ローマングラス。
古代ローマ時代に使用、製造されたガラス製品を総称して、古代ローマのガラス=ローマングラスと呼ぶ。
Amazonにもローマングラスで作られたアクセサリーが売っているので、あなたも目にしたことがあるかもしれない。
もっとも人工的に加工したガラス自体は、古代ローマより以前にも作られていた。
だが、それまで地域や用途が限定的だったガラス製品が、古代ローマ時代に種類も増え、使用される地域も一気に広まったのである。
では古代ローマ時代にガラス製品が広まった理由とは、なんだったのだろうか。
そこでこの記事では、
- 古代ローマ以前のガラス製造と技法
- ローマングラスの製造技法
- ローマングラスの製造過程
- ローマングラスでどのような製品が作られていたか
を見ていくことにしよう。
ガラスとはなにか
ガラスの定義
そもそもガラスとはいったいなんなのか。
古代ローマのガラス=ローマングラスを見る前に、ガラスそのものについてを見てみよう。
ガラスの様々なことを説明してくれるサイト、ガラス工芸広場 の中で、ガラスを次のように定義している。
溶融物を結晶化することなく冷却固化させて得られる非晶性の無機材料
ガラス工芸広場 | ガラス原料あれこれ
これを一度読んだだけで理解できる人は、かなり少ないのではないだろうか。
この定義を簡単な言葉にすると、次のようになるだろう。
溶けた液体状のものを、冷やして固めてできる、液体の特性を残した生物に使われていない材料
まだ分かりにくいので、水を例にしてみよう。
水は冷やすと、氷という固体になる。
これは水を構成する分子がきれいに並ぶ、つまり結晶化が起こった結果、氷になった、と言い換えることができる。
では、水が液体の特性(つまり結晶化しない非晶性)を保ったまま固まると、どうなるか。
水の表面は固体と違い、なめらかだ。
さらに水の向こう側が見えるという透明性がある。
この液体の特長を保ったまま固まることができる材料が、ガラスなのである。
古代に使用されたガラスの種類
ガラス、と一口に言っても、実は様々なものがある。
例えば黒曜石など、自然界にはガラスの特性をもったもの存在する。
(実際黒曜石は、石器として加工されていた)
また、人工的に創りだすガラスにも、わざと結晶化させるガラス(結晶化ガラス)や耐熱性を上げる硬化ガラスなどもある。
しかし古代において、製品として加工するガラスは、ソーダ石灰ガラスと呼ばれるものを使用していたのだ。
詳しくはローマングラスの製造過程で説明するが、この記事でのガラスとは、このソーダ石灰ガラスを想定している。
ソーダ石灰ガラスの材料
では、ガラスの材料は何か。
さきほど説明したとおり、ガラスには様々な種類があり、ガラスによって使われる材料が変わるのだが、一般的なガラスであるソーダ石灰ガラスの組成は次の通りだ。
- シリカ
- 炭酸ナトリウム
- 炭酸カルシウム
このうち、シリカはガラスの基材(おおもとの材料)で、珪砂(けいしゃ)と呼ばれる砂を使う。
この珪砂、実は砂浜や砂漠、はては公園の砂場に使用される砂にまで含まれる、地球上でありふれた材料である。
珪砂を高温で熱するとガラス状へと変化するが、かなり高い温度が必要なため、通常はソーダ灰(炭酸ナトリウム)を混ぜて溶ける温度を下げる。
しかしソーダ灰を混ぜると、溶けるまでの温度は下がるが、耐久度がさがるため、それを補うために、石灰の粉である炭酸カルシウムが必要となる。
上記材料をローマングラスの製造ではどうしていたかは、ローマングラスの製造過程を見ていただくといいだろう。
古代ローマ以前のガラスの製法
この記事の冒頭でも説明したとおり、古代ローマ以前の時代にもガラス製品を製造、加工する技術はあった。
ここでは古代ローマ時代に至るまでの、ガラスの製法の歴史を見ていこう。
ガラスの起源は5,000年前
ガラスはいつから作られはじめたのか。
ガラスの起源は紀元前4,000年ごろ、今から約6,000年前までさかのぼったメソポタミア地方(現在のイラク)かエジプトといわれている。
はじめは石にガラス質の釉薬(うわぐすり)を塗り、ビーズのようなものを作っていたらしい。
それが、紀元前2,300年ごろからガラスそのものを加工するようになったようだ。
その頃の製法は、砂に型を作り、そこに溶かしたガラスを流し込むという、『鋳造』と呼ばれるものだった。
ただしガラスを溶かす温度が低く、内部に気泡が残ったり、鉄分などの不純物が混じっていたりして、ほぼ透明ではなかった。
だがガラス特有の光加減が宝石のようだったのと、大量に生産できないために、かなり貴重な品物として扱われていたという。
紀元前16~15世紀 メソポタミア・エジプトのガラス
紀元前16世紀にはメソポタミアで、紀元前15世紀にはエジプトで、コア(芯)技法を使ったガラス容器が作られた。
コア技法では、次の手順でガラス容器を製造する。
- 粘土であらかじめ容器の内側の型(コア)を作る
- 粘土の型に溶けたガラスを被せる
- その上から他の色のガラスを紐状にして巻き付ける
- 先の尖った棒状のもので表面をひっかき、模様をつけたり取っ手と口の処理をする
- 徐冷(ガラスが歪まないよう、徐々に冷やしていくこと)後、内側の粘土型を壊して取り出す
コア技法では主に香油瓶や化粧瓶が製造され 、ガラスの原料に様々な鉱物を混ぜることで、多彩な色を付けることができた。
しかし色の調合が門外不出だったり、型を作ることが非常に手間だったりして、王侯貴族しか使うことのできない貴重な製品だったのである。
紀元前4~1世紀 ヘレニズム時代
紀元前4世紀には、同じくメソポタミアやエジプトで新たな技法が開発された。
それが熱垂下技法である。
熱垂下技法では、次の手順でガラス製品を作った。
- 容器の内側となる、半球形の型をつくる
- ガラスを熱して円盤型にする
- 円盤型のガラスを半球形の上に置き、ガラスの重みと熱で型にかぶさるようにする
- 型にかぶさったガラスを徐冷後、内側の型を取り出す
熱垂下技法では、より大きく開口部の広い碗を製造することができた。
しかしコア技法と同じく、
- 内側の型をあらかじめ作る必要がある
- 型を取り出したあと、ガラス自体を磨いて仕上げる必要がある
ため、結局は製造に大変な手間がかかり、ガラス製品が高価で希少な品物であることに変わりはなかった。
古代ローマのガラス、ローマングラスの製造技法
紀元前1世紀頃から、ガラス製品の産地だったシリア―パレスティナやエジプトを古代ローマが支配した。
そして、このころから古代ローマのガラス製造が始まるのである。
初期のガラス技法
古代ローマのガラス製品も、初期の頃はそれまでと同じく、鋳造や熱垂下技法により製造されていた。
鋳造
古代ローマでは、紀元前1世紀ごろ鋳造により、リブ碗などの容器のほか、窓ガラスも作られていた。
鋳造の技法についてはガラスの起源は5,000年前と基本的に同じ方法である。
鋳造で作られた窓ガラスには、現代のような透明性はなく、さらに厚さが1.5~2cmもある分厚いものだったようだ。
熱垂下技法
熱垂下技法も、基本的には紀元前4~1世紀 ヘレニズム時代と同じ方法である。
不透明なガラスか、透明(といっても、いまのような透明度には程遠い)で色があるものがあった。
ガラス製法の革命「吹き技法」
ところが紀元1世紀、シリア―パレスティナ地方でガラスの製造に革命的な製法があらわれた。
それが「吹き技法」と呼ばれる製法である。
吹き技法には、
- 宙吹き
- 型吹き
の2種類があるので、説明しよう。
宙吹き
吹き技法とは、 ストロー状の棒(ガラスや鉄製)の先に溶けたガラスを絡め、それを反対の棒の先から吹いて形をつくる技法のこと。
その中でも「宙吹き」は、型を使わず空中で、
- 吹き込む息
- ガラス自身に働く重力
- ガラスの重みで落ちないように竿を回転させる、わずかな遠心力
により、形を整えていく技法をいう。
テレビに映し出されたガラス職人が、宙吹きでガラス容器を作っているところを、あなたも見たことがあるのではないだろうか。
型吹き
いっぽう「型吹き」とは、あらかじめ作っておいた容器の外側の枠の中に、竿に絡めたガラス玉を入れ、そこに息を吹き込んで形をつくる技法のこと。
宙吹きとは違い、型をつくる手間はかかるものの、ある程度同じ形にいくつもの容器を手早くつくることができる。
また型吹きのもう一つのメリットは、型に細かな装飾を施すことで、宙吹きでは再現できない模様をガラス容器に付加することができる、ということ。
宙吹きが編み出されてから半世紀ほどあとに、 型吹きの製法も使われ始めたようである。
このように吹き技法では、これまでの技法と違い、
- 型(コア)を別につくる手間
- 仕上げに磨く手間
が必要なくなったため大幅に時間が短縮でき、より多くのガラス製品をつくることができるようになった。
その結果、ガラス製品の価格が一般の人の手が届くほど下がり、なおかつガラス製品自体の種類も豊富になったのである。
ローマングラスの製造過程
古代ローマのガラス、ローマングラスの製造技法でガラス製品をつくる技法を見てきたが、これらの技法をつかって製品をつくる以前に、製品の原料である未加工のガラスを、製品をつくる工房とは別の場所でつくる必要があった。
なぜか。
ソーダ石灰ガラスの材料で、ガラスをつくる材料に珪砂が必要なこと、これをガラスに変えるため、高温で熱する必要があることは、さきに述べたとおりだ。
この高温を出力するため、大きな窯(工房)が必要になる。
いっぽう実際のガラス製品をつくるには、ガラスの運搬時に割れるリスクを想定して、流通先である都市の中か、あるいは近くに工房があったほうがいい。
未加工でもガラスの形状をしていれば、加工にはそれほど高温が必要ではなく、より小さい窯(工房)ですむのだ。
そこで、ガラスの原料が採れる場所の近くに未加工のガラス(のかたまり)を作る工房(一次工房)をつくり、そこで作ったガラスを実際の製品をつくる工房(二次工房)に運んだ、というわけである。
では、一次工房と二次工房で、どのようなことが行われていたのかを見ていこう。
一次工房 ―原料採取からガラス化―
ローマングラスの原料と採取場所
ガラス(ソーダ石灰ガラス)の組成が、
- シリカ
- 炭酸ナトリウム
- 炭酸カルシウム
であることは、ソーダ石灰ガラスの材料ですでに書いた。
ではこの組成に必要な原料はなんだったのか。
シリカ
シリカにとって必要なのは、珪砂である。
この珪砂は、古代ローマでは海岸の砂を利用していた。
だがどこでも採れる海岸の砂とはいえ、その砂にもガラス製造に適したものが採取できる場所があった。
古代ローマ時代の博物学者である大プリニウスは、ガラス製造に適した砂の採取場所を2箇所上げている。
一つはイスラエルのベールス川の河口付近。
もう一つはイタリアのウォルトゥルヌス川の河口付近。
ベールス川とは、植民市プトレマイス(現アッコ)付近にあった川だ。
後70年に起こったユダヤの反乱を書いた『ユダヤ戦記』のなかで、フラウィウス・ヨセフスも、ベールス川に言及している箇所がある。
ウォルトゥルヌス川は、現ナポリ付近にあった川である。
こちらも6キロに渡って、河口付近に白い砂(ガラスに適した砂)があったようだ。
炭酸ナトリウム、炭酸カルシウム
古代ローマでは、炭酸ナトリウムは天然鉱物のナトロンで供給した。
また、ナトロンには炭酸ナトリウムのほかに、炭酸カルシウムも含まれていたのである。
ではナトロンが採取できた場所はどこか。
ナトロンはエジプトのアレキサンドリア―カイロ間にあるワーディ・ナトゥルーンがもっとも有名な産地だった。
ナトロンの名前の由来は、この「ナトゥルーン」からきている。
ガラス原料の採取場所をみると、(一部例外を除き)シリア―パレスティナやエジプトに多いことがわかるだろう。
一次工房は、この原料産地付近に集中していたのである。
ガラス塊の製造方法
では一次工房では、製品化前のガラスのかたまり(ガラス塊)をどのように作っていたのだろうか。
ガラス塊は以下の手順で作られた。
- 原料である砂とナトロンを調合する
- 調合したものを、窯の外壁で覆われた2×4メートルの四角いプールのような窪みにいれて満たす
- 同じく窯の外壁で覆われた燃料室に、燃料をいれて火をつける
- 1100℃で約2週間ほど加熱して溶かし、徐冷のため放置する
- 窯の外壁を壊す
- 2×4メートルの巨大な四角いガラスを、ツルハシのような道具で適度な大きさに割って取り出す
できた巨大ガラスは、透明の淡い青色をしていたようである。
実際の光景を目にすると、まるでプールに水を張ったような、きれいな姿だったと想像できるだろう。
また、できたガラス塊は、何十トンもの重さがあったという。
ガラス塊の移動方法
できたガラス塊は、二次工房でガラス製品に加工するため、一次工房から各地へ運ばれた。
では、二次工房へはどのような手段で運んだのか。
まず、ガラス塊は地中海の沿岸部に運ばれ、そこから船で搬送された。
ガラス塊はその重さから、船を安定させるために、バラスト(底荷)として利用されたようである。
そして二次工房がある都市や、都市に近い沿岸部の港に陸揚げされたのだ。
ただし、二次工房は4世紀までには帝国全域に広まっていたため、内陸部にまで運ぶ必要があったと思われる。
ここからは私の想像だが、 ガラス塊は重いため、なるべく川を利用した水路で運んだのではないだろうか。
水路がなくなると、いよいよ陸路での運搬となる。
昔の道路事象や車輪事情で、相当荷運びも揺れたことが予想されるが、未加工品のため、原料ガラスの多少の割れは気にしなかったと思う。
二次工房 ―未加工ガラスから製品化―
一次工房で生産されたガラス塊が、二次工房、つまりガラス職人の工房へと運ばれると、いよいよガラス製品へと加工される。
ローマングラスの成形技法については、古代ローマのガラス、ローマングラスの製造技法ですでに書いたので、それ以外の様子を見てみよう。
ガラス職人の様子
二次工房で働いていたガラス職人は、どのように働いていたのだろう。
北イタリアのフェラーラや、クロアチアのアッセリアから出土した、1世紀ごろのテラコッタ(素焼き陶器)製ランプに、ガラス職人の姿が描かれている。
そこでは2人が向き合って作業しており、一人は筒状のものを空中に向かって吹いている図(宙吹き)、もうひとりはハサミのようなものを持っている。
このことから、工房では複数人(親方と弟子?)が共同で作業していた様子がわかる。
また、燃料室と溶融室(ガラスを溶かす空間)を持った窯が描かれており、ガラス製品を整形するための台もある。
おそらく古代ローマ時代から、装備や道具が現代のガラス工房と非常に近いかたちだったと想像できるのだ。
また、出土したガラス瓶に刻まれていた名前が、センティア・セクンダという女性名から、女性のガラス職人が存在していたようである。
ローマングラスの装飾方法
ガラス製品の基本的な形を作る方法は、古代ローマのガラス、ローマングラスの製造技法ですでに説明したとおりだ。
ではローマングラスに様々な付加価値を加える装飾は、どのように行っていたのだろうか。
装飾の方法は大きく分けると
- ホット・ワーク
- コールド・ワーク
の2種類がある。
ホット・ワーク
ホットワークとは、ガラスがまだ熱いうちに形をつくる成形と装飾をくわえる加飾を同時におこなう方法のこと。
ホット・ワークで行った装飾方法は、次のとおり。
- 型吹き
- モールド(熱したガラスを容器の形状にふくらませる前に、あらかじめ型で縞模様や幾何学模様をつける方法)
- 有色ガラスの粉をガラス種につけてふくらませる技法
- 溶けたガラスを斑点状につける技法
- 溶けたガラスを紐状に垂らして容器に装飾する技法
- ガラスの表面を器具でつまんで装飾する技法
- 金箔や銀箔、エナメルを二層のガラスでサンドイッチする技法
コールド・ワーク
コールド・ワークとは、ガラス製品の成形と徐冷が終わったあとに、装飾をする方法のこと。
コールド・ワークで行った装飾方法は、次のとおり。
- フリーハンドで模様を削ることや旋盤(回転するヤスリ)研摩、切り子(とがったヤスリでガラスを削って装飾する方法)などのカット方法
- うわぐすりであらかじめ絵や模様を描き、それをガラス製品本体に焼き付ける、エナメル彩色
このほかにも、現在までに解明されていない装飾方法があったといわれている。
ガラスは陶器は違い、一度壊れても溶かして再利用できるため、古代ローマでも再利用、いわゆるリサイクルが行われていた。
その証拠に、ポンペイではリサイクル用にガラスの破片を保管していた場所があったようだ。
また南フランスの海岸近くで発見された難破船からは、リサイクル用とおもわれる壊れたガラス製品の破片が発見されている。
ローマングラスの製法技術の広まり方
ローマングラスの製法、特にガラス製品を作る小型の工房である二次工房は、4世紀にはローマ帝国各地に広まったとされている。
では、二次工房はどのように広まったのだろうか。
エジプトやシリア―パレスティナからイタリア半島へ
紀元前一世紀半ば、吹き技法がシリアで発明されたころ、ローマの支配がシリアやエジプトまで及ぶようになった。
この影響もあり、シリアとエジプトのガラス職人はまず、ローマ世界の中心でもあるイタリアに移住して、ガラス製品の製造技術を伝えた。
アクィレイア方面
シリア・シドン(現レバノン・サイダー)の職人たちは、北イタリアのアクィレイアにガラス技術を伝えたようである。
アクィレイアはアドリア海に面しており、また北のバルト海や西のガリア方面、さらには東のオリエント方面にも通じる交通の要所で、古代ローマでは最も栄えていた港湾都市の一つだった。
プテオリ方面
一方エジプト・アレクサンドリアの職人たちは、イタリア南部のカンパーニア地方であるプテオリに移住した。
カンパーニアにはナポリやポンペイなどの栄えている街が多く、また一大消費地である首都ローマにも近かったからである。
その後首都ローマにもガラスの製法は伝播し、ローマの街に『ガラス職人街区』も現れるようになる。
ローマ帝国各地へ
さらに時代が進むと、ガラス製品の製法はイタリア以外の帝国各地へと伝わった。
後1世紀に生きた大プリニウスは、新興のガラス製造地として、イタリアのほかにガリア(現フランスやドイツの一部)、ヒスパニア(現スペイン)を著書の中に記している。
また後1世紀には、イギリスでもガラス製品の製造が始まっていたらしい。
その後さらに多くの地域、現在のオーストリアやスロヴェニア、クロアチア、ブルガリア、ギリシア、アルジェリアなどにも広がっていったのである。
ローマングラスで何が作られていたのか
このように帝国各地へと技術が伝わったローマングラスの製法。
ではローマングラスで具体的に、どのような製品が作られていたのだろうか。
日用品や饗宴用の道具
吹き技法が発明されたことで、これまで王侯貴族や一部の富裕層にしか手に入らなかったガラス製品が、一般の人の手に届くものとなった。
それに伴い、普段の生活でつかうものが作られたのが、ローマングラスの特長である。
具体的に作られたものは次のようなものだ。
- 浅い碗
- 脚付きの碗
- 水差し
- 保存用の瓶
- 保存用の壺
- 飲み物を入れる杯
特に飲み物を入れるための酒杯は、古代ローマの社交場でもある饗宴に使用する食器として重宝されたに違いない。
それまで使われていた金属杯と違い、ガラス杯は器自体に
- 味がしない
- ニオイがしない
- 容量(減り具合)がひと目で分かる
といったメリットがあったからだ。
また饗宴では、ガラス壺にボラ(魚)を入れて、窒息する過程で色が変わっていく様子を鑑賞したという、セネカの記述がある。
この魚はガラスの壺に閉じ込められて持って来られ、正に死なんとするその色が眺められる。魚が空気を求めて苦悶している間に、その色を死が様々な色合いに変えるのである。
ガラスの中の古代ローマ | 第一章第二節 饗宴の器――壺、酒杯
このように、一般市民の間だけではなく、ローマ貴族の間でも高級なガラス製品が使われていた。
なお、饗宴の様子についてはケーナでの晩餐について―ローマの上流階級は本当に自堕落な食生活だったのか―をご覧いただくといいだろう。
香油瓶・化粧瓶
乾燥から肌を守ったり、いい香りをまとわせる香油は、男女問わず人気があった。
また、ローマ人が公衆浴場に行くと、体に香油を塗ったあとに肌かき器で体をこすって洗うため、ローマ人にとって欠かせないアイテムでもあったのだ。
その香油を入れておく瓶の素材に、ガラスは重宝された。
なぜなら、
- 陶器と違い、中身が染み込まない
- 蓋を使って密封すると、香りが外にもれない
- どこまで使ったかがひと目で分かる
といったメリットがあったからである。
※ただし香油は光によって変質するため、ガラス瓶は光を通さない木箱などに保管されたらしい。
古代ローマの香油瓶は、様々な形が作られた。
- しずく型
- つぼみ型
- 首の長いロウソク型
- 人面型
- 神面型
- 鳥型
- ぶどうやナツメヤシなどの果実型
- 貝型
これらの瓶には、乳白や透明な青、黃、紫、茶など色のバリエーションも豊富だった。
また、先述した入浴用の香油を入れておく瓶は、左右に取っ手があり、その取っ手に吊り金具が付けられるようになっていた。
これを肌かき器とともに、腰からぶら下げて携帯していたのである。
なお、古代ローマの公衆浴場については、お風呂にかける情熱はお湯より熱い!古代ローマ人が愛したテルマエを語ろうでも詳しく説明しているので、興味のある方はご覧いただくといいだろう。
ランプや葬礼用の道具
3~4世紀には、自然光ではなく、ガラスでできた杯、もしくは碗状のランプが光を灯すようになった。
また、杯状のランプは、金具に固定して天井から吊るしたり、机の上で木製の台につけられて使われていた。
天井から吊るすタイプは、シャンデリアのように複数のランプを環状に固定するものもあったらしい。
また、葬礼につかうものとして、ガラス製の骨壷が使用されることもあった。
骨壷は大型で透明の淡い青色、壺の両側にM型の取っ手があり、フタがつく形が典型的なタイプだったようだ。
窓ガラス
古代ローマの窓ガラスは、初期のガラス技法でも説明したとおり、はじめは製法上の理由から、分厚くで不透明な、しかも均一性の乏しいものだった。
しかし、窓ガラスの製法にも画期的な方法が現れる。
それが吹き技法を応用した円筒法である。
円筒法で作る窓ガラスの製法は、次のとおり。
- 吹き竿でガラスの小さな球をつくる
- 吹き竿を振り、遠心力と重力で小さな球を円筒状に変化させる
- 両端を切り離し、さらに円筒を縦方向に切り開く
- 切り開いたガラスを伸ばす
この方法を使うことで、鋳造で作っていた窓ガラスとは違い、
- より大きく
- より光を通し
- より安く(といっても高価だったが)
することができたのだ。
実際この窓ガラスを公衆浴場に使うことで、いままで暗闇のように暗かった浴室が、陽の光を取り入れて明るくなったとセネカは言っている。
エジプトのある浴室では、2700kgの窓ガラスが必要だったこともパピルスに記されている。
裕福な人々の邸宅や、インスラ(高層住宅)の低階層(比較的裕福な市民の住まい)では、窓ガラスが使われることもあった。
これまで木の板で開閉していた窓とは違い、部屋が一気に明るくなったに違いない。
また、窓ガラスを作る職人は、通常のガラス職人を表す「ウィトリアリウス(vitriarius)」ではなく、「スペクラリウス(specularius)」という特別な呼び名があった。
まさに「窓ガラス職人」という職業だったのだろう。
壁の装飾用ガラス
壁の装飾にも色つきガラスが使われた。
たとえばネロの邸宅であるドムス・トランジトリアには、ストゥッコ(漆喰)装飾の植物文様の各花の中央に、濃い青の半球状ガラスが貼り付けられている。
またポンペイのある邸宅では、金箔で装飾された円盤型のガラスが壁面装飾として使用されていた。
さらにモザイク画の材料として、石の代わりにガラス製のテッセラ(小片)が使われることもあった。
古代ローマ時代には、ガラス製のメガネは存在しなかった。
だが、ガラスを通すと、光の屈折で実際よりも大きく見えることは知られていたようだ。
実際セネカは、水を満たしたガラス球を使うと、文字が大きく見えると自身の著作に書いている。
ガラス製品の価格
最後にガラス製品の価格について見ていこう。
一般的なグラスの価格
紀元前1世紀までは高価だったガラス製品だが、吹き技法が発明されると比較的多くの製品を市場に供給できるようになり、それにつれて価格も下がった。
また金属とは違い、簡単に割れてしまうガラスの特性も、価格に影響していたことだろう。
たとえばストラボンの著作である『地理誌』の中に、青銅貨(おそらくセステルティウス銅貨)1枚でガラス杯が購入できるようになった、という記述がある。
紀元1世紀当時の価格例は、ポンペイの家計簿からわかる、古代ローマ時代の貨幣価値に記載したが、パン一斤(丸いパン1ホール)が8アス=2セステルティウスなので、それほど高い買い物ではなかっただろう。
ただし、ガラス製品もピンからキリまであったようで、大プリニウスはネロ帝時代(1世紀半頃)に開発された「ペトロトス」(どんなものかは不明)は、小さな杯2つで6,000セステルティウスもしたという。
ディオクレティアヌス帝の最高価格令での比較
さらに帝政後期になると、それまでローマ帝国でまん延していたインフレーションに歯止めをかけるため、301年にディオクレティアヌス帝が最高価格令を発布した。
インフレ抑制のため、ギリシア・小アジア・エジプトなど、ローマ帝国東方を対象として発布した勅令。
さまざまな品物や賃金に対して、それ以上値上げしてはいけないという「最高価格」を提示した。
特に品物は、重さ(1リブラ)に対していくら、という決め方だった。
この中で、ガラスは次のように決められていた。
アレクサンドリアのガラス | 24デナリウス |
---|---|
ユダヤの緑がかったガラス | 13デナリウス |
アレクサンドリアのガラスの杯と皿 | 30デナリウス |
ユダヤのガラスの杯と皿 | 20デナリウス |
最上級の窓ガラス | 8デナリウス |
中級の窓ガラス | 6デナリウス |
※1リブラ(327.45g)あたりの価格
これでは高いか安いかよくわからないと思うので、比較対象として豚肉と金についても見てみよう。
- 豚肉・・・1リブラあたり12デナリウス
- 金・・・・1リブラあたり5万デナリウス
比べてみると、ガラス製品は食料品とさほどの違いはなく、逆に貴金属がいかに貴重で高かったかがおわかりいただけるだろう。
今回のまとめ
古代ローマのガラス、ローマングラスについて、もう一度おさらいしよう。
- 古代ローマ以前のガラス製品は、製法上手間がかかり、大変貴重なものだった
- 古代ローマにガラスが普及したのは、吹き技法が発明されたから
- 古代ローマのガラス製品の製造過程では、ガラスの原材料であるガラス塊を作る1次工房と、ガラスを加工して製品を作る2次工房があった
- 古代ローマ時代に、シリア―パレスティナやエジプトからイタリアに伝わったガラスの製法は、その後ローマ帝国各地に広まった
- 古代ローマのガラス製品は、多種多様なものが存在した
- 古代ローマのガラスの価格は一般市民に手が届いたが、非常に高価なものもあった
ローマ帝国で作られたローマングラスは、ローマ帝国だけでなく、東は中国、北はバルト海やスカンジナビア半島にまで伝わったという。
古代ローマ時代に、 まさにユーラシア全土を駆け巡ったのだった。