内乱を勝ち抜いたオクタウィアヌスは、今や絶大な権力と富を手に入れた。
しかし、カエサルの暗殺を目の当たりにしている彼は、誰にも気づかれぬままカエサルが構想した
統治能力を持つただ一人の人間が治めるローマ
を実現させる必要があると考える。
こうしてローマ帝国誕生へむけたオクタウィアヌスの挑戦が始まった。
■帝政ローマ前・中期の年表
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年 | 事柄 |
---|---|
前27年 | オクタウィアヌス、元老院よりアウグストゥスの称号を与えられる(ローマ帝国の始まり) |
前23年 | アウグストゥス、属州の支配権を拡大、すべての護民官職権を得る |
14年 | アウグストゥス死去。ティベリウス皇帝に即位。 |
37年 | ティベリウス死去。カリグラ即位。 |
41年 | カリグラ、暗殺される。クラウディウス即位。 |
54年 | クラウディウス死去。ネロ即位。 |
64年 | ローマ大火。ネロ、キリスト教を迫害したとされる。 |
69年 |
属州各地で反乱が起こる。ネロ自殺。 |
79年 | ウェスパシアヌス死去。ティトゥス即位。 ウェスウィオ火山の噴火によりポンペイ埋没。 |
80年 | コロッセオが完成する。 |
81年 | ティトゥス死去。ドミティアヌス即位。 |
96年 | ドミティアヌスが暗殺される。ネルウァ即位。 |
98年 | ネルウァ死去。トラヤヌス即位。 |
101年 | ダキア戦争開始(~106年) |
117年 | トラヤヌス死去。ハドリアヌス即位。 |
122年 | ハドリアヌス、ブリタンニアに長城を建設。 |
138年 | ハドリアヌス死去。アントニヌス・ピウス即位。 |
161年 | アントニヌス・ピウス死去。マルクス・アウレリウス・アントニヌス即位。 |
165年 | 天然痘の流行。 |
166年 | 上パンノニアでマルコマンニ族反乱。マルコマンニ戦争開始。(~180年) |
180年 | マルクス・アウレリウス・アントニヌス死去。コンモドゥス即位。 |
192年 | コンモドゥス暗殺される。ペルティナクス即位するも、わずか3ヶ月で親衛隊に暗殺される。帝国各地で反乱が起こり内乱が始まる。 |
初代皇帝アウグストゥスの改革
ローマ帝国誕生
オクタウィアヌスは内乱を収めると、前27年これまで持っていた権限をすべて元老院へ返還するよう申し出る。
さらに彼は共和政を復活させるよう宣言したのだ。
また自分はあくまでローマ市民の一員であり、第一人者「プリンチェプス」でしかないと主張した。
これに対して元老院は、オクタウィアヌスに対し、「アウグストゥス(尊厳なる者)」という尊称を贈る。
オクタウィアヌスはこの名前を受け取ると、以後
インペラトル・カエサル・アウグストゥス
と名乗った。
- インペラトル・・・軍の最高司令官のこと
- カエサル・・・義父カエサルの後継者を意味
- アウグストゥス・・・尊厳者であり、神々に近い存在であることを示す
そしてこの名前は代々ただ一人の支配者である皇帝に代々受け継がれていくこととなる。
つまり、この時点で共和政の体面を保ったまま、事実上の帝政であるローマ帝国が誕生したのだった。
ただしアウグストゥスはただ一人の支配者として振る舞うことを生涯することなく、あくまで元老院を立てて政治をともに動かしていく態度を取り続けた。
よって家臣にかしずかれるような東洋的支配者である皇帝になったのではなく、今でいう大統領に無期限で就任する、すなわち元首になったと考えられる。
よってこの時期は元首政とも呼ばれる。
だが一般にローマ帝国がこの時期に成立するとされているので、アウグストゥスや彼の権力を受け継ぐ者たちも『皇帝』と呼ぶことにする。
ローマ皇帝の権限確保
建前上はただのローマ市民だが、実際は国政を一人で動かす仕組みを作らなければならない。
しかし終身の官職に就任すると、暗殺や内乱を生む恐れがあることを義父カエサルの死で学んだアウグストゥスは、元老院からの申し出を頑なに拒否しつつ、官職の権限のみを譲り受けるという方法で権力を集めていった。
アウグストゥスが得た権限は次のとおり。
- 執政官命令権・・・首都ローマとイタリアに対し、政治的、軍事的行為を行使する権利
- プロコンスル(前執政官)命令権・・・皇帝が直接任命する属州の総督を任命する権限と、元老院により任命される属州の総督に対する元老院より優先して命令できる権限
- 護民官職権・・・身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権と決議に対する拒否権
これに宗教の最高職である最高神祇官に就任することで、事実上は完全な権力を手にすることができたのである。
皇帝主導の政治体制の構築
またアウグストゥスは、皇帝である自分のもとに、政治的な手助けを行える機関を設置した。
権限が強化されたとはいえ、皇帝一人ではローマ全体の政治を動かすことは不可能だ。
そこでアウグストゥスは、ローマ帝国の運営をスムーズに行うため、彼の手助けとなる官僚たちの制度を整えた。
- 法務局
- 請願局
- 通信局
- 文書局
- 水道局
など
またその他皇帝の直属機関として、首都ローマに食料の安定供給と配給をするための食管長や、治安維持のためのローマ市長官や消防隊を設置した。
さらにアウグストゥスは行政や司法の相談場所として、元首顧問会を設置した。
これはもともとアウグストゥスの私的な友人たちと集まって行うサロンのようなものだったが、のちに元老院議員や法律のスペシャリストが加わるかたちで公式な機関へと変わっていった。
アウグストゥスの改革は軍事にも及ぶ。
彼はそれまで都度招集していたローマ兵を、常に国境付近へと配置する、いわゆる常備軍をおいた。
この常備軍は
- ローマ市民からなるローマ主力軍
- 属州民などの非ローマ市民からなる補助軍
に分かれており、国境防備のために危険度合いによってそれぞれの地方に配置する軍団の数が決められていた。
また常備軍はこの他に、皇帝の身辺を警護する親衛隊も設置された。
これほど多くの改革を、アウグストゥスは40年以上にも及ぶ長い治世の中で、時間をかけて我慢強く行っていった。
アウグストゥスは共和政維持という体面を保ったまま、気づけば帝政から後戻りできないように、ローマ帝国を構築することに成功したのである。
陰鬱皇帝、暴君、歴史家皇帝たち -ユリウス・クラウディウス朝-
アウグストゥス亡き後、4代に渡って彼の血縁や血縁と結婚した者たちが皇帝となる。
彼らはどのような皇帝だったのだろうか。
2代皇帝ティベリウス
ティベリウスは基本的にアウグストゥスの路線を受け継ぎ、アウグストゥスの行った帝政ローマへの改革を確固たるものとした。
しかし治世後半は別荘のあるカプリ島へと引きこもり、元老院とは距離をとって政務を行った。
ローマを留守にしたり、古い考えの彼は、ローマ市民や元老院からも人気はなかったという。
なお、後に帝国全土に広まるキリスト教の始祖、イエス・キリストは彼の治世に活動し、処刑されている。
3代皇帝カリグラ
カリグラはティベリウスを反面教師とし、市民への人気取りを徹底して行ったため、ティベリウスが残した遺産をわずか数年で使い切ってしまった。
また彼の側近や元老院議員を次々と粛清したことで次第に元老院と対立、最後は一部の近衛兵によって暗殺されてしまった。
4代皇帝クラウディウス
元老院がカリグラの死を共和政復活に利用しようとしたため、職を失う恐れのあった近衛兵がクラウディウスを皇帝に担ぎ上げたようである。
クラウディウスはカリグラが破綻させた帝国の財政を立て直した。
またブリタンニア(現イギリス)への遠征をおこなって、南部を征服することに成功した。
なお、後に皇帝となるウェスパシアヌスは、このブリタニア遠征で功績を上げたとされている。
5代皇帝ネロ
といってもネロの皇位継承は母の計画によるものだった。
彼の治世前半は哲学者のセネカなどに支えられ、安定した政治を行っていた。
しかし次第に母と対立し、母を殺すと状況は一変。
民衆の人気を得るために大金を使い、帝国財政を破綻させる。
また側近を遠ざけ元老院議員と対立、さらに有能な部下まで命令一つで殺してしまうという有様だった。
そしてネロのやり方に反発した軍団が皇帝を擁立し、各地で反乱を起こすと、元老院はネロを『国家の敵』とした。
こうしてネロは自殺へと追い込まれ、アウグストゥスから続いたユリウス・クラウディウスの血統は絶えることになったのである。
4皇帝乱立からフラウィウス朝へ
ネロの死後、各地で反乱が起き、擁立された皇帝が争う内乱が勃発。
ガルバ、オト、ウィテリウスが皇帝になっては倒されるという事態が続いた。
この内乱を収め、最終的に皇帝となったのがウェスパシアヌスである。
彼はイタリアの地方都市出身のため、アウグストゥスを始祖としたユリウス・クラウディウス朝とは血縁関係がない。
それゆえ、ウェスパシアヌスから続く3代はフラウィウス朝と呼ばれる。
ウェスパシアヌスはネロの散財と、内乱によって乱れたローマを立て直すために緊縮財政を実施。
また雇用問題や教育についても改革を行った。
観光名所として有名なコロッセオを建設したのも、ウェスパシアヌスの支持である。
またウェスパシアヌスの子ティトゥスも安定した政治を行うが、 わずか2年で他界。
ティトゥスの治世ではウェスウィオ山の噴火でポンペイが火山灰の下に埋もれる災害も発生した。
ティトゥスの後を継いだのは弟のドミティアヌス。
彼は元老院と対立し、側近や議員などを粛清する暴君と化したので、身の危険を感じた侍従に暗殺されてしまった。
ローマ帝国最盛期 -五賢帝の時代-
暗殺されたドミティアヌスに変わって元老院から皇帝に推薦されたのが、60歳を越えた元老院議員のネルウァだった。
ネルウァ以降、ローマは五賢帝と呼ばれる5人の皇帝によって比較的安定した政治が行われ、ローマ帝国は空前の繁栄期を迎える事となる。
皇帝ネルウァ
その間にトラヤヌスを養子とし、スムーズに帝国が受け継がれるよう、道筋をつけた。
いわばショートリリーフとしての機能を果たした皇帝だった。
ただし近年の研究では、軍の要請で仕方なくトラヤヌスを後継者に指名したという見解が主流のようだ。
皇帝トラヤヌス
積極的な軍事政策を行い、ダキア(現ルーマニア)や東方のパルティアとも戦い、ローマ帝国最大版図を築き上げた。
また貧しい子どもたちのための養育基金「アリメンタ」を創設するなど、ローマ市民の暮らしも充実させた。
皇帝ハドリアヌス
かれは帝国各地を回り、防衛体制がどのようになっているのかを視察、セキュリティを強化した。
また首都ローマをはじめ、属州でも大規模な公共工事をおこなうなど、インフラ整備にも勤めた。
ギリシア文化にかぶれていたため、同性愛にもタブーがなく、美少年のアンティノウスを愛していたという
皇帝アントニヌス・ピウス
アントニヌス・ピウスのピウスとは『慈悲深い』という意味。
アントニヌス・ピウスはイタリアから外に出ることなくローマ帝国を運営した珍しいタイプの皇帝だった。
アントニヌス・ピウスは元老院議員たちの意見をよく聞き、決して独断で決めることはなかったという。
皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス
だがマルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世は、外敵の侵入が相次ぎ、彼は帝国の防衛に追われることに。
また東方から持ち込まれた天然痘により、疫病が流行。
ローマの人口は激減したという。
結局マルクス・アウレリウスはゲルマン民族との戦いの最中に死去、皇帝は彼の実子コンモドゥスに受け継がれることとなった。
傾きゆくローマ帝国 -終わりの始まり-
マルクス・アウレリウス・アントニヌスの後を継いだコンモドゥスは、ゲルマン民族との戦争を外交によって早々に終結させると、ローマに戻った。
問題なく治世が進むかに見えたコンモドゥスも、実姉の暗殺未遂により次第に疑心暗鬼となり、政治的関心の欠落や周囲への疑心暗鬼を加速させる。
さらに皇帝の身で社会的底辺だった剣闘士の試合に出場するなど奇行が目立った。
結果、コンモドゥスは暗殺されることになる。
コンモドゥス暗殺後に皇帝になったのは、ローマ市長官のペルティナクス。
しかしペルティナクスも、彼の政治に不満を持った親衛隊にたった3ヶ月弱で殺害される。
ペルティナクスを殺した親衛隊は、あろうことか自分たちに一番多くお金を払う人物を皇帝とすると宣言し、勝手に皇帝をたててしまったのだ。
この決定を各属州の軍団は拒否し、それぞれに皇帝を擁立する。
そしてローマ帝国は再び内乱の時代を迎えることになった。