第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―

第二次ポエニ戦争前のバルカ一族とローマ

第一次ポエニ戦争から第二次ポエニ戦争にかけての23年間が、どのような時期だったのか、あなたはご存知だろうか。

カルタゴは、第一次ポエニ戦争直後から3年と4ヶ月続いた傭兵戦争で、敗戦の傷口をさらに広げてしまった。

カルタゴ最大級の内乱 傭兵戦争 傭兵戦争 ―リビア戦争とも呼ばれるカルタゴ最大級の内乱―

その傷を癒やすためにスペイン行きを決め、遠征軍を指揮したのが「ローマに敗北しなかった英雄」ハミルカルである。

では一体なぜカルタゴはスペイン遠征を決めたのだろうか。またハミルカル(とバルカ家)は、どのようにしてスペイン支配を進めたのか。

そして同時期のローマはどのように過ごし、バルカ家のスペイン支配にどう対応したのか。

この記事では、バルカ家のスペイン遠征を中心に、再びローマ・カルタゴ両国が戦争へと向かう直前までを見ていくことにしよう。

ハミルカル・バルカのスペイン遠征

傭兵戦争の鎮圧後、ハミルカル・バルカはスペインへと向かい、独自の方針で領地化を進めることになる。

しかし、ハミルカルのスペイン行きは、同時に2つの疑問を浮かび上がらせる。
それは、

  1. なぜハミルカルはスペインへと向かう必要があったのか
  2. どうしてハミルカル(とバルカ一族)は一将軍でありながら、半独立的な立場でスペイン支配を進めることができたのか

ということだ。

なぜハミルカルはスペインへ向かう必要があったのか

まず1つめの疑問。「なぜハミルカルはスペインへ向かう必要があったのか」。

古代の史書では、その多くはローマ側の手によるものだが、ハミルカルはローマに復讐戦を挑むつもりであり、スペイン行きはその足がかりを作るための、いわば「対ローマ過激派による軍事的暴走」とされることが多い。

ハミルカルの心情を映す挿話として、イベリア半島に出発する時、ハミルカルは9歳の息子ハンニバルを神殿に連れていき、

決してローマの友にはならない

と誓わせたという。

しかし「ローマ報復を目的とした、バルカ家の暴走によるスペイン遠征」は、本当なのだろうか。

結論から言えば、違う、と言わざるを得ない。なぜならハミルカルのスペイン遠征は、カルタゴ政府にとっても非常に重要な意味をもっていたからだ。その理由は、次の3つ。

【理由1】 支配領域の確保

カルタゴは、これまでの歴史のなかで、スペイン南部に交易路を確保しており、ガデス(現カディス)を拠点として、現地住民との取引で利益を得ていた。

第一次ポエニ戦争でシチリア西部を失い、また傭兵戦争でローマにサルディーニャ・コルシカ両島を掠め取られてしまったカルタゴが、この時スペインまでローマに奪われかねないという危機感が芽生えても、不思議ではないだろう。

そこでカルタゴ政府が出した結論は、ローマに奪われる前に唾を付けておく、である。例えるなら、スペインに直接支店を出して、お得意企業を次々と傘下に収め、子会社化しておく、ということだった。

【理由2】 スペインでの収入を賠償金に充てるため

戦争に負けたことで、ローマから多額の賠償金を要求されたカルタゴは、その財源をどこかに求める必要があった。

そこでスペインを直接支配下に収めることで、より多くの利益を確保し、ローマへの賠償金へと充てることにしたのである。

【理由3】 傭兵の供給地確保

カルタゴは、第一次ポエニ戦争の和睦条項で、イタリア半島から傭兵を徴募することを禁じられていた。

とくにイタリア中部のカンパニア地方から、たびたび傭兵を雇い入れていたカルタゴにとって、この禁止事項は軍事力の確保という点で、痛手だったのである。

しかし新しい土地で傭兵を雇うことは可能だった。そこでカルタゴは、徴募可能な土地を手に入れる意味でも、スペインを領有する必要があった。


上記はカルタゴ政府にとって緊急の課題であり、これらを解決できるスペイン遠征は、海外戦略の一環として必要不可欠だったのである。

そしてこの実行責任者にハミルカルが選ばれた、というわけだ。

バルカ家の革命

ではもう一つの疑問、「どうしてハミルカル(とバルカ一族)は一将軍でありながら、半独立的な立場でスペイン支配を進めることができたのか」。

そもそもカルタゴの将軍とは、戦争などで軍を率いる必要があるとき、元老院などによって任命される役職だった。カルタゴの国制については、カルタゴⅡ ―国政大改革からアガトクレスのアフリカ侵攻まで―にまとめているので、ご参考いただきたい。

将軍は百人会と呼ばれる機関によって、活動を厳しくチェックされることが常だった。また戦争に負けると、敗戦の責任を問われて処罰され、勝ったとしても、政敵の嫉妬から権力の座を追われるばかりか、亡命することにもなりかねなかったのだ。

そんな将軍職にあって、ハミルカルはなぜ大幅な自由を手に入れることができたのか。そこには、バルカ家の革命とも呼べる事態がカルタゴで起こったことが関係している。

傭兵戦争中カルタゴでは、大ハンノ率いる旧来の貴族層一派とハミルカル(バルカ家)で、どちらが将軍職をするかで主導権を争っていた。

もちろん任命権のある元老院は大ハンノを支持したが、ハミルカルは「王(スーフェースのことか?ローマで言う執政官のようなもの)」ボミルカルと政略結婚で結びついており、王ボミルカルが元老院に待ったをかけたのである。

カルタゴでは、元老院と王の意見が対立すると、民会がどうするかを決めるという国制の原則が定められている。その原則に従い民会に委ねたところ、将軍は兵たちに選ばれるものが就任すると決まった。そして兵たちは、指揮官として無能なハンノよりも、無敗の英雄ハミルカルを支持したのだった。

つまりハミルカルは、中下層市民達の支持を背景に、監視の目が厳しく嫉妬もされやすい将軍職を、寡頭体制から切り離し、政府に振り回されず職務を行えるようにしたのである。

ハミルカルが市民に支持された理由

ハンノの失脚は、ハミルカルの仕組んだ政変の一部だった。彼は民会の多数を占める下層市民達を動員して、従来の寡頭体制を覆そうとしたのである。

ではなぜ市民たちはハミルカルを支持したのだろうか。
理由は次の3つ。

【理由1】 傭兵戦争での生存の危機

カルタゴ市民たちは、傭兵戦争で市を囲まれ、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い込まれた。

このようなときに手をこまねいているだけの、大ハンノと元老院は、市民の敵だったのだ。

【理由2】 カルタゴ海軍の崩壊

第一次ポエニ戦争に負けたことにより、海軍は解体とまで行かなくとも、大幅な縮小をしなければならなかった。つまり、艦隊の数が一気に減少したのである。

船の漕ぎ手は、下層民を含む市民たちが担っていたので、その彼らが行き場を失ってしまった。この市民たちがバルカ一派を支持した可能性はあるだろう。

【理由3】 ローマ敗戦による海外拠点の喪失

カルタゴの海外領では、本国の下層市民でも、役人として赴任したり、現地での貿易業で豊かになるチャンス、つまりカルタゴドリームがあったのだ。

しかしローマに敗れ、シチリアから撤退しただけではなく、いまやサルディーニャ・コルシカ両島も失ってしまった。

その結果、カルタゴ中下層民たちが「愛国主義者兼民主派」となり、ローマに負けず傭兵戦争を鎮圧したハミルカルを指示したとも考えられる。

シチリア争奪から拡大した第一次ポエニ戦争 第一次ポエニ戦争Ⅱ ―スパルタ式軍事教育導入からハミルカルの登場、終戦まで―

大ハンノなど、アフリカ本土に所領を持つ旧来の大金持ちには、海外領喪失も他人事に移った。

しかし、大半の市民達はローマ敗戦で不利益を被ったのだ。ハミルカルのスペイン遠征は、その彼らが不敗の英雄ハミルカルに「帝国」再興という夢を託したのである。

ハミルカルとカルタゴ政府の思惑

カルタゴ政府としても、急進派のバルカ一派が本国にとどまり、民衆の力をバックに「改革」を進められることは避けたかった

一方のハミルカルも、逐一チェックをされず、またローマの監視からも逃れることができる、程よい距離のスペインに身を置き、そこで独自の支配を整えたかったのだろう。

この2つの思惑が合致した結果が、バルカ家のスペイン遠征と、それに続く支配を生んだのである。

バルカ家のスペイン支配

武力制圧と政略結婚

前237年夏、ハミルカルとその一党はカルタゴを出発し、北アフリカ沿岸に沿って進んだあと、ジブラルタル海峡を越えてガデスに到着した。

ガデスはフェニキア人の交易拠点であり、ハミルカルはまずこの地からスペイン支配を進めることになる。

カルタゴ時代のスペインの地図
カルタゴ時代のスペイン
興亡の世界史3 通商国家カルタゴ より

ハミルカルはスペインをどのように治めようとしたのか。

彼の統治は、ヘレニズム的な王朝支配だと言われている。「ヘレニズム的」とは、君臨する支配者「王」がいて、支配される側はその臣民として王に従う従属者。貴族たちの合議で決定する「寡頭政」や、市民の声を反映させる「民主政」などの西方的政治体制とは異なる。

また、ハミルカルから娘婿のハスドゥルバル、さらにハミルカルの息子ハンニバルへと、本国の意向を伺うことなく「王(将軍職)」を継承したことも、ヘレニズムの王を連想させるのだろう。

さて、ハミルカルはスペインの支配圏を広げるにあたり、政軍両輪で事業を実行した。

政略による支配圏拡大

グアダルキビル川周辺に広がるガデスの後背地、いわゆるタルテッソスの土地は、古くからフェニキア人(カルタゴ人)と通商関係があり、フェニキアの影響を受けた土地でもある。

このような土地では、現地の支配者たちに対し、鉱山の共同開発のような話を持ちかけ、同盟関係を結んだと思われる。ちょうど現地に派遣された本社社員(この場合支社長か)が、共同経営を申し出るようなものだろう。

そして地元民と強固な関係を結ぶため、現地の娘と結婚までしているのである。娘婿のハスドゥルバルは、ハミルカルの娘との死別後に。また息子ハンニバルも、重要な銀産地の一つシエラモレナ山脈にあるカストロの娘、イミルケと結婚している。

銀は、鉱物のなかでも特に重要だった。ローマ敗戦の賠償金に充てるのはもちろん、傭兵を雇うときに使う貨幣としても使用した。つまり

銀イコール兵力

と考えられるのだ。

主な軍事力を傭兵に頼るカルタゴの将軍として、長年の経験があるハミルカルは、その事実を痛いほどわかっていたのである。

軍事による征服

とはいえ、政治力や外交だけで、スペイン支配がうまくいくわけではない。ハミルカルはスペインで独自の貨幣を発行し、自分とバルカ一族が支配者であることをアピールしつつ、軍事力でも勢力圏を広げていく。

ハミルカルはまず、「イベリア人」ついで「タルテッソス人」と戦った。さらにイストラディオス兄弟に率いられたケルト人との戦いでは、敵全軍を粉砕し、生き残った3,000人を自軍に編成する。

また、インドルテス率いる5万の敵を打ち破ると、生け捕りにしたインドルテスは目をくり抜いた上に磔とした。ただし捕虜1万人は解放したという。

ローマ使節団のスペイン訪問

こうしてハミルカルは、イベリア半島南部の支配圏を徐々に東へと拡大する。そして現在のアリカンテ付近に、アクラ・レウケーと呼ばれる植民市を建設した。

しかしハミルカルの勢力が大きくなったことで、ローマの同盟都市マッシリア(現マルセイユ)が危機感を募らせる。マッシリアはスペインに影響力のある都市を飲み込まれた上に、次は自分のところにもカルタゴの手が伸びるのではないか、と考えた。

前231年、マッシリアの要請により、ローマ使節団がハミルカルのもとを訪れる。彼らはハミルカルに対し、

  • なぜスペインにいるのか
  • スペインで何をしているのか

と詰問した。それに対し、ハミルカルは次のように答える。

ローマに払う賠償金のために、働いているところだ

ローマ使節団を煙に巻く、ハミルカルの皮肉だった。

ハミルカルの死とハスドゥルバルの将軍就任

10年未満の間にスペインの征服地を大きく伸ばしたハミルカルだったが、彼の死は突然訪れた。前229年、ヘリケー(現エルチェか)の包囲中、この町を救援にきたオリッシー人の王の偽の協力提案に騙されて敗北し、戦死したのだ。

ハミルカルは退却中、同行していた二人の息子ハンニバルとハスドゥルバル(娘婿のハスドゥルバルとは別人)を助けるため、敵の攻撃を引き付けつつ、騎馬で川を渡ろうとした。

しかし川の水に押し流され溺死したという。しかし父のおかげで息子たち二人は、無事アクラ・レウケーに戻ることができたのである。

ハミルカルの後を継いだのは、娘婿のハスドゥルバル。彼はイベリア半島の軍によって将軍に選ばれたという。これはハミルカルが本国で行ったバルカ家の革命の手法が、まだ存続していた証拠だろう。

ではなぜハミルカルの長男ハンニバルが将軍職を継がなかったのか。それはハンニバルはこの時17か18才とまだ若く、全軍の指揮を握るには早すぎたからだ。

それにハスドゥルバルは、ハミルカルの生前にアフリカでヌミディア人の蜂起が発生した時、速やかに鎮圧するという軍事的実績もあり、また本国カルタゴでの人気も高かったのだ。

ハスドゥルバルのスペイン支配

さてハスドゥルバルはハミルカルの跡を継ぐと、オリッシー人に対して戦象200頭を含む大軍で復讐した。さらに12の都市を手に入れて「全イベリアの都市」を手中に収めたあと、イベリアの君主の娘と結婚し、「全イベリア人によって」全権をもった将軍と宣言された

もちろんハスドゥルバル率いるバルカ一族が、イベリア半島のすべてを支配下に置いたわけではない。おそらく南イベリアが勢力の中心だっただろう。

彼は、さらにナオ岬の少し南に位置する入り江に、カルタゴ・ノア(新カルタゴ市)を建設する。この地は、三方を海と干潟に囲まれた天然の要害というだけではなく、銀や錫鉱山と塩田に近く、地中海きっての良好だったのである。

このカルタゴ・ノアは、バルカ家の人々が住む宮殿のほか、神殿、造船所、兵器製造・管理場所、造幣局を備えていた。以後、カルタゴ・ノアは、バルカ家のスペイン支配の拠点となる。

エブロ条約

急速にスペインの支配地域を拡大するカルタゴに対し、さすがのローマも危機感を覚えた。自分たちがスペインを放置している間に、相手は巨象となりつつあったのだから。

しかしローマは前226年に派遣した使節で、イベリア半島に関してただ一つの条項だけを含む条約を、ハスドゥルバルと交わすだけにとどまった。

それは次の内容である。

カルタゴは戦争を意図して、イベルの名で呼ばれている川を渡ってはならない

この「イベルの名で呼ばれている川」がどの川を指すのかは、様々な議論があるようだが、いずれにせよローマはバルカ家のスペイン支配を(これ以上東に拡大しない限りは)黙認した、とも考えられるのである。

戦争を仕掛けるでもなく、スペインから撤退させるでもなく、これ以上の東に進むことはないように、という弱気ともいえるローマの対応。なぜこの時ローマは、ハスドゥルバルに強気な姿勢を見せることができなかったのだろうか。

ローマの情勢

ローマ、北イタリアに侵攻する

ハスドゥルバルとのエブロ条約の謎に迫る前に、一旦ローマの年代を第一次ポエニ戦争直後まで巻き戻してみよう。

第一次ポエニ戦争が終了した前241年、ローマではケントゥリア民会の改革が行われた。ケントゥリア民会の詳しい内容については、古代ローマの民会 ―共和政期に活躍したローマ市民の集まり―をご参考いただくといいだろう

様々な種類があった古代ローマの民会 古代ローマの民会 ―共和政期に活躍したローマ市民の集まり―

この改革で、第Ⅰ等級の票数が80から70に削減された結果、富裕層の圧倒的優位が崩れ、中間農民層の影響力が大きくなったと言われている。

この結果、何が起こったのか。

そもそも農民たちは、対外侵略を望んでいなかった。なぜなら、戦争に行っても人手が取られるだけで、得るものも少なかったからだ。それより、より豊かな土地を手に入れ、多くの収穫を得たいというのが本音だっただろう。

しかし自分たちの土地を脅かす敵からの驚異に対しては、進んで戦いに身を投じる覚悟だった。折しも前238年、ケルト人とリグリア人に、ローマは攻め込まれた。

幸いにもアリミヌム(現リミニ)で撃退したが、アルプス以南のガリア人は、前390年のローマ略奪以来、ローマ人の恐怖の的だったのである。できるならガリア人をアルプスの向こう側へと追いやり、イタリア半島の安全を確保したかった。

前232年、護民官フラミニウスは、中間農民層の利権を代表した法案である「ガリアとピケヌムの土地を分配する法」を成立させる。これにより、ポー川周辺の肥沃な土地に植民できるのだった。

しかしこれに怒ったのが、北イタリアに住むガリア人である。ローマ人が自分たちの土地を勝手に分配し、植民してくるなどもってのほかだと、彼らは思ったに違いない。

北イタリアのガリア人、ボイイー族やインスブレス族は、ガリア以北にいたローヌ川流域のガイサダイ族と手を組んだ。

ちなみにこの頃、マルセイユから警告を受け取ったローマが、ハミルカルのもとに使節を送り込んでいる。そしてハミルカルから皮肉とも取れる回答を得たのは、ローマ使節団のスペイン訪問で説明したとおりだ。

ガリア人、再びアルプスを越えて北イタリアに

ガリアとピケヌムの土地分配法成立と、それに続くスペインへのローマ使節派遣から数年間は何事もなかった。しかし前226年、ガイサタイ族がアルプスを越えて北イタリアのガリア人たちを支援する動きを見せると、ローマへの侵攻が現実を帯びてきた。

そこにスペインでのバルカ家の動向もローマに伝えられたのだ。ローマからすれば、カルタゴ勢がガリア人たちと結びつくことは、なんとしても避けたかったはずである。

そこでローマはスペインのハスドゥルバルに使節を送ることにした。この使節の第一の目的は、ハスドゥルバルにガリア人たちの関与をさせないこと。そのため、イベルと呼ばれる川――結局この川の解釈が、第二次ポエニ戦争の引き金の一つになるが――より北に侵攻しない約束を取り付けること。

それができれば、ローマとしては御の字であり、十分に目的を達成できたのである。そのためエブロ条約は、ローマ的に十分な成果をもたらしたのだった。

ローマ、ガリア人をポー川付近の平原から排除する

ハスドゥルバルとガリア共闘を食い止めたローマは、本格的にガリアと戦うことを決意する。

ボイイー族にインスブレス族、さらにアルプス以北のガイサタイ族を加えたガリア連合軍に対し、緒戦こそ敗れたものの、前225年、結局エトルリア地方のテラモンで、ローマ軍は彼らを徹底的に叩きのめした

さらにローマはその後も北に進軍し、前223年には北イタリア最大のガリア人部族インスブレスを、その本拠地メディオラヌム(現ミラノ)で破る。これでローマはポー川付近の平原から、ガリア人を完全に排除したのだった。

ハンニバル、スペインで最高司令官に就任する

ハスドゥルバル、暗殺される

エブロ条約をローマと結んだハスドゥルバルだったが、彼は前221年のある夜、家人奴隷のガリア人に宿舎で暗殺された。理由は、個人的なものだったらしい。

そしてイベリア半島の兵に推され、ハミルカルの息子ハンニバルは、ついに将軍に選ばれた。カルタゴ民会も全会一致でこの決定を承認。彼は若干25歳の若さにして、イベリア半島の全権を手にしたのである。

ハンニバルのスペイン遠征

さて、ハンニバルは将軍職につくと、早速周辺のスペイン諸部族に戦争を仕掛けた。まずはスクロ川、グアディアナ川上流のオルカディー族。首都アルタイアを征服するとその周辺部族をも服属させた。

さらにカルタゴ・ノアで冬営したしたあと、翌年夏にはイベリア半島の北部とも言える、ワッカエイ族の2都市を攻略する。しかしその帰路には、カルペタニー族の大軍に襲われ、窮地に陥った。この軍には前年のオルカディー族やワッカエイ族の2都市から脱出したものも加わっていたという。

ここでハンニバルは軍才の片鱗を見せる。戦場はタゴス(タホ)川上流のトレトゥム(現トレド)近郊。南下して川を渡り終えていたハンニバルは、とっさに軍を反転させ川辺に布陣すると、迫ってきた敵軍が川を渡る瞬間を狙い、攻撃を開始したのである。

渡河を強行したスペイン部族軍は、まず川岸で象部隊に踏み潰され、ついで川中の部隊を騎兵で切り伏せられた。さらにハンニバルが逆渡河を断行し、10万を超える敵を敗走させたのだ。ハンニバルの用兵術が冴え渡った初の逆転勝利だった。

そして前220年末、ハンニバルが意気揚々とカルタゴ・ノアに到着すると、ローマ使節が待っていた。彼らこそ、後にハンニバル戦争と呼ばれる第二次ポエニ戦争の原因となる、ある問題を持ってきた使節だったのである。

今回のまとめ

それでは第二次ポエニ戦争前の、バルカ家のスペイン支配とローマ情勢について、おさらいしよう。

  • バルカ家のスペイン支配は、カルタゴ政府の要請によって進められた
  • ただし、ハミルカルの入念な政変工作で、バルカ家の革命と呼べる民衆の力を背景にした、半独立的な立場で支配をした
  • バルカ家は、主にスペインの南部を支配下に置いたが、東へ勢力を拡大するに連れ、ローマの警戒を招くことになった
  • 一方のローマは、中間農民層の発言力が強くなり、北イタリアに植民したが、現地のガリア人の反発を招いた
  • ガリア人がローマに信仰する恐れがあり、ローマはカルタゴとガリアが結びつくのを防ぐため、バルカ家とエブロ条約を結んだ

制海権を失ったカルタゴにとって、スペインの富は今後の国の命運にかかわる重大事項であり、その指名を背負ってスペイン経営を進めたのがハミルカルとバルカ家の後継者たちだった。

しかしスペインの支配が強固になり、征服地域が広がるほど、皮肉にもローマとの軋轢が増すことになる。ハミルカルが復讐に燃えようがそうでなかろうが、結局のところローマとカルタゴは、遅かれ早かれ対決を避けられなかったのだ。

本記事の参考図書

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