第二次ポエニ戦争Ⅲ ―トラシメヌス湖畔の戦いからカンナエの戦いまで―

ローマとカルタゴの決戦 第二次ポエニ戦争その2

ハンニバルは、秋も深まるアルプスに足を踏み入れると、敵対するアルプス部族を打ち破り、雪の山中を踏破して、ついにイタリアへと足を踏み入れることができた。しかしこのアルプス越えで半数の兵を失ってしまう。

一方マッシリアから一路東へ引き返したスキピオは、ハンニバルの進軍路を正確に予想し、アルプスの下り口である北イタリアで待ち受け、アルプスから降りてきたハンニバル軍と激突。この戦いでローマ軍は負け、スキピオも深手を負った。

さらにハンニバルは、シチリアから北イタリアへと急行したもうひとりの執政官、センプロニウスの軍を、トレビア川のほとりで迎え撃つ。この戦いでハンニバルは、騎兵を生かした包囲戦を展開し、功に焦ったセンプロニウスを見事打ち破るのだった。

トラシメヌス湖畔の戦い

トレビアの戦いのあとと海外の情勢

一旦はプラケンティアまで逃れたローマ軍だが、その後トレビアの陣を引き払うとアリミヌム(現リミニ)へと向かった。この結果、プラケンティアを除くポー川流域一体がハンニバルの影響下に入ったのである。

イタリアではハンニバルが華々しい勝利を飾ったカルタゴ。しかしその他の地域では、ハンニバルの勝利を生かせる状況ではなかった。

スペイン

スペインでは、スキピオの弟グナエウスがエンポリオン(スペインの最北東部にある都市)を制圧すると、それを足がかりとしてエブロ川まで勢力下に収めた。

これに対しスペインの留守を預かるハスドゥルバルも、カルタゴ・ノウァから出撃し、ローマ軍に一定の軍事的成果を上げたが、ローマ艦隊を駆逐するまでには至らず、にらみ合いの状態が続いていた。

シチリア

シチリアでは、ハンニバルの援護を目論むカルタゴ艦隊が、ローマ艦隊に敗れている。まだ制海権はローマの手にあった。

ハンニバル、ローマ連邦解体を図る

トレビアの戦いを終えたあと、ついにハンニバルは温めていた対ローマ逆転の作戦を実行に移す。その作戦とは、ローマと同盟諸都市の結びつきを切り、ローマの粘り強さの秘密である兵力の無尽蔵な供給を絶つ、ローマ連邦の解体である。

まず彼は、トレビアで捕虜にしたローマ兵に最小限の食事しか与えない一方、同盟軍捕虜のサムニウム人、ルカニア人、ブルッティウム人、カンパニア人などを身代金なしで故郷に帰した。

この時ハンニバルは彼ら同盟軍兵士に対し、丁重に扱ったうえで次のように主張する。

我々は諸君と戦うために来たのではなく、イタリア人の自由を回復し、ローマ人に奪われた都市や土地を取り戻す手助けをしにきた

こうして帰した同盟軍兵士が、やがてハンニバルの主張を広める。それがやがてローマとの絆を断ち切る力になるだろう、という狙いがあったのである。

トレビア敗戦を受けたローマの対応

一方、敗れたセンプロニウスはローマに帰還すると、ハンニバルとの戦いを次のように報告した。

雪と霧のため、確実な勝利を逃した

敗戦の責任は気象条件にある、という責任逃れである。しかし同時に、彼自身もハンニバルの巧みな戦術を見抜けなかったのではないか。

とはいえ、この報告をそのまま信じるほど、ローマの元老院はお人好しではない。やがて正確な状況が分かるに連れ、彼らは次の手を打つ。

南方からの守備強化

この地点でローマ側にとって一番厄介なのは、別方面からカルタゴ本国が違う部隊をおくり、ハンニバルに対して支援ができる体制を整えさせることだった。

そこでローマはサルディニア、シチリアに駐屯する軍団を増強している。さらにタレントゥム(現ターラント)などの要所も守備隊で固めた。

さらにシュラクサイのヒエロンにも支援を求める使いを出す。ヒエロンは直ちに500人のクレタ兵を含む1,500の援軍を送ってきた。兵の数こそ少なかったものの、ローマにとってシュラクサイがカルタゴ側についていないことが最も重要なことだった。

スペインへの攻勢

とはいえ守ってばかりいても戦いが終わるわけではない。バルカ家の本拠地スペインには、引き続きグナエウスと傷が癒えたスキピオのコルネリウス家兄弟を派遣し、攻略を続行させている。

ハンニバル軍への対処

とはいっても、やはり最大の問題はイタリア内にいるハンニバル軍への対処である。前217年の選挙で、ローマの執政官には、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスとガイウス・フラミニウスが選ばれた。

ガイウス・フラミニウス

前232年の護民官時代に、「ケルトとピケヌムの土地を分配する法」を成立させた人物。民衆の支持をバックに、元老院に楯突く「民衆派」政治家。

彼らは南下が予想されるハンニバルに対し、アペニン山地でカルタゴ軍を防ぐため、次の2都市へと向かった。

  • セルウィリウス:アリミヌム付近
  • フラミニウス:アッレティウム(現アレッツォ)

両軍が離れていたのは、ハンニバルの進撃ルートが分からないためだ。そのため、軍を二手に分けて東西に防衛ラインを作る狙いがあった。

フラミニウスの遠征には初めからケチがついていた!?

ローマの指揮官は、出発の前に吉兆を占い、良い前兆を(無理矢理にでも)出してから戦場へと赴くのが原則。

にもかかわらず、フラミニウスはこの儀式をせずに戦場へと向かったが、儀式を欠いたことによる酷いほどの凶兆を、リウィウスは描いている。

これは元老院が、彼の執政官就任に反対した表れだったようだ。

ハンニバル、右目を失う

ハンニバルは冬の間ボローニア付近で過ごしたあと、3月末から4月はじめあたりでエトルリアに軍を進めた。

彼は冬営中から、陣中で様々な年齢に合わせたかつらを被り、服もそれに合わせて変装していたという。理由は味方になったガリア人を信用しておらず、暗殺を恐れたため。義兄ハスドゥルバルが家人のガリア人に暗殺されたことが、ハンニバルの心に影を落としていたのかも知れない。

さて、ハンニバルはどちらの方向に進んだのか。答えはフラミニウスのいるアッレティウム方面である。おそらくハンニバルは、何らかの方法でフラミニウスの詳細な情報を得ていたのだろう。フラミニウスがどのような人間かを把握し、彼と決戦するための方策を胸に秘めた進軍だった。

ところが雪解け水がアルノ川に流れ込んだせいで、流域一帯が氾濫していた。この泥沼の中をハンニバル軍は4日間、ずぶ濡れになり一睡もできずに進むことになる。

この強行軍でガリア人を中心に死者が続出。ハンニバル自身は、ただ1頭だけ残った象に乗り、水に浸からず進むことができたが、この時彼は重い眼病を患っていたのだ。しかし治療することもできず、結局右目を失ってしまったのだった。

フラミニウスとローマ軍、湖岸に消える

右目を失ってまで急いだ理由はなにか。

ハンニバルは分かっていたのだ。フラミニウスの近くを通り抜け、ローマに向かうと見せかけて、そのあたりの土地を荒らせば、フラミニウスが黙っていないことを。

フラミニウスは民衆を声を盾に、元老院と張り合う政治家である。その彼が、民衆の危害を見過ごせるはずがない。加えて彼がカッとなりやすい性格なのも、ハンニバルは把握していた。その性格から、一人で自分のあとを追うことも。

果たしてフラミニウスは、アリミヌムから南下して合流しようとする同僚に耳も貸さず、アッレティウムをかすめて南へ向かったハンニバル軍のあとを、自軍のみで追跡してきた。

ハンニバルはフラミニウスと戦う場所を慎重に選定しながら行軍し、ついに見つけ出す。

そこはトラシメヌス湖の北岸。トラシメヌスはティベルの谷とキアナの谷の間にある湖で、山が湖岸に迫り、森も深い。この北岸の道は、コルトナからペルシア(現ペルージャ)へと至る唯一のルートだった。

前217年6月23日の朝。その日は濃い霧があたりに垂れ込めていた。ハンニバルはこの気象条件と深い森をして、前夜の間にローマ軍を陥れる壮大な罠を用意したのだ。

ハンニバルはまず、東出口にスペイン・リビア歩兵を配置する。ローマ軍をここで袋小路にするために。その西側の山に、軽装兵と弓兵を置くと、さらに西側にガリア兵が待機。西入口の山には騎兵を忍ばせた。

前日遅れて到着したフラミニウスは、湖北岸の東出口にハンニバル軍の天幕ありとの報告を受けていた。そして翌朝、ローマ軍は敵天幕――それこそハンニバルが張った罠の一部だった――めがけ、縦隊を組んで北岸の道に侵入したのである。

トラシメヌス湖畔の戦い配置図
トラシメヌス湖畔の戦い

この時、26,000のローマ軍は、騎兵を先頭に軽装歩兵、正規軍団兵と同盟軍歩兵と続き、最後尾に大規模な輜重隊(物資輸送部隊)という隊列だった。

ローマ軍すべてが、この細い道に入ったところでハンニバルの攻撃命令が下る。騎兵は最後尾の輜重隊を。弓兵とガリア人の飛び道具部隊は、ヘルメットを脱ぎ、通常行軍状態のローマ歩兵に。イベリア、リビア人の重装歩兵は、ローマ軍の前列の道を塞ぎ、逃さないようにした。

3時間にも及んだ戦いは、抵抗らしい抵抗もできぬまま15,000のローマ軍が殺された。フラミニウス自身もガリア兵に討ち取られた。その場を逃れたローマ兵6,000も捕虜となる

対するハンニバル軍は、1,500人が犠牲となったが、そのほとんどがまたしてもガリア兵だった。

こうしてローマ軍はトラシメヌス湖畔に消えてしまったのである。

トラシメヌス湖畔の戦いの後

戦いのあと、ハンニバルは兵士たちに執政官の遺体を探させた。遺体を見つけ次第、軍人らしく葬るために。しかしフラミニウスは結局見つからなかった。

さらにハンニバルは、捕虜になった6,000の兵にも、トレビアの戦いのあとと同じように、ローマ同盟軍兵士は丁重に扱い、全て解放した。そして彼は繰り返す。

ローマに対しての戦いであり、同盟を強要されたイタリア人や、抑圧されたイタリア人と戦っているわけではない

この時ハンニバル軍とローマの間に、進撃を阻む兵は一人も存在しなかった。ティベルス川沿いを行けば、ローマを攻撃することもできたのだ。ではなぜハンニバルはローマを直接攻撃しにいかなかったのだろう。

ハンニバルにとってローマ急襲は、一か八かのカケであり、大都市ローマが短期間で落ちるとは思ってもいなかった。あくまでハンニバルはローマ連邦の切り崩しを図り、ローマとの戦力差を逆転することを目的としたのである。

独裁官ファビウス誕生

ファビウス、独裁官に就任する

我々は大きな戦いで敗れた

トラシメヌス湖畔の戦いの結果が、法務官によって伝えられた市民たちは、明らかに動揺した。トレビアの戦いは、センプロニウスによる報告のみで、市民たちは噂レベルでしか敗戦したことを耳にしていなかったのだ。

元老院はこの報告にも冷静だったが、急行したもう一人の執政官セルウィリウスの騎兵隊4,000が、ハンニバルの部下マハルバルによって全滅させられたことを聞くと、絶望を隠しきれなかった。

そこで元老院は、毎年行われていた政務官選挙を中止し、非常事態宣言を発令する。通常なら権力の分散を図るために、軍務・政治を司る最高職、執政官を2人選ぶところ、半年の間だけ一人に全権を委ねる独裁官の任命を決めたのだ。

選ばれた人物は、クイントゥス・ファビウス・マクシムス。

クィントゥス・ファビウス・マクシムス

ローマパトリキ名門の出身。フラミニウスの土地分配法に反対した経歴を持つ。カルタゴとの開戦にも最後まで反対した戦争慎重派でもある。

後に「ローマの盾」と呼ばれる人物。

独裁官は自分の副官として、騎兵隊長を選ぶ事ができた。しかしこの時は、ケントゥリア民会によってマルクス・ミヌキウスが選出されている。

どうやら保守派で、古くからの貴族であるファビウスが、自分に近い立場のものを任命することで力を持つことを、快く思わなかった一派がいたらしい。当時の思惑が、民衆による副官の選出という異例の行為をもたらしたようである。

そのような意味では、ファビウスが保守の良識派なら、ミヌキウスは民衆派と言えるだろう。

ローマ、神々を味方につけるための儀式を行う

古代では、戦争は人間だけがするものではなく、双方の国の神々も戦っていると考えられていた。といって人間は神々の戦いを、ただ手をこまねいて見ているだけではない。様々な儀式でその戦いに介入できるものと信じているのも、また古代人ならではの考えなのである。

ローマ人は思った。ハンニバルはどうやらカデスのヘラクレス神殿で儀式を行ったらしい。なら彼が連れてきたのはヘラクレスだと。

ちなみにカルタゴで多く信仰されている神メルカルトと、ギリシア神話のヘラクレスはローマ人によって同一視されていたので、ハンニバルはメルカルト神への儀式を行ったのだろう。

ならばどうするか。そうだ、ヘラクレス(メルカルト)を味方につければいい!

こんなノリだったかはともかく、ローマ人はヘラクレスを丁重に招くため、様々な儀式を行った。

前218年には、ヘラクレス神殿で供儀(捧げものをする儀式)を行われ、ヘラクレスの妻ユウェンタスのために饗宴が開かれる。いわば「外堀を埋める作戦」に出たのだ。

また前217年には、騎兵長官ミヌキウスは、ハンニバルと戦いながらもヘラクレスに祭壇を捧げている。

さらに同年末、サトゥルナリア祭(ローマの神サトゥルヌスを祝う祭り)が執り行われたが、この年からギリシア風へと変更される。ギリシア風への変更とは、この饗宴の間だけ主人が奴隷を食卓へ招き、食事を振る舞うという、価値逆転の儀式である。

これもローマのサトゥルヌス神が、カルタゴで広く信仰されている神バアル=ハモンと同一視されていたため、その神を取り込もうとするローマ人の狙いだった。

ちなみにこのサトゥルヌス祭での主人・奴隷逆転については、古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―でも扱っているので、興味のある方はご一読いただくといいだろう。

ローマ社会の基盤を支えた古代ローマの奴隷 古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―

無論、敵の神を味方に引き入れるだけでは不十分なので、自分たちの神、すなわちローマ古来の神々からも、援助をもらう儀式を行った。

独裁官に就任した日、ファビウスはまずシビュラの書を調べるように命じた

シビュラの書

王政時代から伝わる、ローマの運命をことごとく予言した書物。ただし、書物自体は詩集のようなものであり、未来が分かるものではなかったらしい。

どちらかといえば、将来起こる驚異に備えるための、宗教儀式を執り行うために参考にされた書物だといえる。

参考 シビュラの書Wikipedia

この書に書かれた「お告げ」により、様々な宗教的手段が取られたようだが、この中で最も重要な儀式は「聖なる春」の誓いだった。

「聖なる春」の誓いとは

カルタゴおよびアプルス以南のガリア人との戦争で、ローマを今後5年間持ちこたえさせてくれたら、ユピテル神(ローマ神話の最高神)にその春生まれたすべての家畜の子供を犠牲として捧げる誓い。

この儀式を執り行うことは、民会で可決された。ただし実際に行われたのは、約20年後の前195年のようである。ハンニバルがイタリアに居座っている間は、ローマにも余裕がなかったのだろう。

ハンニバル軍、アドリア海沿いに出る

トラシメヌス湖畔の戦いの後、ハンニバルはアドリア海方面へと向かった。ポー川流域で過ごした凍てつく寒さや、アルノ川の氾濫地帯を突っ切ったときに発生した病、そして連戦の疲れをようやく癒やすことができたのである。

彼らは馬に対しても、ぶどう酒で洗って治療するという、いわゆるアルコール消毒を行ったようだ。また、フラミニウスを破ったときに奪ったローマ軍の武具で、ハンニバルは兵の装備を整え、さらに騎兵を補充した。

そして海沿いに出たことで、ハンニバルはイタリア侵攻後、初めてカルタゴに使いを送ることが可能になる。カルタゴ本国はハンニバルの連勝の報に喜び、イタリア、スペイン戦線に全力で兵や物資を投入する方針が固まった。

ファビウスの戦略

ハンニバルは傷を癒やし終えると、アドリア海沿いを略奪しながら南へと向かう。イタリア南東部アプリア地方に入り、ラテン植民市を次々と陥落しながら、ダウニア地方に陣を張った。

一方ファビウスは、セルウィリウス率いる執政官軍と合流しつつ、急遽編成した4個軍団を率いてハンニバル軍を追った。ただし、ハンニバル軍に追いついても直接会戦することは避け、かならず優位な位置に陣を張って彼らを監視したのである。

とはいえ、ファビウスは何も手出しをしなかったわけではない。本体から離れて略奪を行う敵兵たちには、容赦なく襲撃した

しかしなぜファビウスは、直接対決ではなく、このような方法を取ったのだろうか。理由は次の2つ。

  • ローマ軍よりも騎兵が多いハンニバル軍と、野戦で決着をつけるのは不利なため
  • 編成して間もないローマ兵では、訓練度も高く、トレビア・トラシメヌスで連勝したことで自信にあふれるカルタゴ兵に対抗できないと踏んだため

この状態でまともに戦ってもハンニバル軍に勝てないと、ファビウスは見抜いていたのである。だからこそ、一種のゲリラ戦を展開し、ハンニバル軍を疲弊させるために持久戦に持ちこもうとしたのだった。

ただし、ハンニバルの略奪を見て見ぬ振りをするファビウスの作戦は、ローマ市民にとって不人気だった。民衆代表ともいえる騎兵長官ミヌキウスと、この作戦を巡ってことあるごとに対立することとなる。

しかしミヌキウスの言い分もわからなくはないのだ。不人気な持久戦は、下手をすればローマから同盟都市の離反を招くことになりかねない。ではファビウスはなぜこの危うい橋を渡り続けることが可能だったのか。

理由は3つ。

  • 中南部のイタリア諸都市や地方の人々の忠誠心が高く、あるいはローマの裏切りに対する報復を恐れていたこと
  • ハンニバル軍が、イタリア共通の敵であるガリア人と共に行動、略奪を繰り返していたこと
  • ファビウス率いる大軍が、睨みを効かせていたためハンニバルへの寝返りを思いとどまらせていたこと

軽蔑され、臆病者と呼ばれようと、ファビウスは待った。相手が油断するその時まで。

ファビウスの罠

いくら会戦に誘ってもローマ軍が戦いに応じないことを見たハンニバルは、イタリア中部、カンパニア地方に入ることを決めた。

この地方は肥沃な土地として知られており、またローマ政界へ進出したこの地方の出身者も数多くいたのである。この土地で略奪の限りを尽くせば、いくらファビウスでも、黙って見過ごせないと考えた

しかしファビウスは、それでも決戦に応じない。カンパニア平原を囲む、騎兵に不利な高地に陣取り、ハンニバル軍のすることを注意深く見守っていた。そしてついにその時が訪れたのだ。

ハンニバル軍は略奪後、カンパニア平原から撤収するとき、いつも同じ峠を通っていた。ファビウスはそこに目をつけた。

彼は先回りして、分遣隊4,000に峠に野営地を設営させ、本隊はそれを見下ろす丘の上に野営をしたのである。この地は要害の地であり、敵が下手に攻撃をすれば大きな損害を与えることができる。

ハンニバル軍にとっては、少々のダメージでも不敗神話が崩れてしまい、イタリアでの戦闘を断念する致命傷になりかねなかったのである。

ハンニバル、奇計を用いて危機を脱する

ところがハンニバルは、ファビウスが張った罠を上回る奇策を披露する。

彼はまず略奪した戦利品から、家畜用の牛2,000を選び出す。そして夜、夏の気候で乾燥した薪の束を角にくくりつけ、その薪に火をつけさせた。その牛たちが道を外れないよう、軽装兵たちに先導させ、峠の下道を進ませた

牛の角に薪が燃えていると知らないローマ軍は、この「行軍」を敵本隊と誤認し、全軍坂を下って攻撃を開始した。もちろん牛たちはパニックに陥り、大混乱を引き起こす。

それを確認したハンニバルは、混乱する敵軍を尻目に、いつもの峠をゆうゆうと越えて引き上げることができたのだった。ついでに牛たちを先導した軽装兵を救い出すために、兵を派遣するほどの余裕もあったぐらいだ。

ハンニバルにまんまと出し抜かれたファビウスは、ローマ市民に

クンクタトル(先延ばし屋)

という不名誉なあだ名をつけられてしまったのだった。

騎兵長官ミヌキウスの暴走

ファビウスの失態は、騎兵長官ミヌキウスに自分の番が来たと思わせただろう。ちょうどファビウスが、ある宗教儀式主宰の要請でローマに帰還しなければならなかったので、その間は全軍の指揮権を握ることになったのである。

兵権を握ると、ミヌキウスはさっそくハンニバルに戦いを挑む。そしてハンニバルが落とした都市ゲレオニウム近郊で、小競り合いながらもハンニバルに勝ったのである。

勝利に飢えていたローマ市民は、ハンニバル破るの報が誇張されて届いたこともあり、ミヌキウスに熱狂した。そしてファビウスの独裁官権限はそのままで、ミヌキウスにも独裁官と等しい権限を与えるという、ローマ史上例を見ない特例が決まった

これはローマにとって特例というより、異常なことと言えるかも知れない。ただし、政軍の最高職が2人になったので、通常通りの執政官制に戻ったとも考えられる。

さて、ミヌキウスとともに独裁官となる――市民に無能のレッテルを貼られたに等しい扱いを受けた――ファビウスは、2人が交代で1日おきに全軍を指揮するという、同僚(というべきか?)独裁官の提案を拒否し、2軍に分けたその1つを率いた。

おそらくミヌキウスは、ファビウスに対して対抗心を抱いていたのだろう。ハンニバルと決戦に入ろうとするが、逆にハンニバルの仕掛けた罠にはまり、待ち伏せを潜ませた丘に誘い込まれて大損害を被ってしまったのだ。

この時ファビウスが駆けつけて、撤退を援護しなければ、ミヌキウスはトラシメヌスの二の舞になっていたかも知れない。

戦いのあと、ミヌキウスはファビウスのもとを訪れ、父と呼び挨拶をした。ローマにとって父とは絶対的存在であり、ミヌキウスはファビウスに服従を誓ったともいえる。

功名心をたくみに利用して勝利を収めたハンニバル。だが、相変わらずイタリア外ではカルタゴにとって思わしくない状況が続いていた。

スペインでは、ハスドゥルバルの北スペイン奪回がうまくいかず、逆にスキピオ兄弟の率いるローマ軍にサグントゥムまで進撃を許す状況。

また海上では、相変わらずローマが優勢であり、カルタゴはハンニバルへ支援することができずにいたのだった。

カンナエの戦い

ローマ、決戦の準備に入る

半年の独裁官任期が切れたファビウスは職を辞し、ローマでは翌年の前216年、通常の選挙が開催された。

その結果、執政官に選ばれたのは、次の2人。

  • ルキウス・アエミリウス・パウルス
  • ガイウス・テレンティウス・ウァロ
ルキウス・アエミリウス・パウルス

前219年、第二次イリュリア戦争でイリュリア王国のデメトリウス率いる艦隊を破り、勝利に導いた人物

ガイウス・テレンティウス・ウァロ

前218年、法務官(プラエトル)を努めた人物。民衆の指示を集めて執政官に。

ハンニバル軍がイタリアに侵入して3年目に入ろうかというこの年、ファビウスに寄る消極的(だが確実に敵の兵力、気力を奪う)作戦は不人気だったらしく、一気に決着をつけようという機運が高まりつつあった

そこで元老院は通常2人の執政官に2個軍団ずつ与える兵力を倍に増やし、8個軍団(同盟軍合わせると、計80,000)を与えた

さらに前年の執政官だったセルウィリウスと、戦士したフラミニウスの補充執政官アティリウス・レグルスを前執政官とし、引き続きハンニバル軍へ対処するために軍指揮権が延長されることとなった。

一方のハンニバル軍が、ガリア人で補強したとはいえ5万弱だったため、いかにローマがハンニバルを本気で潰そうとしたかが見て取れるだろう。兵の多さもさることながら、動員能力は驚異的にさえ思える。

ハンニバル、カンナエを奪取する

ハンニバルとしても、このままファビウスが指揮を取り続けてちまちまと攻撃されるより、一気に決戦を挑んで来ることを望んでいた。ただし相手は大軍である。どのようにすれば勝てるのか。

ハンニバルはスペイン出発当初から、ローマ軍と会戦で勝つためのキモは、常にローマ軍よりも数と熟練度で勝る騎兵戦力を活かすことだと考えていた。その騎兵の能力を最大限に活かす戦場には、地平線を遥かに見渡せる平野であることが望ましい。

そこで選んだのがカンナエである。カンナエは長靴型のイタリア半島から見れば、ちょうど拍車の位置にある。

カンナエの町は前年までに破壊されていたが、この地方の物資を集積する場所として、ローマ軍の補給基地となっていた。さらにカンナエの城塞は、この地域全体を制する要所でもあったのだ。そしてなんといっても近くには平原が広がっていた。

前216年春、ハンニバルは占拠していたゲレオニウムを出発すると、アプリア平原の端、アウフィドゥス川(現オファント川)まで進み、このカンナエを奪取する。

ハンニバル軍と対峙していたセルウィリウス軍は、カンナエが奪われたことに動揺した。放置すれば、周辺の同盟諸国が離反する恐れがある。セルウィリウスは元老院に何度も使いを送った。

ハンニバルを放置してはならない。いまこそ決戦を!

会戦の決意を固めた元老院は、セルウィリウスに対し、援軍到着まで待つように指示。そして満を持してパウルス・ウァロ両執政官軍をカンナエに送り出したのだった。

ウァロ、前哨戦でハンニバルに勝利する

前216年夏、ローマ軍はハンニバルの待つカンナエに迫った。だが、両執政官の間には、意見の対立があったという。

経験豊富なパウルスは、カンナエ一帯が林もなく平野なのを確認すると、騎兵戦力で上回るハンニバルとここで戦うのは危険だ、もう少し優位な場所に戦場を移すべし、と主張した。

しかし軍の指揮経験が少ないウァロは聞かなかった。この大兵力なら、ハンニバル軍など恐れるに足らず、と思ったのだろうか。

執政官軍が合流した場合、指揮権は一日おきに交代する。ウァロの番となったその日、彼はハンニバル軍近くに押し寄せる。これは会戦の宣戦布告とも言える行為である。ハンニバルは軽装歩兵と騎兵で応戦したが、重装歩兵に押し込まれたため、ローマ軍優勢のままこの日を終えた。

しかしウァロの行軍により、ローマ軍は安全に撤退することができなくなってしまう。なぜなら向きを変えると騎兵に側面を攻撃される恐れがあったからた。

翌日の指揮官パウルスは、結局そのままアウフィドゥス川下流の左岸に陣営を築き、さらに1/3の軍勢でもう一つの陣営を右岸に設け、ハンニバル軍を牽制する。

さて、決戦が迫ったハンニバルは、兵士に対して演説をおこなった。ウァロの進軍で、押し込まれたことに怖気づいた兵を励ますためだである。

以下どのように演説したか、少し長くなるが興亡の世界史3 通商国家カルタゴ の中から引用してみよう。

まず周りをよく見るように、と彼は言った。木も少なく、草も枯れはてた地中海地域の夏の平原が広がっている。「今この状況下で、このような場所で敵にはるかにまさる騎兵力で決戦すること以上のことを神々に祈りうるだろうか」――たちまち「否」の答えが兵士の間から沸き起こる。
「ではこのことについて神々に感謝したまえ。諸君が勝利を得られるように敵をこの地点へと導いてきたのは神々なのだから。そして私にも感謝したまえ。敵にこれを強いたのは私なのだから。彼らはもう戦いを避けることはできない。この、明らかに我々に有利な地点で戦うことから彼らは逃れることはできないのだ」

興亡の世界史3 通商国家カルタゴ 第八章ハンニバル戦争

この戦場へ導いたのは神々と私だから、必ず勝つ運命なのだと言い放つ。この演説を聞いて士気の上がらなかった兵は、果たしているだろうか。

そして運命の日は訪れた。

ローマ軍、カンナエで壊滅する

ウァロ進軍から3日後の、前216年8月2日。この日もローマ軍の指揮権は、ウァロにあった。彼は会戦を決意し、軍を平野に展開する。

一方のハンニバルも、この時を待ちわびていた。兵力の差こそあれ、もとから防衛主体の会戦など眼中にはない。狙うはローマ軍の壊滅である。

カンナエの戦いは、実際にどこで行われたのか、はっきりと分かってはいない。おそらくアウフィドゥス川西岸で戦ったという説が有力らしい。

カンナエでの両軍の布陣は、次の通り。

ローマ軍

  • 最前列:軽装歩兵
  • 中央:セルウィリウスとアティリウス・レグルス率いる重装歩兵
  • 左翼:ウァロ率いる同盟軍騎兵
  • 右翼:パウルス率いるローマ騎兵

この時、左岸と右岸それぞれの陣営に10,000の兵を残したので、ローマ軍は同盟軍合わせて、歩兵64,000、騎兵6,000

ハンニバル軍

  • 最前列:バレアレス軽装兵
  • 中央部:ハンニバル率いるガリア・イベリア歩兵
  • 中央部左右:同じくハンニバル率いるリビア重装歩兵
  • 左翼:ハスドゥルバル率いるガリア、イベリア騎兵
  • 右翼:ハンノ率いるヌミディア騎兵

ガリア兵合わせて、歩兵40,000、騎兵10,000以上

カンナエの戦い 布陣図
カンナエの戦い 布陣図

ローマ軍はいつもの布陣だったが、なんと言っても中央の分厚い歩兵が異様な圧力を醸し出していた。

この時、平原にあふれるローマ軍の数の多さにおじけづいたものがいた。ハンニバルのそばにいたギスコだ。彼はローマ軍を見て言った。

なんと、敵の数の多いことか

その言葉を聞いたハンニバルは切り返す。

君は大事なことを見逃しているぞ。あれほどたくさんの人がいても、あの中にはギスコという人はいないのだ

ハンニバルの冗談に、周囲の人間は大笑いした。それが全軍に広まっていく。アイスブレイクよろしく、兵士たちから固さが取れ、同時に勇気が湧き上がるのを感じることができた。

そのハンニバル軍も、基本的にトレビアで見た布陣と基本形は同じである。特徴的なのは、中央部が敵側に盛り上がり、三日月型をなしていたこと。そして三日月型の最後部に、ローマ兵からぶんどった装備で武装したリビア(アフリカ)兵が控えていたことだ。


戦いは、軽装歩兵のぶつかり合いから始まった。左右の騎兵同士の衝突がそれに続き、さらに中央部の重曹歩兵部隊が戦闘に入る。

ハンニバルの戦術は、敵が優位な歩兵戦に耐えきってから、騎兵戦を制したのちに包囲殲滅に移ること。中央の歩兵隊列を三日月型にしたのは、トレビアで食い破られた歩兵部隊の反省を活かし、ある程度押し込まれても崩れないようにすると同時に、ローマ軍を中央におびき寄せ、隊列を乱すことにあった。

一方のローマ軍は、優位な歩兵で一気に中央を突破し、包囲が形成される前に敵陣系を崩してしまうこと。ウァロは、倍の兵力ならそれが可能と踏んだのである。果たしてどうだったか。

まず中央のガリア、イベリア歩兵たちが、ローマの圧倒的歩兵の数に押されて、ジリジリと後退し始めた。これはハンニバルが想定していたことである。

その三日月形がちょうど逆になった頃、最後部にいた左右のリビア兵――今は最前列に移動したが――が、ローマ歩兵側に90°向きを変え、攻撃を始めたのである。ハンニバルは、まず歩兵で半包囲を作り出したのだ。

ただし、ローマよりも遥かに中央部の薄いハンニバル軍は、ローマ軍に突破を許してはトレビアの二の舞になってしまう。それどころか包囲が崩されたが最期、数でまさるローマ歩兵の餌食となるだろう。ローマ軍が突破する前に、左右の騎兵が駆けつけることが肝心となる。その騎兵戦はどうなっていたのか。

カンナエの戦い 展開図
カンナエの戦い 展開図

まずローマ側右翼、ハンニバル軍から見れば左翼の騎兵戦は、早々に決着がついた。ハスドゥルバルがローマ騎兵を蹴散らすと、ローマ同盟軍騎兵と戦うヌミディア騎兵の応援に駆けつけることができたのだ。

そのヌミディア騎兵は、圧倒的な馬術で同盟軍騎兵を引きつけることに成功していた。そこにハスドゥルバルが応援に駆けつけたことで敵騎兵は動揺し、戦場から退却する。左翼を率いていたウァロも戦場から離脱した。

ハスドゥルバルはヌミディア騎兵の数が、敵騎兵より多いことを確認すると、追撃を彼らに任せて、自らはローマ歩兵の背後に回り込んだ。この時一瞬ハンニバル軍の中央部が乱れたが、ハンニバルは立て直すことに成功すると、ローマ軍を完全に包囲してしまったのである。

カンナエの戦い 最終局面
カンナエの戦い 最終局面

あとは戦闘ではなく、ただの殺戮だった。

まず、右翼から中央部に移り、歩兵を鼓舞していたパウルスが殺された。次に中央を指揮していた2人の前執政官も包囲のなかで死んだ。外側から順にただただ殺されていくローマ兵たち。

執政官パウルスの最期の絵画
執政官パウルスの最期
John Trumbull (1756-1843)

他方、同盟軍騎兵も追撃にあい、ヌミディア騎兵にことごとく討ち取られる。ローマ側で生き残ったのはわずか70騎。その中に、この会戦を引き起こしたウァロもいた。

結局この戦いに参加したローマ兵8万のうち、7万もの人間が戦死を遂げたのである。この戦いには、多数の元老院議員が参加していた。その参加者80名も殺された。300人いた元老院議員の1/4以上が、たった一日で斃れてしまったのだ。また陣営に残っていたローマ兵1万も、ことごとくハンニバル軍に捕らえられた

一方ハンニバル軍5万のうち、戦死者は5700。その中の4,000が、ガリア兵だったという。ハンニバル軍の圧勝だった。

北イタリアでの戦闘

さらに数日後、ローマにとって悪夢は続く。北イタリアに派遣されていたポストゥミウスが、ボイイー族の奇襲にあい、全滅したのである。

ポストゥミウスは、カンナエよりも前にハンニバル軍中にいたガリア人を故郷へ戻らせるため、ムティナ(現モデナ)近くへと赴いていた。その森の中で罠にはまったのである。

前法務官権限で率いていた2個軍団は消滅してしまい、ポストゥミウスの首はボイイー族の神殿に持ちさられてしまった。

イタリアにいたローマ軍はこの時、オスティアにいる艦隊と急募したローマ兵2個軍団以外、戦える戦力が全てなくなったのである。

本記事の参考図書

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