アッピア街道。
ローマ人が敷設した約8万kmにもおよぶ軍事用の幹線道路、その始まりにして、すべての道路の模範とされたため、街道の女王と呼ばれている。
街道はラテン語で女性名詞なので、そのトップに君臨するのは王ではなく女王なのだ。
ではこのアッピア街道、
- 誰が
- いつ頃
- 何の目的で
- どこに作られ
たのだろうか。
今回は街道にまつわるエピソードや、今では州立公園となっている旧アッピア街道沿いの見どころとともに、アッピア街道について見ていこう。
アッピア街道の位置
アッピア街道は、ローマの城壁であるセルウィウス城壁に作られたカペーナ門(カラカラ浴場付近)を起点とし、南東に一直線に敷設された。
以下、アッピア街道の敷設ルートは次の通り。
- アリキア(現アリッチャ)
- テッラチーナ
- フォンディ
- フォルミア
- ミントゥルナエ(現ミントゥルノ)
- シヌエッサ(現モンドラゴーネ)
- カプア
- カエディウム
- ベネウェントゥム(現ベネヴェント)
- アエクラヌム
- アクィロニア
- ウェヌシア(現ヴェノーザ)
- シルウィウム
- タレントゥム(現ターラント)
- ウリア
- ブルンディシウム(現ブリンディジ)
ただし、敷設当初のルートは(7)のカプアまでであり、それ以降は後になってから必要に応じて延長されたのである。
では、なぜ当初の計画はカプアまでだったのだろうか。
アッピア街道が作られた目的
アッピア街道は、前312年に敷設が開始された。
共和政だった当時のローマは、南方のアペニン山脈を本拠とするサムニウム族との戦争状態にあった。
サムニウム族は強敵で、ローマは一進一退の状態だったのである。
実はこのとき、カプアまでの道はすでにあったのだ。
しかし途中にある町をサムニウム族に占領されてしまえば、カプア(及び周辺の町)まで容易に救援に向かうことができず、結果サムニウム族の手に落ちることもしばしばあったである。
そこでローマ人はカプアまでのルートをもう一本作ることにした。
それも軍隊を素早く移動させることができ、攻城兵器などの重いものを運んでも壊れることなく、百年単位で持ちこたえるだけの耐久度をもった道路の敷設をだ。
この道路の複線化には、兵站が分断されないというメリットの他に、敵が攻撃側のルートを限定できないため守備を分散する必要があり、攻撃側はより攻めやすくなる、ということもあった。
そしてローマ初となる幹線道路、カプアまで200km以上の距離をもつアッピア街道を(簡易的とはいえ)わずか1年で作ってしまった。
結果、その後のサムニウム族との戦いを有利に運ぶことができたローマは、前291年、三度のサムニウム戦争に勝利して、イタリア半島中部を手中に収めたのである。
アッピア街道は誰が作ったのか
ではアッピア街道は誰が作ったのか。
アッピア街道の敷設を元老院に提案したのは、当時40歳にもならない議員だった、アッピウス・クラウディウス・カエクス。
アッピア街道の名は、敷設責任者である彼の名をとって付けられた。
ちなみに「カエクス」とは「盲目」という意味であり、アッピウスが晩年目の光を失ったためにこう呼ばれたと言われている。
また、アッピウスはローマ初の上水道であるアッピア水道も建設した。
まさにローマインフラの父と呼べる存在だった。
そんなアッピウス・クラウディウスの数々の伝説については、アッピウス・クラウディウス・カエクス 強引伝説の宝庫!古代ローマ「インフラの父」についてにまとめているので、興味のある方はご一読いただければと思う。
アッピア街道にまつわるエピソード
ではここで、アッピア街道にまつわるエピソードを2つ紹介しよう。
一つはアッピア街道沿いに、約6,000もの十字架が立てられた話。
もう一つは、カトリック教の初代教皇、聖ペトロの殉教だ。
約6,000人の十字架が立った
前73年、カプアの剣闘士だったスパルタクスが、わずか数十人の剣闘士仲間と起こした脱走劇は、やがで10万人以上が加わる大規模な奴隷反乱へと発展。
約2年間に渡りイタリア中を席巻したが、最後はクラッススに率いられたローマ正規軍6万の前に屈し、リーダーのスパルタクスは戦死し、反乱は鎮圧された。
この奴隷反乱(通称スパルタクスの乱)は、スパルタクス―第三次奴隷戦争と呼ばれる反乱を指揮し、故郷を目指した剣闘士―に詳しく書いているので、興味のある方はご一読いただくといいだろう。
このときクラッススは、鎮圧した奴隷たち約6,000人を見せしめのために十字架に磔にして処刑し、アッピア街道沿いにずらりと並べたのである。
この様子は映画スパルタクスで映像化されているので、こちらも興味のある方は一度ご鑑賞されてはいかがだろうか。
聖ペトロの殉教
キリスト亡き後、ローマへ布教に訪れていた弟子のペトロは、時の皇帝ネロからキリスト教の迫害を受け、ローマを逃れようとアッピア街道を下っていた。
しばらく行ったところで、ペトロは死んだはずの師キリストを見かけ、こう声をかけた。
主よ、どこへ行かれるのですか?(Domine, quo vadis?)
するとキリストは、
あなたが私の民を見捨てるというのなら、私はもう一度十字架に架けられるためにローマへ
と答えた。
これを聞いたペトロは、迫害を逃れるためにローマを脱出した自分の行いを恥じ、ローマへと戻って殉教したという。
ちなみにこのエピソードは、どうも聖書には載っていないらしい。
しかしカラヴァッジョの絵の題材やポーランドの作家ヘンリック・シェンキエヴィチの小説、映画にこのエピソードが使われている。
なお小説を漫画にしたものがあるので、もし漫画で読みたい方は、こちらをどうぞ。
アッピア街道沿いの見どころ
次に、現在州立公園となっている旧アッピア街道沿いにある、古代ローマ時代の建物や見どころを紹介しよう。
スキピオ家の墓所
カラカラ浴場前から、共和政時代の門(カペーナ門)があった地点のすぐ南、スキピオ公園が続く場所に、名門スキピオ家の墓がある。
この墓の建設者は、ルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス。
前289年に執政官を務めた人物だ。
だが、彼の立派な石棺は実はここにはなく、ヴァティカン博物館のピオ・クレメンティーノ博物館に置かれている。
ローマでは、十二表法により城壁内での埋葬を禁じていたため、街道沿いにお墓がずらりと並んでいた。
そして城壁に近いほど価値が高い。
つまりセルウィウス城壁の真近くにあるスキピオ家のこの墓は、一等地に立っていたということになるのだ。
スキピオのお墓を見学するには、ポルタ・サン・セバスティアーノの壁博物館でチケットを購入し(4ユーロ)、案内人と一緒にまわってみよう。
サン・セバスティアーノ門(旧アッピア門)
サン・セバスティアーノ門は、3世紀後半に作られた城壁にできた門で、アッピア街道への出入り口として作られた。
その城壁は、3世紀の危機で知られる蛮族の侵入に備えて、時の皇帝アウレリアヌスが建設したため、アウレリアヌスの城壁とよばれている。
現在、この壁と門は博物館となっており、城壁の上に上ることも可能だ。
また門の内側には、カラカラ浴場のために作られた水道橋の橋脚(通称ドルーソ門)が残っている。
第一マイルストーン(標石)
マイルストーンとは、目的地までどれぐらいの距離があるかを記し、等間隔に設置された標石のこと。
古代ローマでは、フォロ・ロマーノに立つ黄金の里程標(ミリアリウム・アウレウム)を基点として、各地のローマ街道に立てられた。
その中心点から最も近い場所に立つマイルストーンが、アッピア街道に今も残る第一マイルストーンだ。
といってもこの場所にあるマイルストーンはレプリカで、本物はカンピドリオ広場の欄干にある。
古代ローマのマイルストーンには、目的地までの距離のほかに、街道の修繕や補修に功績のあったもの(ようはお金を出した人)などが碑文として刻んである。
だが、この第一マイルストーンがある場所は交通量がとても多いので、あなたがもし見に行くのであれば、十分に気を付けてほしい。
ドミネ・クオ・ヴァディス教会
第一マイルストーンがある場所を越えてさらに南、線路をくぐってしばらく進むと、左手に見えるのがドミネ・クオ・ヴァディス教会である。
アッピア街道にまつわるエピソードの中の、聖ペトロの殉教でも記したとおりだ。
キリストの弟子だったペトロは、迫害を逃れるためにローマを後にしたが、この場所で(死んだはずの)キリストに会い、「ドミネ、クオ ヴァディス?(Domine, quo vadis? 主よ、どこへ行かれるのですか?)」と声をかけたことから、このエピソードにちなんで教会の名が付けられた。
ちなみに現在のドミネ・クオ・ヴァディス教会は、17世紀に再建されたものである。
アウグストゥスの解放奴隷のコルンバリウム
コルンバリウムとは、骨壷棚のこと。
初代皇帝アウグストゥスに仕えていた解放奴隷たちの、いわば集団墓地がある場所だ。
先にあるアウグストゥスの皇后リウィアの骨壷棚と合わせると、なんと6,000人分もの棚があるという。
このコルンバリウム、古代ローマ時代の料理を堪能できるレストランの中庭にあるので、見たい方はお食事とともにいかがだろうか。
カタコンベ(地下墓地)
アッピア街道沿いには、古代ローマ時代に作られたキリスト教徒たちの地下墓地、いわゆる「カタコンベ」も多数ある。
アッピア街道沿いの丘は削りやすい凝灰岩質で、土葬だったキリスト教徒たちの墓地には、うってつけの土地だったのである。
ここではそのカタコンベたちを紹介しよう。
サン・カリストのカタコンベ
2世紀末から、助祭カリストゥスを管理者とするローマ教会の墓地、それがサン・カリストのカタコンベと呼ばれる墓地である。
カリストゥスは後にローマ教皇となった。
カタコンベは地下20m、 4層の通路の左右に何段もの埋葬棚が穿たれている。
ここにはカリストゥス他16名の教皇と、約50万人の教徒たちが埋葬されたという。
さらに、マルクス・アウレリウス帝時代に殉教した聖チェチリアの墓には、彼女の大理石像が置かれ中世の壁画も残っている。
ただし、聖チェチリアの像は現在、トラステヴェレにある聖チェチリア教会に移されているようだ。
ドミティッラのカタコンベ
サン・カリストを西に数百メートルいくと、ドミティッラのカタコンベがある。
ドミティッラは、ウェスパシアヌスが創立したフラウィウス朝にゆかりのある人間だったが、キリスト教を報じたために島流しにあってしまう。
彼女の解放奴隷に与えた土地が、地下墓地となったものが、ドミティッラのカタコンベとなった。
聖セバスティアーノのカタコンベ
さらにアッピア街道沿いを進むと、聖セバスティアーノのカタコンベが見えてくる。
聖セバスティアーノとは、287年に殉教したセバスティアヌスのこと。
この墓地の興味深いところとして、この土地は元々ポゾランと呼ばれるローマン・コンクリートの原料になる火山灰が産出した場所で、採掘場の跡地にカタコンベが作られた。
その規模はローマでも最大で、4層構造、全長12kmにもなる通路をもっている。
1層目はセバスティアヌスの墓があり、2層目の地下通路は見学可能。
さらに地下13mの洞窟には非キリスト教徒のお墓があり、フラスコ画やモザイク装飾を施した床で豪華に飾られているのが特徴だ。
マクセンティウス帝関係の遺跡
アッピア街道をさらに南にすすむと、マクセンティウス帝が建てた建造物が見えてくる。
マクセンティウス帝は、306年、近衛兵たちに擁立されて皇帝の地位についた人物で、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝に敗れてその生涯を閉じた。
だが、在位中はローマを拠点としたために、ローマに様々な建造物を残した。
それらの中で、アッピア街道沿いにあるマクセンティウス関係のものを見てみよう。
ロムルスの墓廟
マクセンティウスの長男、ウァレリウス・ロムルスは、309年、ティベリス川で溺れ、わずか14歳という若さで早逝した。
その早死した息子ロムルスの名が付けられた墓が、ロムルスの墓廟だ。
直径33mの円筒形の墓と、方形の前室でできているこの墓廟は、マクセンティウスが一族のために建てたが、結局彼はミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌスに破れたため、彼自身も墓廟に葬られることはなかった。
離宮(ヴィラ)
ロムルスの墓廟の東側には、マクセンティウスの離宮、つまり別荘(ヴィラ)がある。
全室暖房装置付きで、象嵌細工の床を持つ豪華な建物だったが、現在はその遺構を留めるのみ。
マクセンティウスは、ミルウィウス橋の戦いの決戦2日前からヴィラに引きこもり、悪夢にうなされていたという。
競技場(キルクス)
この場所にはもう一つ、マクセンティウスが建設した戦車競技場がある。
収容人数は1万人規模で、走路の長さは約520m。
一説によると、マクセンティウスはこの競技場を、愛息であるロムルスの葬送競技用に建てたといわれている。
チェチリア・メッテラの墓
マクセンティウスの遺構を越え、さらに南に進むと大きな円筒形の建造物が見える。
これはチェチリア・メッテラの墓だ。
チェチリア・メッテラは、共和政末期の政治家であり、クレタ島を平定したカエキリウス・メテッルス・クレティクスの娘だ。
彼女は第一回三頭政治の一角である、クラッススの息子で、父と同名のマルクスの妻でもある。
その妻のために建てた墓だと言われているが、父クラッススの妻だったという説もあるようだ。
直径29mの円筒型建造物には、牛頭模様(プクラニウム)と花綱の帯状装飾が施されている。
さらにこの間には、中世に要塞化された時の名残もとどめている。
カポ・ディ・ボヴェ(牛頭)荘
チェチリア・メッテラの墓からさらに数百メートル先には、比較的新しく(2,006年)公開された、カポ・ディ・ボヴェ(牛頭)荘という遺跡がある。
この一帯は、ギリシャ人哲学者のヘロデス・アッティクスの裕福な妻、アンニア・レギッラの所有していた土地。
飢えのために娘を奴隷に売ったテッサリア王がデメテルに献じたという聖地にちなみ、パグス・トリオピウスと呼ばれていた。
発掘された浴場施設は2世紀半ばのもので、モザイク床などが残っている。
その他お墓と別荘
スキピオ家の墓所でも説明したとおり、ローマ市壁内での埋葬を禁じた法があったため、街道沿いはお墓がずらりと並んでいる。
例えば解放奴隷夫妻とイシス神殿の巫女長ウシアの肖像が刻まれたラビリイの墓。
もう少し進むと建国伝説でローマ代表と闘ったアルバ・ロンガ代表クィリアーティ三兄弟の墓とローマ代表のホラティウス兄弟の墓。
またその向かいにエジプトのピラミッドをまねて作ったと言われるピラミッド型のお墓(今は残骸のみ)。
墓とは違うが、暴君コンモドゥスの陰謀で処刑されたクィンティリウス兄弟の別荘遺跡も広がっている。
この遺跡には浴場施設や馬場、給水施設(ニュンファエウム)があり、見どころ満載だ。
だが、なんといってもアッピア街道筋のお墓といえば、カザル・ロトンドだろう。
カザル・ロトンド
アッピア街道筋で最大級の規模を誇るお墓といえば、カザル・ロトンドだ。
場所は第6マイルストーンの前。
円筒形の墓廟の上に家が建てられたので、カザル・ロトンドと呼ばれている。
このお墓はアウグストゥス時代に建てられたもので、方形の土台は一辺が35mもあった。
ちなみに墓の主は不明。
このような大きなお墓を建てられたので、さぞかし財力や地位が高かったに違いない。
アッピア街道への行き方(アクセス)
市バス
アッピア街道へのアクセスは、市バスが一番便利だろう。
コロッセオから出発する118番、あるいは218番に乗れば、アッピア街道をそのまま走ってくれるので、お目当ての場所で降りればいい。
ただし、旧街道沿いに建つ「サン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂」停留所(紹介したマクセンティウス帝関係遺跡の近く)で降車しないと、新街道へと出ていくので、注意が必要だ。
地下鉄
逆に地下鉄ではアッピア街道近くまでしかアクセスすることはできない。
はじめから街道沿いをハイキングするなら、カラカラ浴場付近にある地下鉄B線のチルコ・マッシモ駅で下車し、カラカラ帝の南東付近から出発すると、紹介したスキピオの墓から見ることができる。
その他の方法
とはいえ、紹介したカザル・ロトンドまで市内から約7.5km、新街道と交わり、バスに乗ることができるある程度の区切り、クィンティリウス兄弟の別荘までも歩くには結構な距離があるだろう。
そこで、アッピア街道を自転車でツーリングするのはいかがだろうか。
2,000円程度でレンタルすることができるので、アッピア街道州立公園をのんびり散策するには、ぴったりだろう。
アッピア街道を徒歩での散策のおすすめは、コロッセオ近くのホテルに宿泊し、市バスでアッピア街道へと行く。
それが不安なら、JTBやHISのツアーなども検討するといいだろう。紹介したサン・カリストのカタコンベから水道橋公園を案内する現地ツアーもある。
またアッピア街道沿いには、古代ローマ時代の料理を出してくれるレストランもあるので、合わせてチェックしてみると楽しいかもしれない。
今回のまとめ
ローマ街道の女王アッピア街道について、もう一度おさらいしよう。
- アッピア街道は前312年、アッピウス・クラウディウス・カエクスによって敷設された
- 当初はローマからカプアまでの行程だったが、その後「イタリアのかかと」ブルンディシウムまで延長された
- アッピア街道敷設の目的は、街道の複線化でサムニウム族との戦争を有利にすることだった
- ローマ市壁内の埋葬は法律で禁じられていたため、アッピア街道沿いにはお墓が多い
- アッピア街道へのアクセスは、市バスが便利
のちに総延長8万kmにも及ぶローマ街道。
その最初の幹線道路であるアッピア街道沿いには、古代からさまざまな物語があった。
あなたがアッピア街道を訪れた際は、英雄や有名人なども通ったエピソードを感じて、街道を散策してみてはいかがだろうか。