傭兵戦争 ―リビア戦争とも呼ばれるカルタゴ最大級の内乱―

カルタゴ最大級の内乱 傭兵戦争

傭兵戦争とは、前241年から前237年に起こった、カルタゴ最大級の内乱である。

第一次ポエニ戦争を戦った傭兵たちの、賃金をめぐるカルタゴ政府とのいざこざが武装蜂起に発展し、それがカルタゴの支配するアフリカ全土の反乱を招いたため、リビア(アフリカのこと)戦争とも呼ばれる。

実はこの傭兵の蜂起に、二人の人物の思惑が絡んでいたのである。その思惑とは一体なんなのか。

またアフリカ中の都市が離反し、丸裸も同然のカルタゴ政府は、この反乱をどのように対処したのだろうか。さらに存亡の危機にあるカルタゴに対して、ローマやシチリアのシュラクサイが取った行動とは?

この記事では、結果的に第二次ポエニ戦争の原因にもなった、傭兵戦争を見ていこう。

※タイトル下の画像は、ギュスターヴ・フロベールの歴史小説『サランボー』 を題材にしたガストン・ピュシエールから拝借しました。

傭兵戦争の発端

ハミルカル、将軍職を辞しギスコに傭兵を委ねる

第一次ポエニ戦争に負けたカルタゴが、シチリアで最後まで抵抗を続けていたハミルカル(第二次ポエニ戦争の名将ハンニバルの父)に、全権を委任してローマとの交渉に当たらせたことは、第一次ポエニ戦争Ⅱ ―スパルタ式軍事教育導入からハミルカルの登場、終戦まで―に書いた。

ハミルカルはカルタゴの現状と戦争続行を天秤にかけて、ローマに使節を送り和睦を申し込む。このまま2万人もの傭兵を、シチリアで犠牲にするわけにはいかないからだ。

ローマ側の厳しい条件を受け入れて和睦を成立させると、ハミルカルは将軍職を退き、シチリアのカルタゴ側拠点だったリリュバエウムにいた司令官ギスコに、傭兵たちの本国帰還と給与支払いを任せた。

ハミルカルから傭兵たちを預かったギスコは、傭兵たちを乗せる引揚船の間隔をわざとあけ、カルタゴ本国へと送る。一度に送還してしまうと、傭兵たちが数を頼んで騒ぎを起こす懸念があったからだ。

そのため、給与の支払いを終えた傭兵たちを、カルタゴ政府が順に故郷へ帰らせ、暴動を未然に防ぐようにしたのである。

カルタゴ政府、傭兵をシッカに移動させる

ところがギスコの配慮を、カルタゴ政府は無駄にする。政府は傭兵たちの給与を値切るため、彼らを市内に留めておき、団体交渉を行おうとしたのだ。

しかし傭兵たちの数が増えると、彼らは昼夜を問わず暴力事件を起こすようになった。傭兵たちの乱暴を見過ごすせないカルタゴ政府は、当面の費用として金貨一枚を渡すから、市内から南西160kmほど離れた町シッカ(現エルケフ)で待機するよう指示したのである。

また傭兵たちが市内に戻ってくることを懸念して、家族と荷物ともども市内から退去させた。

給与を受け取りに、カルタゴ市へと戻る気だった傭兵たちは、不満を抱えたままシッカへと行軍することになる。

大ハンノ、給料引き下げの交渉をする

シッカで給与支払いを待つ傭兵たちのもとに、アフリカ軍の司令官である大ハンノがやってくる。彼はここで、次の2つの理由をあげ、給与の値下げを提案したのだ。

  • 第一次ポエニ戦争の戦費による国庫の枯渇
  • ローマへの重い賠償金支払い

ローマとの戦争中、傭兵たちはハミルカルから、士気をあげるための高額ボーナスを提示されていた。

命をかけた戦いで、高額の報酬をもらい、やっと贅沢ができる――。そんな彼らにとって、大ハンノの言葉はくすぶっていた不満の火を燃え上がらせるのに十分だった。

もう一つ、傭兵たちの不満爆発に拍車をかけた理由が、彼らに大ハンノの言葉がうまく伝わらなかったことだ。

カルタゴ政府は傭兵たちの一致団結を恐れて、様々な部族から徴募するのが常だった。リビア人、イベリア人、ケルト人、リグリア人、バレアレス諸島の人々、さらに混血のギリシア人などなど――。

確かに反乱を防ぐには効果があったが、一度こじれてしまった話をもとに戻し、説得するには都合が悪い。通訳を通じて各部族の代表に伝えても、結局悪意を加えた言葉が部族内に行き渡ってしまう。

大ハンノとの交渉を拒否すると、傭兵たちは2万の兵力を持って引き返した。そしてカルタゴ市にほど近いテュネス市(現チュニス)に陣取って、カルタゴ政府と直接交渉することを決めたのである。

ギスコ、傭兵たちの給与支払いに取り掛かる

これを聞いたカルタゴ政府は慌てた。彼らへの食料供給も済ませているため、兵糧攻めにすることもできない。さらに家族も一緒に連れて行けと命じたので、人質にとっての脅しというカードも使えなかった。

政府は傭兵たちをなだめるため、彼らのもとへ食料を持って行っては要求を聞いた。しかし傭兵たちは、要求をどんどん釣り上げてくる。そして調停者としてギスコを選んだのだ。

なぜ傭兵たちは、ともに戦ったハミルカルではなく、ギスコを選んだのか。
彼らはハミルカルを嫌っていた、と歴史家ポリュビオスは書いている。給与支払いの問題から逃げるため、司令官を辞めたのだ、と。

反対にギスコはカルタゴへの帰還を手配し、親身になってくれたため、信用できたのだろう。

私はこのほかに、傭兵たちがハミルカルを畏怖していたのではないかと考えている。ハミルカルは交渉事にも長けた人物だった。ハミルカルと話せば、自分たちが丸め込まれること恐れたのではないだろうか。

ともかくギスコはこの知らせを聞くと、直ちにシチリアから帰還し、大金を用意して傭兵たちのもとへ駆けつけた。そして傭兵たちを種族ごとに集め、給与の支払いに取り掛かった。全てはこれで、終わるはずだった。

スペンディオスとマートス、傭兵たちを焚き付ける

ところがギスコの支払いに、待ったをかけた人物が2人いた。
一人はカンパニア人(中部イタリアに住む人びと)のスペンディオス
もう一人がリビア人のマートスである。

スペンディオス

ローマ人の主人から脱走した、カンパニア人。大男で、腕っぷしはめっぽう強い

マートス

リビア人の自由民。傭兵たちがテュネスへと向かった時に中心となった人物

彼ら2人には、このまま傭兵たちが解散すると都合が悪い理由があったのだ。

スペンディオスの場合

元奴隷だったスペンディオスは、このまま戦争が終結しローマの主人へ引き渡されるのを恐れていた。なぜなら、逃亡奴隷の行末は、拷問のうえ処刑されると決まっていたからである。

マートスの場合

マートスは奴隷ではなかったが、テュネス市へ傭兵を先導した中心人物だったので、和解後に首謀者として処罰されるのではないかと、危惧を抱いたのだ。


スペンディオスとマートスは、カルタゴ政府を批判し、ギスコをなじる演説を繰り返す。給与を払い終わったあと、ほかの種族は故郷に帰り、リビア兵だけとなったところで、カルタゴ政府は見せしめとして残忍に処罰する、と。

傭兵たちは、たちまち二人の言うことを信じた。いや、信じないものが発言しようとすると、投石して発言者を殺してしまったのだ。そしてスペンディオスとマートスを「将軍」、つまり司令官に選んだのである。

ギスコはこの絶望的な状況の中で、なおも必死に傭兵たちの説得を試みた。しかし傭兵たちの図々しさにたまりかね、ついかっとなって次のセリフを言ってしまう。

それならお前たちの将軍に要求すればよいだろう!

この言葉をきっかけに、傭兵たちは暴徒と化した。ギスコやその幕僚を捕らえると金を奪い、スペンディオスとマートス指揮のもと、傭兵全軍がカルタゴとの戦争へと突入したのだった。

傭兵戦争始まる

騒乱はアフリカ全土へ

マートスは、ただちにアフリカ諸都市に使いを送り、

自由のために立ち上がれ

と協力を要請した。この呼びかけに、アフリカの住民たちは「要請の必要がないほど」素早く反応し、ウティカとヒッポ・アクラ(現ビゼルト)両市を除いた全都市がカルタゴから離反したのだ。

カルタゴ領内のアフリカ総離反には理由があった。

前249年、第一次ポエニ戦争中だったにも関わらず、アフリカ支配の強固・拡大にカルタゴが舵を切ったことは、第一次ポエニ戦争Ⅱ ―スパルタ式軍事教育導入からハミルカルの登場、終戦まで―カルタゴ、唯一の勝機を逃すでも書いたとおりだ。

この方針に伴い、大ハンノ率いるカルタゴ軍は、たびたびアフリカの遠征を行って領土を拡大し、最奥の地ヘカトンピュロスまで占領したのである。

カルタゴ政府は、長引く戦争費用捻出のため、拡大した領民たちからも重い税を徴収する。農民からは収穫の半分が搾り取られ、都市の住民には倍の税金が課せられた。

税を払えないものには、容赦ない仕打ちが待っていた。彼らはカルタゴ政府に連行、投獄されたのである。そして領民から確実に税を取り立てる人物こそ最も評価される有能な将軍であり、その代表格が大ハンノだった。

こんな酷い仕打ちを行うカルタゴ政府を、今こそ打倒するチャンスだ――。

アフリカ全土から兵士として加わったものは、7万人に達した。さらに、かつて夫や親が税の滞納で連行されるのを見ることしかできなかった女性たちが、反乱軍にすすんで宝飾品を提供したのだ。

そのおかげで、反乱開始時に約束した報奨金と、遅れていた給与を支払っても、反乱軍の手元には、まだたっぷりと金が残っていたという。

ローマとシュラクサイの対応

カルタゴ政府はリビア中の離反に驚愕したことだろう。彼らはリビア領土から食料や物資を調達しており、戦争を行うには領土内からの物資が必要不可欠なのだ。

さらに攻めるにも守るにも、彼らが当てにしていたのは傭兵たちである。その傭兵と領民が手を組んでカルタゴに歯向かってくる。カルタゴは丸裸も同然だった。

このカルタゴの危機に対し、周辺国はどのように対応したのだろう。

シュラクサイの対応

シュラクサイの僭主ヒエロンは、カルタゴが危機に陥るとみるや、支援に乗り出した。
理由は2つ。

  • カルタゴの反乱は、支配者に対する下層民の自由を求める闘争であり、見過ごすと自国にまで飛び火する恐れがあったため
  • ローマに対抗できる勢力を残すことで、シュラクサイの独立を守るため

第一次ポエニ戦争でも、的確な判断でローマの同盟者となったヒエロンは、ここでも冷徹な計算のもとで行動している。

ローマの対応

同じくローマも「表面上」は友好国として、カルタゴの支援を掲げた。しかし、イタリアから傭兵に食料を送る動きもあったのだ。

この船がカルタゴに捕まり、500人の乗組員が連行されると、ローマはカルタゴに抗議。これが実って全員釈放された。

この事件以降、ローマは方針を転換し、傭兵戦争中は彼らの信義を貫く。カルタゴへの物資輸送船には渡航許可を与え、反乱軍への補給は禁止した。

上記ローマの対応は、どうも揺らぎのようなものが見える。ではなぜローマはカルタゴへの対応が一貫していなかったのだろう。

私見だが、この頃のローマ指導層は、大きくわけて二派に分かれていたのではないかと思う。

  • 農民層を主体としたローマ古参の指導層
  • イタリア中・南部を中心とする、商工業者の利権を守ろうとする新興都市の指導層

ローマがイタリア半島の大部分を勢力下に収めたのは、第一次ポエニ戦争が始まる直前の、つい30年ほど前だ。

そのローマに、同盟都市の貴族たちが元老院議員として参加する。彼らの数が増えれば、昔からいたローマの貴族たちも、その声を無視することができなくなっただろう。

特にイタリア中部のカンパニア地方は、南部のマグナ・グラエキアよりも商工業が発展し、一大勢力を築くまでになっていた。この地方の指導層が、商売敵のカルタゴの影響を、少しでも弱めたいと考えても不思議ではない。

ただしローマは、イタリア船が捕まった後、カルタゴを裏切る行為は行わなかった。これも政局が動き、信義を重んじる古参側が力を握った結果といえるのではないだろうか。

大ハンノ、反乱鎮圧に失敗する

周辺国からの支援を受けているとはいえ、カルタゴ政府は自国でこの反乱に対処するしかない。新たに傭兵を募り、市民軍も結成し、残りの海軍も動員した。率いるのは、あの大ハンノである。

7万の反乱軍はまず、離反に加わらなかったウティカとヒッポ・アクラを包囲すると同時に、テュネスに布陣していた。狙いはカルタゴと他都市との連絡を断つことだ。

この反乱軍に対し、大ハンノはウティカ救出に乗り出した。しかし彼はこの戦いで、無能をさらけ出す。戦象部隊でせっかく敵を蹴散らしたにも関わらず、詰めを怠ったために傭兵たちに陣容を建て直され、逆に負けてしまったのである。

大ハンノはどうやら傭兵たちをナメていたようだ。おそらくアフリカ征服時の戦闘指揮で、それほど強力な抵抗に合わなかったのだろう。

しかし今回の相手は、シチリアでローマ相手に頑強に抵抗を重ねた、ハミルカルが鍛え上げた傭兵である。野戦経験に乏しい大ハンノの敵う相手ではなかった。

ハミルカル、反乱鎮圧に乗り出す

ついにカルタゴ政府は、無能の大ハンノに変え、ハミルカル・バルカを新たな将軍に任命した。

ハミルカルは、1万の混成部隊と70頭の戦象を率いると、電光石火でウティカ市を解放した。ウティカ市の戦いでは、ハミルカルのかつての部下達6,000が死に、2,000人が捕虜になった。

さらに彼はアフリカ全土の都市を駆けめぐり、次々と占領、解放していく。このハミルカルの傍らには、常にナラウアス(ナラヴァス)が控えていた。

ナラウアス(ナラヴァス)

代々カルタゴに友好的な、ヌミディア人の名門貴族。多くのヌミディア人たちが反乱軍に加わる中、部下とともにハミルカル・バルカのもとを訪れ、カルタゴへの協力を申し出た人物。

ハミルカルは盟約の証として 、ナラウアスに自分の娘を嫁がせた。

ハミルカルが窮地に立たされたときも、ナラウアスのおかげで勝利を手にすることができたようだ。

ハミルカルは、捕虜となった傭兵のうち、希望するものを自分の部隊に加わるよう呼びかけた。また、拒んだものに対しては、どこへでも好きなところへ行けばいい。ただし再びカルタゴに歯向かうことがあれば、その時は覚悟せよ、と。

この寛大な処置は、傭兵たちの心変わりを期待する狙いもあっただろう。しかしそれ以上に、かつて自分とともに戦った傭兵たちを、戦友として信じたかったのではないだろうか。

ハミルカルはまだ、反乱の早期解決と、無用な死者がこれ以上増えない望みを捨ててはいなかった。

サルディーニャ島の反乱

一方その頃、サルディーニャ島でも異変が起きていた。

カルタゴ本国の反乱に乗じて、防衛にあたっていた傭兵たちがカルタゴ人を襲撃し、守備隊長ボスタルを捕らえて殺したのである。

さらにこの反乱を収めるため、カルタゴ政府は増援部隊とともにハンノ(大ハンノとは別人)を派遣したものの、肝心の部隊が反乱側についてしまい、ハンノを磔(はりつけ)にしてしまったのだ。

傭兵たちは一時、サルディーニャ島を支配するまでになったが、やがて原住民といざこざを起こして追い出されてしまう。

さらにサルディーニャの反乱は、後にローマとカルタゴの間に決定的な亀裂を生むこととなる。

泥沼化する傭兵戦争

ギスコ、反乱軍に殺される

ハミルカルの寛大な処置は、傭兵たちの間に隙間風を吹かせたかもしれない。いま降伏すれば、俺たちは許され無事故郷に帰れるのではないか――。

しかしスペンディオスとマートスは、今傭兵たちに離反されては困るのだ。そこで彼らは兵士たちの集会を開き、そこで「サルディーニャの同志からの手紙」なるものを披露する。

その内容は、次のようなものだった。

反乱軍の中に裏切り者がいる。その裏切り者は、はギスコたちの解放について、カルタゴ政府と相談している

だから、 ハミルカルの捕虜にたいする寛大な処置はイカサマだ、とスペンディオスたちは兵士たちに宣伝したのである。ハミルカルに騙されるな、ギスコを逃がすと一網打尽にされるぞ、と。

この思惑はあたり、ギスコを拷問して殺せ、と声が上がった。兵士の中には、親身になって相談に乗ってくれたギスコに対し、許してやろうと提案するものもいたが、たちまち投石よって殺された。

結局ギスコは両腕を切断されて殺され、またカルタゴの捕虜700人は鼻と耳を削ぎ落とされた上に脚を潰され、生き埋めにされてしまった。

ハミルカル、容赦ない鎮圧を行う

ギスコたちが殺されたことを知ったカルタゴ人は怒り、ハミルカルとハンノ(大ハンノとは別人)に仇討ちを頼む。と同時に、反乱軍に対し、ギスコを引き渡せと使者を送った。

しかし反乱軍は応じるどころか、将来はカルタゴ人を捕らえたら殺す、同盟種族なら両手を切り落とすだけで送りり返してもよいと宣言し、それを忠実に守ったのである。

ハミルカルは、もはや強硬手段しか残されていないと悟り、捕らえた敵はその場で殺すか、あとから象に踏み潰させることにした。

だが、本来なら協力関係にあったハミルカルとハンノは、戦場でことごとく対立してしまう。そのため、せっかくの好機をのがし、敵を取り逃がすことも度々あった。

そこでカルタゴ政府は、ハミルカル一人に将軍を任せることに決めた。

ウティカとヒッポ・アクラ、ついにカルタゴに反旗を翻す

そうこうするうちに、今度は最後までカルタゴに忠誠を誓っていたウティカとヒッポ・アクラが、カルタゴに反旗を翻したのだ。

なぜ今になってカルタゴを裏切ったのかはわからない。しかしウティカはカルタゴを裏切った証として、カルタゴの守備兵500人を全員殺し、その死体を城壁から突き落とた。

またウティカは、ローマに援助を要請した。しかしローマはこの援助要請を、カルタゴと交わした前241年の条約を理由に断っている。

残念ながらローマの助力は得られなかったが、これに力を得たスペンディオスとマートスは、カルタゴ市の包囲に取り掛かる。

ハミルカルはこの包囲に対抗するため、反乱軍の糧道を絶ち、逆に苦しめるという、二重の包囲網を形成した。ここでもナラウアスは、目覚ましい活躍をしたようだ。

そして傭兵戦争は、最終局面を迎えようとしていた。

傭兵戦争、最終局面へ

スペンディオスの死

ローマやシラクサの救援により、なんとか持ちこたえるカルタゴ市。それに対してカルタゴを包囲していた傭兵・リビア連合軍は、食料が尽き、お互いを貪り食う地獄絵図が展開した。

もはやこれまでと悟ったスペンディオスは、停戦協議のためハミルカルの陣に出頭する。ハミルカルはこのスペンディオスほか、反乱軍の代表として仲間九人とともに十字架にかけた。

そしてハミルカルは、ついに敵主力軍を「鋸山(のこぎりやま)」と呼ばれる狭い道へと追い込み、4万人以上の兵士を殺したのである。

マートス、最後の反撃を試みる

しかしもうひとりの首領、マートスは未だ健在だった。彼はテュニスの再占領を狙うカルタゴ軍に対し、奇襲攻撃をかけて再び撃退。

ハミルカルの副将ハンニバル(第二次ポエニ戦争のハンニバルとは別人)を逆に生け捕りにして、スペンディオスの復讐だと、拷問のあと同じ場所で磔(はりつけ)を行った。さらにカルタゴ貴族30人も道連れに殺したのである。

ハミルカル、マートスとの決戦に勝利し、反乱を終結させる

マートスの奮起に、カルタゴは動いた。今までソリの合わなかったハミルカルとハンノを和解させることに成功したのだ。

彼らは今度こそお互いに協力しあい、ついにマートスを追い詰めた。マートスは野戦で決着をつけるため、彼らに果たし状を送って決戦を挑んだが、レプティスミノル(現ラムタ)付近で粉砕され、ついに敗れた。

マートスはその後、カルタゴでの凱旋式のあと、市民たちに引き渡され、なぶりものにされた挙げ句殺された。

また、最後まで抵抗を続けていたウティカとヒッポ・アクラも、ハンノがヒッポアクラを、ハミルカルがウティカを攻略して、ついに反乱は集結したのだった。

最初の反乱から3年と4ヶ月が過ぎた、前237年のことだった。

傭兵戦争の結果

カルタゴのアフリカ支配について

執念深い戦争

と、歴史家ポリュビオスが評したこの戦争で、カルタゴはその後どうなったのだろうか。

まずカルタゴは戦争が終結すると、蜂起に加担した町や種族に残酷な報復を行った。とくにヌミディアの一部族、ミカタニー人は、女子供も含め、捕らえた全員が磔刑に処された。生き延びた彼らの子孫は、カルタゴの最も容赦ない敵となる。

やがてカルタゴは再びアフリカの領地を回復した。そればかりか支配を強化してヌミディアを保護国としたのである。

ローマ、サルディーニャ・コルシカ両島を奪う

アフリカ本土では領地を回復できたカルタゴだったが、この傭兵戦争で失ったものも大きかった。その最も大きな損失の一つがサルディーニャ島である。

サルディーニャ島の反乱で見たように、反乱軍の傭兵たちはサルディーニャ島を追い出されていた。この反乱軍たちは、度々ローマに援軍を依頼したが、傭兵戦争中は、カルタゴとの約束を守り、彼らの訴えを拒否していたのである。

ところが傭兵戦争終了後、ローマは一転反乱軍の願いを聞き入れ、サルディーニャに軍を派遣したのだ。

もちろんカルタゴ人は怒った。サルデーニャ島の主権はあくまでカルタゴ側にあると主張し、反乱軍の首謀者処刑のため軍を整える。しかしローマはこの派兵を、ローマに対する戦争準備と言いがかりをつけ、カルタゴに宣戦布告したのだ。

ポリュビオスは、このローマの豹変ぶりを評して、

正義のかけらもない

行いと書いている。

結局カルタゴは、他国との戦争をする余力などなく、サルディーニャ島を放棄せざるをえなかった。

さらにローマは、この戦争の賠償金として1,200タラントを要求し、コルシカ島もカルタゴの手からもぎ取ったのである。

この結果、カルタゴはサルディーニャ島という食料基地を失っただけでなく、ティレニア海の制海権も失うことになった。もはや西地中海は、カルタゴ船が自由に航海できる海ではなくなったことを意味していた。

今回のまとめ

それでは傭兵戦争(リビア戦争)について、おさらいしよう。

  • 傭兵戦争は、第一次ポエニ戦争を戦った傭兵たちに対し、カルタゴ政府が給与をケチったことがきっかけで始まった
  • 傭兵の反乱はカルタゴ領アフリカ(リビア)の総決起を招いたため、リビア戦争とも呼ばれる
  • 傭兵戦争の首謀者は、カンパニア傭兵スペンディオスとリビア傭兵マートス
  • 傭兵戦争の指揮をとったカルタゴ側の将軍は、名将ハンニバルの父ハミルカル・バルカ
  • 反乱軍は7万人にも達したが、最後はほとんどの傭兵や反乱兵が殺された
  • 傭兵戦争の結果、カルタゴはローマにサルディーニャ島とコルシカ島を奪われ、西地中海の制海権を手放すことになった

きっかけは傭兵たちの不満が爆発したものだったが、アフリカ全土に反乱が及んだのは、これまでのカルタゴ支配に対するアフリカ先住民の抑圧が原因であり、カルタゴの支配体制に限界が来ていた証拠でもある。

さて、シチリアに加えて、サルデーニャ・コルシカ両島を失ったカルタゴは、戦費と賠償金捻出のため、新たな手立てを考えなければならなかった。その鍵を握るのが、傭兵戦争で活躍したハミルカル率いるバルカ一門だったのである。

本記事の参考図書

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