ネロ ―母からの自立を願い、芸術と娯楽を愛した民衆派皇帝―

死後も愛され続けた民衆派皇帝ネロ

ローマ皇帝ネロといえば、暴君の代名詞としてその名が知れ渡るぐらい有名な人物である。あなたも『ネロ』の名を一度は聞いたことがあるだろう。

母との近親相姦、キリスト教徒たちへの残酷な処刑、そしてローマ市民が逃げ惑う大火事を、楽器片手に展望台から眺め、恍惚とした表情を浮かべる姿。

このようなネロの逸話はスキャンダラスだが、果たして本当の彼の姿を映し出しているのだろうか。また逸話として語られるネロの人物像は、一体どこから影響を受けたものなのだろうか。

この記事ではネロが良くも悪くも大きな影響を受けた母の存在を軸として、皇帝ネロの行った所業が彼と彼の周りにどのような影響を与え、またネロがなぜ悲劇的な運命をたどらなければならなかったのかを描こうと考えている。

今までイメージしていたあなたのネロ像に、この記事を読むことで新たな一面を加えることができたなら、望外の喜びだ。

ルキウス誕生と母アグリッピナの苦難

ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス(後のネロ)誕生

西暦37年12月15日、ローマ近郊の街アンティウムでルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス(後の皇帝ネロ)は誕生した。

ルキウスの母はアグリッピナ。2代皇帝ティベリウスの弟ドルススの子、つまりティベリウスの甥に当たるゲルマニクスの娘だ。彼女の母もアグリッピナという名のため、小アグリッピナとも呼ばれている。

アグリッピナの彫像
アグリッピナ
ワルシャワ国立美術館, CC0

一方ルキウスの父はグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス。初代皇帝アウグストゥスの姉オクタウィアと、クレオパトラとの恋仲で有名なアントニウスの間に生まれた大アントニアを母に持つという、皇帝家につながる由緒正しき家系の出だった。

ネロの家系図
ルキウス(ネロ)の家系図

しかしドミティウスは暴力沙汰や詐欺を働く不良息子。ティベリウス帝治世末期には、皇帝への反逆罪や姦通罪で告訴されている。もっとも告訴後間もなくティベリウスが死んだため、次の皇帝カリグラの恩赦により命拾いをしたのだが。

さてドミティウスに息子が生まれると、子どもの誕生を友人から祝福されて、こう答えたという。

自分とアグリッピナの間に生まれるとは、まるでかわいげのない、国に災いをもたらすような奴に違いない

39年、ドミティウスは若くして死んでしまう。夫に先立たれたアグリッピナは、ひとり息子を女手で育てなければならなくなってしまった。

母子の離別と再開

ところが夫が死んだ直後、アグリッピナは兄であり皇帝でもあるカリグラに、陰謀や姦通を疑われてローマ市から追放されてしまう。息子ルキウスは叔母ドミティア・レピダに引き取られた。カリグラについてはカリグラ ―両親からアウグストゥスの血統を受け継いだ貴公子皇帝―で記載しているので、詳しく知りたい方は参考にするといいだろう。

この兄も41年には近衛兵に暗殺される。次の皇帝には、カリグラやアグリッピナにとって叔父にあたるクラウディウスが即位した。アグリッピナはようやくローマ市への帰還を許され、ネロと再開を果たすことができたのである。

その後アグリッピナは執政官を経験した男性と結婚するが、この男性も48年には亡くなる。しかし夫にはそれなりの財産があったので、アグリッピナは彼の遺産で自分の暮らしと息子の養育をすることができた。

執政官(コンスル)

ローマ国家の公職の一つ。共和政までは軍事と政治の最高責任者だったが、帝政に入ると職権は皇帝に与えられるようになった。

しかし手に入れた財産で、息子と一緒に余生を静かに過ごす考えを、アグリッピナは持ち合わせていない。彼女には2つの野望があったのだ。一つは自分が皇帝の后になること。そしてもう一つが息子を次の皇帝に即位させることだった。

皇帝クラウディウスと妻メッサリナ

クラウディウス帝の彫像
クラウディウス帝
国立考古学博物館 (イタリア), CC BY 2.5  

ここで皇帝クラウディウスについて説明しておこう。クラウディウスは前述したように、カリグラが暗殺された後、近衛兵たちに推挙され皇帝となった。彼には軽度の身体的障害があったらしく、その影響で政治家として生きるより、歴史家としての人生を歩むつもりだったらしい。

ところが運命の悪戯か、クラウディウスは50歳にして皇帝になってしまった。当初心配されていた統治能力も、蓋を開ければ前任者が破綻させた財政を立て直し、また元老院に新しいを血を入れるなどの改革も行い、皇帝として有能な一面を見せる。

ところが私生活、特に結婚相手には恵まれなかったようだ。彼は即位当時、すでに3人目の女性と結婚していた。彼女の名はメッサリナ。母子の離別と再開で紹介したドミティア・レピダの娘でもあった。

メッサリナとブリタンニクスの像
メッサリナとブリタンニクス
ルーヴル美術館, CC BY-SA 3.0  , ウィキメディア・コモンズ経由で

後に悪女や淫婦の代名詞となるメッサリナだが、実情は34歳もの年の差婚で性生活に満足できなかった彼女が、他の若い男で満たされたかっただけ、ということらしい。

事情はともあれ、メッサリナはクラウディウスという夫がいたにも関わらず、「恋人」ガイウス・シリウスと結婚してしまう。もちろんローマで二重婚は認められていない。メッサリナは、夫と皇帝暗殺を共謀した疑いで、処刑されてしまった。

ときは48年、アグリッピナが2番めの夫に先立たれた年でもあった。

アグリッピナ、皇帝の后に

メッサリナの裏切りで傷ついたであろう皇帝に、皇帝家の家人(解放奴隷)たちは再婚をすすめる。この候補の一人がアグリッピナだった。他にも候補は2人いた。

  • ロリア・パウリナ・・・カリグラの3番目の妻
  • アエリア・パエティナ・・・クラウディウス帝の2番めの妻

アグリッピナはこのとき33歳の未亡人。血統では他の候補者よりも抜きんでているとはいえ、子持ちで若くもないアグリッピナでは花嫁競争に勝てないかと思われた。だが他の候補者たちよりも積極的に動き、見事皇帝の心を射止めることに成功したのである。

ところがクラウディウスとアグリッピナの結婚には、もう一つ障害が残っていた。ローマ法では、いとこ同士の結婚は認められていたが、叔父と姪の結婚は認められていなかった。

そこで皇帝の側近議員たちは、ここに抜け穴を作るために次の法律を成立させる。

  • 「兄弟の娘」との婚姻は合法
  • 「姉や妹の娘」との婚姻は違法

なんともはや無理矢理感が漂っているが、ともあれアグリッピナは晴れて皇后の座を手に入れたのである。しかしアグリッピナにとって皇后の椅子は、野望の第一歩でしかなかった。

「ルキウス」から「ネロ」へ

アグリッピナの究極の目標は、息子ルキウスを皇帝に即位させ、母として権力を握ること。ところがクラウディウスには、幼いとはいえ一人息子のブリタニクスがいた。このままでは連れ子にしか過ぎないルキウスは、皇帝候補にもなることはできない。

そこでアグリッピナは、クラウディウスの娘オクタウィアを、我が子ルキウスと婚約させることにしたのである。しかしオクタウィアにはすでに婚約者が決まっていた。そこでアグリッピナは、オクタウィアの婚約者が実の妹と近親相姦を犯していると皇帝に告げ、自殺に追い込んだのである。

こうしてルキウスとオクタウィア・クラウディアの婚約は成立した。ただしこのままでは、まだ息子は皇帝候補の一人にしか過ぎず、以前第一候補はブリタニクスだった。

そこでアグリッピナは、財務長官パッラスの力を借り、息子ルキウスを養子にするよう説得したのである。

パッラス

クラウディウス帝の下で異例の出世を遂げた、皇帝家の解放奴隷。アグリッピナとは政治的な繋がりを持っていた。

パッラスからの口添えもあったことで、クラウディウスはルキウスを正式に養子する。ルキウス、このとき13歳。彼はクラウディウス氏族の添え名「ネロ」を与えられた。ここに真の意味でネロは誕生したのだった。

ネロ養子のアグリッピナ策謀説は本当?

ネロの養子縁組成立は、アグリッピナが数々の策謀を巡らせたため、「仕方なく」クラウディウス帝が行った、と歴史家スエトニウスは記述している。

しかし実際はメッサリナの陰謀後、クラウディウスが「クラウディウス氏族」の血筋のみを継承し、アウグストゥスの「ユリウス氏族」を継いでいないことに弱い立場を自覚したのではないか。さらにブリタニクスが若年のため、彼に皇帝を継がせると元老位内部で「クラウディウス派」と「ユリウス派」に分かれて争いが起こることを懸念した、という見方もある。

そこで数少ない、いや唯一アウグストゥス一族の血を、父からも母からも受け継ぐネロを養子とすることで、「クラウディウス氏族」と「ユリウス氏族」の融合を図った可能性もあるのだ。

皇帝クラウディウスの死

51年、ネロは13歳で元老院より『プロコンスル命令権』を与えられた。

プロコンスル命令権

『命令権』とは、軍事・行政・司法にまで及ぶ、包括的な権限。もともと共和政時代に執政官や法務官などの政務官職に与えられ、遠征先の将軍として活動するときや、総督として属州を治めるために必要な権限だった。また、『プロコンスル』とは『前執政官』の意味で、執政官職を経験したものに与えられ、法務官職経験者(プロプラエトル)よりも命令権の格(優先順位)は上になる。

また20歳になったら、執政官に就任できる権利まで手に入れたのである。

さらにアグリッピナは、ネロの教育係にコルシカ島へ追放されていたストア派の哲学者セネカを希望した。ネロはセネカに習い、雄弁術や学識を身につけていった。

そして54年、アグリッピナはついに決断する。ネロを即位させるため、皇帝を暗殺する、ということを。彼女はこのときのために、事前の準備を怠らなかった。近衛隊長官の一人を解任し盟友ブッルスをその地位につけることに成功していた。また毒の専門家ロクスタ、毒見役ハロトゥス、皇帝付き医師クテシフォンを、「その時」のために味方につけていたのである。

10月12日夜、アグリッピナはハロトゥスに、極上のきのこの上に毒を振りかけさせ、皇帝に食べさせたのである。もちろん毒の調合はロクスタが行っていた。美食に目のない皇帝はきのこを狙い通り口にしたが、腹痛のため嘔吐しようとしたのである。

そこでやむなく嘔吐を促す鳥の羽を、医師のクテシフォンが皇帝の口に突っ込んだ。ただしその羽根の先に毒をたっぷりと塗り込んで。

こうして皇帝クラウディウスは亡くなった。アグリッピナは死んだ皇帝を抱きしめ悲嘆にくれる妻を演じつつ、息子を近衛隊長官とともに、近衛兵の兵舎に送り込んだのである。近衛兵たちがネロを皇帝に推挙すれば、元老院は認めざるを得ないことを知っていたからだ。

54年10月13日、ついにアグリッピナはネロを皇帝に即位させたのである。16歳での即位は、164年後の218年にヘリオガバルス(エラガバルス)が14歳で即位するまで、最年少記録だった。

ネロ、皇帝になる

黄金の5年間「クインクエンニウム」

暴君の印象が強いネロだが、以外にも治世スタートから5年間は善政といえた。実際五賢帝の一人であり、至高の皇帝トラヤヌスから素晴らしい統治だったと称賛されている。この5年間はトラヤヌスによって『黄金の5年間(クインクエンニウム)』と呼ばれた。

では一体なにが素晴らしかったのだろうか。ネロは、先帝クラウディウスが行った評判の悪い次の3点の政策を正したのである。

皇帝裁判の自粛

皇帝裁判とは、皇帝を裁判長として裁かれる裁判のこと。皇帝の胸一つで判決が決まってしまうため、皇帝にとって都合の悪い人物を簡単に排除することができたのである。1例を除き、ネロは5年間で皇帝裁判を起こすことはなかった。

皇帝官房の影響力排除

皇帝の権限が増えると、皇帝家で行う処理がそのまま国政につながっていく。クラウディウスは家人の解放奴隷に任せていた。しかし元老院議員たちからすると、自分よりも身分の低いものが重要な処理を行い、権限も大きいことに不満を募らせるものだ。

クラウディウス帝の下で権力を握っていた解放奴隷たちを、ネロは極力排除していったのである。

元老院の権限拡充

またネロは皇帝のみの判断で政治を行うことはせず、元老院に様々な問題の審議を任せた。これで元老院議員たちが自由に問題を解決できたかどうかはともかく、ネロは元老院との協調路線を態度で示したのである。


もちろんネロが上記を単独で行うには、経験も知識も不足していた。ところが彼には優秀なアドバイザーがいたのである。

一人は家庭教師であり、哲学者のセネカ
もうひとりは片腕の近衛隊長官ブッルス

先帝時代に権勢を誇っていた人物たちの粛清も過度に陥らないよう、彼らはネロを巧みにコントロールした。ただし彼らはアグリッピナによってネロに用意された人材でもあったのだ。

慈悲深き皇帝

ネロとセネカ
ネロとセネカ
エドゥアルド・バロン, CC BY-SA 3.0  

ネロにとって、特に影響が大きかった人物はセネカ。彼は『ストイック』の語源となる『ストア派』の哲学者でもあった。

セネカはネロに対し、次のような教えを説いた。『仁慈について』では、暴君と慈悲にあふれる君主の違いを説明する。また、『怒りついて』では、人間は周りの人に流されやすいから、付き合う人を選ぶ大切さを教えている。

セネカの影響か、こんな逸話がある。

徴税請負人たちの過剰な取り立てに対し、民衆はたまらず皇帝ネロに苦情を訴えた。彼は民衆に同情し間接税の廃止を言い渡す。ところが間接税を廃止すれば帝国の収入は激減し、運営が立ち行かなくなってしまう。元首顧問会(皇帝の判断を助けるための、法律の専門家や選抜された元老院議員の集まり)のメンバーに反対され撤回したのだった。

ネロの判断は未熟ではあったが、それだけに民衆を思う気持ちが素直にでていたと言ってもいいだろう。これ以降、税制の透明化が進み、不均衡を正す減税措置が施されたようだ。

またブッルスが慣例に従って死刑執行命令書への最終署名を求めたとき、ネロはこう言ったという。

文字を知らなければよかったのに

これも若いネロの、純粋な心情が垣間見えるエピソードである。

母の過剰な干渉

一方ネロの母アグリッピナは、なにかと息子のやり方に口を挟む。もちろん『黄金の5年間』を準備したのはアグリッピナである。しかし古代ローマでは政治は男の仕事であり、女性が表舞台に出るなど考えられないことだった。

それでもネロの皇帝即位に対する功労者だからと、ネロの側近たちは一歩譲った態度を示す。元老院議会を、皇帝のいるパラティウム宮殿で開かせ、ドアに幕を垂らした背後で審議の様子を聞かせるよう指示したのはアグリッピナだろう。

ただし行き過ぎた真似は、ローマの権威が失墜するため禁物だ。

ネロがアルメニアの使者を謁見したとき、アグリッピナが当たり前のように皇帝の座る高壇に近づこうとしたことがある。流石にまずいため、セネカが機転を利かせてネロに母を出迎えさせることで、高壇に上がることを防いだのだった。

統治当初は従順だったネロも、次第に母から自立をするため、何かとアグリッピナに反発するようになっていった。

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