古代ローマの商船と商用の港

古代ローマの商船と商用の港

紀元前3世紀半ばから、カルタゴとの戦争に入り、初めて本格的に海に乗り出したローマ人は、やがて地中海全域を支配するようになった。
それに伴い、彼らの航海技術も進歩を遂げ、ローマ領内や、アラビア、はてはインドにまで貿易に乗り出すようになる。

では古代ローマ人たちは、どのような船を使い、また船を停泊させるための港はどのようなものだったのだろうか。

この記事では、主に紀元前1世紀ごろからの商売に利用した船である商船と、その船を受け入れる港がどのようなものだったのかを見ていくことにする。

商船の種類

古代ローマ人はどのような船を使って物資を輸送していたのだろう。

輸送に使う船の種類は大きく分けて次の2つ。

  • 帆を立てて推力を得る「帆船」
  • オールを使って人力で進む「ガレー船」

この2つのうち、航海で主に使われていたのは帆船だ。
なぜなら漕手が乗ってしまうと、その分輸送物資を運ぶためのスペースが減り、効率が悪いからである。

帆船にはさらに「コビタ船」と「ポンタ船」である。
この2つはどんな船だったのだろう。

コビタ船

コビタ船の「コビタ」とは「Corbis = basket」つまりバスケットのことであり、荷を積むかご、という意味でこの名がつけられたと考えられている。

コビタ船には2本のマストがあり、船首付近にある前方に突き出した帆はアーテモンと呼ばれている。
また、船首(前)から船尾(後ろ)にかけて高くなっている。
また、船首部分が凸型になっているのも特徴だ。

ポンタ船

ポンタ船のポンタ(Ponta)とは、外洋のことであり、名前の由来から外洋船であることがわかる。
この船の特徴は3本のマストがあり、それぞれフォアマスト(前)、メインマスト(中)、ミゼンマスト(後)に設置されている。
このことからもわかるように、コビタ船よりも長距離を航行するための船として使われたようだ。

当時の交路には、地中海の他にもスペイン西部やフランス北西部を回って、イギリスまで航行する大西洋ルートがすでにあったので、このような長い航海にポンタ船は必要になったのだろう。

ガレー船

ガレー船は安定した推力があるかわりに、人手を必要とするため、

  • 航行コストが高い
  • 荷物を多く積むことができない

といったデメリットがあり、商用ではなく主に軍船として使用されていた。

しかし風のない日でも推力を得られることから、

  • 高級品
  • 鮮度が必要な生鮮食料品

を扱う場合は、商用の船として使用された。

ただしガレー船といっても完全に人力頼みだったわけではなく、船の帆を張れるようにマストは設置されている。

またガレー船は、流れがあり帆走が難しい河川でも使用された。

商船の帆について

今まで見てきたように、特殊な例を除いて商船には主に帆船が使われていた。
もちろん船の帆は古代ローマよりはるか以前から使われていた技術だったが、古代ローマで革命とも呼べる進化を起こしたのだ。

次は船の帆について見ていこう。

従来型のスクエア・セイル(横帆)

スクエア・セイルの「スクエア」とは四角のこと。
つまり四角い帆のことをスクエア・セイルという。

スクエア・セイル
スクエア・セイル
Wikipedeia より

古代船によく見られる帆の形であるスクエア・セイルは、進行方向に対して90度、つまり横向きに帆を張るタイプだ。
メリットは追い風に対して大きな推力が得やすいという点。
逆に向かい風だと立ち往生してしまうのが難点だった。

帆の革命、フォア・アンド・アフト・セイル(縦帆)

フォア・アンド・アフト・セイルとは、進行方向と平行に張る帆のこと。
追い風に対してスクエア・セイルほどの推進力を得ることはできないが、横風や向かい風につよい。

ラティン・セイル
縦帆の一つ、ラテンセイル
Wikipedia より

特に向かい風では、タッキング走法、つまり風に対してジグザグに進むことで、スクエア・セイルでは風が止むまで立ち往生していたシーンでも、前進することができるようになったのである。

これまでは、西暦600年頃にアラブ人によって発明され、それがヨーロッパに伝わったとされていたが、最近の研究で西暦200年頃までにはローマやそれ以前のギリシアでも使用されていたことが判ってきたようだ。

ただしスクエア・セイルほどの推進力を得られないため、古代ローマ時代には繊細な操作を必要とする沿岸部の航海で使用されていたようである。

古代ローマの船については、こちらのサイトを参考にさせていただいたので、あなたがもう少し詳しく知りたいのであれば、見ていただくといいだろう。

参考 ローマ帝国の船と港Hi-Story of the Seven Seas 水中考古学者と7つの海の物語

港の種類

船を停泊させるには、港が必要である。
では港には、どのようなものがあったのだろうか。

ローマ以前に、船の扱いを得意とする民族、ギリシア人とフェニキア人たちの港と合わせて見てみよう。

ギリシアやフェニキア

ギリシア人やフェニキア人たちは、自然地形が港に適した土地を見つけ、そこに港を作ることが多かった。
またギリシア人は円形の港を作ることが得意で、フェニキア人は掘り込み式(陸を港の形に掘って作る)が得意だった。

その代表がカルタゴに作られた、掘り込み円形式の港である。

カルタゴ港
カルタゴ港
奥に彫り込み円形式の軍港、手前が商用港
交路からみる古代ローマ繁栄史 より

奥の円形になっている船のドッグは軍船用の港だったと考えられている。
この港、古代に作られたとは考えられないぐらい、近未来的な建物だった。
下に詳しい記事へのリンクを張っておくので、ぜひご覧いただければと思う。

参考 まるで未来の設計図!紀元前の軍港が斬新すぎるTABIZINE ~人生に旅心を~

この港には、手前にも商用船が停泊する港もあるので、万全な体制がとられていたことだろう。

ローマ

ギリシア人やフェニキア人は海の民にふさわしく、航海技術や港の造設にも長けていた。
ローマ人は基本的に彼らから船の技術を学んでいったが、港についてはローマ人特有の技術を生かした造設方法を編み出した。
それがコンクリート工法を生かした直立、直線式埠頭の港である。

埠頭の違い
直立式と石積み式埠頭の違い
交路からみる古代ローマ繁栄史 より

ギリシアやフェニキアで作られた港は石積み式で、岸に向かって徐々に浅くなる傾斜がついていた。
しかし石積み式だと、船首を乗り上げて船を固定するにはいいが、積荷は1ヶ所からしか下ろしたり積んだりすることができない。

この点コンクリートでできた垂直、直線式の埠頭だと、クレーンを何台か用意して、何カ所からも荷を積んだり下ろしたりすることができる。

軍用のガレー船ならともかく、商船ではいかに早く積荷を積み込み、積み下ろしするかが、回転率を上げローコストにつながる大事な命題である。
ローマ人は時間の短縮と費用の削減を実現するため、天然の良港を探すよりも、自分たちで形を作り上げる方法を選んだのだ。

港湾設備と港の労働者

港には、それに付随した様々な設備がある。
ではローマではどのような設備があったのだろうか。
また、港で働く労働者は、どのような人がいたのだろうか。

ここでは主なものをいくつか紹介しよう。

港湾設備

灯台

昼間は目視できても、夜は暗く、陸までの距離を計ることが難しい。
ましてや古代では羅針盤がなかった時代である。
主に陸沿いを航行することが多かったため、あまり陸に近づきすぎると、船が座礁する危険もあった。

そのため、昼夜を問わずに炊いた炎の光で、陸(と港)の位置を知らせてくれる灯台は不可欠だったのである。

灯台といえば、アレキサンドリアにあった世界の7不思議の一つ、ファロスの大灯台が有名だ。
ただしファロスの大灯台は、カエサルがエジプト遠征で焼失させ、さらにその後の2度地震で倒壊してしまった。
もう一つの七不思議であるロドス島の巨像も、灯台として使われていたという。
漫画プリニウス にも描かれていたが、ロドスの巨像もまた、ローマが全地中海を支配した頃には、地震によって倒壊していた。

ローマの港では、オスティア港の灯台がある。
この灯台も上記2つに負けず劣らず巨大なもので、なんと53km離れたところからでも目視できたという記録が残っている。
(ただし主な使用方法は、日中に煙を炊いて位置を知らせる煙台だったようだ)

食糧などの備蓄倉庫

食糧を輸入に頼る首都ローマでは、常に安定した食糧を市民に供給できるよう、首都やその近辺である程度蓄えて置く必要がある。
さらに冬季になると航行が困難になるため、港付近で備蓄できる備蓄倉庫は不可欠だった。

そのためオスティア港では食糧の備蓄倉庫が建てられていたし、首都ローマにも、ティベリス川沿いに食糧を備蓄できる倉庫が建てられている。

ちなみにこの食糧備蓄倉庫は、ローマのコンクリート建造物でも最も古いものだった。

クレーン

水道橋や川に架ける橋梁など、古代ローマ建築のあらゆる場面に使われていたクレーン。
この時代から、基本的な構造は現代とさしたる違いはなく、動力が人か機械駆動か、また自在に移動ができ、方向が切り替えられるか、という使いやすさが主な違いだ。

クレーンを使用している様子
ローマのクレーン
Roman Military Equipment より

このクレーンを積荷の積み込み、荷降ろしにも利用した。
すでに述べたとおり、ローマ人はクレーンを有効に活用するため、直線・直立埠頭を設けて船を横付けし、数カ所からクレーンを利用できるようにしたのだ。

牽引船

牽引船とは、港の入口に到着した大型船を、所定の位置まで文字通り引っ張っていき、誘導する船のことだ。
また、大型船を港から外洋へ安全に運ぶ役割もあった。

牽引船に誘導してもらう理由は、大型船では狭い水道を縫うように進む繊細な移動ができないからだ。
大型船は牽引船に動力を任せ、船自体は操舵のみ行う。
車で例えるなら、故障車やガス欠の車を引っ張る牽引車を想像してもらうといいだろう。

このため、牽引船には数人の漕ぎ手と操舵する(方向を決める)人が乗っていた。
また大型船をわずか数人で引っ張るので、動き出すまでは大変な労力を必要としただろうと想像できる。

労働者の種類

港には、どのような労働者がいたのか。
ここでは国から派遣される役人と民間業者に分けて列挙してみる。

国から派遣される人(官僚)

港には港湾管理官庁が置かれていたので、そこに派遣された役人がいた。

  • 港税、関税を徴収する財務官
  • 穀物の輸入、管理をする食糧官

など。

民間の労働者

一方港に関わる民間の労働者の種類は多種多様である。

  • 荷物運搬のための荷役労働者
  • 荷物の軽量、管理のための計量者・積算士・計量書記
  • 倉庫に保管される荷物を点検する検数員
  • 船の補修などの船大工・帆づくり職人・防水職人
  • 貨物船の出入港を補助する曳船業者
  • 歩み板(タラップ)を段取りするファランカリィ
  • 海中に落ちたものを拾いあげる潜水夫

など。

また彼らは職業ごとに同業者同士の集まり(組合)をつくり、仕事の独占を図っていたようである。

古代ローマ最大の商用港、オスティア港(ポルトゥス・アウグスティ)

オスティア港
オスティア港
Ludopedia [CC BY-SA 3.0 ]

では最後に古代ローマでも最大級の商用港である、オスティア港を紹介しよう。

軍港から商用港へ

オスティアは、ローマの海の玄関口として栄えた都市だ。
カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)時は軍港が作られたが、カルタゴを下したあとは、徐々に商業港としての機能が求められるようになった。

紀元1世紀にもなると、首都ローマの人口が爆発的に増加したため、これまでローマに一番近い港であるプテオリ(現ナポリの近く)よりも、さらに近くの港が求められるようになる。
だがオスティアはティベリス川から運ばれる土砂が堆積するため、大型船が入る水深を確保することが難しい。
そこで河口から北東へ少し離れた場所(ティベリス側がちょうど南東へ曲がる地点)にオスティア港が建設されることになったのである。

ポルトゥス・アウグスティの建設

クラウディウス帝の建設範囲

新港は4代皇帝クラウディウス治世の紀元42年に始まった。
クラウディウス帝は、大型船が停泊できるよう、

  • 80ヘクタールの停泊区域の掘削
  • 2,300m以上の埠頭を建設
  • 港の安全のため、防波堤も建設

した。
さらに港湾設備と港の労働者でも触れた灯台を作るため、前帝カリグラが道楽で作った、エジプトからオベリスクを運ぶためだけの超大型船を海底に沈め、灯台の土台とした。

新港は46年に仮運転が開始され、次の皇帝ネロの治世下で完成。
名前もポルトゥス・アウグスティと命名される。

ポルトゥス・アウグスティには200隻以上の船が停泊できた。
だが、62年の嵐で船が100隻以上も沈む事故があり、またティベリス川から運ばれる土砂の埋戻しが激しく、港の機能は年を追うごとに低下していくという問題点があった。

内港の増設

トラヤヌス帝の建設範囲

ポルトゥス・アウグスティ(新港)が建設されてからもローマの人口は増え続け、食糧の受け口としての機能がますます求められるようになる。
そこで106年、時の皇帝トラヤヌスは、港の安全と機能性を向上させるために、港を掘り込み、内側にもう一つの港(内港)を作ることにした。

内港は六角形の形をしていて、内向の東側にはティベリス側へとつながる運河が掘られている。
この港から直接運河へとつながっており、ティベリス側を上る河川船への受け渡しもスムーズに行えるよう工夫されていた。

オスティア港が便利になったおかげで、船が安全に停泊できるようになった。
そしてオスティア港では、年平均12,000隻の船と、80万トンの貨物が取り扱われていたという。

さらにオスティア港の周りには、

  • 穀物倉庫
  • 積み荷や、積み下ろしをしたり、造船や船の修理するドックヤード
  • 税関
  • 護衛兵士の宿舎
  • 商人や船主、船頭の住居
  • 浴場
  • 劇場

などが立ち並び、2~3世紀ごろには非常に繁栄した。

しかしローマ帝国が衰退し、首都ローマがその機能を失うと、オスティアは次第に廃れていく。
さらにティベリス川が運ぶ土砂の埋戻しで、港は完全に機能を停止したのだった。

今回のまとめ

古代ローマの商船と商用の港について、もう一度おさらいしよう。

  • 商船には主に帆船のコビタ船とポンタ船が使われたが、特殊な品物を運ぶためにガレー船が使われることもあった
  • 古代ローマの帆船は、スクエア・セイル(横帆)の他にも、フォア・アンド・アフト・セイル(縦帆)がすでに使われていた
  • 古代ローマの港は直線・直立式埠頭を採用し、積荷を効率よく積み下ろしした
  • 古代ローマ最大級の商用港オスティア港では、年間12,000隻の船と80万トンの貨物を取り扱っていた

もともと陸の民だったローマ人だが、彼らは海の民から航海術や造船技術を学んだ。
そして自分たちの得意のフィールドであるインフラ技術を使い、より効率よく応用していったのである。

本記事の参考図書

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