第一次ポエニ戦争Ⅰ ―シチリア島渡航から初海戦、アフリカ本土上陸まで―

シチリア争奪から拡大した第一次ポエニ戦争

ポエニ戦争とは、イタリア半島を勢力下に収めた新興勢力ローマと、西地中海全域の制海権を握っていた海上帝国カルタゴとの、計3回、100年以上にも渡る戦争のことである。

「ポエニ」とは、ラテン語でフェニキア人を意味する。カルタゴがフェニキア人の母市テュロスに由来する都市なのは、カルタゴⅠ ―建国から黄金時代、ヒメラの戦いまで―で説明したとおりだ。

そして、ポエニ戦争の始まりであり、ローマとカルタゴが初めて相まみえたのが、第一次ポエニ戦争ということになる。

しかしローマとカルタゴは、戦争以前から仲が悪いわけではなかった。それどころか、少なくとも3回は条約を結び、互いの存在を認め合う友好国だったのだ。

事実、南イタリアとシチリアに侵攻してきたピュロスとの戦争では、(消極的ではあっても)軍事協定を結んでいる。

その両国が、なぜ争うようになったのか。

この記事では、第一次ポエニ戦争がなぜ起こったのかを説明するとともに、地中海最強の海軍を持つカルタゴに対して、ローマがどのように戦ったのかを見ることにしよう。

※タイトル下の画像は、古代ローマ軍団大百科 に掲載されているイラストを使用しています。

第一次ポエニ戦争の発端

メッシナ海峡を挟んだ2ヶ所のカンパニア人集団

ローマとカルタゴが戦うことになった原因。
それはメッシナ海峡を挟む二都市を奪い取ったカンパニア人(中部イタリア地方に住む人)達だった。

二都市のうちの一つ、シチリア島のメッセネ(現メッシーナ)を乗っ取ったマメルティニー
もう一つの都市、イタリア半島のつま先、レギオン(現レッジョ・カラブリア)を占拠したカンパニア守備兵だ。

シチリアを悩ませる「ならず者集団」マメルティニー

マメルティニーとは「軍神マルスの子ら」という意味を表す。

シチリアのシュラクサイ(現シラクーザ)に強力な僭主(独裁者)アガトクレスが現れ、カルタゴと戦って自らアフリカに侵攻したことは、アガトクレスのアフリカ侵攻で説明したので、興味のある方はお読みいただくといいだろう。

前289年、そのアガトクレスが死ぬと、傭兵として雇われていたカンパニア人たちは、職をなくし行き場を失っていた。

そこで彼らは、イタリアにほど近く美しい町メッセネに目をつけ、友人として受け入れてくれた市民を殺害・追放して乗っ取ってしまう。そして自らを「マメルティニー」と名乗ったのである。

ローマを困らせる都市レギオン

もう一つの乗っ取りは、イタリア半島側の都市、レギオンで起こった。

タラスがローマに対抗するため支援を求め、ピュロスがイタリア半島に侵攻してきたことは、ピュロス戦争 ―共和政ローマのイタリア半島統一に立ちはだかったヘレニズム君主との戦い―に書いたとおりだ。

このピュロスから町を守ってもらうため、レギオンはローマに救援を求めた。そしてローマも求めに応じ、レギオンに守備兵をおくる。

だがローマが送り込んだ守備兵は、カンパニア人で構成されていた。そのカンパニア兵が、対岸のメッセネ市にいたマメルティニーを真似し、レギオンを占拠してしまったのである。


メッシナ海峡を挟んだ2つの都市、メッセナとレギオンのカンパニア人たちは、独立を守るために、互いに協力しあった。さらにマメルティニーたちは、レギオンの支援を得たことで、シチリアを荒らし回っていたのだ。

ピュロス戦争で手を出せないでいたローマは、ピュロスがイタリアから去った後、自らまいた災いの種を刈り取るため、レギオン攻略に乗り出した。

そして前270年、レギオンを包囲し攻略に成功すると、ローマを裏切った守備兵たちの多くを殺し、残り300人をローマに連行してむち打ち、斬首の刑にする。

ローマは裏切り者を見せしめとすることで、ほかの同盟都市に対し、信頼回復につとめたのである。

マメルティニー、シュラクサイに破れ、ローマとカルタゴに支援を求める

レギオンという後ろ盾のなくなったマメルティニーに対し、それまで手をこまねいていたシュラクサイが、ついに戦う決意をする。

前270年、僭主ヒエロンは自領からマメルティニーを追い出すと、メッセナ近郊にあるロンガノス川の戦いで大勝した。

この戦いに敗れたマメルティニーは危機を募らせ、まず近場のカルタゴに、メッセネ市を引き渡すという条件で救援を求めた。カルタゴはこの救援を受け、メッセネ市に入城する。

しかしマメルティニーは、同時にローマにも救援を依頼するため、使節を派遣していたのである。その施設が前264年、ローマに到着。カルタゴに提示したものと同じく、救援の条件はメッセネ市を引き渡す、であった。

ローマ、メッセネ救援をためらう

しかしローマは、マメルティニーへの救援をためらったようである。
なぜか。
その理由は次の3つ。

  1. 無法者であるカンパニア傭兵を、ローマが助けることで信義を問われる心配があったこと
  2. すぐに次の戦争に突入することへのためらい
  3. カルタゴとの条約に違反することで、正当性を失う恐れ

【理由1】無法者のカンパニア傭兵を手助けするバツの悪さ

まず第一の理由は、レギオンと同類の無法者であるカンパニア傭兵のために、救援に乗り出すことで、ローマの信義が疑われかねない心配があった。

レギオンの裏切り者たちを、厳しく罰した同じ手で、不正を行いシチリアを荒らし回るマメルティニーを助けるのか、と。彼らに救いの手を差し伸べるのは、不合理際なりない行為だったのである。

【理由2】相次ぐ戦争へのためらい

第二の理由は、戦争への不安だ。

前280年から前275年にかけて戦った強敵ピュロスとの死闘で、ローマは少なからず打撃を受けていた。

またピュロスが去った後も、イタリア半島で反乱分子を抑え込む必要があり、前264年――マメルティニーの使者がローマを訪れた同じ年――に、エトルリアの都市ウォルシニを、ようやく屈服させたところでもあった。

このように戦争続きの市民に対し、もう一度戦争に駆り出すこと、それもこれまでの相手よりも遥かに巨大な相手に対して行う戦争に、二の足を踏むのも当然だろう。

【理由3】カルタゴとの条約違反

第三の理由、それが前306年に取り決められたとされる、カルタゴとの条約を破ることだった。

カルタゴとの条約は、ローマが共和政へと移行して以来、何回かに渡って締結、更新されている。この何回目かの条約更新で、ローマ人がシチリア半島から離れ、カルタゴ人が全イタリアから離れるように定めたとされている。

ただし、史家によっては否定しているものもあり、実際にどのような内容だったのかはわからない。ただ、当時のローマ人たちが、シチリアに渡ることは気まずいと感じていたことは確かなようだ。

ローマ、シチリア渡航を決定する

とはいえ、このままローマがメッセネ市を見捨てれば、占拠したカルタゴがシチリア島で勢力を拡大し、全島を支配してしまう恐れもあった。

それに伴い、南イタリアの同盟市である、マグナ・グラエキアにまで侵略されると、メッシナ海峡を封鎖され、ローマ人がティレニア海から東地中海へと抜ける道を絶たれてしまう恐れもある。

そうなると、南イタリア同盟都市や、この頃すでに発展していた中部イタリアのカンパニア都市たちへの利権も守ることができない。これは信義を重んじ、イタリアの庇護者を自認するローマにとって、認められないことだったのである。

ただし、この期に及んでも元老院はまだ及び腰だったので、シチリア出兵を民会の決議に委ねることにした。その際、執政官が国家だけでなく、個人の利益(戦利品など)を説いたため、平民たちは賛成し、メッセネ援助の法案が決定したという。

ついにローマは、執政官アッピウス・クラウディウスを司令官として、メッセネへと派遣。ローマ軍が初めて海を渡る瞬間でもあった。

ローマ、シチリアに遠征する

メッセネ入城

ローマの援軍きたる。
この報を受けたメッセネのマメルティニーは、すでに占拠していたカルタゴ軍を策略と脅しで追い出すと、ローマ軍を招き入れた。

カルタゴは、無思慮にも城塞を明け渡した司令官ハンノを、磔刑に処したという。

しかしカルタゴはすぐに次の手を打つ。彼らは長年の敵だったシュラクサイ市と手を組んだのだ。彼らにはマメルティニー(と支援しにきたローマ)を撃つという、共通の目的によって結ばれたのである。

カルタゴは艦隊をシチリア北東に展開し、ペロリアス岬を押さえた。さらに陸上部隊がシュネイス(エウネス)を占拠、ローマを陸海双方から包囲したのである。

一方ヒエロン率いるシュラクサイ軍が、メッセネ市の西側に布陣したことで、カルタゴ・シュラクサイ両軍によって、メッセネ市は完全に取り囲まれてしまった。

カルタゴ、ローマに最後通告を突きつける

ならず者の救援のせいで、カルタゴとシュラクサイに戦いを仕掛けるという、ローマにとってバツの悪い状態。

一方カルタゴも、奸計で奪い取られたメッセネ市を取り返すため、包囲網を形成するという、おそらく双方望まない状態になったのだろう。

包囲網を破るために、ローマ艦隊(と言っても10隻ほどの小艦隊だが)がカルタゴ相手に戦ったが、結局カルタゴに押し切られて敗れなかったようだ。

この小競り合いのあと、早期決着を図るために、カルタゴからローマの執政官に使者が送られた。だが、西地中海の制海権を握るカルタゴは、ローマに対して高圧的な態度で交渉に望んだという。

もし我々との友好関係が維持できなければ、ローマ人はもはや海に手を浸して洗うことすらできなくなるぞ

カルタゴ側の自信、と捉えるべきか。
それに対して、ローマ側は次のように答えた。

海の問題で師匠ぶるのはやめたほうがいい。(中略)カルタゴ人が海戦を教えてくれると言うならそうしてみろ。すぐに弟子が師匠を追い抜くのを見ることになる

興亡の世界史 通商国家カルタゴ 第七章 対ローマ戦への道

もちろん滅亡したカルタゴ側の史料が存在しないので、あくまでローマ側からみたエピソードであり、実際にこのようなやり取りが行われていたかどうかは、今となっては謎である。

しかし、ローマの一番の強みである、相手の長所を学び、すぐさま自分の武器にしてしまうという特徴を、よく表したエピソードではないかと思う。

ともあれローマとカルタゴの交渉は決裂した。そしてこの結果が、ポエニ戦争の始まりを告げる、真のゴングの音となったのである。

シュラクサイ、ローマと同盟する

交渉前に話を戻そう。
カルタゴとシュラクサイ連合軍のメッセネ市包囲の結果は、どうなったのだろうか。

実は、真相がはっきりしないのだ。資料によってはカルタゴ、シュラクサイ両軍がなぜか恐れを抱いて包囲を解いた、という信じられないものや、やはりローマ軍は勝った、といった内容まである。

ただ一つ言えることは、ローマ軍は苦境に立たされてもなんとか持ちこたえ、メッセネ市を死守した、という事実だ。これによりローマはシチリアに橋頭堡を確保できた

翌前263年、ローマが2人の執政官に率いられた40,000の陸上戦力を派遣すると、シチリア島の大部分の都市がカルタゴ・シュラクサイから離反した。

この状態を不利と見たシュラクサイのヒエロンは、カルタゴとの同盟を捨てることを決意。ローマのために糧食補給の基地となること、また15年間有効の同盟条約を結ぶ道を選んだのである。

カルタゴ、アクラガスを新たな基地にする

メッシナの確保とシュラクサイをカルタゴから離反させ、敵地での補給基地を確保できたローマは、シチリア戦線を本格的に拡大する。対してカルタゴは、シチリアの南にあるアクラガスを基地とすることを決めた。

シチリア島の地図
シチリア島の都市
興亡の世界史 通商国家カルタゴ より

前262年、ローマは全軍を上げてアクラガスを包囲。カルタゴは、救援のために傭兵や象部隊、ヌミディア騎兵をシチリアに派遣すると、この軍を率いたハンノが、ローマ軍のさらに外側を包囲するという、二重の包囲網が形成された。

ローマ、救援にきたカルタゴ軍を打ち破る

両軍のにらみ合いは7ヶ月にも及ぶことになった。
この間ローマ軍は、物資の欠乏と疫病に苦しめられるが、シュラクサイのヒエロンから補給を受けたこともあり、なんとか持ちこたえることができた。

そしてついにアクラガス市が音をあげる。食料が尽きたため、外側の軍に向かって狼煙をあげたのだ。

ハンノは市の窮地を知ると、ローマ軍に一か八かの攻撃を仕掛けた。戦いは長時間続いたが、カルタゴ軍の前線が持ちこたえられず、傭兵が象部隊まで敗走。これにより他の部隊も押されてしまい、結局後退した部隊は、近隣のヘラクレア・ミノア市まで逃亡した。

これに気をよくしたローマ軍は、包囲をおろそかにしてしまい、夜陰に紛れて市内にいたカルタゴ兵の脱出を許してしまう。結局翌朝、兵のいないアクラガスになだれ込んだローマ兵により町は蹂躙され、25,000人もの住人が奴隷となった。


アクラガスの陥落は、シチリア島からカルタゴ勢を追い出すという、ローマに新たなる目標をあたえたことだろう。しかしシチリア島を奪い取るためには、ローマに不足しているものがあった。

それは、アフリカにあるカルタゴ本国からの支援を許さないために、制海権を得るための軍、すなわちカルタゴ艦隊と渡り合えるローマ海軍である。

ミュライの海戦

ローマ、艦隊の建造に着手する

ローマはついに、自前での艦隊建造に着手した。もちろん、ローマ史上初の試みである。これまでは、マグナ・グラエキアなどのギリシア系都市から徴収、あるいは借り受けていたものを使い、海軍とも呼べない小艦隊をイタリア半島近郊に浮かべている、という状態だった。

このままでは、カルタゴからの補給を許し、シチリア島からカルタゴ勢力を追い出すことなどできないだろう。しかしローマには艦隊建造のノウハウがない。ではどうして船を作ることができたのか。

ローマ人は、なんと拿捕したカルタゴ船を手本として、そっくりそのまま真似したのだ。そればかりではない。彼らは大量に効率よく組み立てるため、記号や印を船の部品に刻み込んだのである。

前261年末から始めた船の建造により、翌年には100隻の五段櫂船と20隻の三段櫂船を、無事進水することができた。さらにローマ人は、カルタゴとの操船技術の格差を補うため、とっておきの秘策をも、この船に仕込んでおいたのだった。

ローマの執政官、メッシナ海峡で捕捉される

ローマはまた、漕ぎ手の訓練にも励んだ。とはいえ陸上を主な活動場所としてきたローマ人が、突然操船技術を会得できるわけではない。おそらく漕ぎ手には、南イタリアのギリシア系同盟都市から提供があっただろう。

艦隊が完成し、漕ぎ手の訓練も終わった前260年5月、ローマはさっそくメッシナ海峡に向かった。ここで海軍率いる執政官ナエウス・コルネリウス・スキピオは、リパリ島にいるカルタゴ側の駐屯軍が、ローマに降伏するという情報をつかんだ。

彼は17隻の別働隊を率いてリパリ島に向かったものの、これはカルタゴ側の罠だったのである。カルタゴはまんまと偽情報に引っかかったスキピオを、20隻の船で湾内に追い詰めた。

まだ経験の浅かった漕ぎ手たちは、混乱したあげく逃亡。執政官自身も、船ともどもカルタゴ人に捕まってしまったのである。

ローマ、ミュライ沖でカルタゴとの初海戦に勝利する

17隻の船を失ったとはいえ、ローマ艦隊はまだ健在だった。この艦隊を、本来陸軍担当の執政官ガイウス・ドゥイリウスが率いることとなる。

ドゥイリウスはシチリア島北の海域を航行中、司令官ハンニバル(第二次ポエニ戦争の名将とは別人)が率いるカルタゴ艦隊130隻と、ミュライ(現ミラッツォ)沖で遭遇し、海戦となった。ローマとしては初の大規模な海戦となる。

当時の海戦は、砲弾を飛ばして船を撃沈する戦い方ではなく、衝角と呼ばれる尖った金属を船の舳先に付け、それをぶつけて相手の船を沈める、という方法だ。

衝角の写真
衝角(写真は古代ギリシアの軍船で使用されていたもの
Bukvoed / CC

この戦いでは、船の性能に加えて漕ぎ手の熟練度が勝敗を左右する。

しかしローマ軍はカルタゴ軍に対して、船の性能も漕ぎ手の熟練度も圧倒的に劣っていた。ではローマ人はそのハンディを克服するために、どうしたのか。

彼らは海を陸に変える方法で、ハンディキャップを克服したのである。といっても、本当に海が陸に変わるわけではない。ローマ人は、船の先端にコウルス(カラスの意)という装置を取り付けて、それをカルタゴ船めがけて落としたのだ。

コウルス
コウルスの使用例のイラスト
コウルスの使用例
古代ローマ軍団大百科 より

敵船が接近してきたときに、敵船めがけて落とす可動式のタラップ。網と滑車で柱に結び付けられており、ある程度の範囲であれば、好きな方向に動かすことが可能。

このコウルスを敵船に落として固定したあと、乗り込んでいた兵員がタラップを渡って白兵戦を戦った。もちろん白兵戦ではカルタゴ兵よりも強かったので、ローマ軍は有利に戦いを進めることができたのである。

結局この戦いでカルタゴ艦隊は惨敗し、50隻の船が捕獲、撃沈。また7,000人が犠牲となり、3,000人が捕虜になった。司令官ハンニバルはボートで逃走したが、初の海戦にローマは圧勝したのだった。

ミュライの海戦で勝利した影響

ミュライの海戦は、カルタゴ艦隊を決定的に破った戦いではない。カルタゴ艦隊はいまだ健在だし、カルタゴが十分挽回できるチャンスもある。

しかしこの戦いは、ローマに戦果以上のものをもたらした。それは、海戦でもカルタゴに勝てるという自信である。

西地中海の制海権を握り、海戦で一度も負けたことのないカルタゴ相手に、ローマ人は勝ってみせた。まさに弟子が師匠を越えた瞬間だった。

ミュライの海戦後、ローマは部分的にせよサルディーニャ島やコルシカ島を占拠する。前259年には、コルシカ島のアレリアを占拠。また前258年にはサルディーニャ島のスルキ沖でも、ローマ軍が海戦でカルタゴに勝利し、サルディニアへの足がかりを得た。

エクノモス沖の海戦

ローマ、カルタゴへの上陸を考える

海戦で勝てる以上、地中海を船で移動することは怖くない。ならばいっそカルタゴ本土を攻めて、よりカルタゴを苦しめることができるのではないか。

ローマがこのように考えるのも無理はない。なぜならアフリカへ乗り込んだ例がすでにあったからである。シュラクサイの僭主アガトクレスが、前310年アフリカに上陸しカルタゴを苦しめたことは、アガトクレスのアフリカ侵攻に書いたとおりだ。

アフリカ本土を急襲すれば、カルタゴが支配する住民たちが、必ず反旗を翻すだろう。そうなればカルタゴはローマとの戦争どころではなくなり、早期に決着がつくはずだ。

しかしアフリカへと兵員を運ぶには、大規模な輸送船が必要になる。長引く戦争にローマの農民層が反発し、アフリカ侵攻計画はミュラエの戦いから数年を必要とした。

そしてようやく前256年に、230隻の船を護衛艦隊として進水することができたのである。

カルタゴ、ローマの上陸を阻止するため、艦隊を編成する

カルタゴも、自国の弱点は自覚していた。敵軍にアフリカの地を踏まれては、相次ぐ離反で苦境に立たされるだろう。ならばなんとしてでも水際で食い止める必要がある――。

彼らもまた、ローマと同じく大艦隊を編成する。その数230隻。率いるのは艦隊長官のハミルカル(名将ハンニバルの父ハミルカルとは別人)。

ローマはアフリカへと船で渡る際、かならずシチリア南岸を通って来るはず。そこでハミルカルが戦場に選んだのは、エクノモス沖の海域。彼の計画では、カルタゴの高速操船技術を存分に活かし、ローマ艦隊を翻弄できるはずだった。

ローマ、エクノモス沖でカルタゴと激突する

前256年の春、ローマの大艦隊は果たしてエクノモス沖に現れた。アフリカ侵攻を企てるローマと、それを阻止するカルタゴとの決戦は、次のように進んだ。

両軍陣形

エクノモス沖の海戦初期陣形のイラスト
エクノモス沖の海戦 初期陣形

ローマ

  • 前方:両執政官率いる艦隊(楔形に配置)
  • 中央:輸送船団
  • 後方:予備船団
  • 司令官:ルキウス・マンリウス・ウルソ、マルクス・アティリウス・レグルス

カルタゴ

  • 艦隊配置:弓形に横一列
  • 司令官:ハミルカル、ハンノ
第一段階
カルタゴ、中央部を交代させ、ローマの主力をおびき寄せる
エクノモス沖の海戦第一段階のイラスト
エクノモス沖の海戦 第一段階

カルタゴ艦隊は、両執政官率いる第一、第二艦隊(前方配置の艦隊)を、輸送船団から引き離すため、中央部を後退させる。

第二段階
カルタゴ、両翼でローマの後方船団に攻撃する
エクノモス沖の海戦 第二段階
エクノモス沖の海戦 第二段階

ローマの第一、第二艦隊が食いついたところで、カルタゴの両翼に配置していた船団を、ローマの後方にいる輸送船団(および予備船団)の攻撃に当てる。

輸送船団は次第に陸側へと追い詰められ、また予備船団も側面からの攻撃でコウルスが活用できずピンチに。

第三段階
両執政官艦隊、輸送船団の救援に戻り、カルタゴ軍を破る
エクノモス沖の海戦 第三段階
エクノモス沖の海戦 第三段階

カルタゴ軍の中央部が、両執政官の攻撃に耐えきれず逃走。両執政官、追撃をせず輸送船団と予備船団の救出に向かい、カルタゴ両翼を撃破。カルタゴ軍は退却することに。

エクノモス沖の海戦での結果

結局ローマは、第一次ポエニ戦争中最大となるエクノモス沖の海戦で、カルタゴ軍を破ることができた。ローマ軍は24隻の船を失ったのに対し、カルタゴ軍は30隻の船が沈み、64隻が捕獲されるという、大損害を被ったのである。

この戦いで、カルタゴはローマを海戦で食い止める力を失ってしまう。ローマはシチリア島で休憩をとり準備を済ませると、いよいよアフリカへの上陸を開始した。

ローマ軍、アフリカに上陸する

執政官レグルス、アフリカ本土を蹂躙する

元老院の命令により、艦隊の大部分を率いて執政官の一人、マンリウス・ウルソがローマへと帰還する。アフリカに残ったもうひとりの執政官レグルスは、15,000の歩兵と500の騎兵を率いて、単独でアフリカ攻略に乗り出した。

マルクス・アティリウス・レグルス

カンパニア地方出身で、対カルタゴ主戦派の一人。彼の属するアティリウス氏族は、カンパニアの有力貴族。

当時カンパニアは、陶器製造やオリーブオイル、ワインの輸出で南イタリアのマグナ・グラエキア地方を凌ぐほど潤っていた、新興の商工業地帯だった。

レグルスは、このカンパニアの利権を代表する人物であり、ポエニ戦争の開戦、長期化の原因の一つだった可能性がある。

カルタゴはレグルスに対抗するため、シチリア西部にいた主力部隊から歩兵5,000と500の騎兵を呼び戻すと、防衛のためにハストゥルバル、ボスタル両将軍を向かわせた。

しかしカルタゴ兵の訓練不足や、命令系統の不統一など問題もあり、ローマ軍が勝利。レグルスはチュネス市を占領し、カルタゴ市まであと一歩のところまで迫ったのである。

さらにカルタゴが危機を迎えると、必ずといってもいいほど起こる、地元部族(今回はヌミディア人)の反乱により、カルタゴ周辺は荒らされた。

周辺住民がカルタゴ市内に逃げ込んだことで、市内の人口は急激に増加し、飢餓が始まるという、カルタゴにとって苦しい状況が続いたようである。

レグルス、カルタゴとの講和に失敗する

この状態を講和の好機とみたレグルスは、カルタゴに対して講和を画策する。執政官の任期が差し迫り、翌年の新執政官がカルタゴに到着するまでの間に、ケリを付けたいという焦りもあったようだ。

レグルスの提示した条件は、次のとおり。

  • シチリア、サルディーニャ島を手放し、ローマに譲る
  • 一隻を除く、全艦隊の引き渡し
  • ローマの許可なく、戦争や和睦することを禁止
  • 賠償金の支払いなど

この条件は、カルタゴにとってあまりにも厳しすぎる条件だった。講和に応じる構えを見せていたカルタゴだったが、提示された条件に憤慨し、ローマと戦いを続けることを決めたのである。

折りよく、カルタゴが雇う多数のギリシア傭兵を乗せた船が、カルタゴの港に現れる。その中に、アフリカ戦線の情勢を、一気に変えるキーパーソンが存在することを、この時のレグルスは、まだ知らなかった。

本記事の参考図書

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