第一次ポエニ戦争Ⅱ ―スパルタ式軍事教育導入からハミルカルの登場、終戦まで―

シチリア争奪から拡大した第一次ポエニ戦争

第一次ポエニ戦争Ⅰ ―シチリア島渡航から初海戦、アフリカ本土上陸まで―では、第一次ポエニ戦争が始まった原因から開戦、ローマの連戦連勝でついにアフリカ本土へ侵攻したことを記事にした。

シチリア争奪から拡大した第一次ポエニ戦争 第一次ポエニ戦争Ⅰ ―シチリア島渡航から初海戦、アフリカ本土上陸まで―

上陸後、アフリカでも勝ち続けるローマの執政官レグルスは、カルタゴに和睦を提案する。しかし、あまりにも厳しい要求だったため、カルタゴ政府はローマとの和睦を拒否。

折しもカルタゴの港には、ギリシア傭兵を雇い入れた船が続々と入港していた。その中にいた一人の人物により、ローマとカルタゴの状況が一変する――。

戦争後半では、アフリカで再開したローマとカルタゴとの戦いから、再びシチリアへと舞台を移した戦争の様子、そして第一次ポエニ戦争終戦までを見ていくことにしよう。

※タイトル下の画像は、カルタゴ戦争 に掲載されているイラストを借用しました。

ローマ、アフリカで初の敗戦を経験する

クサンティッポス、カルタゴ陸軍を鍛えなおす

カルタゴに入港した船に乗っているキーパーソン。それはクサンティッポスという人物だった。

クサンティッポス

スパルタ人のベテラン傭兵。スパルタ式の軍事教育を受けていた。

傭兵隊長として招かれ、全軍の指揮を委ねられたクサンティッポスは、まずカルタゴ軍とローマ軍を比較する。

すると、ローマ軍は歩兵こそ数は多いものの、騎兵はわずか500しかいない。一方のカルタゴ軍は、歩兵の数で負けてはいたが、騎兵は8倍の4,000もあり、さらにローマ軍にはない戦象部隊も持っていた

また彼は戦う場所にも注目した。
ローマは屈強な歩兵に自信があり、常に平地での決戦を望んでいた。一方のカルタゴは、ローマの強みを生かせないように、高地で戦うことを心がけていた。

しかしクサンティッポスは、この戦場の選択こそカルタゴ軍がローマに敗れ続けている敗因だと分析する。なぜならローマ軍に対して圧倒的に優位な騎兵や戦象部隊は機動力に優れており、その強みは平地でこそ活きるからだった。

そこでクサンティッポスは経験に従い、強みを最大限に活かすことができる部隊配置を、カルタゴ軍に叩き込んだ。

また連戦連敗でローマ軍歩兵にコンプレックスを抱くカルタゴ歩兵に対し、前面に戦象を配置して心理的負担を和らげるとともに、もし象部隊を押しのけてローマ軍がカルタゴ歩兵に迫っても、右翼にいるギリシア歩兵が、ローマ歩兵のさらに背後に回り込んで支援できるよう、工夫したのである。

レグルス、テュネスの戦いでカルタゴ軍に敗れる

クサンティッポスに鍛えなおされたカルタゴ軍は、ローマ軍と再び相まみえる。その場所はテュネス近郊。クサンティッポスの狙い通り、戦場は平地となった。

テュネスの戦い布陣図

ここで両軍の戦力を、もう一度書き出してみる。

ローマ軍

  • 歩兵:15,000
  • 騎兵:500

主力の歩兵を中央に配置し、両翼には騎兵をそれぞれ配置。また歩兵左翼に同盟軍2,000がいた。

カルタゴ + ギリシア傭兵軍

  • 歩兵:12,000
  • ヌミディア騎兵:4,000
  • 戦象部隊:100

スパルタ式ファランクスに鍛え上げられたカルタゴ歩兵を中央に配置し、クサンティッポス率いるギリシア歩兵は、その右翼に。歩兵の前に戦象部隊をならべ、騎兵は両翼を受け持つ。


戦闘はクサンティッポスが想定していたとおりに展開した。

まずは中央前列の戦象部隊が突撃し、ローマ歩兵を混乱させる。なんとか耐えきったとしても、カルタゴ後衛を担う、クサンティッポスに鍛え直されたファランクス歩兵部隊にたどり着けるのはわずかだった。

苦戦するローマ軍のなかでも、同盟軍の左翼歩兵部隊がカルタゴ歩兵を押し返す敢闘っぷりをみせる。しかし、数でも躁馬技術でも圧倒的に勝るヌミディア騎兵は、軽々とローマ騎兵を倒すと、ローマを左右から包囲。それに戦象部隊が加わると、ローマ兵は行き場を失ってしまった。

結局ローマ軍は、初期に戦場から脱出できた2,000の歩兵以外、大半が戦象に踏み潰され、残りの兵も騎兵に殺されて全滅し、レグルスは500の兵とともにカルタゴ軍の捕虜となってしまった。

ローマは前264年の第一次ポエニ戦争開戦以来、カルタゴから9年目にして初めて大敗北を経験したのである。

ローマ、カルタゴ海軍に大勝するも、嵐に遭い大打撃を受ける

ローマはアフリカでの敗戦の報を聞くと、アスピス(ローマがアフリカ本土侵攻の際、はじめに攻め落とした町)にいる残存兵を救出するため艦隊を編成し、ただちにアフリカに向かった。その数350隻。

一方のカルタゴも、新たに建造したり傷ついた船を修理し、200隻の艦隊を組むと、ヘルマエウム沖(現ボン岬付近)でローマ軍を迎え撃つ。だがこの海戦で、カルタゴは114隻の船を失う大損害を出してしまった。

ローマは新たに14隻加えて、無事アスピスの兵を救出すると、本国への帰還を目指した。しかしここでアクシデントが発生する。ローマ艦隊は、シチリア島南岸のカマリナ沖で嵐に遭い、80隻を残して艦隊が沈没する大惨事にあったのだ。この海難事故で、6万人もの乗り手が犠牲になったと言う。

アフリカでの敗戦とカマリナ沖の事故で、ローマはアフリカ侵攻を諦めなければならなかった。またカルタゴも、ローマの本土侵攻により、反乱したヌミディア人たちとアフリカで、数年間の戦いを強いられる。

そしてこれ以降、第一次ポエニ戦争は泥沼の耐久レースへ突入したのである。

再びシチリア争奪戦へ

ローマ、パノルモスを陥落させる

ローマは再びシチリア奪取を目指した。まず第一の目標となったのが、パノルモス(現パレルモ)である。

とはいえ、シチリアの都市を落とすには、海と陸の両方から攻める必要があった。なぜなら陸側だけの包囲では、海からの補給を許してしまうからだ。

そこでローマは前254年の冬、140隻の船をたった3ヶ月間で新たに建造し、嵐から生還した船と合わせ、合計220隻もの艦隊を編成した。

これに対し、カルタゴはローマ、カルタゴ海軍に大勝するも、嵐に遭い大打撃を受けるで書いたとおり、アフリカ先住民ヌミディア人たちの反乱を鎮圧する必要があり、新たな船を建造する余裕はなかったのだ。また、シチリアへの増援部隊も送り出すことができなかった。

ローマはこの機にパノルモスを海陸から攻囲し、ついに攻略することができたのである。

ローマ、またも嵐に遭って船を失う

制海権を得たローマは前253年、カルタゴの混乱を長引かせるためか、大艦隊を率いてアフリカ沿岸部への略奪を行った。そして意気揚々とローマへ帰還する途中、ルカニア沖(現南イタリアバジリアーナ州)で、またも嵐にあって150隻以上の船を失ったのだ。

第一次ポエニ戦役中、ローマはこの嵐を含め、計3回の海難事故に遭遇する。これは単なる偶然だろうか。いや、不運だけではない別の理由があったと思われる。

その理由は、次の3つ。

【理由1】船体のバランスを崩すコウルスの搭載

まず第一の理由は、ローマ海軍に勝利をもたらした秘密兵器、コウルスの存在だ。コウルスについては、ローマ、ミュライ沖でカルタゴとの初海戦に勝利するをご参考いただきたい。

コウルスは、海戦経験の未熟さを補ってあまりある強力な武器だったが、1トン近くの重量が船体の片側に取り付けられるため、一度嵐に合えば、船体がバランスを崩してしまう弱点があった。

現にローマ海軍は、航海に慣れた第一次ボエに戦争後半から、徐々にコウルスを搭載せず、衝角をぶつけ合う海戦形式に移行していく。

【理由2】ローマ人の航海技術の未熟さ

2つめの理由は、ローマ人の航海技術の未熟さがあるだろう。彼らだけではアフリカ本土へ乗り込むのはもちろん、シチリア沿岸を航行することも、ままならなかったはずだ。

【理由3】ローマ司令官による船乗りたちへの態度

しかしローマ人たちは、操船技術をローマ人だけに頼らず、経験豊富なギリシア系都市の船乗りたちに頼っていたと思われる。しかし、ローマ人は彼らの助言を徐々に聞かなくなっていた。

理由は、ローマが航海に対して恐怖心を抱かなくなって来たこと、また海戦の度重なる勝利で自信を付けたことが、彼らから慎重さを奪っていったのではないかと思う。

その証拠として、クサンティッポス率いるカルタゴ軍に大敗した後、アフリカから引き上げる時、船乗りたちは盛んにシチリア南岸を回ることの危険性や、時期の悪さを指摘していたにもかかわらず、艦隊司令官はそれを無視して出発した。そして南岸のカマリナ沖で嵐に遭い、船を失ったのだ。


第一次ポエニ戦争で、ローマの海難事故は記録されているが、カルタゴにはその記述が見当たらない。そこには不運という偶然以外にも、航海の経験年数という大きな溝が、たしかに存在していたのである。

カルタゴ、パノルモスの再奪取に失敗する

新艦隊編成後、わずか1年での海難事故は、さすがのローマも意気消沈した。一方のカルタゴは、前251年、ヌミディア人たちの反乱をようやく鎮圧し、ローマとの戦いに集中できるようになる。

カルタゴはシチリアでの戦いに、ハスドゥルバルを送り込む。ハストゥルバルは、あのクサンティッポスとともにアフリカで戦った将軍で、スパルタ式用兵術の薫陶を受けた人物だった。

ハスドゥルバルは、

  • 執政官のひとりがローマへと帰還していること
  • もうひとりの執政官メテッルスが、食料確保のためパノルモス周辺に軍を終結しつつあること

を知ると、戦象を引き連れてローマ軍を攻撃することにしたのである。

しかしメテッルスは冷静だった。
彼はカルタゴ軍の動きを知ると、戦いにはやる兵たちを一旦パノルモス市内に退避させ、投げやりを持った軽装歩兵のみ塹壕に潜ませて、敵が来るのを待った。

そして戦象部隊が近づく頃合いをみて、一斉に投げ槍を投げたのである。この攻撃に象たちは混乱し、自軍に突っ込むパニックを起こした。さらに市内からローマ軍が出撃したことで、カルタゴ軍は総崩れとなり、逃走したのだった。

メテッルスは敵を追撃することは避けたが、象たちはすべて捕らえさせた。彼は翌年、この象たちを自分の凱旋式で見世物にしたあと、すべて殺させたと言う。

こうしてシチリア島の戦場は、カルタゴ最後の本拠地リリュバエウムへ移った。

カルタゴ、シチリアで海戦に勝利する

リリュバエウムでの攻防

前251年の時点で、シチリア島のカルタゴ勢力は、エペイロスの王ピュロスの攻囲にも耐えた要塞リリュバエウムと、その北にあるドゥレパナの港だけとなっていた。

ローマはこの要塞を落とすため、2人の執政官が率いる4個軍団の陸上戦力と、240隻の艦隊からなる海上戦力、同盟軍兵士も合わせて総勢10万にもなる大軍で、海陸両方から攻囲する。

対してリリュバエウム市内には、カルタゴの将軍ヒミルコ率いる傭兵1万。中にはローマ兵の多さに絶望し、敵側へ逃亡するものもいたが、ヒミルコは敵地に行ったものを決して場内に入れなかったため、市内にいる兵たちの忠誠は保たれていた。

数こそ多いものの、ローマの攻囲はどうも完璧とは言えなかったらしい。

陸の攻囲では、嵐にあってローマ側の防御施設が破壊されると、城外に何度か打って出てきたカルタゴ傭兵に、攻城兵器を燃やされた。

また海では度々カルタゴ本国の補給船により、ローマの海上包囲が破られ、城内に物資を届くことを許したり、ロドス人のハンニバルという命知らずに封鎖網を突破され、城内の様子をカルタゴ本国に知らされてしまう。

これはローマ軍にとって、屈辱以外の何物でもなかった。

ドゥレパナの海戦

前249年、このような状況の中で、ローマは新たな執政官プブリウス・クラウディウス・プルケルを、増援軍とともにリリュバエウムへと送り込む

不完全なローマの包囲は意味がないと考えたプルケルは、敵艦隊の停泊するドゥレパナの港を奇襲し、一気に決着をつければいいと考えた。

月のない夜を選ぶと、プルケルは夜陰に紛れ、ドゥレパナの港を封鎖するため、艦隊を率いて出発した。しかし視界が悪いため船の間隔を広く取る必要があり、バラバラにしか近づくことができなかった。

ドゥレパナの海戦図
ドゥレパナの海戦

カルタゴ軍は、夜明けとともに近づきつつあるローマ艦隊に気づくと、まだローマ艦隊が整わないうちに艦隊を出港させた。カルタゴ艦隊は町の南を通って小島との間を抜け、ローマ艦隊を陸に追い込んだのである。

カルタゴの司令官アドゥヘルバルは、右翼艦隊にローマの最後尾への攻撃を命じた。この結果、プルケル率いるローマ海軍は、93隻の船が撃沈あるいは捕獲され、30隻のみ脱出するという、第一次ポエニ戦争で海戦初の大敗北を経験する。

カルタゴ、唯一の勝機を逃す

さらに別の艦隊を率いていた、もうひとりの執政官ブッルスも、リリュバエウム攻囲軍への補給に向かう途中、カルタゴの提督カルタロ指揮下の艦隊と遭遇。敵の多さに避難するが、その途中、この戦争三回目の海難事故にあって全滅してしまったのだ。

カルタゴはついに、第一次ポエニ戦争で初めて、ローマよりも優位に立てるチャンスが訪れたのである。ローマ艦隊のない今なら、大攻勢をかければパノルモスを再び取り戻すことも、開戦初期に落とされたアクラガスも取り戻すことができるはずだった。

しかしカルタゴはこの絶好機を逃してしまう。逆にローマは艦隊全滅にもめげず、逆にエリュクス山を占拠するのである。

さらに、ローマと15年の同盟期限が切れつつあったシラクサとの再同盟の機会も、ローマがヒエロンと早期に更新し、永久同盟へと変更したことで、取り逃してしまった。

一体なぜカルタゴは、この好機をみすみす逃してしまったのだろうか。
その理由は、次の2つ。

  1. アフリカでの領土拡大を優先したこと。
    カルタゴ、パノルモスの再奪取に失敗するで記述したとおり、カルタゴは前251年に先住民の反乱を鎮圧した。しかし一部の大貴族は、ローマとの戦いよりアフリカでさらなる領土拡大に務めたのである。
    このアフリカ戦線の指揮をとっていたのが、後に登場するハミルカルの政敵、大ハンノだった。
  2. 海軍を失い、息切れしたローマが、シチリアの各要塞を明け渡すと楽観視したこと。

上記カルタゴの読みは、結局外れることになる。カルタゴが現在持てる最大限の戦力をシチリアに投入しなかったおかげで、ローマは戦力を回復することができたのである。

第一次ポエニ戦争、最終局面へ

ハミルカル・バルカ登場

アフリカ領土の再平定、拡大に舵を切ったカルタゴ政府だったが、シチリア方面の海軍司令官にも新たな人物を任命した。それがハミルカル・バルカである。

ハミルカル・バルカ

第二次ポエニ戦争で、ローマを最も苦しめたハンニバルの父。家名「バルカ」はフェニキア語で「稲妻」や「白刃」を意味する。高潔な人物として知られいていた。

ハミルカルは、艦隊を率いてイタリア南部の海岸を荒らしたあと、ローマの支配するパノルモスの領域に、大胆にも敵前上陸を果たした。そしてヘイルクテーという丘を占拠する。

ヘイルクテーとは、現在のペレグリーノ山やカステラチオ山にあたるらしい。陸と海の両側に崖がある天然の要害で、ドゥレパナやリリュバエウムからイタリアに向かう、絶好のポジションだったのである。

以後、ハミルカルはこの要害を利用し、パレルモス、エリュクスのローマ軍と戦い続けた。ハミルカルが山腹のエリュクス市を占拠すると、山頂と麓のローマ軍守備隊が逆包囲する。両軍が、もてる技術力のすべてを使い尽くして、攻防を繰り広げる。

ハミルカルは、海に通じる細い一本の道からの補給路を頼って戦い続けるという、圧倒的に不利で孤独な戦いを強いられた。しかし、ハミルカルの的確な戦術により、ローマ軍は彼を攻めきることができない。

結局ハミルカルは、戦争が終わるまでの6年間、1度も負けることはなかった。

ローマ、決着をつけるため、艦隊を建造する

20年にも及ぶ戦争で、ローマ、カルタゴ双方ともに、疲れ切っていた。戦争で人が死んでいくことはもちろん、戦争費用を捻出するための重税、そのせいで都市の離反を招く恐れがあり、両政府とも薄氷を踏むような戦いが続いていた。

ここで歯を食いしばり、あと一歩踏み出したのはローマだった。前243年、海軍の壊滅で意気消沈していたため、7年間も手つかずだった艦隊の建造に着手する。

エリュクスのハミルカル軍に物資を届けるカルタゴの艦隊がいる限り、無敵のハミルカルを破ることは不可能だ。しかし、大本の補給艦隊を破ってしまえば、ハミルカルでも戦闘を続けることができないに違いない――。

しかし新しい船の建造には金がかかる。これまでの戦費捻出ですっからかんの国庫に、その費用を出すお金もない。一体どうしたのか。

ローマは、富裕層達一人ひとりに個人捻出をお願いしたのである。一人で一隻、また1人の負担が難しければ、2~3人で一隻、といった具合に。

また海難事故を防ぐため、新建造の船にはコウルスを装備しないことを決めていた。しかしコウルスなしで戦うには、船の性能を上げる必要がある。

ローマはこの問題を解決するため、数年前のリリュバエウムでの攻防で捕獲していた、ロドス人のハンニバルの高速船を手本にしたのである。そして前242年の夏、ついに五段櫂船からなる200隻もの新艦隊を作り上げた

アエガテス諸島沖の海戦

艦隊の指揮を任された、この年の執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルスは、カルタゴ艦隊がアフリカへと戻っていたスキに、ドゥレパナの港とリリュバエウムの港外停泊地を占拠した。

カトゥルスは、続いてドゥレパナ市の攻囲を開始した。全てはハミルカルへの補給線を断つ、という狙いだ。

一方カルタゴはハンノを司令官として、物資を満載した艦隊をハミルカルの待つエリュクスへ向けて送る。こちらはハミルカルと合流後、補給物資を陸揚げし、ハミルカルの陸軍を乗せてローマ艦隊と交戦する構えだった。

意図を読み取ったカトゥルスは、リリュバエウム沖のアエガテス諸島(現エーガディ諸島)に急行。翌朝、停泊地ヒエラ島から出向するハンノの艦隊と交戦した。

この時、順風を受けたカルタゴ艦隊に対して、ローマ艦隊は逆風だったが、ハミルカルとの合流を恐れていたカトゥルスは、ハンノと戦うことを選んだのである。

必要なもの以外、すべて船から下ろしていたローマに対し、物資を満載したハンノ艦隊の動きは鈍かった。そして衝角同士をぶつけ合う戦いでは、船足の速さが勝負の決め手となる。

カトゥルスの狙いは見事にあたり、ローマはこの開戦で大勝利を収めた。カルタゴ艦隊のうち、50隻は撃沈、60隻が捕獲され、残った船はヒエラ島へと逃げ帰ったのである。

第一次ポエニ戦争、終結する

アエガテス諸島沖の海戦の敗北は、ハミルカルにとって補給の道を絶たれたことを意味した。そしてカルタゴは、これ以上ローマと戦う戦力がないことを自覚していた。

カルタゴはついに、ローマとの和戦を含めた全権をハミルカルに委ねる。ハミルカルとの頭越しにローマと交渉することで、ハミルカルと軍を裏切ることを恐れたからだという。

ハミルカルは、まだ戦う意志も気力も残っていた。しかし艦隊を失い、シチリアへの補給を絶たれた以上、ここに残る2万人の兵を救うには、和睦しか道はないと冷静に判断した。

ハミルカルは和睦の使者をカトゥルスに送る。そしてカトゥルスもこれに応じた。20年以上にも及ぶ戦いで、ローマも疲労困憊だったのである。

ローマが要求した和睦の条件は次の通り。

  • カルタゴ勢力下にある、シチリア島の割譲
  • 許可なしにシュラクサイ市や、シチリア人に対する戦争の禁止
  • 全ローマ人捕虜の、身代金なしの返還
  • 20年ローンで、2200エウボイア・タラントの銀を賠償

※1エウボイア・タラント=約26kg

この条件でも十分厳しい内容だったが、納得の行かないローマ市民は、民会でさらに次の条項も追加した。

  • 賠償金をもう1000タラント追加。期限も20年から10年に変更
  • イタリアとシチリアにある全ての島(アエガテス諸島、リパリ諸島)の割譲追加

カルタゴは――というより、全権を委任されたハミルカルは――この条件をすべて受け入れた。負けが確定した以上、ローマの要求条件は飲もう、シチリアだけなら、まだ巻き返せるチャンスはある。そう思ったのだろうか。

こうしてローマとカルタゴとの長きにわたるはじめの戦い、第一次ポエニ戦争は終了した。戦争の結果はまた、カルタゴにとって200年以上にも渡るシチリア島争奪・確保の終焉も意味していた。

今回のまとめ

それでは第一次ポエニ戦争について、おさらいしよう。

  • 第一次ポエニ戦争の発端は、メッシナ海峡をめぐる二都市をカンパニア人が乗っ取ったことだった
  • そのうちの一つ、シチリア島のメッセネ市から、マメルティニーがシュラクサイの攻撃に対して、カルタゴとローマに救援を依頼したことで、両国の衝突が始まった
  • 第一次ポエニ戦争で、ローマは初めて海を越えて軍を派遣し、海戦を戦った
  • メッセネ市、アクラガス市を占拠したローマは、海戦にも勝ち、アフリカ本土へと攻め込んだが、クサンティッポスの教軍事育を受けたカルタゴ軍に初めて大敗した
  • その後ローマはカルタゴに対し優勢にことを運ぶが、3度の海難事故にあって貴重な海軍を失った
  • リリュバエウムでローマ軍に勝ったカルタゴだが、勝機を活かすことはできなかった
  • ハミルカル・バルカの登場により、シチリアで一進一退の攻防が続いたが、最後の海戦に勝利したローマが、第一次ポエニ戦争を制した

20年以上にも渡る長きに渡って繰り広げられた、ローマ、カルタゴ両国の争いは、ローマの勝利で一応の決着を見た。

しかしシチリアを失い、重い賠償責任を負わされたカルタゴは、その後新たな問題に直面する。彼らはカルタゴのために戦った傭兵たちをないがしろにすることで、逆に傭兵たちからしっぺ返しを食らうことになるのである。

本記事の参考図書

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