オスティア・アンティカ ―首都ローマの玄関港として栄えた双子都市―

首都ローマの玄関港 双子都市オスティア

ポンペイと同様に、古代ローマの町がその姿のまま現代にも息づく遺跡がある。
それがオスティア・アンティカだ。
オスティア・アンティカはポンペイとはちがい、古代ローマのすべての時代を経たあと、帝国の衰退とともに放棄されたため、現在にその姿を残している。
またオスティア・アンティカは、北側に増設された港町をもつ双子都市でもあった。

では、最盛期に5万人を越える、イタリア内でも屈指の大都市だったオスティア・アンティカは、

  • どこにあり
  • どのような歴史をもち
  • 最盛期にはどのような姿

だったのだろうか。

この記事では、ローマから日帰りで見に行くことができる遺跡の街、オスティア・アンティカについて見ていこう。

オスティア・アンティカの位置

オスティア・アンティカは、首都ローマから海への出入り口として栄えた町だ。
ローマを流れるティベリス川(テヴェレ川)の河口付近に位置し、ローマからはオスティエンセ街道沿いに25kmほど車で走った距離にある。
ローマからオスティア・アンティカへの行き方(アクセス)をこの記事の最後に書いておくので、ご参考いただきたい。

しかし現在のオスティア・アンティカがある位置は、河口からかなり離れた位置にあり、これでは玄関港としての役割を果たせないと不思議に思うかもしれない。

オスティア・アンティカはローマ時代、確かに河口にあったのだ。
だがティベリス川から運ばれる土砂の埋め戻しで、2,000年の間に海岸線が4kmも後退してしまった。

ローマ時代のオスティア・アンティカ海岸線
古代ローマ時代のオスティア・アンティカ海岸線
ローマ帝国と地中海文明を歩くより

そしてティベリス川の埋め戻しは、オスティア・アンティカの命運を決める要因の一つとなる。
ではオスティア・アンティカは、どのような歴史をたどってきたのだろうか。

オスティア・アンティカの歴史

創設~ポエニ戦争まで(前3世紀頃)

オスティア・アンティカ(以後オスティア)は歴史家リウィウスによると、4代目の王アンクス・マルキウス(前620年ごろ)が、塩田を確保するために都市を築いたのが始まりとされる。
オスティアの名は、河口を意味する「オスティウム(ostium)」が由来だ。

はじめはティベリス川南岸のみを支配下に治めていたローマだったが、前396年、ローマの将軍カミルスによってエトルリアの都市ウェイイが陥落すると、北岸にも支配が及ぶようになった。

しかしこの頃は都市と呼べるようなものではなかったらしい。
どちらかというと、当時ティレニア海の沿岸部を荒らしていた海賊や、シチリアにある都市シラクーサ(現シラクーザ。アルキメデスの出身都市として有名)の侵攻があったため、紀元前4世紀には沿岸部防衛のための城壁と、遺跡内でも確認できるローマの軍営が置かれていた。

さらにポエニ戦争でカルタゴと交戦状態に入ると、オスティアは軍港としての役割を担うようになる。

ポエニ戦争終了(前2世紀半ば)~スッラの時代(前80年頃)

やがてポエニ戦争がローマの勝利で幕を閉じると、オスティアは軍港としてよりも、地中海各地の物資をローマに供給する玄関港としての役割が求められるようになった。

オスティアはその後正式にローマの植民市となり、本格的に都市としての建設が始まる。
前80年頃、スッラはオスティアの都市部分を1,756mの城壁でぐるりと囲んだ(ただし新しい調査によると、城壁は1世紀半ばごろのものという結果も出ているらしい)。
土地の面積は約69ヘクタール(0.69km2)。
これは東京都台東区(10.11km2)の約1/16程度の広さである(総務省統計局のデータによる)。

この城壁のローマ側へと続く入り口にローマ門、南東からの入り口にラウレンティーナ門、海側の入り口にマリーナ門を設置(ただしティベリス川に面した北側は開口していた)。
このローマ門とマリーナ門を結ぶラインに「デクマヌス・マクシムス(東西大通り)」と、ラウレンティーナ門から入ってデクマヌス・マクシムスと直交する道路「カルドゥス・マクシムス(南北大通り)」が引かれる。
この交点付近には、都市の中心地であるフォロ(広場)とバジリカ(公会堂)、さらにカピトリウム(主神三神の神殿)が築かれ、政治と宗教の中心となった。

帝政前期(前27年~後100年ごろ)

帝政に入ると、時の皇帝たちによって街づくりがすすめられる。
オスティアは、人口が増え続けるローマの玄関港として、ますます需要が高まったからだ。

そして1世紀の半ば、クラウディウス帝によってティベリス川北岸にもう一つの港ポルトゥスが建設される。
さらに2世紀の初めごろ、トラヤヌス帝によってより安全な内港が増設されると、地中海世界のあらゆる物資が集まるようになり、オスティアは5万人を越える空前の繁栄を誇ることになる。

トラヤヌス帝治世以降~西ローマ帝国末期(5世紀後半頃)

しかし3世紀に入ると、港としての機能がポルトゥスに移ったことで、オスティアの賑わいは徐々に失われていく。
さらに近郊の湿地帯でマラリアが発生したことにより、オスティアの人口減少に拍車がかかった。

またティベリス川の土砂による埋戻しのため海岸線が徐々に後退し、隣のポルトゥスでも港の機能が果たせなくなったことも、衰退の大きな理由だろう。

その後閑静な住宅街となったオスティアだが、5世紀中ごろまでには完全に放棄される。
遺跡内の井戸は、引かれていた水道が機能しなくなったために掘られた名残なのだ。

オスティア・アンティカ最盛期(2世紀ごろ)の様子

オスティアがローマ帝国の終わりに放棄されたおかげで、ローマの黄金時代の名残をとどめたまま遺構として残っていることは、ローマを愛する私にとっては夢のような町だ。

ではオスティアが最も輝いていたころは、どのような様子だったのだろうか。

インフラ

道路

デクマヌス・マクシムス
デクマヌス・マクシムス(東西大通り)
ローマ古代散歩より

オスティアを東西に貫くデクマヌス・マクシムスと、南から交わる南北通りのカルドゥス・マクシムス。
多くのローマ街道と同じく、この2つの目抜き通りや他の街路は石畳により舗装されている。

デクマヌス・マクシムスは途中で1メートルほどの大きな段差があるが、これはティベリス川の氾濫対策のために、前2世紀から350年かけて少しずつ町の東部に盛り土をした結果だ。

オスティアの道路は、ポンペイのように歩道が一段高くなっていない。
その理由は、後に説明する下水道が発達していたからだ。
ポンペイでは下水道が一部にしか引かれていなかったので、街路を汚水が流れていたため、歩道を1段たかくし、車道を横断するための飛び石を用意する必要があった。

オスティアは下水道が完備していたおかげで、道路は雨水しか流れなかったのである。

上水道

最盛期に5万人もの人口をかかえたオスティアの水は、どこから供給したのか。

ローマでは川などの表層水を飲水として利用することはなかった。
オスティアでは帝政初期にティベリス川の支流から、約14キロに渡って引かれた上水を利用していたのである。

毎秒260リットル以上の水が供給されていたと考えられ、オスティアにある多数の浴場も、その水によって運営されていた。

ちなみにオスティアの上水道は、デクマヌス・マクシムス(東西大通り)の下を通っていた。

下水道・トイレ

古代ローマ・オスティア・アンティカの公衆トイレ(紀元前4世紀頃)
水洗式トイレ
Stefano Bolognini, Wikimedia Commons [CC BY 3.0]

先述したように、オスティアは下水道の発達した街だった。
浴場などから排水する水は、破風型(上部が屋根の形になっている五角形)の下水道を通ってティベリス川に流されていた。

またオスティアの代名詞とも言える公衆トイレも、汲取式ではなく下水が便座の下を流れる水洗式のトイレを採用していたのである。
現在でもオスティアのトイレは、はっきりと姿をとどめている。

住居・商店など

インスラ

オスティア・アンティカのインスラ
オスティアのインスラ
Nashvilleneighbor [Public domain]

オスティアの城壁内は69ヘクタールで、台東区の1/16の面積しかない。
総務省統計局のデータによると、台東区は2017年で20万人弱の人口だが、オスティアでは5万人強、つまりオスティアの人口密度は台東区の4倍という計算になる。

この過密状態のオスティアでは、住居は横に広がることができず、縦、つまり階層を高くしたインスラ(古代ローマ時代のマンション)ができたのである。

ちなみに現在のローマではわずかしか残っていないインスラの遺構も、オスティアではしっかりと形を留めている。

倉庫

大穀物倉庫
大穀物倉庫
Patrick Denker [CC BY 2.0]

港町オスティアの特徴は、なんといっても輸送した小麦などの穀物などを保管しておくための倉庫があったことだろう。

大きな人口を抱えるローマの胃袋を支えるため、ローマに輸送する穀物を貯蔵するための大穀物倉庫や、艦隊長官ホルテンシウスによって作られた穀物倉庫のほか、ここオスティアの消費を支える倉庫が10ヶ所ほどあった。

パン工場

パン工場
パン工場
Patrick Denker [CC BY 2.0]

オスティアのパン工場は、小さな工房が多いポンペイとは違い、少ない大工場で大量にパンが作られていたのが特色だ。
オスティアのパン工場には、ロバや奴隷を使って小麦を製粉させた石臼が今も形を留めている。
ロバや奴隷に挽かせるための棒を通す穴が、石臼に空いているのがわかるだろう。

飲食店

食堂
食堂
Marie-Lan Nguyen (User:Jastrow) [CC BY 2.5]

オスティアにも、L字型のカウンターを備えた外食店、テルモポリウムがある。
海が近いため、あらかじめ甕(ドリウム)の中に調理し、保存したものだけではなく、捌きたての新鮮な魚を食べていたのかもしれない。

同業者組合(商工会議所)

同業者組合広場の柱廊
同業者組合広場の柱廊
ローマ古代散歩より

オスティアには、様々な職業を連想させるモザイクの絵が床に描かれた広場がある。
この広場は同業組合広場と呼ばれていて、オスティアの同業者たちが集まった、いわば商工会議所があった。

ただし、ほとんどの絵が船と穀物に関連しているので、船主と穀物業者との間で商取引が行われていたのだろう。


この他にも魚屋や肉屋などの商店があり、806店舗ほど確認できる。
オスティアは、ローマ帝国中から集められた物資がひしめき合う、商品バリエーション豊かな港だったのだ。

宗教施設

カピトリウム

カピトリウム
カピトリウム
Marie-Lan Nguyen (User:Jastrow) [CC BY 2.5]

カピトリウムとは、ローマの主神であるユピテル、ユノー、ミネルバの三神を祀る神殿のこと。
この神殿が、ローマ都市の宗教の中心地となる。

オスティアにもフォロ(町の中心にある広場)付近に立っている比較的規模の大きい建物があるが、この建物がカピトリウムという確たる証拠はなく、もともとはオスティアの守護神で、火と鍛冶の神であるウルカヌスの神殿と考えられていた。
しかし、その位置と規模からカピトリウムだろうという解釈をされている。

ミトラ教の神殿(ミトラエウム)

古代ローマでは、古来から信仰されている神々のほかに、外国から伝わってきた神も信仰されていた。
その一つがペルシア起源のミトラ神で、オスティアでは大小合わせて20近くのミトラ神殿(ミトラエウム)が確認されており、多数のミトラ信者が一大勢力を築いていたようだ。

このミトラ神殿のなかの一つ、ミトラ浴場の近くにあるミトラ神殿は半地下の礼拝所になっていて、ミトラ神の大理石像が立っていた頭上に採光窓が設けられていた。

しかしキリスト教の公認により次第にキリスト教信者が増えてくると、彼らはこのミトラ神殿の上に教会か礼拝所を故意に建て、ミトラ神殿を隠したようである。

キリスト教の礼拝所とユダヤ教のシナゴーク

シナゴーク
シナゴーク
ローマ古代散歩より

ちなみにキリスト教関連の建物では、コンスタンティヌス帝時代に建立されたバジリカ(公会堂)があるほか、聖アウグスティヌスの母モニカがこの地で亡くなったので、オスティア・アンティカ駅の近くにある聖アウレア教会に彼女を讃える墓碑が治められている。

また、城壁街にはユダヤ教の教会堂、シナゴークが立っており、現在でもマリーナ門から南に500mほど下ったあたりに遺構が残っている。

娯楽施設

浴場

七賢人浴場
七賢人浴場
MatthiasKabel [CC BY-SA 3.0]

古代ローマ文化の代名詞ともいえる浴場は、オスティアにも20ヶ所ほどあったようだ。
現在遺構として確認できるものだと

  • 四頭の海馬を操る海の神ネプトゥヌスのモザイクがあるネットゥーノ浴場
  • フォロ近くにあるフォロ浴場
  • マリーナ門の近くにあるマリーナ浴場

がある。

とはいえこれらは首都ローマの一大レジャーランドだったテルマエ(大浴場)ではなく、個人が経営する銭湯のようなものだった。

浴場の排水溝
浴場の排水溝
ローマ古代散歩より

この浴場運営を支えていたのは、先述した毎秒260リットルもある上水の供給と下水道の完備、奴隷たちの涙ぐましい風呂焚きだったのである。

劇場

劇場
劇場
Marie-Lan Nguyen (User:Jastrow) [CC BY 2.5]

オスティアの娯楽施設の一つである劇場は、初代皇帝アウグストゥスの部下アグリッパによって建てられた。
彼の建てた劇場の収容規模は3,000人といわれているが、現在遺構として残るものは、セプティミウス・セウェルスとその息子、カラカラ帝によって4,000人規模に拡張したものである。

売春宿

ポンペイにはたくさんの遺構があった売春宿。
ここオスティアではどうだったのだろうか。

じつはオスティアにはそれらしき遺構が存在していない。
1万人規模の都市であるポンペイでもあるのに、いかにも需要のありそうなオスティアに、そのような形跡が見られないのは不思議だ。

おそらく居酒屋や宿泊施設で、そのような行為があったのではないか、と言われている。

もう一つのオスティア、ポルトゥス港

ローマ近郊にできた本格的な商用港

ポルトゥス港のイラスト
ポルトゥス港
鳥瞰図で見る古代都市の世界より

ここまでは主にオスティア・アンティカについて記述してきたが、双子都市のもう一つの町、ポルトゥス港についても書いておこう。

近郊にある首都ローマの人口増加によって、大型船が止まることのできる港の需要が高まり、本格的に作られた港がポルトゥス港だ。
その規模はローマ帝国最大級の港だった。

後42年、クラウディウス帝が着工したポルトゥス港建設は、安全性が不十分だったため、トラヤヌス帝によって港の奥に内港を建設することで、ようやく大型船が安全に停泊できる港ができたのである。

ポルトゥス港の建設については、古代ローマの商船と商用の港のなかの古代ローマ最大の商用港、オスティア港(ポルトゥス・アウグスティ)でも書いているので、詳しく知りたい方はそちらをご覧いただきたい。

ポルトゥス港の備蓄容量

ポルトゥス港建設の第一の目的は、なんと言っても首都ローマへの食糧供給である。
100万人を超えるローマの胃袋は、しばしば飢饉に見舞われたので、ローマの倉庫だけでは足りなくなったときのために、近くに備えは必要だった。

もともとポルトゥス港ができる前は、オスティア・アンティカに3万m2の食糧備蓄面積があった。
だが、この備蓄容量では徐々に足りなくなったのだろう。
オスティアでは中庭を取り囲んで備蓄部屋を配置下の対し、ポルトゥス港の倉庫では通路を挟んで部屋を効率よく配置。
その結果ポルトゥス港では、オスティアの3倍になる9万m2もの食糧備蓄面積を備える事になったのだ。

とはいえ、これでオスティア・アンティカに食糧備蓄が必要なくなったかと言えば、そうではない。
ポルトゥス港の食糧は第1段階の備えであり、この備えがなくなればオスティア・アンティカの備蓄を使い、それがだめならナポリ近郊のプテオリ港から運んでくる・・・という具合に、常に飢饉に対しての備えをしていたようである。

ローマからオスティア・アンティカへの行き方(アクセス)

では、ローマからオスティア・アンティカ遺跡への行き方を紹介しよう。
ローマ帝国と地中海文明を歩くで紹介されている方法を掲載しておく。

  1. テルミニ駅(Roma Termini)から地下鉄B線(Metro Linea B)に乗り、ピラミデ駅(Piramide)で下車
  2. 隣接するポルタ=サン=パオロ駅(Porta San Paolo)からローマ=リード線に乗り換え、オスティア駅(Ostia Antica)で下車
  3. 駅を出て陸橋を渡り、3分ほど直進して突き当りを左折

これで遺跡の入り口にたどり着けるはずだ。

また、オスティア・アンティカの遺跡情報は、次の通り。

入場料 12ユーロ
※ただしEU圏内国籍の18~25歳は2ユーロ割引
営業時間 時期によって細かく別れているが、大別すると次の2つ。

春・夏
8:30~19:00

秋・冬
8:30~16:30

休業日 毎週月曜日、1/1、5/1、12/25

もしローマから行くことを考えているのであれば、ローマのホテルはチェックしたほうがいいだろう。
オスティア・アンティカにガッツリ観光することが目的なら、オスティア・アンティカ近くのホテルもある。
またオスティア・アンティカへの観光をお考えであれば、JTBHISのツアーなども検討してみてもいいかもしれない。
※ただし、どのツアーもオスティアをメインに観光するものはないので、ローマ行きで比較的自由行動の多いものを選ぶといいだろう。

今回のまとめ

オスティア・アンティカについて、もう一度おさらいしよう。

  • オスティアははじめ、ローマにとって塩を得るための領地だった
  • 軍港だったオスティアは、前1世紀ごろから本格的に商用の港町として建設された
  • オスティアはローマの玄関港として5万人以上の人々が暮らし、北岸にはローマ最大級の港、ポルトゥスが建設された
  • 3世紀ごろから徐々に人口を減らしたオスティアは、5世紀ごろには完全に放棄された

古代ローマ時代のすべてを経験し、一時は空前の繁栄を謳歌したオスティアの町。
オスティア・アンティカは、この時間の流れを残しつつ、古代ローマ時代に取り残されたかのように佇んでいる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA