工、ガラス職人、染物師、金細工師などの職人街跡があったので、カルタゴ市も整然と区画整理された町並みの一角に、職人街があったと予想できる。

また共同浴場もあるほか、個人邸宅にもバスタブが付いており、彼らはこの浴槽に浸かりながら、一日の疲れを癒やしたと考えられる。

カルタゴのバスタブ写真
カルタゴのバスタブ
Asram/ CC BY-SA

その個人邸宅は、中庭を中心として各部屋が配置される家屋で、彼らは一世帯あたり家内奴隷もふくめると5~7人程度で暮らしていたようだ。

彼らが食べる食事は、スパイスの効いた料理に甘いお菓子。地中海の日光で良く熟れたぶどうから作られるワインが、食卓を飾ったことだろう。

またカルタゴ人はおしゃれでもあった。
ゆったりとした長衣をまとい、目にも艶やかな貴石やガラスなどで作られたネックレス、金属製の指輪やイヤリング、ペンダントを身に着けていた。
それはおしゃれだけではなく、邪悪なものから身を守る御守の役目も果たしていたのである。

彼らは神に対しても敬虔だった。
共同墓地からは副葬品として、様々なテラコッタ製のマスクが出土している。
これらは死者を悪霊から守る役目を果たしていたようだ。

シチリアでの戦争その1 ~VSディオニュシオス1世~

今までヒメラでの大敗北から復興してきたカルタゴの様子や、カルタゴの政治や社会、都市や人々の暮らしがどのようなものかを見てきたが、ここでもう一度復興後から時間を進めてみよう。

カルタゴはヒメラの戦いから数十年後、ふたたびシチリアへと出兵する。
それはギリシア本土で起こった都市同士の争いが発端となったのである。

ギリシア本土で起こったペロポネソス戦争の影響

ギリシア本土での争いとは、アテネを中心としたデロス同盟軍と、スパルタを中心としたペロポネソス同盟軍との戦争、ペロポネソス戦争を指す。

戦争の影響で、シチリアもレオンティーニなど(デロス同盟)とシュラクサイなど(ペロポネソス同盟)の両陣営に分かれて争った。
このシチリアの争いにアテネが介入し、前427年に艦隊を送って侵攻したが、この侵攻は失敗に終わる。

前415年、またもアテネはシチリアに大軍を送り、遠征を開始した。
名目は、シチリア西部都市からの救援要請に応えた形だが、本当の目的は全島の支配だったようだ。

この遠征も、スパルタの援軍を受けたシュラクサイの善戦や、司令官の優柔不断などで、ほぼ全軍が壊滅するという散々な内容だった。
しかしシチリアを狙うカルタゴにとって、好都合な結果だったのである。

カルタゴのシチリア出兵

アテネの遠征が失敗に終わったとは言え、この戦いでカルタゴの仇敵シュラクサイは傷を負っている。
おまけに大敗後のアテネでは、シチリアに手出しができなくなっていた。

これを好機と見たカルタゴは、シチリア西部の都市同士の争いに介入し、派兵を決定する。一方が攻め込まれ、カルタゴに救援を求めてきたのだ。
指揮はマゴ一族のハンニバル(ポエニ戦争のハンニバルとは別人)。
ヒメラの戦いで指揮を取り、戦死したハミルカルの孫に当たる人物である。

シチリア島の地図
シチリアの様子
興亡の世界史 通商国家カルタゴ より

彼は、5,000のリビア(アフリカ)兵と、800のカンパニア(イタリア中部地)兵を送り込み、要請された都市(セゲスタ)の救援を果たすと、もう一方の都市(セリヌス)がシュラクサイに援軍を要請したため、戦争は全面化。
ハンニバルは、ギリシア最前線都市ともいえるセリヌス、ヒメラを占領、破壊する成果を上げ、シラクサから一旦引き上げた。

さらに前406年、シュラクサイがセリヌスを再建しようとしたために、またも戦争に突入。再上陸したカルタゴ軍は、ヒメラの戦いの原因を作った都市アクラガスを苦戦しながらも攻略し、徹底的に破壊したのである。
ただしこの戦いで、司令官ハンニバルは疫病にかかって戦死し、代わって同僚のヒミルコが指揮を取ることになった。

ディオニュシオス1世の登場

アクラガスの陥落は、シュラクサイを混乱に陥れた。
この混乱に乗じて権力を握ったのが、ディオニュシオス1世である。
ちなみに彼は、太宰治の小説『走れメロス』に登場する暴君のモデルとなった人物だ。

しかしディオニュシオスが率いる軍も、カルタゴ軍の勢いを止めることはできなかった。
ヒミルコはディオニュシオスをゲラ市郊外で破ると、前405年、ゲラ、つづいてカマリナを陥落させる。

国内貴族の反乱にもあったディオニュシオスは、カルタゴと講和するしかなかった。
この講和でカルタゴは、ディオニュシオスのシュラクサイ支配を条件に、セリヌス、アクラガス、ヒメラの支配権を獲得し、一旦アフリカへと引き上げたのだった。

シュラクサイの反撃

しかしカルタゴ軍に敗れたディオニュシオスは黙っていなかった。
彼は大軍拡を断行し、300隻の船と数万の兵を集める。
また高賃金を背景に、シチリアやカルタゴ(!)からも職人を集めて、武器製造を行ったのである。

ディオニュシオスは軍備を揃えるとカルタゴに使いを送り、シチリアのギリシア都市からの撤退を求めた。
しかしカルタゴの動きが鈍かったため、ディオニュシオスはシチリアを西進し、カルタゴの拠点エリュクス市を帰順させ、さらに前397年、フェニキア最古の拠点であるモテュア島を陥落させたのである。

この結果を受けてカルタゴ軍は再びシチリアに上陸、ディオニュシオスをシュラクサイまで押し戻した。
だが勝利目前で、カルタゴ軍の中で疫病が猛威を振るう。

この疫病でカルタゴ軍は壊滅し、司令官ヒミルコはディオニュシオスと取引した結果、自分とカルタゴ市民兵のみを見逃してもらい、残りの軍(アフリカ兵や外国の傭兵)は置き去りにされてしまったのだった。

シチリア戦争後のアフリカ問題

カルタゴ市民以外を見捨てたことに怒りを爆発させたのが、地元のアフリカ民たちである。
彼らは日頃の抑圧に加えて、同郷の者たちを敵中に残されたことに憤り、カルタゴに対して一斉に蜂起した。
その数約20万。
彼らはこの人数で、カルタゴ市を包囲したのである。

しかしあまりに多い人数を養うための食料不足に陥り、さらに指揮権をめぐる内紛により自壊し、アフリカ人の反乱は鎮圧された。
カルタゴ市は、サルディニアからの食料補給により、持ちこたえることができたのだ。

このアフリカ人たちの蜂起は、

  • リビア諸都市への重税
  • 徴発されたアフリカ人の、使い捨てとも言える戦地投入
  • カルタゴ市民とアフリカ人との扱いの差

上記を前提としたカルタゴのアフリカ統治が、一旦戦争に敗北すると脆いことを露呈した出来事、と言えるだろう。

カルタゴの内部闘争

カルタゴの政治体制で説明した寡頭体制への移行は、シュラクサイとの戦いに敗れたこの頃に起こったようだ。
マゴ家一門の権力独占は、ディオニュシオス1世との戦いで敗れたヒミルコ(マゴ家一族)の死をもって途絶えたらしい。

シチリアをめぐる争いは、その後も断続的に交戦と和平を繰り返す。
そしてカルタゴ国内では2つの党派が争う内部闘争の状態にあった。

「タカ派」大ハンノと「ハト派」スニアトン

相争う党派の一つが、大ハンノ率いるシュラクサイ強硬派、いわゆる「タカ派」。
もう一つはスニアトンが代表するシュラクサイ融和派、いわゆる「ハト派」である。

「ハト派」の拠点はボン岬で、この付近はシチリアからのギリシア人入植者が多い。
そのため彼らとの交流があった、ボン岬付近の大土地経営者が中心となり、親ギリシア派を形成していたようである。

もちろんギリシア語が堪能なものも多く、語学力を生かしてシチリアのギリシア系諸都市に働きかけることもした。
また、この「ハト派」たちがマゴ家の権力独占、いわゆるマゴ王朝を終わらせ、寡頭体制へと移行させた当事者でもあった。

一方の「タカ派」は、マゴ王朝の伝統である帝国主義的な対外政策を、そのまま引き継ぐことにこだわった。

前368年、この「タカ派」代表大ハンノが、スニアトンを葬ることに成功する。
きっかけは、シチリア戦争の再開だった。

シチリア戦争再開

戦争が始まると同時に、スニアトンは反逆罪で捕らえられた。
罪状は、ギリシア語で、ディオニュシオス1世にカルタゴ軍の出兵(とハンノの無能)を知らせる手紙を送った容疑だった。

スニアトンは処刑され、以後カルタゴ元老院で通訳なしに敵と会話したり、手紙をやり取りすることがないよう、ギリシア語学習は禁止されたという。
まるで先の大戦下での、どこかの国のようである。

政敵スニアトンを排除した大ハンノは、リリュバエウム(現シチリア島西部のマルサーラ、カルタゴの新しい拠点)やエリュクスを巡って、ディオニュシオス1世と戦った。

さらに翌年の前367年に、ディオニュシオス1世が死去すると、息子のディオニュシオス2世との間に、有利な条件で和睦を結ぶ。
カルタゴは、シチリア西部の領有を確保できたのである。

大ハンノ失脚

稀代の梟雄ディオニュシオス1世の死で、シュラクサイ情勢は変化を迎える。
父の後を継いだディオニュシオス2世と、ディオニュシオス1世の義弟ディオンとの間に抗争が起こったのである。
ちなみにディオンはカルタゴとの将軍と親交があった。

さて、シュラクサイの混乱で20年ほどの平和を迎えたカルタゴだが、国内では一大事件が発生していた。
あの大ハンノが「王権(権力独占)」を目指し、元老院メンバーを毒殺しようとしたのだ。

この試みが失敗に終わった大ハンノは、次にある都市を占領し、アフリカ人とマウリー人の王を焚きつけようとした。
しかしこれも失敗に終わると彼は捕らえられ、酷い方法で処刑された。
さらに彼の一族もことごとく処刑され、野心家大ハンノの野望は潰えたのだった。

シチリアでの戦争その2 ~VSティモレオン~

僭主ディオニュシオス2世のシュラクサイ復位

20年の平和の後、またしてもカルタゴとシュラクサイの間で戦争が始まった。
きっかけは僭主ディオニュシオス2世が復位したことによる。

ディオニュシオス復位が引き起こした、シュラクサイの混乱を好機と捕らえたカルタゴは、前345年に150隻の軍艦、5万の歩兵、300の戦車と予備の大軍、さらには攻城用機器に膨大な物資をシチリアに投入した。

ただし名目は、シュラクサイの攻略ではなく、シチリア西部のエンテッラ市を占拠していたカンパニア人(中部イタリア地方の人々)との戦いとした。

カルタゴはこの戦いで、シチリア都市の保護を名目に、支配権拡大を狙っていたようだ。
カルタゴは、島中の僭主達との間に友情を築いたという。
これはおそらく、都市への内政干渉により、カルタゴに対して有利な状態を作り出そうとしていたのだろう。

コリントスのティモレオン登場

一方、ディオニュシオスの復位で亡命したものたちは、ギリシア本土の母市コリントスに救援を要請した。
だがコリントスが派遣したのは、わずか数隻の船を委ねられたティモレオン。

一体この少数で何ができるのか。
しかしティモレオンは、シチリアに上陸するや各地の僭主たちと戦を重ね、次々と勝利。
さらにカルタゴ軍相手に、奇跡的な大勝利をおさめるのだ。
特に決戦となったクリミソス河の戦いで、カルタゴは名門子弟からなる重装歩兵『神聖軍団』を投入したが、カルタゴ市民3,000人が犠牲になった。

この結果、シュラクサイのディオニュシオス2世は追放。
ティモレオンとの和約で、カルタゴは再びシチリア西部のみの領有となった。

戦争の背景にあるカルタゴの対外政策

さて、このシチリアでの戦いは、カルタゴとシチリア諸都市との関係が、次の段階に突入した事件でもあった。
つまり、この戦争の根底には、これまでの単なる

ギリシア勢 VS カルタゴ

ではなく、シチリア各都市の内政問題である

僭主(独裁)政 VS 民主政

の体制選択があったのだ。

この政治選択に、外部勢力としてカルタゴやコリントス、さらにはカンパニア人が絡むという構造をもっていた。

つまりカルタゴには、軍事力だけではなく、上記の構造を利用してギリシア人を説得し味方につける、外交的技術が必要になったのである。
そしてこの戦争は、ポリスの政治の言葉を理解できる、「スニアトン」的対外政策の延長上にあった戦争といえるだろう。

シチリアでの戦争その3 ~VSアガトクレス~

シュラクサイにアガトクレス現る

ティモレオンとの和睦から約30年後、シュラクサイに新たな人物が現れる。
その名はアガトクレス。
アガトクレスがどのような人物かを簡単に説明すると、次のとおりだ。

  • シュラクサイの民主派将軍
  • 寡頭派貴族勢力により、2度の亡命を経験する
  • 南イタリアで傭兵隊長として力を蓄える

彼はその後、シチリアに戻ってモルガンティナ市の将軍となり、レオンティーニを占領し、シュラクサイを包囲したのである。

シュラクサイ人はたまらずカルタゴに救援依頼を出し、カルタゴは将軍ハミルカルを派遣した。
長年の仇敵をカルタゴが助けるという、数年前には考えられなかった構図だろう。

さて、このアガトクレストとシュラクサイの対決は、さらに驚くべき結果が待っていた。
なんと派遣されたカルタゴの将軍ハミルカルとアガトクレスが結託し、シュラクサイ市はアガとクレスは和解したのだ。
前319(318)年、アガトクレスは将軍として、シュラクサイに帰還したのである。

アガトクレス、カルタゴの兵を使いシュラクサイの僭主に

さらにアガトクレスは、自分の権力を確実なものとするため、カルタゴの兵を巧みに利用する。

前316年、アガとクレスはハミルカルに委ねられたリビア兵5,000人を使い、シュラクサイでクーデターを決行。
貴族たちを殺害して600人の寡頭体制を終わらせ、僭主(独裁者)となったのである。

さらに亡命者を追撃するべく、周辺都市のアクラガス、ゲラ、メッセネ等を攻撃した。

カルタゴ、アガトクレスとの戦いを決意する

兼ねてからカルタゴがメッセネと親交があったことは、カルタゴⅠのシケリア戦争への道ですでに述べた。
その縁で、シュラクサイから攻撃を受けたメッセネ市は、カルタゴに救援を依頼したのである。

この救援に駆けつけたハミルカルの仲介で、アガトクレスとカルタゴとの間で約が結ばれた。
この和約のもとで、ハミルカルの黙認を得たアガとクレスは、シチリアの諸都市を攻撃するが、この中になぜかカルタゴとの同盟都市も含まれていた。

さらにアガトクレスの後ろ盾とも言うべき将軍ハミルカルが死んだことで、カルタゴはアガトクレスと戦うことを決意。
先のハミルカルとは別人である、「ギスコの子」ハミルカルを派遣してアガとクレスを破ると、シュラクサイを包囲したのだった。

アガトクレスのアフリカ侵攻

窮地に陥ったアガトクレスは、一発逆転を狙うべく、賭けに出た。
まず彼は、壮年の奴隷を解放して兵士にした。
さらに同数の自由人たちをともに船に乗せる。
そして包囲されたシュラクサイの防衛を兄弟に任せると、自らカルタゴ艦隊の封鎖を突破してアフリカ本土、つまりカルタゴの本拠地を突く作戦に出たのである。

前310年、アガトクレスはボン岬付近に上陸すると、船を焼き払って退路を絶った。
そして実り豊かなカルタゴの農園に驚きながらも略奪をし、アフリカの城塞や都市を次々と落としてカルタゴ市に迫ったのだ。

アフリカ本土に上陸されて、カルタゴはパニックに陥った。
しかしシチリアに派遣した艦隊の無事を知ると平静を取り戻し、改めて二人の将軍ハンノ、ボミルカルを指揮官に任命して、アガトクレス軍を迎え撃った。
その数、4万の歩兵に1,000の騎兵、2,000の戦車部隊。
この中にはカルタゴ貴族で構成された精鋭部隊、神聖軍団の姿もあった。

戦いが始まると、激戦の中ハンノは戦死。
もう一人の将軍ボミルカルは、ハンノが倒れたことを知ると、なんと戦線を離脱してしまったのだ。

彼は、かねてから僭主(独裁者)の野望を持っており、むしろカルタゴが破れたほうが市民を従える良い機会になると考えたようである。
これは一種のクーデターと見ることもできるだろう。

司令官2人を失ったことで、カルタゴはアガトクレス軍に破れた。
勝利したアガトクレスがカルタゴ陣中で見たものは、勝ちを確信するカルタゴ軍が、敵を奴隷として売るために使う、2万対以上の手枷を積んだ荷車だった。

カルタゴの神頼み

カルタゴはこの危機を乗り切るため、宗教的な対策、つまり神を頼った。
古代では、自分たちの信心が足りなかったり、神に対して不敬を行うと災いが降りかかり、逆に神を敬うことで自分たちを守ってもらえると信じられていたからである。

カルタゴは、これまでなおざりになっていた母市への十分の一税を復活させ、多額の供物と金をテュロスへと送った。
そしてカルタゴの神殿からテュロス市へ、神像を収めた黄金の社を奉納したのである。

さらに彼らは「クロノス神(おそらくバアル・ハモンかタニト。ギリシア人の史料なので、ギリシア神に変更された?)」に対し、貴族の子供たち200人を生贄とした。
理由は、もともと貴族の子どもたちを差し出していたのに、近頃は他の(奴隷か)子にすげ替えていたため、神々が怒り、罰を与えたと考えたためだった。

ただし、これらが実際に行われたかどうかは、判断が難しいようである。

アフリカ諸都市の離反とアガトクレスの帰還

カルタゴが破れたことで、いくつかのアフリカ諸都市もカルタゴから離反し、アガトクレスに味方した。
東キュレネ(カルタゴとエジプトの間にある北アフリカの土地)の支配者オペッラスは、アガトクレスと組み、全北アフリカの支配を構想したという。
また戦場から離脱したボミルカルも、アガトクレスとの合流を図った。

しかしアガトクレスには、アフリカを本気で征服する気はなかったようだ。
結局オペッラスはアガとクレスに暗殺され、また将軍ボミルカルも、アガトクレスとの合流直前で捕まって処刑された。

前308(307)年、シチリアと南イタリアへの勢力拡大を優先を考えたアガトクレスは、シュラクサイに帰還し、カルタゴの危機は去ったのである。

カルタゴの構造的問題

アガトクレスのアフリカ侵攻は、カルタゴの現地人支配と政治的構造の矛盾を、あらためて浮き彫りにした。
その問題点は、次の2つ。

  1. 過酷な支配と、カルタゴ人との扱いの差から生まれる、リビア(現地)人離反の可能性
  2. 嫉妬からうまれる将軍たちへの厳しい処遇により、将軍が祖国を裏切る潜在的な危険

(1)についてはシチリア戦争後のアフリカ問題ですでに述べたので、今回は(2)にスポットを当ててみたい。

カルタゴの政治体制が、政と軍に別れているのは、カルタゴの政治体制で説明したとおりだ。
軍を率いるのは将軍だが、彼らは戦時で重宝される一方、平和になった途端、妬みから偽りの容疑をかけられ、陥れられた
そして残忍かつ苛烈な運命が待ち受ける
つまり彼らは戦時中のみに利用される、使い捨てのコマだったのである。

そのため将軍たちは、この運命を恐れるために、あるものは祖国を去り、またあるものは軍事クーデターを図ろうとしたのだ。
先に登場した百人会は、将軍たちを監査し陥れる急先鋒の機関だった。

長年の繁栄を誇った都市国家カルタゴの、成人病とも言えるこの二つの問題は、後の運命を左右することになるのである。

今回のまとめ

それではカルタゴについて、おさらいしよう。

  • カルタゴは、フェニキア系都市テュロスの植民都市だが、上下関係はなく、宗教的な傍系都市だった
  • カルタゴは、母市の交易を引き継ぎ、西地中海交易の中心として栄えた
  • 母市がオリエントの激動で力を失う中、イベリア半島の金属とシチリアをめぐり、カルタゴはギリシア勢と対立した
  • ギリシア勢との決戦、ヒメラの戦いで大敗した後、カルタゴはアフリカ本土の軍事的支配を確立し、わずか数十年で復興した
  • その後もシチリアをめぐるギリシア人(とくにシュラクサイ市)との戦いが、断続的に続いた
  • その中で、カルタゴの制度は次第に精緻化され、対外政策も洗練されていった
  • しかし彼らの復興が急速だったため、アフリカ人の離反を招くおそれが常にあった
  • さらにカルタゴの政治的な構造から、将軍の裏切りやクーデターが起こる問題も抱えていた

交易都市というDNAをしっかりと持ちながら、同時にギリシア人たちの制度をうまく組み込み、幾度の危機を乗り越えて発展を遂げたカルタゴ。
彼らはまさに、「地中海の女王」にふさわしい地位を手に入れたと言っても過言ではないだろう。

しかし国家が長く続く中で、次第に内なる病を抱えていくことになる。
そんな中、オリエントではアレクサンドロス大王の出現で激動の時代が訪れ、母市テュロスは陥落。

さらにカルタゴの地中海対岸では、ローマが今まさにイタリア半島を統一しようとしていた。
そしてカルタゴとの間に起こる、運命の時が刻一刻と迫っていたのである。

本記事の参考図書

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