コンモドゥス ―実の姉に命を狙われ、側近に政治を任せきりだった若き剣闘士皇帝―

ローマ初の剣闘士皇帝コンモドゥス

コンモドゥスというローマ皇帝の名を、あなたは聞いたことがあるだろうか。

近年(といっても20年以上も前のことになるが)では、映画『グラディエーター』 で、ホアキン・フェニックスが演じて一躍有名になった。

しかし映画が封切りされる前までは、コンモドゥスの父マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝のほうが、圧倒的に有名だったはずだ。何しろアウレリウス帝は、五賢帝最後の一人であり、哲人皇帝としても名高い。加えて『自省録』という著書まで残しているのだから。

さて、映画『グラディエーター』 では、皇帝自ら剣闘士として主人公と戦うシーンが描かれているが、果たしてコンモドゥスは、ローマ皇帝でありながら本当に剣闘試合に出場したのだろうか。

また映画では父を殺して帝位に就くシーンが描かれているが、実際のコンモドゥスはどのような生い立ちがあり、どのように帝国を治めたのだろうか。

それでは最後の五賢帝マルクス・アウレリウスが犯した最大の失敗とされる、コンモドゥスへの帝位継承と彼の生涯について、見ていくことにしよう。

剣闘士皇帝

まずは冒頭で示した疑問の一つ、

コンモドゥスはローマ皇帝でありながら、剣闘士の試合に出場することがあったのか

について、見ていくことにする。

皇帝はサウスポー

左手で剣を構え、右手に盾を持つサムニウム闘士の姿。これがコンモドゥス帝の剣闘士としてのいで立ちだった。サムニウム闘士がどのような剣闘士かは、剣闘士― 民衆を熱狂させた古代ローマ帝国のグラディエーターたち―に詳しく説明しているので、ご一読いただくといいだろう。

パンとサーカスで有名な古代ローマの剣闘士 剣闘士― 民衆を熱狂させた古代ローマ帝国のグラディエーターたち―

彼は本当に剣闘士として試合に出場していたのである。それも1回や2回ではない。史書によれば、剣闘士としての対戦は計735回、野獣との戦いはなんと1,000回を数えたという。

記録された回数が誇張だったとしても、デモンストレーションとして数回程度出場したわけではないことが明らか。おそらく数十回は軽く超えていたはずだ。

また賢明なあなたならお気づきだろう。コンモドゥス帝は左利き、つまりサウスポーだったのである。皇帝の利き腕が記録されているのは、非常に珍しい。

同時代歴史家の証言

剣闘士姿のコンモドゥスの絵
剣闘士姿のコンモドゥス
Edwin Howland Blashfield, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

とはいえ、上記だけでは信じられないあなたのために、もう一つ証拠を紹介しよう。その証拠とは、コンモドゥス帝の時代に元老院議員としてデビューした、同時代人の歴史家カッシウス・ディオの証言である。

192年11月4日から、14日間続く『平民祭』。そこで行われる見世物を市民たちに提供したコンモドゥスは、自らも剣闘士の試合に出場した。ディオは『剣闘士皇帝』コンモドゥスの様子を次のように記録している。

午前:猛獣狩り

紫地に金のスパンコールを施したマント。そして宝冠を身に着けた皇帝コンモドゥスが闘技場(おそらくコロッセオ)に現れると、彼はさっそく午前に行う野獣狩りの準備を始めさせた。

アリーナを分厚い壁で4つに仕切り、クマをその中に放つ。その壁の上に立った皇帝は、槍で次々とクマを殺していく。疲れたら棍棒状のカップでワインを飲み干し、しばらくするとまたクマ狩りへ。午前中だけで、100匹ものクマを仕留めた。

また翌日以降もトラやカバ、ゾウなど帝国各地から輸送された動物たちを屠っていったという。別の資料では、ダチョウの首を弓で射抜き、クマと同じく槍でライオン100頭を一撃のもとに殺した、と記載されている。

午後:剣闘士同士の試合

午後の剣闘試合では、まずコンモドゥスが始球式ならぬ始闘式を行った。本試合前の、エキシビジョンマッチである。皇帝はサウスポーでも紹介した例のいで立ち、左利きのサムニウム闘士として戦った。もちろんコンモドゥス帝の勝利で試合終了。彼はそのまま皇帝閲覧席で観戦をする。

観戦中、試合で敗者にトドメを刺すことを躊躇する剣闘士がいると、コンモドゥスは烈火のごとく怒った。そして他の闘士たちを連れてきて、敵味方入り乱れての殺し合いを命じたらしい。

元老院議員への脅し

ところが連日の見世物が続くと、次第に観客が減ってきた。といっても観客が試合に飽きたのではない。野獣狩りに飽きたコンモドゥスが、観客を標的に弓を射る、という噂が流れたためだった。一般市民も命の危険を犯してまで、見世物に興じる気はなかったのだろう。

ところが元老院議員や騎士階級の、公職に就くいわゆる『上層民』たちに、選択の自由はない。悪即斬ならぬ観戦拒否即死、なのだから。それを知ってか、コンモドゥスは彼らに対し、次のようなシュプレヒコール(集団唱和)を強制したのだ。

陛下は支配者、誰よりも幸運なるお方、勝利者……

そしてある日、例の野獣狩りでダチョウを殺したコンモドゥスが、切断した首を右手に、血が滴る剣を左手に掲げて闘技場最前列の元老院議員席に近づいてきた。これは、コンモドゥスの議員たちに対する脅しだったのである。「ダチョウと同じくお前たち議員も簡単に殺せるのだ」と。

これが本当なら、議員たちは背筋も凍る恐怖に怯えそうなものだ。しかしディオはこう続けている。

かぶっている花輪から、月桂樹の派を奥歯で噛み締め、笑いを必死にこらえていた

そして彼はこの方法を、他の議員にも勧めているのだ。この頃コンモドゥスはまともな政治も行えず、議員たちを罪状不明で罪を着せ、彼らの財産を奪う暴君として認識されているにも関わらず。

「笑いをこらえる」あたり、恐ろしさよりもむしろコメディを想像させるが、ともかくコンモドゥス帝は紛れもなく、「剣闘士として試合に出場した皇帝」、つまり『剣闘始皇帝』だったことがおわかりだろう。

では一体彼はいつから、なぜ闘技に出場するようになったのだろうか。ここで時代を戻し、彼が生まれてから皇帝になるまでの軌跡を追っていこう。

コンモドゥスの生い立ちとローマ帝国の現状

マルクス・アウレリウス帝の皇太子

161年8月31日、コンモドゥスは誕生した。父はマルクス・アウレリウス・アントニヌス。冒頭でも記載したとおり、五賢帝最後の皇帝であり、哲人皇帝としても名高い人物だ。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
グリュプトテーク [Public domain]

マルクス・アウレリウス帝には、后妃ファウスティナとの間に8男6女という、比較的多くの子どもを授かった。しかしマルクス・アウレリウスが死んだときに生存していたのは、この内男の子1人と女の子4人だけ。その生き残った一人の男子がコンモドゥスである。

またコンモドゥスは、父帝が161年3月に皇帝として即位したため、皇太子として生まれ皇帝位を継いだ帝国史上初の人物となったのだった。

さてマルクス帝を除く五賢帝時代の皇帝たちは、先帝の養子縁組を経て皇帝となっている。そのため彼らは有能な人物を選んで後を継がせたのだと言われてきた。映画『グラディエーター』 でも、マルクス帝が次期皇帝と見込んだ人物に継がせぬため、コンモドゥスは父を殺して皇帝に就任している。マルクス・アウレリウスは息子に失望していたと書いている後世の歴史家もいる。

果たしてこれらは本当なのだろうか。後に息子が『暴君』と断罪されたため、マルクス・アウレリウスの後継者選びは治世最大の過ちと言われている。だが彼は『有能な候補を養子にして後継者とする』暗黙の了解を破ってまで、無能と知りながら我が子にあとを継がせたかったのだろうか。

帝国を襲った伝染病

ところでコンモドゥスが生まれた頃のローマ帝国は、今まで平穏だった『ローマの平和(パクス・ロマーナ)』が破られようとしていた時代だった。

マルクス・アウレリウス帝位就任の翌162年は、早くもアルメニアを巡り東方の隣国パルティアとの戦争が勃発。共同で統治していたルキウス・ウェルス帝を総司令官として兵を派遣した。この戦いには3年後の165年に勝利し、ユーフラテス川を国境とする防御体制も強化され、無事解決に至った。

ところが、遠征から帰還した軍の持ち込んだ伝染病が、ローマを未曾有のパンデミックに陥れる。天然痘か発疹チフス、ペストなどが候補に上がっているが、伝染病の正体はっきりしないようだ。しかし被害ならばわかっている。

帝国全土で、少なくとも350万人が死亡。当時6,500万人ほどの人口と試算されている研究を信じるなら、実に20分の1が伝染病で亡くなった計算になる。また人口が大幅に減少したせいで、税収も減ってしまったのだった。

ゲルマン諸部族との戦い

さらに166年ごろ、今度はドナウ川北方でマルコマンニ族を中心としたゲルマン民族の大同盟が成立すると、同盟部族はドナウ川を渡って帝国領内になだれ込んできたのである。マルクスとルキウス両皇帝は北イタリアに軍の本部を置き、前線へ司令を発して対応した。

ところが3年後、ルキウス帝が卒中で倒れて急死。マルクス・アウレリウスは以後一人で対処しなくてはならなくなった。

そのスキを付いてか、170年にはゲルマン部族連合が、ギリシアや北イタリアになだれ込んできたのである。ローマが帝政へと移行してから、異民族に帝国領土へこれほど深く侵入されたことはなかった。この後ゲルマン民族とは休戦とゲルマン部族の条約反故を繰り返す、一進一退の攻防が繰り広げられる。

ようやく戦況がローマ優位になり落ち着いてきた175年、今度は帝国内部の問題が起こった。どこからかマルクス・アウレリウス帝死去の噂が流れ、それを信じたシリア総督アウィディウスが、自分こそ皇帝だと名乗りを上げたのだ。

しかしマルクス帝はこの時生きており、反乱対処のためにシリアへと向かう。一時はアウィディウスを皇帝と認めた兵たちも、現皇帝の生存を知ると怖くなったのだろう。アウィディウスは裏切った部下に暗殺されてしまったのだった。

父との共同帝に指名される

若いコンモドゥスの彫像
コンモドゥスの若い頃
Naughtynimitz, CC BY-SA 3.0  
ウィキメディア・コモンズ経由で

このようにローマ帝国にとっても、父マルクス・アウレリウス帝にとっても激動の時代に、コンモドゥスは父からどのような扱いを受けていたのだろうか。

166年、コンモドゥスが5歳の時に、皇帝から『カエサル(副帝)』の称号を与えられた。その5年後の171年には、父の称号『ゲルマニクス(ゲルマンを征服するもの)』を受け継いだのである。

さらにコンモドゥスが16歳になる177年、マルクス・アウレリウス帝はコンモドゥスを『アウグストゥス(正帝)』に指名する。これはルキウス帝が倒れた169年以来の、2人の皇帝が共同で統治する方式の復活を意味した。マルクス帝はコンモドゥスとともに、ゲルマン民族の対処に乗り出したのである。また、コンモドゥスは同じ年に執政官に初就任している。

上記のとおり、マルクス・アウレリウス帝は養子など最初から頭にはなく、1人生き残った直系男子コンモドゥスに皇帝位を継がせるよう、用意周到に準備していたと言えるだろう。

つまりマルクス・アウレリウス帝を除く他の五賢帝たちは、自分に男子がいなかったためやむを得ず養子を迎えて皇帝を引き継いだ。しかしネルウァ帝からトラヤヌス帝への指名も、トラヤヌス帝からハドリアヌス帝への引き継ぎも、大小の差こそあれ問題を起こさずには済まなかったのだ。

光と影をあわせ持つ万能賢帝ハドリアヌス ハドリアヌス ―暴君になりそこねた、旅と美青年を愛する万能賢帝―

このように問題の多い養子の引き継ぎは、マルクス・アウレリウス帝も避けたかったに違いない。実子がいるのであれば素直に実子へと継承する。それがスムーズな手段だったのである。

コンモドゥス、即位する

父マルクス・アウレリウスの死

177年、長年苦しめられてきたマルコマンニ族などに、ようやく総攻撃を仕掛けることができるようになった。戦局はローマに有利に展開し、かなりの敵地を占拠するに至ったのである。

マルクス・アウレリウス帝は、この期に乗じて国境をドナウ川からカルパチア山脈(現在のチェコからハンガリー、ルーマニアにまたがる山脈)へ押し上げる計画を立てた。ゲルマン民族をこれ以上帝国領内に入れない、という強い意志がうかがえる。

ところがマルクス・アウレリウス帝は、180年3月17日、志半ばにして亡くなった。映画『グラディエーター』 では自分を跡継ぎにしないことに絶望しコンモドゥスが、父帝を殺したことになっている。だが実際は、元々頑強な体を持ち合わせていなかったマルクス・アウレリウスの体に限界が来たのだろう。病死だった。

父の死に際し、コンモドゥスは軍へ次のように演説したという。

父は天国へ召され、今は神々の友として座している。私は人間の諸事に気を配り、世界を統治せねばならぬ

ローマ皇帝歴代誌 第二章 帝国の最盛期  

コンモドゥスは、若干18歳の若さで父から広大なローマ帝国の統治を受け継くことになった。

ローマ軍の占領地放棄

ではマルクス・アウレリウス帝が計画した軍事行動、すなわちローマ帝国の国境を大幅に北へと押し上げることに、コンモドゥスは成功したのだろうか。

実はコンモドゥスは、父の計画と真逆のことを独断で決めたのだ。つまり、せっかく占領した地域を放棄し、国境を戦争が起こる前の地点、ドナウ川へと戻したのである。将軍であり、コンモドゥスの義兄ポンペイアヌスは、新帝の行動を諌めたようである。しかしコンモドゥスは義兄の忠告を聞かなかった。

ただしコンモドゥスはタダで軍を引いたのではない。ゲルマン部族に対し、次の条件を突きつけた上での放棄だった。

  • 部族間の戦争、およびドナウ川への接近を禁止する
  • 部族集会を規制する
  • 帝国軍へ兵士を提供する

この条件さえ飲めば、ローマ軍はゲルマン部族たちに土地を返す、と約束した。それどころかローマ側は彼らへの援助金まで提供したのである。

一体なぜコンモドゥスは、せっかく占領した地域を放棄したのだろうか。戦争をさっさとやめてローマへと戻り、享楽的な生活を送りたかったのか。

実はローマ側には、占領の継続に次の懸念があった。

カルパチア山脈まで領土を広げると、新属州の維持に大量の兵士が必要になること。ローマ化していない属州には治安維持にも必要だが、カルパチア山脈よりも北方から侵入する部族の襲来に備えるため、多数の兵士駐留が必要になることは目に見えていた。

つまり人と金が大量に必要になるのだ。

ところが占領した属州からの収益は未知数。それに加え、これまでの戦争と伝染病で帝国の財政と人員は大幅に減少していた。

上記理由から、コンモドゥスは現実的な道を探したのである。それはローマの伝統策である、国境付近の部族を庇護下に置き、防波堤として利用すること。そのために、彼らを支援する援助金は不可欠だった。

これ以降ドナウ川の国境付近では、大きな紛争は起きていない。コンモドゥスの選択は、ひとまず正しかったと言ってもいいだろう。

サオテルスの台頭と暗殺計画

首都帰還

蛮族との取引を終え、国境の紛争を終結させたコンモドゥスは、180年10月首都ローマへの帰還を果たす。彼はその月の22日に凱旋式の行進を行った。戦争を終わりに導いた皇帝としてもそうだが、彼は金髪で巻毛、かつ容姿も抜群に良かった。その凛々しい姿に民衆からは熱狂的な歓迎を受けたのである。

ところが民衆の期待は、間もなく失望へと変わっていく。コンモドゥスは政治、特に日常的な採決を、友人や側近に任せることが多くなっていったのだ。例えば皇帝の助言役である、元首顧問会。その中でも近衛隊長官の一人、ペレンニスは、使い勝手のいい代役だった。

しかしなんといってもコンモドゥスから諸事を任され、その実権を掌握したのは、侍従であり解放奴隷のギリシア人サオテルスだった。

侍従サオテルス

サオテルスは皇帝としてやらなければならないコンモドゥスの日常的な瑣末事を、ことごとく引き受けた。そしていつしか皇帝に変わり、すべてを裁決していく。

おそらく若いコンモドゥスは、皇帝が想像以上に多忙だということを、理解できていなかったのではないかと思う。かつて父マルクス・アウレリウスが、自分の心の内を語った著書『自省録』。その中で、何でもかんでも決めなければならない皇帝としての職務が、ときに煩わしい(意訳だが)とグチをこぼすぐらいなのだ。

それを肩代わりしてくれる人間がいるのである。彼は渡りに船とばかりに、サオテルスへすべてを押し付けたことだろう。史書では側近たちに政治を任せている間、彼は歓楽街を徘徊し、酒と女に溺れていたとされている。これも遊びたい年頃に、コンモドゥスがうろついていたに過ぎないのではないか。

しかし彼は日本の大学生ではなく、ローマ帝国の皇帝だった。皇帝の政治的無関心に加えて、解放奴隷という本来なら身分の低い側近たちが、社会的地位の高い元老院議員に横柄な態度を取り始めたことに、議員たちは不満をつのらせていく。

これがコンモドゥスを暗殺する陰謀へと発展する。そしてその中心にいた人物が、皮肉にもコンモドゥスの姉、ルキッラだったのである。

姉ルキッラの暗殺未遂事件

182年、ルキッラは元老院議員たちの不満を利用して、弟帝の暗殺を計画する。暗殺後は彼女の夫で人気のあるポンペイアヌスを即位させ、自分は皇后になる予定だったという。

この暗殺計画には何人もの議員が加わったようだ。そして皇帝を実際に手にかける刺客には、若手議員のクィンティアヌスが選ばれる。彼は暗殺用の短剣をマントの下に隠し、皇帝が観覧予定のコロッセオの前で待ち構えた。

そこに予定通りコンモドゥスが現れた。彼は全くの無警戒で歩いていたのである。クィンティアヌスが皇帝の前に躍り出た時、皇帝を守るものは何もなかった。

ところがクィンティアヌスは成功を確信したのか、次のセリフを叫んでしまったのだ。

覚悟しろ!これが元老院からの贈り物だ!

全く中二病、もとい若気の至りとしか言いようのない行動。このセリフを叫んだことで、クィンティアヌスにわずかの間ができたところを、衛兵に取り押さえられてしまったのだった。

サオテルス退場

この事件に関与した人物を、コンモドゥスは徹底的に洗い出させた。この時、彼の姉ルキッラが関わっていたことを知ったコンモドゥスの心情は、いかほどだっただろうか。

もちろん陰謀を計画した姉ルキッラは、ローマから追放。さらに追放先で処刑された。また暗殺実行犯のクィンティアヌスも処刑。その他何人もの議員がこの暗殺に関わっていたとして、処刑されたのである。

さて、この暗殺未遂の裏でもう一つの事件が進行していた。それは帝国の政治を牛耳っていたサオテルスの殺害だ。近衛隊長官の一人パテルヌスは、この機会に諸悪の根源を絶つつもりだったのだろう。サオテルスはパテルヌスの刃にかかって死んだ。

しかしコンモドゥスは、便利なサオテルスを殺したパテルヌスを許す気はなかった。結局パテルヌスも処刑されてしまう。

この事件で、身内から命を狙われるという心の闇を負ったコンモドゥスは、ますます公の場に出ることを避けるようになった。そうなれば、第2のサオテルスが現れることは必定。次にそのポジションを得たのが、近衛隊長官ペレンニスだったのである。

妻との仲
ブルッティア・クリスピナの彫像
ブルッティア・クリスピナ
ルーヴル美術館, CC BY-SA 3.0  
ウィキメディア・コモンズ経由で

少し横道にそれ、コンモドゥスとその妻についてもお話しよう。

コンモドゥスには178年に結婚した、ブルティア・クリスピナという妻がいた。非常に美しいと評判だったという。しかしクリスピナは自分が由緒ある家の出自を鼻にかけ、なにかとコンモドゥスを軽蔑したらしい。コンモドゥスにとって、目障りな存在だった。

そんな妻との離縁をコンモドゥスは望んでいたようだ。182年の陰謀計画を利用し、妻を反逆罪で処刑することに成功したのだった。

ペレンニスの専横と失脚

コンモドゥスの享楽

コンモドゥスはペレンニスに諸事一切を任せると、自らは贅沢と女遊びにうつつをぬかしたという。彼はパラティウムの宮殿に、美女300人と青少年300人を集めて酒宴や乱交を行った、と記録されている。

どこまで本当のことかはまたしても謎だが、コンモドゥスが表に姿を見せないため、噂が噂を呼んだ結果大げさに伝わったのかもしれない。遊びたいさかりの若い皇帝が、女性や不良グループと遊びたくなったとしても、不思議ではないだろう。

しかし何度も言うように、彼は皇帝なのだ。コンモドゥスの周りには、権力を欲する人間が存在する。そして公務に出てこないことをいいことに、ペレンニスはコンモドゥスの「声」として、権勢を誇ったのである。

ブリタンニア属州の反乱

ところが183年頃、帝国北方で事件が起こった。ブリタンニア属州(現イギリス)で、スコットランドの諸部族がハドリアヌスの長城を突破し、帝国に侵入したのである。ローマ軍は撃破され、属州総督すら戦死するという非常事態となった。

しかし184年後半になると、ローマ軍はようやくブリタンニアの蛮族たちを、長城の北方へと追い出すことに成功する。コンモドゥスは自ら軍を率いたわけではなかったが、慣習通り『ブリタニクス(ブリタンニアを征服するもの)』という称号を得た。

ところが騒動は、これだけでは終わらなかった。今度はブリタンニアを守る兵士たちが暴動を起こしたのである。理由ははっきりと分かっていない。おそらく蛮族に対して勇敢に戦ったにも関わらず、恩賞が不十分だったのだろう。

それなら皇帝に訴えるまで、と彼らは行動に移した。185年、ブリタンニアの兵士たち1,500名が首都に押しかけてきたのである。そして彼らは皇帝に直訴した。近衛隊長官ペレンニスが皇帝暗殺を企て、パンノニア総督を務める息子をコンモドゥスの代わりに擁立しようとしているのだ、と。

ペレンニスの死

なぜペレンニスのことを、ブリタンニアの兵士たちが訴えたのか。彼らには実際に権力を握り、指示をだしているのがコンモドゥスではなくペレンニスだということがわかっていたのだ。これに加えて、ペレンニスに変わって権力を狙うものがいた。クレアンデルである。

クレアンデルがペレンニスを貶めるため、首都に押しかけた兵士たちに陰謀を吹き込んだかどうかはわからない。ただし兵士たちの訴えを、積極的に肯定したのは確かだった。

『暗殺』の2文字に過敏になっていた皇帝は、すぐさまペレンニスを兵士たちに引き渡す。こうしてペレンニスは彼らになぶり殺されてしまったのである。

この結果、コンモドゥスはますます引きこもることになってしまった。そして今度はクレアンデルが権力を握ることになったのだった。

クレアンデルの台頭と失脚

マテルヌスの騒乱

さて、権勢を誇ったクレアンデルの説明をする前に、2度目の暗殺計画について書いておこう。

マテルヌス、という脱走兵がいた。彼はならず者や罪人を集めて盗賊団を結成し、ガリア各地を略奪して回ったのである。ところが討伐隊の結成を聞くや、マテルヌスは逃走。盗賊団のメンバーたちも散り散りになった。

しかし187年春、マテルヌスは手勢を率いてイタリアに侵入した。コンモドゥスを暗殺するために。

彼の計画はこうだ。春の祭り、すなわち大地母神の祝祭の最中に近衛兵に変装する。そして皇帝に接近できたところを見計らい、彼を暗殺する。ところがこの計画は実行直前で部下の裏切りに会い、露見してしまったのである。マテルヌス斬首され、コンモドゥスはますます引きこもり度合いを強めていく。

そして皇帝が姿を見せないことをいいことに、クレアンデルは権勢をほしいままにしたのだった。

クレアンデル、侍従から近衛隊長官へ

ところでクレアンデルとはいかなる人物なのか。

彼はフリュギア(現トルコ北西部)の出身で、元々荷物の運搬奴隷をしていた。その後の経緯は不明ながら、コンモドゥスの侍従に抜擢される。おそらくは目端の利く有能な人物だったのだろう。

そして186年末、ペレンニスが失脚するとクレアンデルはその後釜、つまり近衛隊の長官にまで昇進した。そして政治を放棄しているコンモドゥスに代わり、帝国を取り仕切っていたのである。

ところがクレアンデルは恐ろしいまで「カネ」にこだわった。彼は自分の懐を潤すためなら、地位はもちろん、軍の指揮権や裁判の判決まで売りさばいたのだ。後に史書にはこう記されている。

彼がうなずけば、解放奴隷さえ議員になり、貴族(パトリキ)にもされた

この結果、189年には25名もの執政官が任命されている。執政官とは、本来毎年2名が選ばれる役職である。ちなみにコンモドゥスの時代になると、その年のはじめに選ばれる1組(2名)の正規執政官に加え、4組(8名)ほどの補充コンスルをあわせて、計10名ほど選ばれるのが通例だった。

また近衛隊の長官も2名1組の役職だ。すでにクレアンデル自身が近衛隊長官となっているので、同僚長官のポストを差配することができた。そのため6時間だけ、また5日間だけ同僚長官に就任するものもいたようである。

クレアンデルの失脚

クレアンデルの「天下」がしばらく続いたあとの189年、帝国にまたしても伝染病が猛威をふるった。この時ローマでは1日2,000人もの死者を数えたと言われている。

さらに190年には、凶作に加えて穀物の買い占めが横行したため、首都に食糧危機が発生した。当然民衆の不満は政治を差配するクレアンデルに集中する。そして戦車競技に集まった観客が、暴動を起こすまでに発展したのだ。

この時皇帝はラレントゥム(ローマから40km南にある町)にいた。この皇帝のもとに、クレアンデルの罷免を訴えるため、民衆がデモ行進を始めたのである。

ところがこれを知ったクレアンデルは、デモを潰すため近衛騎兵を差し向けた。そしてあろうことかデモ隊に向かって剣で切り倒し、馬で踏みにじってこのデモを潰すことを目論んだ。軍隊の攻撃でデモ隊は首都へと逃げ帰るしかない。ところが兵たちは逃げる彼らを追撃し、大量虐殺を始めたのだ。

デモに参加しなかった市民も大勢首都に残っていたが、この光景をみた彼らはついに堪忍袋の緒が切れる。デモを潰しに来た兵たちに、高層共同住宅インスラの屋根から石や瓦を投げつけ、応戦したのである。これにはたまらず騎兵隊たちも撤退を余儀なくされた。しかし兵士や市民の多くに死傷者が出る大惨事となってしまった。

皇帝にデモ隊と軍の衝突を知らせたのは、コンモドゥスの姉ファディラ。コンモドゥスはこの惨事に肝を潰した。民衆を怒らせると自分の生命も危うくなるのだ。

彼はただちにクレアンデルの逮捕と処刑を命じた。クレアンデルの生首は、槍に突き刺されてさらしものにされた。また遺体は引きずり回されたあげく、下水に放り込まれてしまった。

これに懲りたのか、ついにコンモドゥスは自ら政治を執り行うようになったのである。

コンモドゥスの親政

コンモドゥス、現人神へ

ヘラクレス姿のコンモドゥスの像
ヘラクレス姿のコンモドゥス
カピトリーノ美術館, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

これで帝国の運営がまともになるかと思いきや、コンモドゥスは「自分がやりたいように行う」統治(とも呼べない統治)を始めた。

冒頭でも説明したとおり、彼は剣闘士としての訓練を積んでいた。そして剣闘士が敬っていた英雄ヘラクレスを崇拝していたのである。しかしヘラクレスを崇拝するだけなら、特に問題はない。ところが彼は自らヘラクレスであろうとした。

普段から彼はヘラクレスになりきった。ライオンの毛皮を頭から被り、棍棒を片手に皆の前に現れる。公の場ですら、皇帝自身がヘラクレスのコスプレ姿で登場したのだ。さら自分を「ゼウスの息子ヘラクレス神」と元老院に公認させたのである。

属州では皇帝を崇拝することも合ったが、イタリア本国では現人神としての皇帝礼拝は避けられてきた。これを行ったカリグラは元老院から『暴君』として忌み嫌われたのだ。それほどまでに異例のことを、コンモドゥスは行ったのである。

カリグラ 皇帝家の血を引く貴公子 カリグラ ―両親からアウグストゥスの血統を受け継いだ貴公子皇帝―

改名皇帝

またコンモドゥスは、様々なものに自分の名をつけて改名を行った。たとえば首都ローマの名を『コロニア・コンモディアナ』に。コンモドゥスの植民市という意味だ。

さらに彼は、自分の名乗っていたとてつもない長い12の名前を各月の名称に変更しようとさえした。ちなみに彼の名乗った名は次の通り。

アマゾニス・インウィクトゥス・フェリクス・ピウス・ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アウグストゥス・ヘルクレウス・ロマーヌス・エクススペラ・トリウス(男アマゾン・不敗・幸運・敬虔なるルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アウグストゥス・ローマのヘラクレス・超越)

まるで冗談のような話だが、メソポタミアに駐留した下士官の捧げた祭壇にさえ、「ローマのヘラクレス」や「コンモドゥス軍」、「ピウスの月(4月)」などの言葉が刻まれているのである。あながち嘘ではなかったのだ。

ローマ大火災と見世物開催の結果

このように苦笑と困惑が入り混じったコンモドゥスの親政も、上記のような珍奇な行動ならまだ笑い話で済んだだろう。

ところが彼は自分の趣味、つまり剣闘士の興行を行うため、大事な皇帝公庫の金に手をつけたのである。彼が剣闘士として700回以上、野獣狩りを1000回も行ったことは、皇帝はサウスポーでも書いたとおりだ。

また人気取りのため、市民に対して1人あたり560セステルティウスを「度々」与えた。これはローマ市民を30万人とすると、1回に1億7,000万セステルティウスもの金を使う計算になる。ちなみに兵士の年俸はこの当時900セステルティウスなので、半年分以上の金を一人に与えたのだ。

これに加えて191年、ローマで大火災が発生した。この火災からローマ市を再建するため、当然かなりの出費が入用になる。いくら皇帝公庫にお金があったと言っても、湯水の如く使われては、底をつくのは目に見えていた。

ではコンモドゥスは出費に対する歳入をどのように担保したのか。彼は暴君にありがちな、富裕層たちに罪をきせて処刑し、その財産を収入の足しにしたのだ。しかし所詮は焼け石に水。後年、ペルティナクスが皇帝に就いた時、皇帝公庫にはわずか100万セステルティウスしか残されていなかったという。

コンモドゥスの最期

コンモドゥスの新年の計画

帝国の財政建て直しに元老院議員が無実の罪をきせられては、議員たちはたまったものではなかった。しかし剣闘士としての訓練を受けたコンモドゥスを暗殺することも難しい。加えて父から受け継ぐ軍への人気から、属州総督の反乱を期待することもできなかったのである。

このような絶望的な状況の中、事態は意外な展開を見せ始める。

193年の1月1日に、新年を祝う競技会が予定されていた。この競技会は「コロニア・コンモディアナ」の名に改名されたローマ市の、大火災からの再建を祝うためのもの。そこで「ローマの再建者」であるコンモドゥスを主役にした催しが行われることになっていた。

ところがこの催しに、恐ろしい計画が立てられる。なんと選ばれた執政官たちを、コンモドゥスはこの日に2人とも殺害し、自分が執政官兼剣闘士として登場する、というのである。

大晦日の陰謀

この計画を知った近衛隊長官のラエトゥス、侍従エクレクトゥス、妻なきあとの愛妾マルキアは、計画を思いとどまるようコンモドゥスに忠告した。ところがコンモドゥスは彼らに対し、逆に「殺すぞ!」と脅す始末。今までコンモドゥスが実際に実行してきたことを知る3人は、皇帝の暗殺を急ぐ必要があった。

計画実行は12月31日の夜。まずマルキアがコンモドゥスの飲むワインに毒を持った。しかし解毒剤を常用していたコンモドゥスは、毒をすべて吐き出してしまったのである。

そこで第二の刺客を送り込む。その人物はアスリートのナルキッソス。コンモドゥスが入浴中に、ナルキッソスはコンモドゥスの首を締めたのである。

さすがのコンモドゥスも、毒のせいで弱っていたため、ナルキッソスの手を振り切ることはできなかった。こうして最初で最後の敗北を喫したコンモドゥスは、暗殺者の手により殺された。享年31歳。

この後コンモドゥスがいた記録を一切消してしまう、ダムナティオ・メモリアエを元老院は決議する。ところが遺体は次の皇帝ペルナティクスにより、ハドリアヌス廟(現サンタンジェロ城)に移され、4年後セプティミウス・セウェルスにより神格化されることになる。

古代ローマの記録抹殺刑 ダムナティオ・メモリアエ ダムナティオ・メモリアエ -記録抹殺刑や名声の破壊ともいわれる古代ローマで最も重い刑罰-

今回のまとめ

それでは皇帝コンモドゥスについて、おさらいしよう。

  • コンモドゥスが剣闘士として何百回もの試合に出場した
  • コンモドゥスは父マルクス・アウレリウスから帝位を受け継ぎ、ゲルマン人部族との抗争に終止符を打った
  • コンモドゥスは姉ルキッラの暗殺計画で、疑心暗鬼に陥った
  • コンモドゥスは政務を顧みなかったため、3人の臣下に権力を利用されることになった
  • コンモドゥスが親政を始めると、見世物と大火災で帝国の財政は火の車になった
  • コンモドゥスは新年の計画を恐れた部下と愛妾の手により、大晦日に暗殺された

彼が帝国を引き継いだのは18歳のことであり、皇帝の諸事一切を取り仕切るには、あまりにも若かったのかもしれない。皇帝ネロのセネカのような導いてくれる助言役にも恵まれず、自分の欲望に忠実に行動してしまったため、身内すら信用できない状況を生み出し、部下の専横を招く結果となった。

彼が皇帝ではなく剣闘士として生まれることができたなら、大成したのかもしれない。そういう意味では、彼も時代の犠牲者ということができるだろう。

本記事の参考図書

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