ミトラ教(ミトラス教ともいう)とは、古代ローマで流行した太陽神ミトラ(ミトラス)を崇拝する密儀宗教である。
密儀、つまり信者は教義や儀式などの内容を誰かに言うことを禁じられていたため、ミトラ教に関する文献も残っておらず、内容は不明なことが多い。
この謎多きミトラ教が、一体なぜローマ帝国で盛んに信仰されていたのだろうか。
この記事では
- ミトラ教はいつごろ、どこで成立し
- 古代ローマにどのように伝わり
- どんな教えがあって、どのような場所で儀式をされていたのか
を、現在の考古学資料や研究結果から、わかる限り書いていく。
ミトラ教のことが、少しでもあなたの理解の助けになれば、幸いだ。
ミトラ教の起源と歴史
古代インド・イランのミトラ(ミスラ)神
ミトラ教はいつ、どこで生まれたのか。
その起源は、古代インドの聖典『ヴェーダ』、古代イランのゾロアスター教聖典『アヴェスタ』のどちらにも登場するミトラ(ミスラ)神にまでさかのぼることができる。
古代インド神話のミトラ神
『ヴェーダ』の中でミトラ神は、ヴァルナとともにいた2大神の一つであり、天の光の精霊、つまり太陽神のような存在だった。
インド神話に登場する神々は、後期青銅器時代(前16~12世紀)に隆盛したヒッタイトやミタンニの人々にも崇拝されていたことが、楔形文字により記録されている。
ゾロアスター教のミスラ神
一方『アヴェスタ』に登場するミスラ神は、戦神や契約、さらに日の出の神として現れる。
インド・ヨーロッパ語族の神として生まれたミトラ神の語源『メイ』には、『契約』や『交換』の意味があったからだ。
これら2つの聖典によるミトラ(ミスラ)神の性格が、のちのミトラ教の神ミトラ神の性格に影響を及ぼしたと考えられる。
アケメネス朝ペルシア時代のミトラ神
アケメネス朝ペルシア(前5世紀ごろ)の時代になると、ペルシアで信仰されていたゾロアスター教に宗教改革が起こり、ミトラ神は最高神アフラ・マズダーを助け保護する神のひとりとなった。
このように序列が下がったミトラ神だが、その人気は衰えなかった。その証拠にアルタクセルクセス2世(在位前404年~前359年)は、アフラ・マズダーとともにミトラ神を王の守護神としている。
また、アケメネス朝ペルシアの時代になると、ミトラ神には
- 戦士たちの保護者
- 勝利の神の相棒
- 正義・廉直
- 富・豊穣
- 天国への水先案内人
といった性格も加えられた。
戦士たちの保護者となったのは、ペルシア帝国が成立する前に、イラン地方で抗争が絶え間なく続いたことが原因のようだ。
また昼と夜の戦いという古くからの概念が、「戦いや勝利」の考え方に影響を及ぼした可能性もあるらしい。
ヘレニズム時代のミトラ教
長い歴史のなかで徐々に性格を変えていったミトラ神とその信仰は、ギリシア人(性格にはマケドニア人)アレクサンドロス大王による東方遠征の結果、ギリシア文化と融合して小アジア(アナトリア半島)へと広がっていく。
このミトラ教普及は、小アジアに進出したマゴイ(マギ)僧(ゾロアスター教などの東方宗教の僧)たちの影響があった。
ミトラ教が広まることで、小アジアにすむ一般人にもギリシア語化した「ミトラス」の名前を持つものが現れる。例えばポントスの王には、「ミトリダテス」の名が付く王が何人もいた。
さらに小アジアとその周辺にある、カッパドキア、ポントス、コマゲネ、アルメニアの王家では、ミトラ神は守護神だったのである。
しかし、この頃のミトラ教は、後にローマに広まる密儀をともなったミトラ教とは異なるものだったらしい。ではローマで信仰されたミトラ教は、いつ成立し、どのように広まったのだろうか。
ミトラ教の成立とローマへの広がり
ミトラ教成立からローマへの移動
密儀化されたミトラ教の成立は、どうやら前1世紀ごろ、小アジアでのことだったらしい。その根拠となる史料が、プルタルコス『英雄伝』のポンペイウス伝にある。
彼らはリュキアのオリュンポス山に風変わりな奉納物を運び、ある秘密の祭儀を執り行った。それは今でもミトラス神(ミトラ神)の宗門のなかに見られるものであるが、最初は彼らによって知られるようになった
ローマ帝国の神々 光はオリエントより 7 ミトラス教――イラン起源の神
この引用に出てくる『彼ら』とは、キリキア(小アジア南部)の海賊たちのことである。当時、海賊たちはポントス王ミトリダテス6世エウパトルと結びつき、ローマに対して略奪行為を働いていた。
つまりキリキアの海賊たちはミトラ教を信仰しており、そればかりではなく、密儀をともなうミトラ教を拠り所として団結していたと思われる。
では一体誰が海賊たちに、ミトラ教を教えたのか。
タルソスの知識人による活動
答えはキリキアの首都タルソスの知識人たち、その中でもストア派の哲学者たちの活動によると言われている。
しばしば「禁欲主義」とも言われる哲学の学派だが、本来は「欲望に打ち勝ち、自然に生きる」ことを理想とする考え方。
古代ローマで有名なストア派の哲学者に、ネロの家庭教師や助言役を務めたセネカや、『自省録』を残した五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝がいる。
また『ストイック』はストア派哲学が語源。
どうやら崇拝されていたペルセウスが天文現象と結びつき、ミトラ教の教義(牡牛を殺すミトラ神が新時代をもたらす)が形成され、ミトラ教が成立したようなのだ。
そしてキリキアを根城とする海賊たちに、ミトラ教が取り入れられ、彼らの活動の精神的支柱と団結の要になっていったのである。
ミトラ教のローマへの移動
ではミトラ教はどのようにローマへと伝わったのか。これには2つのルートが考えられている。
ルート1:コマゲネ人ミトラ信者によるローマ市移住
1つ目は、小アジアにあった王国の一つ、コマゲネの一ミトラス信者がキリキアの海賊たちに接触し、ローマ市へと移住し密儀を伝えた可能性。
ローマ市では100を超えるミトラ教の出土品があるので、彼がローマでの教祖となった説が唱えられてる。
ルート2:海賊のイタリア入植
2つ目は、イタリアに入植した海賊たちにより、ミトラス密儀が伝わった可能性。
ポンペイウスはキリキアの海賊たちを掃討することに成功したが、掃討した彼らをイタリア南部のアプリア地方に入植させたのである。
とはいえ、これらの説も「小アジアからのミトラ教の出土品が驚くほど少ない」という問題を抱えており、決定的な裏付けがあるわけではないので、あくまで一説にすぎない。
その他の説としては、ローマ市でのミトラ教にまつわる出土品が多いことから、一宗教的天才によるローマ市での創始説もある。
いずれにしても、今後の考古学的状況の進展に期待したい。
ミトラ教、ローマ各地に広まる
それではミトラ教の成立後、ローマでどのように広まっていったのかを見ていこう。
ミトラ教を広めたのは、次の人々だった。
- 軍隊や兵士たち
- 商人
- 奴隷や解放奴隷
アケメネス朝ペルシア時代のミトラ神でも記載したように、ミトラ神は戦士の保護者や勝利の神という性質があったため、軍隊関係者に人気が高かった。
その証拠に、ミトラ信仰の証拠となる遺物(遺跡から出土する品)は、軍団の配置された国境沿いからのものが圧倒的に多いのである。
軍による伝播の経路は、次の3つ。
1. 下士官(百人隊長)から部下へ
軍団兵から昇進した百人隊長は、しばしば遠方へ配置換えを言い渡されることがあった。
仮にこの隊長がミトラ信仰の盛んな地域から来た場合、彼から兵士たちに伝えられる可能性は高いだろう。
2. 部隊による配置換え
軍の中でも、ローマ市民からなる正規軍団(レギオ)ではなく、外国人などの非ローマ市民からなる補助軍(アウクシリア)は、しばしば軍団ごと配置換えが行われた。
もし彼らが、例えばコマゲネやトルコ南西部のような、ミトラ教が根付いた地域から配置換えをされたら、他の兵士たちに伝えることがあったはずだ。
3. 戦争や退役による植民政策
ローマでは、征服した地域に兵士たちを入植させることもしばしば行われた。それも、ある一定の地方からではなく、あらゆる地域の人々を入植させる。
例えば入植した人々の一部が母国でミトラ教を崇拝していたら、他の人々にも伝わることがあっただろう。
また兵役を終えた兵士たちは、しばしば国境に近い都市へと入植した。この兵士がミトラ教を信仰していたら、彼から都市の住人たちに広まることもあったはずだ。
ミトラ信仰を広めた担い手として、商人のちからも無視することはできない。
当時は、陸路より水路(海路や河川)の運搬コストが圧倒的に低かったので、商人たちは、港町や河川沿いの町に交易拠点を築いていった。
その拠点は、ローマ市以外だと次のような町である。
ローマ近郊 | オスティア、プテオリ |
---|---|
イタリア | ラウェンナ、アクィレイア、テルゲステ |
アドリア海沿岸 | ダルマティア、サロナ |
スペイン | マラガ |
ドナウ川沿岸 | シルミウム(パンノニア) |
ガリア(フランス) | リオン |
ギリシア | デロス島 |
これらの町に、信仰が盛んな地域から来た商人が、ミトラ教を持ち込んだとしても、不思議ではないだろう。
軍団兵や商人以外の担い手として、奴隷や解放奴隷があげられる。彼らは次のような人たちだった。
1. 商品や戦争捕虜としての奴隷
奴隷商人が個別にあつかう奴隷のほかに、大きな戦争によって大量の戦争捕虜が生まれた場合、帝国各地に奴隷が供給される可能性が高くなる。
ローマ帝政初期から中期に起こった次のような戦争が、その例だ。
- 第1次ユダヤ戦争(66年~73年)
- 第2次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱、132年~135年)
- パルティアとの戦争(断続的なため、特定できず)
この戦争でローマに敗れ捕虜になった人々が、帝国にミトラ教を広めた。
2. 行政官の従者としての公有奴隷や解放奴隷
もうひとつが、帝国各地に派遣される行政官に付き従った奴隷たちの存在だ。
ミトラ教は軍関係者や兵士の人気も高かったが、社会的地位の低い奴隷や解放奴隷にも支持されていたのである。
ミトラ教を信仰する彼ら奴隷たちが行政官に従い、属州などの行政の中心地に赴くことで、その都市に伝えられた可能性が高い。
なおローマの奴隷については、古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―に詳しくまとめているので、奴隷全般を知りたい方は参考にしてもらうといいだろう。
ミトラ教の神話
ではローマに広まったミトラ教には、どんな神話があったのだろうか。
冒頭で書いたことを繰り返すが、ミトラ教は密儀宗教のため、信者から教えを口外されることは一切なかった。また経典、聖典などの文献資料も存在しないため、その実情を知ることは基本的にできない。
ただし、各地で出土する図像資料から推測できるので、それらをもとにミトラ神話を組み立ててみよう。
ミトラ神物語
ミトラ神が登場する以前は、大きく分けて2つの時代がある。
まずローマ神話にも登場するサトゥルヌスの時代。混沌で満たされた原初のじだいに、時間の神サトゥルヌスが天地を創造した。さらに次のユピテルの時代では、最高神ユピテルが自分の父の手下である巨人族を退治する。
ユピテルの時代が過ぎ去ると、ようやくミトラの時代が到来する。
ミトラ神は洞窟世界の天井、天蓋である岩盤から生まれた。彼は、地面から泉を湧き出させたり果実を実らせたりして、恩恵を世界に広めていく。
弓矢で武装したミトラ神は、さらなる豊穣を世界にもたらすため、天の牛を犠牲獣として捧げることを決意。
彼は最後に牛を捕らえると洞窟に連れていき、肩口に短剣を突き刺して牛を殺す。天牛から流れ出た血に犬や蛇が飛びつき、その血や牛の尾が麦の穂に変わって世界は豊穣の時を迎える。
牛が死んだあと、太陽神が地上に舞い降り、ミトラ神と契約を結び握手を交わす。これにより、ミトラ神は太陽神の性質を取り込むことになる。
さらに彼らは、殺した牡牛の肉とぶどう酒を食すため、共同の食卓につく。
最後にミトラ神は、太陽神の戦車に乗って昇天を果たす。
以上が神話の内容である。
また図像では、周りに太陽や月、黄道十二宮が施された洞窟のなかで牛殺しが行われている。
このことから、ミトラ神話は洞窟=宇宙が舞台であり、宇宙的規模で行われたと考えられている。
ミトラ教に登場するその他の神々
ミトラ神の牡牛殺しの図像で、左右に描かれている人物。この2人がカウテスとカウトパテスという神である。
どちらもフリュギア帽をかぶり、松明を持っている姿は同じ。ただしカウテスは上向きの松明を持ち、カウトパテスは下向きの松明をもっている。
これは、カウテスが日の出を表し、カウトパテスが日没を表すと考えられる。
ミトラ神の牛殺しの図像には直接描かれていないが、神殿内で時々出土する彫像や、壁画に描かれているものがある。それが獅子を頭に持ち、直立した胴体に蛇を巻きつけた神、獅子頭神だ。
獅子頭神は、ミトラ教に関連する碑文にも名が現れないため、その正体は不明だ。しかし、現在では次の2つの説がある。
- ゾロアスター教のズルヴァン神が由来で、永遠の時間を表す神
- 同じくゾロアスター教の悪神アンラ・マンユが由来の悪(魔)神
(1)であれば、ミトラ神の物語が永遠時間のなか行われる象徴となる。
(2)ならミトラ神と太陽神の敵、いわばラスボス的な存在か、それ自体が崇拝の対象(悪魔崇拝)とされていたというところだろうか。
この神の存在も、今後のあらたな発見で大きく変わるかもしれない。
ミトラ教の信者と儀式
どのような人が入信したのか
ミトラ教、ローマ各地に広まるでも書いたとおり、ミトラ教は兵士などの軍関係者の他に、奴隷や解放奴隷、社会の比較的低階層にいる人々に人気が高かった。つまり彼らを中心としたものたちが、信者となったわけである。
ミトラ神のかぶるフリュギア帽が、解放奴隷を象徴するように、奴隷たちにとっては解放の象徴だったのかもしれない。
また、このあと信者の階級でも説明するが、ミトラ教には階級(位階)制度、ようするにレベルアップ要素があったため、上昇志向(意識高い系)の強い解放奴隷なども、同じく現世の疑似体験ができるミトラ教に魅力を感じていたように感じられる。
ちなみに一部の例外を除き、ミトラ教に女性は入信できなかった。
入信儀式
ミトラ教に入信するには、厳しい儀式が待っていた。
まず入信の前に、希望者はミトラ教の奥義を誰にも口外しないという誓約を行わなければならない。
- その後も服をすべて脱がされ、目隠しをされて、剣をかざされる
- 儀礼的ではあるが、自分の身に埋葬が行われる
- さらに鶏の腸でつくった紐で縛り上げられ、それを剣で断ち切られる
といったような儀式をおこなったあと、入信することができたという。中には入れ墨や、焼きゴテで烙印を押されたこともあったようだ。
信者の階級
入信後、信者は互いのことを「兄弟」と呼びあった。さらに信者は7つの階級のいずれかに属した。
比較的ミトラ教関連の出土が多いオスティア・アンティカの遺跡で、各階級のモザイク画が発見されたことでも証明されている。
なお、この階級に所属するルールや昇位の仕方、いわゆるレベルアップ方法は不明である。
それでは各位階について説明していこう。
シンボル | 収穫用の鋏(はさみ)、フリュギア帽子、錫杖、指輪 |
---|---|
守護神 | サトゥルヌス(土星) |
ミトラ教の最高位。彼らが儀式や昇進を執り行い、入信者への責任を負った。
ちなみにローマ市では、さらに「父中の父」という、より上位階層があったようだが、単に信者の人数が多いために、管理をしやすい「大司教的」な人物が用意されたのだろう。
シンボル | 光背、松明、鞭 |
---|---|
守護神 | ソル(太陽) |
「父(パテル)」の次に高い、第2の位階。おそらく「父」の補佐的役割を果たしていた。
シンボル | フリュギア帽、鋏(はさみ)、鎌(かま) |
---|---|
守護神 | ルナ(月) |
第3の位。ペルシア人の位階のものにハチミツが授けられるとき、彼には果実の守護者として力がある、と信じられていた。そこから、収穫の守護者としての意味合いがあったようだ。
シンボル | 雷、燃料用の受け皿、楽器シストルム(振鈴) |
---|---|
守護神 | ユピテル(木星) |
第4の位。獅子はミトラ神とともに狩りに出る重要な存在だった。
獅子の位のものは、両手を清めるためハチミツを注がれる。なぜ水ではなくハチミツだったのかというと、獅子はシンボルに火を持っていたので、火を打ち消す水は避けられたからだという。
また、ある獅子の位にある入信者の中には、
蜂蜜を注いで清められた(メルクリスス)
という名前を持ってたものもいた。
シンボル | 槍、兜、背嚢(リュックサック) |
---|---|
守護神 | マルス(火星) |
第5位の兵士は、ミトラス神に仕えて悪の勢力と戦う忠実な戦士たちを象徴する。北欧神話でいえば、ラグナロクに備える戦士たちに例えられるだろう。
兵士の位に入信するものは、剣の先端に吊るした花輪を授けられたが、信徒はそれを払い除け、ミトラス神に忠誠を誓うことで、入信を認められたとのことだ。
シンボル | 松明、冠、ランプ |
---|---|
守護神 | ウェヌス(金星) |
第6位は「花嫁」となっているが、どのような人が入信したのかでも書いたとおり男性しか入信できなかったため、もちろんこの位には男性が所属する。
花嫁とはおそら象徴であり、ミトラス神との盟約を交わす意味が込められていると思われる。
シンボル | 酒杯、杖(カドゥケウス) |
---|---|
守護神 | メルクリウス(水星) |
第7位、つまり最下位に位置するカラスは、神々の使者メルクリウスの代理としての役割があるらしい。
また儀式に出席するとき、信者は大鴉の面をかぶったようだ。
日々の儀式と祭儀
まず信者たちは一日の仕事を終えると、身を清めてからミトラ神殿に集まった。そして教義(キリスト教の説教のようなもの)が説かれ、食事儀礼を行う。
この食事儀礼は2種類あったとも3種類あったともいわれているが、はっきりしたことはわからない。
おそらく牛殺しの象徴として、パンを牛の肉に見立て、ぶどう酒を牛の血に見立てて、全員で聖なる晩餐を行ったようだ。
ところで牛を殺して神に捧げる供犠の儀式は、実際に神殿内では行われなかったようである。
なぜなら牛を殺すようなスペースが神殿内に確保できるほど、神殿は広くなかったからだ。
また、ミトラ教にとって、春分や秋分、夏至、冬至に行われる儀式は最も重要なイベントだった。春分には新しい神殿がオープンしたり、冬至にはミトラ神の誕生が祝われた。
この冬至のミトラ神誕生イベントが、今日まで残るクリスマスの起源とする説もある。
儀式は、おそらく『父』の位階のものが祭司を務めていた。彼(ら)を中心として、食事の用意やミトラ神話、教義などが信者たちに供給されていたと思われる。
ただし私的に疑問なのが、これらの儀式に伴う費用は誰が捻出していたのか、ということ。
後々になってローマ皇帝の援助が見られるが、それまでは巨大なパトロンの存在があったのか、信者たちの自主的な寄進によって、保たれていたのだろうか。
ミトラ教の神殿
神殿の様子
ではミトラ教の儀式を行ったり、信者が集まる神殿は、どのようなものだったのか。
ミトラ教は、成立以前に影響を受けたゾロアスター教が、もともと自然洞窟で儀礼や教義の実践を行っていたので、ミトラ教の神殿もこの洞窟を模倣する形で形作られたという。
実はミトラ教がローマに伝わった当初は、財力の関係から一般人の家を改造して神殿の代わりに使っていた時期もあった。
ただしそれは一時的なことであり、次第にミトラ教が広まるに連れ、信者のなかでも資金力のあるものが、すべての費用を捻出して、神殿を建立したようである。
神殿の規模・建築の様子
次に神殿の規模や構造を見てみよう。
ミトラ神殿の定員は、1神殿あたり最高で40人程度の収容人数であり、50人も入れるものは例外だった。通常では20人程度で使用していたようだ。
ではミトラ神殿はどのようなつくりをしていたか。
作られた地方や時代によって多少の違いはあるものの、ミトラ神殿はだいたい次のような作りになっている。
まず神殿は半地下形式になっており、地上階から階段を降りて神殿内部へと入る作りになっていた。
上記平面図に対応させると、各部屋や通路は次の通り。
記号 | 部屋の種類 | 説明 |
---|---|---|
A | 前庭 | 列柱に囲まれた前庭と前室 |
B | 階段入口 | 地下へ降りる階段 |
C | 聖具室 | 儀式に使う聖具の保管場所 |
D | 前室 | 聖所へと向かう踊り場 |
E | 側廊の腰掛 | 参列者の儀式待合室。 ひざまずいたり、横たわったりする場所 |
F | 祭式執行者用の内陣 | 儀式を行う場所 |
G | 後陣 | ミトラの像やその他の聖像が収められた部屋 ミトラの前には聖火の燃える祭壇あり |
このような場所で、ミトラの密儀は行われていたのである。
ミトラ教と皇帝たちの関係
ミトラ教は1世紀ごろからローマに広まっていった。その後ミトラ教と直接の関係をもつ皇帝が現れるのは、アントニヌス朝最後の皇帝、コンモドゥス帝のころからだ。
では各時代の皇帝とミトラ教とは、どんな関係だったのだろうか。
コンモドゥス帝
史書『ヒストリア・アウグスタ』によると、コンモドゥス帝(在位180~192年)はミトラ教に入信したらしい。
しかし同史書の信憑性や、他の文献に記述がないことから、入信していないか、もしくはしていたとしても1私人としての行為だろうと、最近の研究者は結論づけている。
ただしコンモドゥス帝が、オスティアにある皇帝領の一部をミトラ教に寄進したことは、出土した碑文に書いてある。おそらく帝国で急速に拡大するミトラ教の勢いや、軍関係者に信者が多いことを考慮した行為だろう。
なお、コンモドゥス帝がどのような皇帝だったのか興味がある方は、コンモドゥス ―実の姉に命を狙われ、側近に政治を任せきりだった若き剣闘士皇帝―をご参照いただきたい。
セウェルス朝期の皇帝たち
セプティミウス・セウェルスによって建てられたセウェルス朝の時代には、宮廷の中にミトラ教の信者がいた。
ミトラ教研究者キュモンは、皇帝の住む宮殿の中に専用の祭司を持った証拠としているが、最近の研究ではおそらく一私人の行為に過ぎないとされている。
なおセウェルス朝の皇帝の一人、カラカラのことはカラカラ ―兄弟喧嘩を帝位に持ち込んだ心狭き皇帝―に詳しく記載しているので、興味のある方はご覧いただきたい。
軍人皇帝時代の皇帝たち
50年の間に70人もの皇帝が乱立する、3世紀の危機の時代、いわゆる軍人皇帝の時代に突入すると、太陽神(ソル・インウィクトゥス)信仰が盛んになる。
特に世界の修復者と言われるアウレリアヌス帝(在位270~275年)は、この太陽神をローマの一宗教として認め、厚く崇拝したために、それに伴ってミトラ教も隆盛を迎えたようだ。
テトラルキア期の皇帝たち
ディオクレティアヌスによって3世紀の危機が終焉を迎えると、4人の統治者によってローマ帝国を治める、いわゆるテトラルキアの時代が始まる。
その皇帝4人のうちの3人、
- ディオクレティアヌス
- ガレリウス
- マクシミアヌス
が、パンノニアのカルヌントゥム(現オーストリアのウィーン東方)で、この都市にあったミトラ神殿を復興。さらにミトラ神を
彼らの皇帝権力の保護者に
として奉納を行った。
ただし、この3皇帝がミトラ教に入信したかどうかは不明。
ミトラ教とキリスト教との関係
さて、同時期に興った一神教のキリスト教とミトラ教とは、どのような関係だったのだろう。
19世紀の思想家エルネスト・ルナンは、キリスト教とミトラ教の関係を次のように述べている。
もしキリスト教がなんらかの致命的疾患によってその成長過程で止められていたならば、世界はミトラス教化していただろう
<研究動向> ミトラス教研究の現在 井上文則著
上記は、当時ミトラ教をライバル視したキリスト教教父の発言や、キリスト教徒によるミトラ神殿の破壊に影響受けてのことだ。
しかし実際には密儀宗教的性格から、ミトラ教はキリスト教のような爆発的な信徒増加を見込めなかったのではないかと思う。
ミトラ教とキリスト教の違いをSNSで例えるなら、
- ミトラ教→クローズドSNS(Mixi)
- キリスト教→オープンSNS(FacebookやTwitterなど)
のような関係だろう(例えが古くて申し訳ない)。
両者はライバルというより、むしろ補完関係にあったような気がする。Mixiのように、見知ったもの同士で濃い関係性を築きたいときもあれば、Twitterのように自分のつぶやきを不特定多数に(この場合は神だろうが)聞いてほしいときもある。
実際ミトラ教は他の宗教に対して排他的ではなく、むしろミトラ教に入信しながらローマの伝統的神々を信仰するものも多数いたのだから。
ミトラ教の衰退
最後にミトラ教の衰退について書いていこう。
テトラルキア時代までのキリスト教徒迫害は、コンスタンティヌス1世が皇帝に就任し、キリスト教をローマ宗教として公認することでなくなった。これ以降、キリスト教徒の増加はローマ帝国で加速することになる。
これに対しミトラ教は、ローマ市や他の地域、さらにあれほど崇拝されていた軍団の駐屯地でも影をひそめていく。
さらにコンスタンティウス2世の時代になると、ローマ市やオスティアのミトラ神殿が、キリスト教徒によって襲撃され、ゲルマニアのミトラ神殿のいくつかは、キリスト教徒に破壊された。
このような運動も、ユリアヌスのローマの伝統宗教復活政策で歯止めがかかるかに思われた。しかし不運にも彼の治世が短命に終わったため、もはやローマ帝国のキリスト教化を止めることはできなくなったのだった。
そしてミトラ教は4世紀から5世紀ごろには、その姿を消すこととなった。
今回のまとめ
それではミトラ教について、おさらいしよう。
- ミトラ教のルーツは古代インド・イランの宗教にあった
- 小アジアでミトラ教の原型が形作られ、ローマに伝わった
- ローマ帝国に広めたのは、兵士や商人、奴隷たちだった
- ミトラ神話はミトラ神が世界に豊穣をもたらし、太陽神とともに昇天するまでを描き、その他の神々も存在した
- ミトラ教に入信するには厳しい入信儀礼があり、信徒は7つの位のいずれかに属していた
- ミトラ神殿は最大40人規模の大きさで、通常20人程度で儀礼をおこなっていた
- ミトラ教は2~3世紀頃に隆盛を迎えたが、ローマ帝国でキリスト教が公認されると徐々に衰退し、5世紀までには消滅してしまった
オリエントの密儀を備えた神秘的な宗教、ミトラ教。その魅力はローマ帝国の人々、少なくとも兵士や下層民にとって、非常に大きかったに違いない。
密儀だけに文献資料がまったくないミトラ教だが、「わからないこその魅力」があるからこそ、後世に解明できないことがあっても、甘んじて受けなければならないのだろう。少しずつ、糸をほぐすように進んでいくことを期待しよう。