コロッセオ ―エレベーターや天幕まであった、ローマ一の構造を誇る円形闘技場―

帝国一の円形闘技場コロッセオ

パンフレットにも必ず採用されるイタリア、ローマを代表する歴史的建築物コロッセオ。あなたはコロッセオがどんな目的で建てられたのか、ご存知だろうか。

コロッセオは古代ローマの市民に見世物を提供する場所だった。具体的には

  • 剣闘士の試合
  • 猛獣狩り
  • 歴史的海戦を疑似的に再現する模擬海戦

などである。剣闘士がどのような人々だったのかは、剣闘士― 民衆を熱狂させた古代ローマ帝国のグラディエーターたち―に詳しく記載しているので、ご確認いただければ幸いだ。

実はこのコロッセオ、以外にも皇帝ネロが生きていた時代には、まだローマに存在しなかった。
では一体いつ誰がコロッセオを建てたのだろうか。また具体的にはどんな構造でどのような催しを行っていたのだろうか。

この記事では次のことを記載する。

  • コロッセオが建てられるまでの歴史
  • コロッセオの構造
  • コロッセオのサービス
  • 皇帝たちが実際に行った見世物
  • コロッセオの終焉とローマ帝国後の変遷

もしあなたがコロッセオを観光する予定なら、この記事で予習をすることをオススメする。

また最後にはバーチャルツアーができる動画もご用意したので、旅行に行けずフラストレーションが溜まったあなたは、ぜひご覧いただくといいだろう。

コロッセオ誕生まで

冒頭でも記述したとおり、コロッセオは古代ローマの娯楽ショー、いわゆる『見世物』が開催される場所だった。その中でも最も観客を興奮させたのが、剣闘士同士の戦いだった。ではコロッセオ建設以前の剣闘士試合は、どこでどのように行われていたのだろうか。

ローマで初めての剣闘士試合は『牛の広場(フォルム・ボアリウム)』

剣闘士の起源はローマの北にあるエトルリア、あるいは南イタリアのカンパニア地方とも言われている。私はどちらかというより、どちらの文化も混ざりあった結果に生まれた、ローマ特有の受け入れ体制が、剣闘士を生んだと考えている。

それはともかく、記録によるとローマ市で剣闘士の試合が初めて行われたのは、前264年のこと。ときはカルタゴとの開戦前夜、あるいは直後のことだった。

開催した人物はデキムス・ユニウス・ブルトゥス。弟のマルクスとともに、父を追悼するため『牛の広場(フォルム・ボアリウム)』で剣闘士同士を戦わせたという。

ちなみに牛の広場とは、家畜を売り買いするためにあった、ローマ市の広場のひとつ。ティベリス川が東から西へと大きく曲がったちょうど東岸に位置していた。

剣闘士試合の娯楽化

その後100年ほどは、死者を追悼するため剣闘士たちの血を必要としていた。しかし前2世紀中頃、カルタゴやヘレニズム国家から勝利を得てから、剣闘士の試合も次第に娯楽化していく

前105年には公職についたものが公の立場で剣闘士競技を開催すると、剣闘士の試合は国が主催するようにもなっていったのである。

ただし、この頃はまだ広場(フォルム)での開催が主だった。会場となる広場では、木造の観客席が楕円形に並べて設けられ、観客はその席から剣闘士たちの戦いを見守っていた。

ガイウス・クリオの『回転式ダブル円形劇場』

さらに時代が下ると、剣闘士の試合は選挙活動に利用されることになる。市民に娯楽を与える『見世物』は、立候補者の人気を高め、票を集める絶好のイベントになったのだ。

あのカエサルも、借金をしてまで何度も剣闘士の試合を開催している。また彼は剣闘士の一団を自分の名義で雇いあげた。今で言うならサッカークラブのオーナーをしていたのだ。

さて、この頃ガイウス・クリオという政治家がいた。彼は人気取りのために奇抜なことを思いつく。それは木造の半円形劇場を隣同士に2つ建て、その劇場を回転式の土台に乗せる、というアイデアだ。

これなら劇場と闘技場の2つの施設を同時に作りだすことができる。つまり、演劇として使用するときは、互いの劇の邪魔をしないよう劇場を背合わせにしておき、剣闘士試合を開催するときは、半円をくっつけて円形闘技場を作ればいい。

ガイウス・クリオの回転式闘技場

ところが「そうは問屋が卸さない」もの。上部の建築物が巨大だったため回転軸の摩耗が早く、しばらくすると壊れてしまったようである。

ローマ初の常設円形闘技場

そこで前30年、ローマ市に待望の石造常設円形闘技場が建設される。オクタウィアヌス(アウグストゥス)配下の将軍スタティリウス・タウルスが、エジプト(とアントニウスへの)戦勝記念のため、ローマ市にこの闘技場を献納したのだ。

ただし数千人程度の収容人数だったため、引き続き広場(フォルム)での開催や大競技場(キルクス・マクシムス、戦車レースをする場所)でも剣闘士の試合は行われていた。

そして『フラウィウス円形闘技場(コロッセオ)』の建設へ

さらに100年後、ネロの死後に起こった内乱でウェスパシアヌスが勝利すると、ネロの黄金宮殿にあった人工池跡に巨大な円形闘技場の建設を計画した。

ウェスパシアヌス
ウェスパシアヌス
Wikipediaより

もちろん彼自身がネロとの家系的繋がりがないため、民衆の人気を得ようとしたことは事実だろう。しかし同時にネロの後半の治世や内乱によって混乱するローマ市の雇用対策でもあったようだ。ある記録によると、便利な機械をプレゼンしにやってきたエンジニアに、ウェスパシアヌスはこう答えたという。

素晴らしい機械だが、貧しいものにも仕事を与えたいのだ

そして西暦80年、ついに巨大な常設円形闘技場『フラウィウス円形闘技場(コロッセオ)』が完成する。しかしウェスパシアヌス帝は闘技場を見届けることはなかった。なぜなら彼はすでに亡く、息子のティトゥスが跡をついで皇帝になっていたからである。

コロッセオの規模

サイズ

ではローマ市に新しくできた『フラウィウス円形闘技場』、いわゆるコロッセオの大きさはどれぐらいだったのだろうか。

円形と銘打っているものの、闘技場は南北方向に圧縮した楕円形である。その長軸は187.7m、短軸は155.6m。私の記憶が正しければ、2015年に完成したパナソニックスタジアム(サッカー競技場)の大きさとほぼ同じサイズだ。また観客席の最外縁部、一番高いところで地表から48mもある。

もちろんコロッセオはローマ帝国で最も大きい円形闘技場だった。次に大きいのがカプアの競技場で、長軸170m、短軸140m。名実ともに世界一の闘技場だったのである。

なおコロッセオのような円形闘技場は、ローマ帝国各地に建てられた。その様子はローマ帝国各地にあった円形闘技場―歴史や特長、現在でも残っている都市など―に記載しているので、興味があればご覧いただくといいだろう。

収容人数

では観客の収容人数はどれぐらいだったのか。これは様々な説や記録があるが、50,000人以上は収容できたと思われる。上限は多く見積もっているもので87,000人。少なくとも60,000人は入れたようだ。

「コロッセオ」の名の由来

先ほどからコロッセオと無造作に記載しているが、実は闘技場ができた当初、ローマ人は「コロッセオ(コロッセウム)」という名で呼んではいなかった。彼らは『フラウィウス円形闘技場』もしくは単に『円形闘技場』とい呼んでいた。

ではコロッセオの名はどこから来たのか。

これは諸説あるものの、闘技場のそばに立っていたネロの青銅製彫像(ネロの死後、太陽神ヘリオスに改造)が巨大だったため、『コロッスス(巨像)』といったため、俗称として円形闘技場のことを『コロッセウム』と呼ぶようになったらしい。

だしコロッセオの名が文献に現れるのは中世になってから。なので実際のところローマ市民が「コロッセオ(コロッセウム)」と呼んでいたかは、やはり謎である。

コロッセオの構造

コロッセオ構造全体図線画
コロッセオ構造全体図
コロッセウムからよむローマ帝国  の図を参考)

ウェスパシアヌスはコロッセオの建設を、アッティウス・フェリキアヌスという騎士身分の人間に任せ、工事を進めた。今度はコロッセオがどのような構造なのかを見てみよう。

基礎部分

コロッセオは、ネロが建てた黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園内にある人工池の水を抜いて建設された。あらかじめ地面が削られていると、基礎工事にある程度の手間が省けたのだろう。それでも凝灰岩の岩盤に到達するまで、地表から約7m掘り下げられた。この掘削で出た土砂の量は、数万m3に及んだという。

この岩盤の上に、コンクリートの基礎が作られた。ただし闘技場中央部のアレーナ(剣闘士たちが戦う場所)の真下はそのまま空間が残され(地下空間)、観客席に当たるアレーナ外周部に大量のコンクリートを流し込む。基礎はほぼ地表まで達した。

観客席部分

支柱

コロッセオ構造図支柱の線画
コロッセオ構造支柱
コロッセウムからよむローマ帝国  の図を参考)

同じ中心で大きさの違う楕円を7重に描くように、支柱は立てられた。1つの楕円には80本もの柱が等間隔に並ぶ。もちろん隣の楕円の支柱とは中心への直線上にあった。

もっとも内側の支柱とアレーナの間には、さらに16.35mもの壁状の構造物があり、この壁は支柱と中心に対して直線状に配置された。つまり支柱の内側に80もの壁があったのである。

最外縁の柱の断面は約13m2(正方形の断面だと1辺が約3.6m)。ただし内側の支柱にいくほど細くなっていく。また支柱はわずかに内側に傾き、構造物の重量を吸収した。

ちなみに観客席を支える支柱の材料(石灰石、トラバーチン)は、ローマ東方にあるティボリ近郊のアルブラーエで採石された。この石をローマまで運ぶため、わざわざ6m幅の道路を作らせたという。

壁・床・天井

コロッセオ構造図 壁・天井・床
コロッセオ構造壁・床・天井
コロッセウムからよむローマ帝国  の図を参考)

同一の楕円に並ぶ支柱は、アーチで連結された。コロッセオの外観はこのアーチによるものだ。さらに支柱の楕円同士はコンクリートで構築されたヴォールト状の天井で連結される。ローマン・コンクリートの建設方法については、ローマン・コンクリート ―二千年経っても崩れない古代ローマの建築技術―組積造建築の「迫り持ち式」工法をご参考いただくといいだろう。要するにトンネルがぐるりと円周を描いていたと考えればいい。

また7階構造の各階はスロープや階段が設置されており、観客席へは『吐き出し口(ウォミトーリア)』と呼ばれる出入り口から入場する。

コロッセオ最外縁の三層アーチには、付け柱(装飾用の疑似柱)などの建築装飾が施され、重厚感あるコロッセオの重々しい威圧感を和らげていた。

また各階層の柱の形式も違っている。

  • 第一層:ドーリス式
  • 第二層:イオニア式
  • 第三層と第四層:コリントス式
コロッセオの柱の種類の図
コロッセオの柱の種類
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そして最外縁の頭頂部には、日除けの布を張るロープを支えた240本もの木製ポールが立てられていた。

コロッセオ構造図 天幕用ポール
コロッセオ構造天幕用ポール
コロッセウムからよむローマ帝国  の図を参考)

アレーナ

アレーナの様子

剣闘士同士、または剣闘士と猛獣が戦うアレーナには、木製の床板が設置されていた。この板は中央部が若干山なりになるよう反り返っている。その理由は雨水対策。アレーナに水が溜まらないよう、全てアレーナの外縁へと逃し、そこからマンホールを経て排水するよう設計されていたのである。

また床板の上には砂が撒かれていた。「アレーナ」とはもともと「砂」や「砂場」を意味していたのだが、このように闘技場の中央部に撒かれることで、いつしかこの場所を「アレーナ(arena)」と呼ぶようになった。

観客席最前列の手前4mの位置に頑丈な金網が設けられていた。もちろん猛獣が観客を襲わないようにする安全対策のためだ。現在でもサッカー場に網が張られているだろう?最もこちらはフーリガン(熱狂的サポーター)が選手を襲わないようにするためだが。

地下空間

コロッセオの地下空間

アレーナの真下に、地表から約6mの地下空間が設けられたことは、基礎部分ですでに述べたとおりだ。この地下空間のほかに、もう一つ観客席の長軸ラインに沿って扇型にも空間が設けられていた。この2つはそれぞれ役割が違っていた。

アレーナ直下の空間

現在の劇場にもある『奈落』のような役割。岩山や藪(やぶ)など、観客を楽しませるための演出道具を出し入れする、いわゆる『迫(せり)』があった。

また周囲の壁に32ヶ所のくぼみがあり、ここに鉄の檻がはめ込まれた。その前には鉄格子の扉がある。この設備はいわゆる人力のエレベーターである。猛獣はこの檻に追い込まれたあと、滑車で釣り上げられたのだ。ときには熊などの大型獣を載せなければならなかったため、300kgの重量まで対応していたという。

観客席下の空間

猛獣や舞台装置を運び込むための地下通路の役割があり、猛獣を閉じ込めておくための部屋も用意されていた。

またコロッセオの地下と隣にある剣闘士養成所、いわゆる『大養成所(ルドゥス・マグヌス)』とは地下でつながっており、その通路の役割も果たした。


なおこれらの構造を「ある程度」再現したLEGOのコロッセオモデルがある。地下空間も作られ、階層ごとの柱の装飾違いまで再現されているらしい。

観客席の『身分制度』

コロッセオの構造を把握したところで、実際に見世物を観る観客たちの様子を確認してみよう。

入り口と入場

コロッセオ構造図入り口
コロッセオの入り口
コロッセウムからよむローマ帝国  の図を参考)

闘技場でイベントが開催されると、入場券(テッセラ)と呼ばれる粘土板、もしくは骨片のチケットが配られる。このチケットは無料だったようだが、売り買いされた記録もあるようだ。

このチケットにはラテン語の数字で1から76までの数字が刻まれている。コロッセオ外縁には80のアーチがあることは説明したが、それぞれが入り口になっていて、各アーチにもテッセラに対応する番号が刻まれていたのである。

ここで賢明なあなたなら、番号の数が合わないことにお気づきだろう。そう、アーチのうち長軸と短軸に交差するものは皇帝や高貴な身分のものが使う専用の入口、つまりVIP用のものであり、一般市民はここから入ることはできなかった。

観客席の区分

コロッセオ構造図観客席
コロッセオの観客席
コロッセウムからよむローマ帝国  の図を参考)

さて、配られたテッセラに刻まれた番号の入り口から中に入れば、どの席にも自由に座っていいかと言えば、そうではない。コロッセオの観客席には、身分に見合った席順が決められていたのだ。

  • テラス上の貴賓席(一番手前の席):元老院議員身分や巫女、祭司、行政官などの席
  • 三層の大理石でできた階段席   :最下段→騎士身分、上段→職人の親方衆や承認、招待された役人などの席
  • 最上段の木製や桟敷席      :女性専用の区画と、上段の桟敷席は最下層民や奴隷、外国人の席

この他、北側には皇帝とその家族用の観覧席が設けられていた。この席には、直射日光が一日中当たらないように設計されていた。

私の予想だが、おそらく最上段の席以外は指定席だったのではないだろうか。コロッセオには、席に案内をしてくれる案内係がいたようなのだ。この人達の役割は、人々の混乱を避ける意味もあっただろうが、何よりも指定された席に間違いなく市民が座れるよう見守ることだったのではないかと思う。

観客へのサービス

日除け用天幕

コロッセオでは見世物を快適にみてもらうため、観客に様々なサービスを提供していた。なかでもおそらく最大のサービスが日除け用の天幕だろう。現代で例えるなら、ドーム用の屋根を人力で操作していたのだ。

コロッセオの構造で記述したとおり、観客席外縁の頭頂部には240本もの木製ポールが備え付けてある。このポールから伸びる長いロープで、地上40mにもなる巨大なリングを支えていた。このロープの間に、細長い布(おそらくは薄い麻製)を何枚も広げ、直射日光を保護する「屋根」にした。

天幕が張られる様子は下の動画がわかりやすいので、参考にご覧いただくといいだろう(ただし音楽が流れるので、音量には注意していただきたい)。

ある試算によると、ポール全体にかかる総重量は24トンにもなるとのこと。つまり1本のポールで100kgもの重量を支えなければならない。このためミセヌム艦隊から1,000名もの水兵たちを招集し、彼らにコロッセオの天幕操作を担当させていたのだ。

水飲み場

コロッセオ内部には観客がいつでも水分を補給できるよう、100ヶ所近くもの水飲み場が用意されていた。この水飲み場は内廊下に沿って、一定間隔で設けられていたようである。

エッセンスや香料を吹きかける

また変わったサービスだと、

  • バラやサフランなどのエッセンス
  • 香料などを混ぜた水

を観客に吹きかけるというサービスもあったようだ。

売り子

上記3つの無料サービスのほかにも、コロッセオ内部にはいわゆる「売り子」がいた。彼らは観戦用の軽食に、次のような食べ物を売っていた。

  • パン
  • オリーブ
  • もも
  • プラム
  • さくらんぼ
  • 松の実

また観客席は石や木製のため、お尻の痛みを和らげるクッションも売っていたようである。

賭け事

現代でもサッカーやボクシングなど、勝敗の決まる試合では必ずと言っていいほど賭け事が成立する。それは古代ローマでも同じだった。戦車競技とおなじく剣闘士の試合でも、賭け事を主催する「ブックメーカー」は存在していたのである。

なお剣闘士試合と並ぶ古代ローマのもう一つの見世物、戦車競技については古代ローマの戦車競走 ―興奮と熱狂に包まれた、昔のF1レース―でも紹介しているので、興味があるならご一読いただくといいだろう。

コロッセオで実際に開催された催し

ではこの完成したコロッセオでどんなことが行われていたのだろうか。もちろん通常の剣闘士試合や猛獣狩りも行われていたが、ここでは皇帝たちによる「特別な」催しをピックアップしてみよう。

ティトゥス帝

ティトゥス帝の彫像
ティトゥス帝
Coyau / Wikimedia Commons

ウェスパシアヌス帝の計画したコロッセオが、皇帝の死後息子のティトゥスに代わった80年に完成したことは、すでにそして『フラウィウス円形闘技場(コロッセオ)』の建設へで述べたとおりだ。

ティトゥス帝は完成したコロッセオの落成記念に、剣闘士の試合や猛獣狩りを開催した。その日数は3日間とも100日間とも伝えられる。彼はこの祝典で5,000頭もの動物を殺したようだ。

また3日目にはコロッセオに水を張って艦隊同士を戦わせる『模擬海戦(ナウマキア)』が催された。ペルシアとギリシアが戦った『サラミスの海戦』を再現したようである。

ドミティアヌス帝

ドミティアヌス胸像
ドミティアヌス帝
ルーヴル美術館 [CC BY-SA 3.0]

ティトゥス帝の後を継いだ弟ドミティアヌス帝も、コロッセオで模擬海戦を行った。ただしドミティアヌスはなぜか暴風雨の中で模擬海戦を強行したので、観客にまで死者が出たという。

コロッセオで開催された『模擬海戦(ナウマキア)』

ちなみにコロッセオが完成した当初は、地下空間にそれほど複雑な装置がなかった。そのため地下いっぱいに水を張り、コロッセオを擬似人工池として使うことも可能だったのだ。

しかし次第に演出が複雑になると、地下空間にも様々な装置が作られる。それに伴い、コロッセオで模擬海戦が開催されることもなくなっていったのだった。

トラヤヌス帝

トラヤヌス
トラヤヌス帝
グリュプトテーク [Public domain]

五賢帝の一人、『至高の皇帝』トラヤヌスも、コロッセオで数多くのイベントを開催した皇帝だ。彼は記録に残るだけでも3回の大規模なイベントがある。

  1. 107年:ダキア戦勝記念として10,000人の剣闘士(戦争捕虜か?)を戦わせる
  2. 109年:117日間の競技祭の1つとして、剣闘士試合を開催。11,000頭の猛獣と9,800人の剣闘士が命を落とす
  3. 113年:即位15年祭で3日間の間に2,400人の剣闘士を戦わせる

トラヤヌス帝は数多くの戦争に勝ったため、そのたびに戦勝祭を催した。そのイベントとしてコロッセオでの剣闘士試合が必要になったのだ。

コンモドゥス帝の『闘技参加』

ライオンの毛皮をかぶったコンモドゥス
コンモドゥス帝
カピトリーノ美術館 [Public domain]

最後に変わり種の皇帝を紹介しよう。五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝の後を継いだコンモドゥスは、剣闘士が大好きな皇帝だった。というより剣闘士オタクといったほうがいいかもしれない。

あまりにも剣闘士と剣闘試合を愛したため、彼自身が剣闘士になって戦った。そのため彼は『剣闘士皇帝』とあだ名されるようになる。

また彼は生涯にわたり1,000回もの剣闘試合を戦った。即位前に365回。そして即位後に635回。すべての試合をコロッセオで行ったかはわからないが、ゾウを含む何千頭もの猛獣を殺したようである。

コロッセオでの見世物の終焉

コンモドゥス帝の治世後も3世紀までは、コロッセオをはじめとして各地の円形闘技場で剣闘士の試合や猛獣狩りが見世物として行われていた。

しかし4世紀に入ると、公認されたキリスト教の影響もあり、闘技場での見世物は次第に制限を受けることとなる。そのはしりが、大帝と呼ばれたコンスタンティヌス1世だった。

コンスタンティヌス大帝

325年、コンスタンティヌス大帝は初めて見世物を好まない意志を示す。

犯罪者が剣闘試合で公開処刑されることは、古代ローマでよく行われた刑だった。ところがコンスタンティヌスは、ある裁判で決められた「剣闘士試合に出場させる」判決の代わりに、鉱山での強制労働を科すことに決めたのだ。

ただしコンスタンティヌス大帝の時代は、まだ剣闘士の試合に対する市民の一般的な感情に、それほど影響を与えなかったようである。

ホノリウス帝

ところが徐々に剣闘士の試合にも影響がで始めた。

365年には、キリスト教徒を剣闘士の訓練所に入れることが禁止される。そして404年、ホノリウス帝によって、ついに剣闘士の試合が廃止されたのだった。

見世物終焉

ただし剣闘士の試合自体が、すぐになくなったわけではなかった。しかし5世紀の中頃には剣闘士の試合が開催されなくなる。

この頃、443年、470年と立て続けに大きな自信がローマを襲い、コロッセオが一部壊れたらしい。しかしまだコロッセオが修復されたという記録は残っている。

そして6世紀半ばになると、猛獣狩りも廃止される。見世物を開催した競技場のコロッセオは、ついにその役目を終えることになった。

ローマ帝国後のコロッセオ

476年、西ローマ帝国はロムルス・アウグストゥスの退位をもって消滅することになった。では西ローマ帝国滅亡後のコロッセオは、どうなっていったのだろうか。

下記のサイトを参考に、コロッセオのその後の歴史を紐解いてみよう。

5世紀ごろのコロッセオ

443年や470年の地震により、コロッセオが壊れたときに修復されたことはすでに述べた。おそらくこの頃になると、剣闘士の試合も1世紀や2世紀頃と比べ、激減していたのではないかと考えられる。

また5世紀中頃から、コロッセオの石や金属が度々持ち出され、再利用されていた。

住居として使用される

801年、847年の地震でコロッセオはさらに損傷する。この頃(9世紀)に入るとコロッセオがなぜ建てられたのか、ローマの住人さえ誰も知らなかった。では一体何に使われたのか。

実はコロッセオは一種のアパートメント、つまり住居として使用されていたのだ。

1階から2階では、果樹園や小さな庭のある住まい、煙突なども設けられた。また住居利用の最盛期にあたる1,200年頃までに、次のような人々が住んでいる。

  • 鍛冶屋
  • 靴屋
  • 煉瓦工
  • 荷車職人
  • 石灰職人

要するに、コロッセオは職人街になっていたのだった。

要塞から闘牛場へ

ところが度々ローマが戦乱の舞台となるなかで、1,216年には要塞として使用されることになる。

さらに100年以上も後の1,332年には、闘牛が行われたと記録に残っている。これはこれで、闘技場の本来の使用目的に少し近づいたといえなくもないだろう。

コロッセオの『リサイクル』

ところがこの後もコロッセオの損傷は進んでいく。

1,231年には地震により南西壁の一部が倒壊。
さらに1,349年の地震で南側の外縁アーチが壊れてしまった。

これらの倒壊した石は、石材としてうってつけだったため、18世紀まで建築材料として利用され続けることになる。

これとは別に14世紀ごろ、コロッセオの内部にある大理石や石灰岩、凝灰岩などを採石する権利が、一部のものに与えられた。そして15世紀に入るとコロッセオの石はますます建物に転用される。1,451年から1,452年の1年間だけでも、荷車2,522台分の石が運ばれたようだ。

コロッセオの修繕

コロッセオの石のは少しずつ削り取られていったが、この流れが止まったのは18世紀に入ってからである。1,749年、当時の教皇がコロッセオの勝手な採石を禁じたのだ。またコロッセオの構造を把握するための調査が始まったのもこの時期である。

そして19世紀初頭に、本格的なコロッセオの修復がスタートする。まずは地下空間に溜まった土砂を除去すること。そして崩壊の恐れがある北東壁を最優先で修復すること。

20世紀にはムッソリーニによる「不正確な修復」により、改ざんされる「事故」はあったものの、第二次世界大戦終了後もコロッセオの修復は続けられることになる。

そして現代へ

1992年から2,000年までの修復で、ついにコロッセオ東半分の修復は完了した。コロッセオはイタリア、ローマの観光スポットとして、「闘技場」から「顔」の役割へと変化した。

そして2014年にはさらなる修復計画がもちあがる。その一環として、2021年現在コロッセオの木製床板を全面修復することが決まったようだ。

この工事は2年後の2,023年に完了するという。一部計画では有名な人力エレベーターも再現されるとのことだが、コロッセオがどうなっていくのか、今後も注目していくことにしよう。

コロッセオへのアクセス方法

コロッセオへのアクセスは比較的簡単だ。交通手段ごとにそれぞれの方法を記載しておくので、参考にしてほしい。

地下鉄B線

ローマの中心テルミニ駅より、ラウレンティーナ(Laurentina)方向に2駅「コロッセオ駅(Colosseo)」で下車。

路面電車「トラム」

ローマの路面電車「トラム」でもコロッセオにアクセス可能。トラム3系統にのり、「Colosseo(コロッセオ駅)」で下車するといいだろう。

バス

バスで行くなら、81番か85番に乗るといい。ただしバスは近づいてきたら降りる、というスタイルで慣れがいるので、Google Mapを確認するなどでうまく乗りこなしてほしい。

ATAC共通チケット

ローマの地下鉄、トラム、バスは共通のチケットになっていて、乗り換え自由だ。種類も一回券(100分有効)から24時間、48時間、72時間、1週間有効な5種類のチケットがあるので、あなたの目的にあったチケットを購入するといいだろう。

トレニタリア鉄道

フェウチミーノ空港からなら、トレニタリア鉄道でテルミニ駅まで向かうといいだろう。そこからは地下鉄B線に乗る方法でコロッセオまでアクセス可能だ。

コロッセオバーチャルツアー動画

最後に、コロナ禍でストレスが溜まっているあなたのために、コロッセオを歩いた気分になるバーチャルツアー動画を紹介しよう。

この動画はコロッセオの内部を1時間歩く、ただそれだけの動画だが、たっぷりとコロッセオを堪能できるはずだ。これまでの記事の内容を踏まえながら、ぜひコロッセオツアーを楽しんでほしい。

今回のまとめ

それではコロッセオについて、おさらいしよう。

  • コロッセオはローマ市民の見世物を行う場所である
  • コロッセオはネロの死後、ウェスパシアヌス帝によって建設が計画され、その子ティトゥス帝の代に完成した
  • コロッセオはローマ帝国一大きな円形闘技場で、5万人から8万人規模の観客を収容できる
  • コロッセオの内部は様々な仕掛けがあり、人力のエレベーターも設置されていた
  • コロッセオの観客席は、身分によって座席の位置が決まっていた
  • コロッセオの観客は様々なサービスを受けることができた
  • 歴代の皇帝たちはコロッセオで派手な催しを開催した
  • コロッセオは5世紀ごろから次第に使用されなくなり、中世以降は倒壊や石の再利用で大きく損傷することになった
  • コロッセオの本格的な修復は19世紀以降に行われた

かつて剣闘士たちがその腕を競っていた、ローマ帝国一の円形闘技場コロッセオ。もしあなたがコロッセオを訪れることがあれば、その歴史をじっくりと肌で感じ取っていただきたい。

本記事の参考図書

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