第二次ポエニ戦争Ⅳ ―マケドニア・シュラクサイの対ローマ参戦からカプア奪回まで―

ローマとカルタゴの決戦 第二次ポエニ戦争その4

トレビアの戦い後、南下が予想されるハンニバルを食い止めるため、ローマは両執政官軍をアペニン山脈の両側に配置する。

ハンニバルは自らの右目を犠牲にしながら、執政官の一人フラミニウスをトラシメヌス湖畔で罠にかけ、葬り去ることに成功した。

この敗戦を受け、ローマは独裁官ファビウスを選出する。彼の戦術は決してハンニバルと直接戦わず、消耗を待つこと。作戦は一定の成果を上げるも、ローマ市民には不人気のため、彼の独裁官任期が切れるとともに、対ハンニバルの積極路線が復活する。

ローマはハンニバルを倒すために計80,000もの兵を動員。一方のハンニバルも自ら選んだ地でローマ軍を待つ。そして両者はカンナエで激突。この戦いはハンニバルの歴史的勝利に終わり、ローマは7万もの兵を犠牲にしたのである。

カンナエの戦い後

ハンニバルはなぜローマ市を攻めなかったのか

カンナエでの完全な勝利により、イタリア全土からほとんどのローマ軍が一掃された今が好機だと考えた騎兵隊長マハルバルは、ハンニバルに言った。

今こそローマを攻めるときだ

マハルバル以外の副官たちも、ローマ市攻略を勧めた。

しかしハンニバルは断固拒否する。ローマ軍が存在せず、丸裸の心臓部を付けるチャンスにも関わらず、なぜ彼はローマ市を攻めることを拒否したのだろうか。

私は次の3つの理由からだと考える。

  1. ハンニバル軍の構成が野戦に特化していたため
  2. 補給路が確保できていなかったため
  3. ローマ市と同盟都市の分離、すなわちローマ連邦解体を狙っていたため

【理由その1】ハンニバル軍の構成が野戦に特化していたため

ハンニバル軍は、イタリアになるべく早く到達するため、様々なものを犠牲にしたが、その一つが都市を攻略するのに必要な攻城兵器を運ぶこと。つまり彼の軍は、最初からローマ軍と野戦で決着をつける、野戦専用軍だったのである。

いくらイタリアに軍がいないとは言え、ローマのような大都市を攻囲して落とそうとすれば、何年もかかってしまう。ましてや彼の軍は野戦専用なので、攻囲期間は更に伸びるだろう。

そのような悠長なことをすれば、ローマに反撃の体制を整えさせることにもなりかねなかったのだ。

【理由その2】補給路が確保できていなかったため

理由1とも関係することだが、攻囲戦は我慢比べが基本だ。食糧、その他物資が尽きる方の負けである。この戦いは、攻囲される方はもちろん、攻囲する側にも相当な物資が必要となる。

ハンニバル軍は敵中に乗り込んできたため補給路を持たず、イタリア内の略奪で物資を確保していたのである。ローマ周辺の都市を離反させることもせず、また近郊の港を手に入れない以上、ハンニバルが継続的に物資を確保するのは難しかったのではないか。

【理由その3】ローマ連邦解体を狙っていたため

ハンニバルの基本戦略は、あくまでローマと同盟都市の絆を切り離す、ローマ連邦の解体である。ローマ市を一か八かで落とすより、ローマの外堀をじわりじわりと埋め、最終的にイタリア内で孤立させることを狙っていたのだ。


それでも、とマハルバルは思っただろう。今ここでローマを衝けば、あるいはローマを敗戦に追い込めるのではないか、と。

ハンニバルの態度に業を煮やしたマハルバルは、こう言った。

ハンニバルよ。貴方は勝つすべは知っている。だが勝利の果物を刈り取ることはできないのだ

これ以降、史書にマハルバルが登場することはない。

ローマ、捕虜返還交渉を拒否する

これはローマ市を攻めなかった理由とも関係するのだが、ハンニバルが戦争を始めた目的は何だったのだろう。

私は、彼がこの戦争を始めたのは、ローマへの復讐心からくる個人的な私怨ではなく、あくまでカルタゴの国益を優先することだったと考える。つまり、彼はこの戦争の着地点を、次のように考えていたのではないだろうか。

  • ローマが不義理で掠め取ったサルディニアとコルシカの奪還
  • 第一次ポエニ戦争以前のシチリア領回復
  • バルカ家が築いたスペイン領の確保

このための手段がローマ連邦の解体である。ローマが戦争を続行できないようにして戦争を終わらせ、その際の条約で旧カルタゴ領をすべて回復させるのが狙いだったのだろう。

事実、ハンニバルは捕虜返還交渉のため、軍に参加していたカルタゴの貴族カルタロをローマへと派遣した。その際、ローマに和を結ぶ意志があるなら、条件提示をするするよう、指示を出して。

このカルタロという人物は、第一次ポエニ戦争でローマの捕虜となったことがある。その時ファビウス家の客人になった縁で、「クンクタトル」とあだ名されたファビウス・マクシムスと親交があった。

もちろんファビウスとの少なからぬ縁を利用し、交渉を運ぼうとしたことは明白だ。

しかしローマは、市の城門でカルタロを追い返した。捕虜の家族が民会に集って嘆願したにもかかわらず、身代金の支払いも拒絶して戦争を続ける意思をはっきりと示した。

ローマ人にとって、戦争が終わるときは勝った時以外になく、条約を締結するのは、勝利によって得た優位を落とし込む以外の選択肢はなかったのだ。これは当時の地中海世界の国際常識からすればズレた発想であり、ハンニバルにとってもローマが苦しい時期に交渉を拒否することなど、計算に入っていなかったのではないか。

だがローマがどれだけ苦しくても、和平ではなく戦争を続けるという決断を下せたのはなぜか。

ひとつは西地中海の制海権は未だにローマが握っており、スペインでもローマ軍が有利だったこと。

そしてもう一つが、同盟都市からの離脱が少なかったことだ。

カンナエ後のローマの対応

とはいえ、ローマが苦しいことには変わりがない。そこでローマはカンナエの戦いのあと、どのような対応をしたのだろうか。

独裁官の選出

カンナエの戦いの時の執政官ウァロは、ウェヌシアに逃れたあと、ローマへの帰還を果たす。カルタゴなら戦犯扱いされたあと、磔刑などの厳しい刑が待っていただろうが、ローマ市民は

祖国に絶望しなかった

として、ウァロを恭しく迎え入れた。ローマでは自ら命を断つと罪深く臆病とされたが、負けることそのものに罪を問われることはなかったのだ。

しかしもうひとりの執政官パウルスが戦死をしていたため、前216年の今回も独裁官が任命された。その人物はマルクス・ユニウス・ペラ。彼は国力を回復することに、全力を傾けた。また副官である騎兵隊長には、ティベリウス・センプロニウス・グラックスが選ばれた。

奴隷軍の創出

7万人もの犠牲者を出したカンナエの戦いのあとでは、完全に戦力が不足していた。しかしすぐに兵士が集まるものではない。そこでローマでは、負債者・罪人を解放し、さらに奴隷も「除隊後」という条件をつけた解放により、彼等だけの軍隊、いわゆる「奴隷軍」が臨時で創設された。

マルケッルスをノラに派遣

さらにマルケッルスを、カンパニア地方と南イタリアの境界である、ノラの町へと派遣した。これは後に見るハンニバルのカンパニア攻略に対する布石である。

マルクス・クラウディウス・マルケッルス

第一次ポエニ戦争にも参加した老将。平民系の貴族(プレブス)であり、前215年の選挙で執政官に選出されたが、ファビウスから待ったがかかり、翌年の執政官に選出されている。

彼は攻撃に重心を置いた戦闘を好み、自らの危険を顧みない指揮のため、ファビウスと比較して、後に「ローマの剣」とあだ名される。

カンナエの戦いのあと、ローマは再びファビウスの持久戦法を採用したが、マルケッルスは、その戦法に乗っ取りハンニバルとのノラ攻防戦を制することになる。

ローマ同盟への影響

カンナエでのローマ軍完全殲滅は、やはり同盟諸都市への影響が大きかった。ローマをつかなかったハンニバルは、このカンナエでの影響を最大限に利用する。

まず彼は、部下のハンノに南イタリアへの遠征を任せた。この地域は、まだローマに征服されてから日が浅く、結びつきも緩かったのだ。

ハンノはブルッティウム地方のロクリ、クロトン両都市を掌握する。これで南イタリアからカルタゴ本国へ、直接連絡することが可能になった。さらにルカニアでは、ハンニバルに鞍替えするかで内乱状態となった。

一方、ハンニバル自身は北アプリアから南サムニウムの諸都市を味方に引き入れつつ、カンパニア地方にはいる。この地方最大にして、ローマに次ぐ大都市カプアも、ハンニバルに付いたのだ。さらにハンニバルは、カプア近郊の都市、カシリヌムまで制圧する。

ここでじっくりと地盤固めをする予定だったハンニバルだが、彼が想定した以上にローマ連邦は崩れなかった。とりわけカンパニア地方の海岸都市、クーマエからネアポリス(現ナポリ)まで、ハンニバルに固く門を閉ざしていたのである。

さらにハンニバルは、カンパニア地方の南の出口であるノラの攻略に失敗する。マルケッルスが救援に駆けつけ、都市内の親カルタゴ派の70人を処刑し、裏切りを防いだからだった。

さらにファビウスの持久戦法路線を実行してハンニバルとの野戦をさけ、小規模ながらもハンニバル軍を攻撃し、勝利することができたのである。

この地点でハンニバルが制圧、あるいは味方につけた地方や都市は、次の通り。

カンナエの戦い直後のハンニバルの勢力範囲の図
カンナエの戦い直後のハンニバルの勢力範囲(前215年頃)
  • カンパニア地方・・・カプア、アテッラ、カラティア
  • サムニウム地方・・・一部
  • アプリア地方・・・サラピア、アルピ、へルドネア
  • ブルッティウム地方・・・ロクリ、クロトンなど

これ以外の軍事的要衝に当たる都市の大部分は、傍観的立場を取っている。さらには離反した都市たちも、ハンニバルが後押ししているため、かろうじて親カルタゴを表明しているにすぎない。

やはりローマ連邦は、ハンニバルが思っている以上に結束が固かったのだった。

対ローマ包囲網

カンナエでのハンニバル勝利に湧き上がったのは、イタリア内のローマ同盟諸都市より、むしろローマの伸張を快く思っていなかった半島外の諸国だった。その中でも特にローマを警戒していた2つの国が、カンナエの結果を受けて、カルタゴと結ぶことを決めた。

その2つとは、ヘレニズム諸国随一の強国マケドニアと、シチリアのシュラクサイである。

マケドニア、対ローマ戦争に参戦する

イタリア半島と、アドリア海を挟んで東にあったマケドニア。前221年に即位したばかりの青年王フィリッポス五世は、なぜカルタゴと結び、ローマと戦うことを決めたのか。

それは、マケドニアの西隣にあったアドリア海沿いの国、イリュリア王国が関係していた。

第一次ポエニ戦争後、二回に渡ってローマがイリュリア王国に戦争を仕掛け、アドリア海沿岸の諸都市を勢力下におさめていた。第二次ポエニ戦争Ⅰ ―ハンニバル戦争とも呼ばれたローマとカルタゴとの決戦―にあるハンニバルのサグントゥム包囲戦当時、ローマがイリュリアと戦争していたため、サグントゥムに援軍を送れなかったことは記載したとおりである。

前215年当時、マケドニアに難を逃れていたファロスのデメトリウスという人物――実はこの人物こそローマにイリュリア介入のきっかけを作った張本人――が、ローマを破ったハンニバルと結ぶことを、強く主張したのである。

これ以上、東方へのローマ進出を許したくないフィリッポスは、アテネ人のクセノファネスをハンニバルのもとに送る。一方のハンニバルも、マケドニアの対ローマ戦争参戦はありがたかったに違いない。

かくして両者の利害は一致し、対ローマ戦の条約は締結された。それは要約すると、次のような内容である。

  1. マケドニア人とカルタゴ双方に保護と援助を与える
  2. カルタゴはフィリッポスの敵を敵とし、マケドニアもカルタゴとローマの戦争での勝利の日まで同盟者となる
  3. ローマがカルタゴに和平を求めた場合、マケドニアに対する和平と攻撃禁止も加える

など。

とくにこの3番目の内容は注目に値する。というのもローマが和平を求めたときの条件も条項に盛り込まれているからだ。つまり、ハンニバルには「何が何でもローマを叩き潰し滅ぼす」という気などなく、あくまでローマと有利な条件で和睦し、戦争の早期終結を狙っていたと考えられるのである。

後に「第一次マケドニア戦争」と呼ばれるマケドニア参戦は、ローマにとって東方にもう一つ敵を増やし、戦力の分散を招く非常に厄介な出来事だった。

シュラクサイ、ローマとの同盟を破棄する

カンナエの戦いから1年後の前215年、シュラクサイではローマ同盟を堅持しつづけたヒエロンが死んだ。御年90歳は越えていたという。あとを継いだのは、孫のヒエロニュモスで、この時わずか15歳。

即位直後、彼に対する陰謀事件が発覚する。どうも親ローマ派が関与したとされているが、カルタゴに親しいヒエロニュモス取り巻きの仕業かもしれない。ともかく側近たちはハンニバルに使節を送ることを進言し、新王はこの意見に従った。

ハンニバルにとって、シュラクサイのローマ同盟離脱とそれに伴うカルタゴとの同盟は、願ってもないことだっただろう。シュラクサイを味方に付けることができれば、この都市を通じてカルタゴ本国と南イタリアをつなぐことができるからである。

この時代、航海は陸伝いに行くことが普通であり、カルタゴからイタリアへ渡るには、途中のシチリアを避けて通るわけには行かなかった。これこそが「制海権」の正体なのだ。

加えて、シュラクサイからの攻撃に備えるため、ローマは戦力を分散せざるを得ず、結果的にカルタゴからイタリアにいるハンニバルへ援助がしやすくなる。

ハンニバルは、ヒッポクラテスとエピキュデスの兄弟をシュラクサイに派遣する。この兄弟は、シュラクサイがまだ僭主アガトクレスに支配されていた祖父の時代の亡命者で、彼ら自身はカルタゴを母国としてハンニバルに従軍していた。

ローマは全力でシュラクサイとカルタゴの同盟を阻止するため、属州総督アッピウス・クラウディウス・プルケルの働きかけで、何度もヒエロニュモスに使いを送る。

新王は迷った。そして迷うたびにヒッポクラテスが説得を続ける。同盟の締結条件に出された、ヒメラ川でシチリアを折半するという条件は、いつしかシュラクサイが全島を支配する、という条件にまでつり上がっていた。それでもカルタゴは、ハンニバルはなんとしてもシュラクサイを抑えたかった。

そしてついに前214年春、条約は結ばれ、カルタゴとシュラクサイの間に同盟が成立した。カンナエの劇的な勝利は、夢見がちな少年王の心に、深く刻まれていたのだった。

ちなみにヒエロニュモスは、兄弟と伯父の一人をプトレマイオス朝エジプトに送り、対ローマ戦争に参戦するよう説得したという。ただしエジプト側は、「ティベル河畔の野蛮人」ローマから離れる気はなかった。

なぜならローマは、エジプトに依頼した穀物に対して、しっかりと対価を支払ってくれる相手だったのである。

カルタゴ本国、大規模な軍事行動に出る

さて本国カルタゴは、ハンニバルの弟マゴにより、カンナエの戦勝報告がもたらされ、大いに湧いた。

このマゴという人物、前218年以降つねにハンニバルとともに過ごし、彼から絶大な信頼を得ていた。そのマゴがカルタゴ本国に伝えたことは、単なる戦勝報告にとどまらず、ハンニバルの戦略プランを伝えた可能性がある。

ついにカルタゴは、国力を最大限に投入し、大規模な軍事作戦を決意する。

スペイン方面

スキピオ兄弟に苦戦するハンニバルの弟ハスドゥルバル支援に、12,000の歩兵と1,500の騎兵を、弟マゴとともに送り出した。

サルディニア島方面

スペインに送り出した規模と同数の部隊を、サルディニア島占領のために用意。

イタリア方面

数こそ少ないものの、騎兵と戦象、傭兵募集のための資金を用意し、ハンニバルのイタリア作戦を後押し。


この作戦によるカルタゴとハンニバルの狙いは何か。

まずスペイン方面は、もちろんスキピオ兄弟率いるローマ軍の撃破だ。これにより、スペインにある銀山を確保し、イタリアへの補給、援助が可能となる。

またサルディニアに軍を送ることで、ローマに反感を抱く原住民の領主の反ローマ闘争を助け、サルディニアを占領する。これにより、本国とスペインへの海の道を確保すると同時に、ローマの補給路を断つ

同様にシチリアを押さえれば、南イタリアへの道を確保できるだけでなく、海からイタリア半島を囲むことができる。そのため、ヒエロン存命中からシュラクサイの宮廷で親カルタゴ派が暗躍していた。ヒエロニュモスによるカルタゴへの鞍替えは、この成果の表れと言えるだろう。

そして東方マケドニアで東からアドリア海を抑えることができれば、ローマを囲む包囲網が完成するのだ。この状況下で、イタリア半島内ではハンニバルが戦いを続けるのである。

こうなれば、ローマはカルタゴに和睦するしかない、と本国もハンニバルも考えていた。そこでハンニバルのイタリア半島撤退を条件に、占領した各地域のカルタゴ支配権を認めさせる

実現すれば、西地中海は再びカルタゴのものになるはずだった。

ローマの底力

ところが、カルタゴやハンニバルの想定している以上に、ローマの力は強かった。

スペインでは前215年、エブロ川近郊でハスドゥルバルがスキピオ兄弟に大敗する。これにより、ローマ軍のエブロ川南部へ侵入を許してしまう。あのサグントゥムまで、あと一歩までローマ軍は迫っていた。

さらにサルディニアでも、カルタゴの支援した現地人の蜂起が、ローマによって鎮圧される。カルタゴ本国の援軍が、嵐にあって間に合わなかったのだ。サルディニア奪回作戦は頓挫した。

またマケドニアも、アドリア海やイリュリア地方での作戦が、前214年ローマの奇襲にあい後退している。

そしてシチリアのシュラクサイ。代替わりしたばかりの少年王ヒエロニュモスが、シチリア方面軍司令官に任命されたマルケッルス率いるローマ軍に、レオンティーニを奪われた直後、暗殺されてしまったのだ。

僭主を倒したことで、政権を握った寡頭派がローマとの和睦を図るが、ヒッポクラテス、エピキュデス兄弟がふたたび政権を奪取。これを受け、マルケッルスはシュラクサイを包囲する。

多方面に渡る作戦を展開できるローマの力が、カルタゴをジワリジワリと押し返していた。

一進一退の攻防

ローマ、カンパニア地方の奪回を狙う

前214年、ハンニバルはカンパニアでの勢力を確保するため、再びカンパニアへ攻勢に出る。ブルッティウム地方(イタリア半島のつま先)で兵を招集したハンノに、南からカンパニアを攻めさせた。

特に重視したのは、ティレニア海沿岸のカンパニア諸都市である。ここを抑えることができれば、シチリア島を経由してカルタゴやシュラクサイから直接援助を受けることができるのである。

ところがハンノは、ベネウェントゥム付近で、センプロニウス・グラックス率いる奴隷軍に敗れたのである。ブルッティウム地方の招集兵が、野戦に不向きなのが証明されただけだった。

一方ハンニバル自身は、前年に落とせなかったノラを、再び攻撃した。しかし野戦に特化した軍プラス、攻囲戦をするには圧倒的に兵の数が足りなかったため、結局うまく行かずにアプリア地方へと退却を余儀なくされたのである。

ハンニバルのカンパニア攻略がうまく行かないのを尻目に、前214秋、ローマはカプア近郊のカシリヌムを奪回。カプアにあとわずかの距離まで迫っていた。

シラクサ情勢

シチリア島の図
シチリア島の様子

同じころ、シュラクサイを包囲するマルケッルスも、シチリアの一都市を相手に大苦戦を強いられる。その一つがシュラクサイにいた天才、アルキメデスの存在である。

彼が、数学や物理学(主にてこ)を応用した対攻城戦武器により、ローマは市民が立てこもる城壁に近づくことさえできないでいた。アルキメデスの活躍と彼の創作武器については一人でローマ軍二万を足止め!?シラクサの天才アルキメデスの防衛兵器に詳しく書いたので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。

カルタゴはシュラクサイを救援するため、さらにボミルカル率いる艦隊を派遣し、ローマが海から街を封鎖することを阻止していた。

そして前213年春、28,000(そのうち騎兵3,000)と象12頭が、カルタゴの将軍ヒミルコに率いられ、シチリアのヘラクレア・ミノアに上陸する。これにより、アグリゲントゥム(ギリシア名ではアクラガス、現アグリジェント)などの南海岸の町、内陸の都市が次々とローマを離れ、カルタゴ側についたのである。

このヒミルコの軍に、シュラクサイにいたヒッポクラテスは包囲から抜け出して合流し、ギリシア都市連合を形成。包囲中のシュラクサイ市は、兄弟の一人、エピキュデスが守りを指揮し、ローマを引き続き食い止めていた。

ハンニバル、タレントゥムを陥落させる

このように、シュラクサイ攻略が長引くことで、ローマがイタリアに戦力を集中できないことを見越し、ハンニバルはカンパニアに向けていた矛先を一転、南へと変更する。

狙うはタレントゥム。
南イタリアで最大級の港町である。
ここを落とせば、南イタリアの諸都市はハンニバルに味方すると目論んでのことだった。

しかし、ことはそう簡単に運ばない。前213年には、この年執政官に選ばれた奴隷軍率いるグラックスが、内紛に揺れるルカニアに干渉し、さらにルケリアでハンニバル軍を破る。

さらにアプリアで軍の指揮を執る「クンクタトル」ファビウスの息子(こちらも新執政官に選出)が、アルピを夜襲で奪回したのだ。ローマは、ファビウスの戦略通り、ハンニバルと直接戦わない一方で、ハンニバルのいない箇所を確実に攻め、イタリアでの包囲網を狭めていた。

また前年の前214年から、ハンニバルはタレントゥムの親カルタゴ派貴族との関係強化につとめたが、

  • ローマの守備隊がいたこと
  • ピュロス戦争での出来事を教訓とする老貴族たちが、ローマからの離反を恐れたこと

で、なかなかことが運ばなかったのである。

しかし前212年初頭、ついにハンニバルがタレントゥムに撒いた種が実った。彼はタレントゥムの貴族、ニコンとフィロメロスと内通し、ローマの守備隊を欺いて夜襲で街を占領、ローマ守備隊の守っていた城砦も奪うことができたのだった。

タレントゥム陥落の報は、ローマにとって衝撃的なものだった。

まずどちらに付くかで揺れていたルカニア同盟が、カルタゴ側に決める。これを期に、ハンノ・ボミルカル、マゴの2人が南イタリア諸都市、メタポントゥム、ヘラクレア、トゥリィを奪取した。

またこれまでハンニバルを苦しめてきた、グラックス率いる奴隷軍が、マゴの罠にかかり、ヘルドネア付近で敗れ、死んでしまう。ローマ、というよりこの将軍一人の求心力によって成り立つ軍団だっただけに、リーダーの死は事実上の解体を意味した。

こうして南イタリアは、ブルッティウム(イタリアのつま先)のみならず、ルカニア(土踏まず)、アプリア(かかと)の大部分が、ハンニバルの勢力下におさまったのだ。

タレントゥム陥落後のハンニバルの勢力範囲の図
タレントゥム陥落後のハンニバルの勢力範囲(前213年頃)

この影響で、ローマは兵士の招集がままならなくなる。ローマもまた、苦しい時期を迎えていた。

ローマ、カンパニア地方を取り戻す

シュラクサイ陥落

大都市カプアとカンパニア地方の救援を、一時棚上げまでして手に入れたタレントゥム。そのおかげで、ハンニバルはほぼ南イタリアを制圧したと言える状態になった。

これで戦況はふたたびカルタゴ側に傾くかと思われた――しかし前212年夏、カルタゴにとっては悪夢が、逆にローマにとっては神の助けと思われる出来事が、シチリアで起こったのだ。

その出来事とは、シュラクサイを救援するカルタゴ軍に発生した疫病だった。この病の影響で、多くの兵士が倒れたことはもちろんだが、加えてカルタゴの将軍ヒミルコ、さらにシュラクサイの亡命者であり、政権を奪取した兄弟の一人、ヒッポクラテスも疫病の犠牲者となったのである。ヒミルコの率いていたカルタゴ兵は、結局シチリアの西側まで退却せざるを得なくなった。

これを好機とみたマルケッルスは、シュラクサイ総攻撃を命じる。この時、カルタゴ艦隊司令官ボミルカルがローマ艦隊に決戦を挑めば、あるいは戦況が変わったかもしれないが、その優柔不断な性格から攻撃に踏み切ることはなかった。

そしてこの夏の終り、スペイン傭兵による裏切りで、堅牢だったシュラクサイ市への道がひらけ、ついに町は陥落。マルケッルスの助命にも関わらず、略奪と虐殺のなかで天才アルキメデスも殺された。

この陥落の様子は、漫画ヘウレーカでも描かれているので、史書との差をぜひご堪能いただければと思う。

アイトリア同盟との共闘

シュラクサイの陥落は、同時にローマ大包囲網が崩れたことも意味していた。ここでローマは外交を駆使し、この包囲網の打開を図る。その一つが前212年のアイトリア同盟と結んだことである。

アイトリア同盟

アンティゴノス朝マケドニアに対抗するため結成された、北西ギリシアの部族的連合体。

ローマがアイトリア同盟と軍事的協力体制に入ったことで、マケドニアは背後に敵を抱えることになり、ローマへ攻勢にでることができなくなってしまった。

スペイン情勢

そしてスペインでもカルタゴに逆風が吹いていた。その風の正体は、本国カルタゴに起きたヌミディア人の蜂起。ヌミディア王シュファックスがカルタゴに対し、反旗を翻したのである。

スペインを守るハスドゥルバルは、この反乱に対処するため、カルタゴ本国に兵を送り込まなければならなかった。

逆にローマ軍は勢いを増し、エブロ川南まで到達。あの第二次ポエニ戦争の原因となったサグントゥムを攻略し、ついにスペイン南部への足がかりを手に入れたのだった。

ローマ、カンパニア包囲網を縮めていく

ローマの対ハンニバル軍基本戦略は、カンナエの戦い以降「クンクタトル」ファビウスの示した持久戦法である。

すなわちハンニバルが率いる本隊とは直接戦わず、極力焦らす。その代わり、ハンニバルのいない分遣隊、別働隊、そして陥落させた町などは攻撃の対象とし、徐々にハンニバル軍への包囲網を縮めていく方法だ。

この持久戦法は第二次ポエニ戦争Ⅲ ―トラシメヌス湖畔の戦いからカンナエの戦いまで―でも記述したとおり、ローマ市民に人気がなかった。なぜなら略奪をされても、手をこまねいて見ているだけだったからである。

しかしファビウスの考えが正しいことは、ヘルドネア付近でローマの将軍グナエウス・フルウィウス・フラックスが敗れたことでも証明された。彼はヌミディア兵を率いたカルタゴの将マゴに背後を突かれ、右翼からの伏兵にあい敗れてしまう。圧倒的な騎兵戦力を持つハンニバルに、野戦で戦う愚を犯すことは、やはりローマ軍にとって避けなければならない優先事項だった。

このような敗戦があったとはいえ、ファビウスの戦略はカンパニア地方での戦況を徐々に前進させていく。前212年、ローマ軍はカンパニアに全兵力を終結させた。狙いはもちろんカプアだが、カプアへと至る道も封鎖し、食糧が徹底的に入らないよう注意した。

カプアを救うため、ルカニアから食糧を輸送したハンノも、ベネウェントゥムの南西で道を阻まれ、結局カンパニアにすら入ることができなかった。

そこでハンニバルは、自ら軍を率いてカプアを救うことを決断する。2万以上の兵と33頭の象を引き連れて。象は随分前に、カルタゴ本国から兵や物資とともに南イアリアで受け取ったものだった。

ハンニバル、ローマへ!

前211年春、ようやくカンパニア地方に入ると、ハンニバルはカプアのそばにあるカレッタという町を占領した。ただし、カプアの前には堡塁や深い壕があり、また二個軍団が三将軍に率いられているため、そう簡単にカプアを救うことはできなかった。

ハンニバルは、5日間何もできずに過ごしたあと、カプアを離れることを決めた。いままで荒らし回っていたせいで、カプア近くには物資がなく、大軍を賄うことができなかったのである。

ただし、ハンニバルはただ退却するのではない。彼はローマを目指したのである。無防備のローマを衝けば、首都を陥れられる恐怖からカプアの包囲を解き、ハンニバルの後を追いかけることを期待したのだ。

しかしローマは幸運にも、ハンニバルが城門まで迫ったこの日、新執政官が一軍団の徴募を終え、その兵士たちが集合する日だったのである。執政官の二人、プブリウス・スルピキウス・ガルバとグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスは、この軍団でハンニバルの攻撃を阻んだのである。

ローマ、カプアを奪回する

結局ローマへの攻撃を阻まれたハンニバルは、3日後にローマからブルッティウム地方へと撤退した。これが彼の生涯でローマを見た、最初で最後となる。

ブルッティウム地方へと引き上げる途中、彼はカンパニアにも立ち寄ったはずだ。包囲されたカプアに何もできず引き上げるしか術がなかったハンニバルは、この時一体何を思ったのだろうか。

前211年、カンナエの戦いの後カルタゴに味方したローマ同盟都市カプアは、ついに陥落した。このカプアに対し、ローマは厳罰を持って対処する。

まず28名の離反者のリーダーが、捕まる前に自害した。53名のカプア貴族は、公式に鞭打ち刑のあと、首をはねられる。さらに、離反したカンパニアの他都市の貴族で、カプアにいたもの17名も、同じ刑を受け死んだ。

そうしてカプアも自治権を剥奪され、以後ローマ人の所有する都市になったのである。


しかし同じ頃スペインでは、スキピオ兄弟がサグントゥムの南まで進軍したところで、カルタゴ軍に敗れて戦死してしまう。そのため、スペインにいるローマ軍は、ほとんど壊滅状態にまで追い込まれることとなったのだった。

本記事の参考図書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA