ドミティアヌス ―ローマ法を尊重しすぎた生真面目な暴君―

ドミティアヌス 生真面目すぎた暴君

ウェスパシアヌス帝から始まるフラウィウス朝3代目にして、最後の皇帝となるドミティアヌス。
彼はカリグラ、ネロに続き、元老院から暴君として認定され、記憶の断罪(ダムナティオ・メモリアエ)を受けた皇帝でもある。

しかしドミティアヌスが、なぜそれほどまで元老院との確執があり、暴君と忌み嫌われたのか、あなたはご存じだろうか。

近年の研究では、行政官として有能だったと再評価されつつあるドミティアヌスが、なぜ暴君と呼ばれていたのか。
この記事では、彼の生涯とその謎を追っていこう。

※タイトル下の画像は、Wikipediaより拝借しました。

即位以前のドミティアヌス

父ウェスパシアヌスは成り上がりの家系

ドミティアヌスの家系は代々元老院議員を排出している昔ながらの名門ではなく、ウェスパシアヌスの兄、つまりドミティアヌスの伯父であるサビヌスが一家で初めて元老院として登院できた人物だった。

ウェスパシアヌス
ウェスパシアヌス | Wikipediaより

一方父のウェスパシアヌスも議員となると、カリグラやクラウディウス、ネロなどの諸帝に巧みに接近し、常に政界の中心に身を置くことに成功。
そして彼はついに、ネロの治世下でユダヤの反乱を収めるための軍司令官にまで登りつめたのだ。

そして後68年、ネロの治世に不満を募らせたものが各地で反乱の狼煙をあげ、内乱が勃発。
ネロは自殺に追い込まれてしまう。
ガルバ、オト、ウィテリウスと目まぐるしく皇帝が入れ替わる中、後69年7月、ウェスパシアヌスも東方の軍団に皇帝の推挙を得て、ついに皇帝レースへと名乗りをあげる。

しかしこのことが、ドミティアヌスに人生最大の危機をもたらすことになるのである。

伯父サビヌスの計らいで危機一髪の命拾いをする

後69年10月、北イタリアのクレモナでウェスパシアヌスはウィテリウス軍を撃破し、皇帝への就任が近づいたかに思われた。
だがこのとき首都ローマには、兄サビヌスやその他ウェスパシアヌスにゆかりのある人達が残っており、その中にドミティアヌスもいたのである。

ドミティアヌス胸像
ドミティアヌス
ルーヴル美術館 [CC BY-SA 3.0]

サビヌスは内乱の混乱を避けるため、カピトリウム丘にあるユピテル神殿に、一族とともに立てこもる決断をした。
カピトリウムは聖域であり、この地を汚すもの神を冒涜すると思われていたため、ウィテリウスでも手出しはできないと思っていたからだ。

しかし自暴自棄になったウィテリウスは、あろうことが神殿に火を付けるという暴挙にでたのである。
残念なことに、この事件で兄サビヌスは帰らぬ人となったが、生前にサビヌスは甥ドミティアヌスや子供たちを、ユピテル神殿へとお参りに来た人々に紛れさせ、放火前に逃がしていたのだった。
こうしてドミティアヌスは、危機を脱したのである。

翌日ウェスパシアヌスは首都に入城し、ウィテリウスを処刑。
内乱を収めてローマ皇帝の座をてにいれたのだった。

妻は名将コルブロの娘

父ウェスパシアヌスが即位してまもなく、ドミティアヌスは妻を迎えることになった。
ただし彼は人妻を離婚させて自分の妻にするという、略奪婚をしたのである。
お相手は名将コルブロの娘、ドミティア・ロンギナ。

ドミティア・ロンギナ
ドミティア・ロンギナ
漫画プリニウスⅨより

コルブロといえば、ネロの治世下で皇帝属州総督を歴任し、シリア総督時代には東方の大国パルティアとの和平をまとめる大事業をやってのけ、また彼の先祖をたどるとアウグストゥスにつながるため、血筋としても申し分のない人物だったのである。

史料では、ドミティアヌスがこの頃アルバ(ローマの南20kmの都市)で、人妻たちをかどわかし、放蕩三昧の日々を送っていたとあるが、おそらく妻ドミティアとの略奪婚に尾ひれがついたのだろう。

逆に有名を馳せながらも、ネロの理不尽な命令で自殺に追い込まれた名将の娘を妻に迎えたことで、一族の名声は上がったに違いない。

鬱屈した日々のエピソード

名将の娘を妻に迎えたドミティアヌスだが、皇帝の座がめぐってくる可能性は低かった。
なぜなら彼の上にはティトゥスという12歳年の離れた兄がおり、ウェスパシアヌスが崩御した79年の段階で、まだ39歳。
男ざかりで、父から引き継いだユダヤの反乱鎮圧の指揮を取り、見事に成功させている。
またティトゥスはローマ市民からも人気があり、皇帝の地位は安泰だったのだ。

即位以前のドミティアヌスに、こんなエピソードがある。
ドミティアヌスがアルバに閉じこもり、ハエを捕まえては鉄筆(蝋板にメモをするために削り取る筆記用具)で串刺しにしていた、と。
真偽はともかく、このエピソードは皇帝になれない彼の鬱屈した精神状態をあらわしていたのではないかと言われている。
私は単にきれい好きが行き過ぎているだけだと思っているが……。

しかし運命はドミティアヌスに思ってもいない展開をもたらした。
兄ティトゥスが治世わずか2年で他界してしまったのである。
81年9月13日、ドミティアヌスは30歳を間近にして皇帝となった。

ドミティアヌス、ローマのモラルを正す

モラル法の復活とウェスタの巫女への刑罰

ローマでは、ドミティアヌスが皇帝になる以前から、男女関係や性についての風紀が乱れていた。
それはマルティアリスやユウェナリスの風刺詩でも題材として取り扱われている。

ドミティアヌスはこの問題にメスを入れる。
彼は、同じく風紀の乱れを正そうとした初代皇帝アウグストゥスが制定した法である、「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」を持ち出し、厳格に適用しだした。

「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」に関しては、アウグストゥスⅤ ―古き良きローマの復活と再生―ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法で説明しているので、詳細を知りたい方はご参照いただければ幸いだ。

この法を簡単に説明すると、妻の浮気を取り締まる法である。
夫は妻の浮気を知ってから2ヶ月以内に告訴しなければならず、有罪なら離婚して嫁資(嫁入り時に持参する金)の半分と財産半分、妻の浮気相手は財産半分を没収されて島流しになる。
その他身分差の浮気などについても、様々な規定があった。

またドミティアヌスは「スカンティニウス法」という、休眠状態の法まで復活させ、これを適用する。
この法の内容は詳しく知られていないが、どうやら少年に対する強姦や強制わいせつ行為を取り締まる法らしい。
現代の日本なら「児童ポルノ禁止法」だろうか。

おそらくこれらの法は元老院議員や騎士身分など、いわゆる社会の上層にいるものたちへの規制として取り締まられたものだろう。
それだけに、今まで黙認されていたこれらの「趣味」をとやかく言われだすおエライさんがたは、たまったものではなかったはずだ。

さらにドミティアヌスは、ウェスタの巫女にまで、風紀取り締まりの手をのばす。

ウェスタの巫女

ウェスタの巫女とは、身分の高い子供から何人か選ばれ、30年間ウェスタ神に仕える巫女として職務を全うする女性のこと。

彼女たちは30年間の任期中、純血(処女)を守らなければならない。
もし姦通を犯した場合、巫女は絶対に登れない坑に落とされ死ぬまではしごを外される、実質生き埋めの刑。
また姦通相手はムチで死ぬまで打たれる刑に処された。

ウェスタの巫女は、古代ローマでは成立が古く、数少ない女性の公的な職でも権威あるものとして扱われてきた。
生前にしたためた遺言状をウェスタ神殿に預けたり、またカエサルへの助命嘆願によりスッラへの許しを得るなど、彼女たちの発言には一定の力があった。

それもこれも彼女たちが職務にストイックで、身が清いからこそ。
しかしウェスパシアヌスから始まったフラウィウス朝のころには、ウェスタの巫女でも性愛を楽しむようになっていたのである。
ドミティアヌスは、敢えて黙認した父や兄と違い、この問題にメスをいれる。

83年ごろ、ドミティアヌスは不祥事を起こした巫女3人に対し、刑を下す。
ただしこの巫女たちには伝統的な生き埋めではなく自殺を許し、相手の男たちは追放刑。

ウェスタの巫女の殉教
ウェスタの巫女の殉教
Wikipediaより

さらに89年ごろ、今度は無罪を主張したウェスタの巫女長コルネリアに対し、有罪判決を下す。
哀れにも彼女は虚偽の自白で、伝統的な生き埋めの刑に処され、情夫たちも(自白した一人を除き)むち打ちの刑で殺された。

元老院議員の取り締まりと身分区別の徹底

生真面目な性格だったドミティアヌスは、性風紀だけではなく、社会の秩序も正そうと躍起になった。

85年、ドミティアヌスは終身監察官(ケンソル)という役職につく。
この職の内容については、政務官 ―共和政の行政を支えた古代ローマの官職―監察官(ケンソル)でご確認いただくといいだろう。
簡単に職の内容を説明すると、次の2つがあった。

  • 市民の戸口調査(人口の把握)
  • 市民や元老院議員の風紀取り締まりと、除籍や認定

要するに、ローマ市民がどれだけいるか、ローマ市民(と元老院議員)としてふさわしいかどうかを監督する職だ。

皇帝はアウグストゥス以来、上記の役割も担っていたので、わざわざ職につく必要もなかったが、ドミティアヌスは「あえて」就任することで、風紀の取り締まりを徹底するとアピールしたかったのだろう。

事実、ドミティアヌスが就任してから、パントマイム喜劇を演じた議員を元老院を除籍し、さらにパントマイム自体も禁止してしまったのである。

※舞台俳優は、娼婦や剣闘士と同じく、社会の最下層に位置する身分だった。

さらにドミティアヌスは、身分ごとに決まっていた劇場席の徹底にも着手する。
いままで「なあなあ」になっていた席順を守らせるため、警備員を配置して監視させたのだ。
ただし身分の区別は所詮外見だけでしか判断できない。
特等席に座りたいものは、身分の特徴である衣服や装飾品を身にまとうことで、ごまかしが効いたのだった。

妻ドミティアの浮気と処分

これほどまでに「小うるさい」ドミティアヌスだが、風紀に対する自らの態度はどうだったのだろうか。
これがどうやらダブル・スタンダードだったようなのだ。
そのことが分かるのは、妻ドミティアと役者パリスの浮気が発覚したことだった。

ドミティアヌスは、まず皇后ドミティアと離婚した。
次に浮気相手のパリスを路上で惨殺。
情夫の殺害は、例の「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」に従えば、浮気現場のみで許されたので違法ではあるが、こちらは特に問題視されなかった。

だが彼はやがてドミティアと再婚し、もとさやに収まった。
ところが浮気が原因で離婚した妻と再婚した騎士身分のものに、陪審員名簿から除名するという不名誉を与えている。

騎士には不名誉処分で、自分にはお咎めなし。
さらに彼は離婚中に姪と同棲し、近親相姦をしたばかりでなく、彼女が妊娠すると堕胎を強制し、それが原因で彼女は死亡してしまう。

民衆たちもドミティアヌスの態度には呆れ果て、怒りを覚えたことだろう。

ドミティアヌス、元老院と対峙する

皇帝が暴君とよばれる理由の一つが、治世中に元老院と対立することだ。
ではドミティアヌスは、元老院(議員)に対してどのような態度をとっていたのだろう。

法の厳守と賄賂の対応

ドミティアヌスはモラル法以外でも、法を厳格に適用するよう務めた。
それがたとえ元老院議員身分のものであっても、いや、議員だからこそ生真面目な彼は厳しく対処しようとしたのだろう。

ドミティアヌスの治世下では、彼が慎重に裁判の判決を下し、また公正に判断しようとした。
また、共和政以来の悪習である、官職を利用した属州民からの不当な取り立てに対しても、彼は毅然とした態度で望んだ。

その証拠として、ドミティアヌスは皇帝が派遣する管理官、つまり属州総督の不正を管理したり、徴税を担う彼らに対し、現地民からの身勝手な挑発を禁止する通達をしている。

またドミティアヌス治世下では属州民が告発した裁判は(史料で確認できる限り)1件だけだが、のちのトラヤヌス帝治世下では7件へと増えている。
これを持ってドミティアヌスが行った不正防止の効果が出ていると考えるのは早計だろうが、一定の判断基準にはなるだろう。

実際、小プリニウスは元老院に対して、次のような一般論を書き残している。

元老院は他の身分に厳しい一方で、同僚議員の犯罪には、互いに黙認し合うかのように、甘かった

ローマ帝国愚帝物語 第四章 残虐帝伝

元老院議会の軽視と顧問団の重用

ドミティアヌスはまた、議員が600人もいるために決断能力の低い元老院議会をなんとかしたいと考えていた。
実はアウグストゥス帝以来、どの皇帝もこの現実には気づいていた。
というより、元老院の権威を損なわず、かつないがしろにすることで皇帝自身が凶刃に倒れないように敢えて議会の存在を残しつつ、1人の決断によって効率化を図るというバランスを取っていたのだ。

ドミティアヌスは、元老院に対しこの現実を突きつける。
彼は自分と法律と行政の専門家集団である皇帝付きの顧問団(アミキ・カエサリス)を重用し、元老院をすっ飛ばして独断で案件を処理するようになった。
その一つがブドウ畑の規制問題だ。

ブドウ畑の規制

食糧不足はブドウ畑の増やしすぎにあり、と考えたドミティアヌスが出した規制。
彼の規制は以下のとおり。

  • イタリア内では今後ブドウの木を植樹してはならない
  • 属州では、ブドウの木を半分切り倒す

さすがに半分は大げさだと思うが、ある程度はブドウ畑を減らされたと予想できる。

なぜドミティアヌスはブドウ畑の規制を元老院を通さずに行ったのか。

元老院議員たちは(法律上商売を禁止されていたにも関わらず)農場の経営をしているものが多かった。
その彼らは小麦などの食物よりも、お金になるブドウを栽培し、ワインとして出荷する方を選んだのである。

とうぜんブドウ畑が増えすぎると、穀物の生産が落ちる。
ドミティアヌスはこの議員の金儲け主義を規制した、ということなのだ。

おそらく元老院議会では、議員同士の既得権益を守るために、ブドウ畑の規制など議題にも登らなかったにちがいない。
ドミティアヌスは、この生ぬるい議員体質をついたのだ。
だがこのような態度は、元老院議員たちに煙たがられる原因となったに違いない。

イタリア出身議員の軽視と属州出身議員の尊重

もう一つ、ドミティアヌスが元老院との確執を深めた原因として、古代ローマ史家の南川高志氏は、伝統的なイタリア出身議員たちよりも属州出身の議員を重用したことを挙げている。

南川氏によると、帝国東部属州出身者を新たに元老院議員として迎えているという。
また軍団が配置された重要な属州への赴任も、伝統的な家柄の議員ではなく、新たに加わった議員を任命している。

本来なら伝統的な議員勢力への配慮をしつつも、新しく有能な血を加え、帝国運営を巧みに操作するのが皇帝の仕事。
ドミティアヌスは、どちらかというと伝統勢力よりも新興勢力を重用し、現実路線を貫いた。
そしてそのことが、伝統勢力とのバランスを崩し、一部議員からの反発をまねいたのではないだろうか。

ドミティアヌスのローマ帝国防衛対策

元老院との対立については一旦置いておき、ドミティアヌスの帝国防衛について話を進めてみよう。

ドミティアヌスは父や兄とは違い、皇帝になる前はこれと行った軍事的な功績をあげているわけではなかった。
おそらく本人もそのことを自覚していたのではないかと思う。
ではドミティアヌスは、帝国防衛をどのような態度で臨んだのだろうか。

アグリコラの解任

まずドミティアヌス時代の軍人として思い浮かべるのが、歴史家タキトゥスの義父にして、ブリタンニア(現イングランド)総督を異例の7年間も務めたアグリコラだろう。

アグリコラ
アグリコラ
Ostrich [Public domain]

タキトゥスによると、アグリコラはブリタンニア総督時代、属州民には公正な態度で統治に臨み、反乱の続いたブリタンニアを平定した。
またスコットランドにも攻め込み、海軍を派遣してイギリスが島であることも確認した人物だ。

ドミティアヌスは84年、アグリコラを総督職から突如解任する。
タキトゥスによると、ドミティアヌスはアグリコラの輝かしい軍功を嫉んだためだという。
しかし近年の研究では、タキトゥスの主張を否定している。
なぜか。

実はアグリコラがスコットランドへ軍を展開中の82年、ゲルマニア(現ドイツ)で新たな戦争が起こった。
ドミティアヌスは、アグリコラが長年の統治で積極的な侵攻をすることは承知していた。
しかし帝国の軍隊が最低限の防衛を想定した配置をしている以上、2方向での戦争は厳しいと判断したのだろう。
さらにアグリコラがこれ以上ブリタンニアの領土戦争を目論めば、戦争が泥沼化する可能性もあった。
そこでアグリコラをブリタンニアからローマへと呼び戻したのである。

では82年から起こったゲルマニアでの戦争は、どのようなことが原因だったのだろうか。

リメス・ゲルマニクスの建設

ローマ帝国は後9年のトイトブルク森の戦いでの敗北を受け、北側はライン川とドナウ川を防衛ラインと定めた。
大河を挟んだ防衛はたしかに強固だったが、一つだけ弱点がある。
それが両大河の合流地点だ。

ライン川とドナウ川は上流で川幅が狭くなるだけでなく、完全に川が合流しているわけではない。
加えてこのあたりにはシュヴァルツヴァルトという大きな森林が広がっており、ローマ軍がゲルマン人のゲリラ戦法に手こずる場所でもあった。

リメス・ゲルマニクス
リメス・ゲルマニクス
Sansculotte [CC BY-SA 3.0]

ドミティアヌスはこの問題に対処するため、ドナウ川とライン川をつなぐ長城(リメス)を築くことにしたのである。
ドミティアヌスはまず、このあたりに住むゲルマン人部族で、ローマに有効的なマティアチ族から土地を買収。
彼らと敵対するカッティ族との間に防壁を建設しはじめた。

当然リメスの建設は、カッティ族の反感を招く。
ただしドミティアヌスが建設を開始したのは83年。
カッティ族との戦争が起こったのは82年なので、リメス建設が原因で戦争が起こったのか、戦争が原因でリメスを建設したのかは定かではない。

いずれにせよ、なんとかカッティ族との戦いに勝利したローマは、リメス・ゲルマニクスの建設を続けることができた。
このリメスが完成するのは、ハドリアヌス帝の頃であり、260年に放棄されるまで180年近く、ローマ帝国を守り続けることになる。

ダキア人の侵入と対応

ゲルマン人との戦争が終わったのもつかの間、85年末に今度はダキア人(現ルーマニアに住む人々)が南下し、ドナウ川を渡って突如ローマ領内に侵入してきたのである。
突然のことに対応しきれず、モエシア総督は戦死。

ドミティアヌスは近衛隊長官フクスクとともに、軍を率いてダキア人を迎え撃ち、1度は勝利しローマ領内から追い出すことに成功した。
しかしフクスクに指揮権を預けてドミティアヌスが現場を離れた後、ダキア領内に攻め入ったフクスクも奇襲を受けて敗北、戦死してしまった。

結局ダキア人との和睦が成立するのは開戦から3年後の88年。
ドミティアヌスは、ローマ人捕虜を引き渡してもらう代わりに、毎年800万セステルティウスを支払わされる事になったのである。

戦争費用の捻出

戦争には当然先立つもの、つまりお金が必要だ。

ドミティアヌスは、83年、まず兵士たちの給料を33%アップした。
さらに退役兵にたいして次の特権も認めた。

  • 正規軍には税金の免除
  • 補助兵(属州民からなる正規兵以外の兵士)の退役後、本人がローマ市民権を得られる従来の方式に加えて、妻子にも市民権を付与

兵士たちを厚遇することで、戦争への士気を高めようとしたが、当然費用もかさむことになる。
ドミティアヌスはこの問題にどう対処したか。

彼はまず、貨幣の改悪に踏み切った。
つまり兵士に支払われるデナリウス銀貨の銀含有率を下げたのである。
銀の純度を下げると、その分貨幣の量を増やすことができる。
ただしあまりにも貨幣の量を増やすと、慢性的なインフレを引き起こすのは、ご存じのとおりだ。

また、ユダヤ人に対して税の取り立てを厳しくした。
これは父や兄が行ったユダヤ人の反乱鎮圧に伴い、ユダヤ人の監視を強くした結果だろう。


こうしたドミティアヌスの戦闘能力のなさと弱腰の姿勢は、やがて軍の反発を招くこととなる。
そのことについては高地ゲルマニアの反乱で書くとして、次はドミティアヌスが市民に提供した娯楽を見てみよう。

ドミティアヌスと娯楽

ドミティアヌスは、市民へ娯楽の提供を熱心に行った皇帝でもあった。
それは彼自身が娯楽好きという面もあると思われる。
ではドミティアヌスはどのような娯楽を提供したのだろう。

戦車競走への熱狂

ドミティアヌスは大の戦車競走ファンだった。
戦車競走はローマの娯楽の一つで、「パンとサーカス」の言葉で有名なサーカスとは、戦車競走のキクルスのことを指す。

ドミティアヌスの治世下で、戦車競走は頻繁に行われた。
戦車競走のチームは、赤・白・青・緑の色で表される。
ちなみに彼の贔屓にするチームは緑だったらしい。
また、ドミティアヌスは戦車競走好きが高じて、もう2つのチーム(紫、黄金)を加えた。
ただしこの2チームは後に消滅したようだが。

古代ローマの戦車競争の様子は、ハリウッド映画の大作『ベン・ハー 』で詳しく描写されているので、興味のある方はご覧いただくといいだろう。

剣闘士競技の新趣向

ローマで人気のあった大衆娯楽の一つが剣闘士競技である。
歴代の皇帝たちも、ローマ市民の人気を得るために剣闘士競技を開催したが、ドミティアヌスも例にもれず市民たちを喜ばせた。

のみならす、彼は剣闘士競技に新しい趣向を凝らす。
まずは剣闘士競技のナイター試合。
また、女性剣闘士を戦わせることや、小人(おそらく身体障害で成長不良の人々)剣闘士同士を戦わせたりしたという。

女性闘士
女性剣闘士
Wikipedeiaより

その他、次のような娯楽も提供している。

  • 歩兵と騎兵の模擬戦争
  • 模擬海戦(ナウマキア)
  • 女性の徒競走
  • 芸術コンテスト大会である『カピトリウム祭 』

など。


ドミティアヌスが提供する娯楽に対し、市民たちは感謝の意味を込めて自発的に『ドミヌス(主人)』と呼び、ドミティアヌスも悪く思っていなかったのか、呼ぶに任せていたらしい。

実はドミティアヌス以前から皇帝たちに『ドミヌス』という呼び名を使用していたようだが、歴代の皇帝たちは「市民たちの第一人者」、つまり自分と市民は同じだという建前を保つため、この呼び名を禁止していた。

とはいえ、のちのトラヤヌス帝に対しても使われているので、ドミヌス自体は皇帝の尊称として定着していったようである。
ただし、ドミティアヌスは公文書に自分のことを「ドミヌス・エト・デウス(主君にして神)」と表記させたらしい。
皇帝は死んでから神となることはあっても、生前は人として生きている。
それを公然と「神」と言ってのけたのだから、人々から反発を招いても不思議ではないだろう。

ドミティアヌス、猜疑心を募らせる

高地ゲルマニアの反乱

89年の年明け早々、高地ゲルマニアでこの地を治めていた総督の反乱が起こった。
彼が実際何を思って反乱を指導したのかは分からない。
私は88年までに行ったドミティアヌスの対外、特にゲルマン人やダキア人に対する弱気の対応が起因しているのではないかと思うが、真相は藪の中だ。

この反乱自体は隣の低地ゲルマニアなどから派遣された軍団によって、あっけなく壊滅した。
しかし戦争費用の捻出で見たように、兵士の給料をアップし、補助兵の市民権獲得対象を拡大するなど、軍への待遇を改善したドミティアヌスにとって、強烈な手のひら返しをされた思いだったろう。

古代ローマ時代の伝記作家スエトニウスによると、この事件以降、ドミティアヌスの態度が変わったと書いている。

大逆罪で次々と告発

ドミティアヌスは、高地ゲルマニアの反乱が恐怖政治の契機だと言わんばかりに、有力者たちを大逆罪で次々と処刑する。

ある元老院議員は、かつてローマの敵だったカルタゴの将軍ハンニバルとマゴという名前を名付けたため、愛国心を疑われて処刑された。
またある議員は、ネロの友人であり、のちに反乱を起こして皇帝となったオトの誕生日を祝ったというだけで処刑された。
オトはたまたま彼の父方の伯父だっただけなのに、である。

さらに93年、恐怖政治の象徴として皇帝の汚名を著しく高めた裁判がある。
近衛兵たちに議場を取り巻かせて威嚇し、元老院議員4名と女性3名に死刑、もしくは追放刑を下したものだ。

彼らの罪名は何か。
それはネロ帝やウェスパシアヌス帝の時代に、体制批判で断罪された人物への賞賛をしたという理由での、またしても大逆罪だった。

しかしこのような行為は皇帝と元老院議員たちとの溝を深め、ドミティアヌスをますます孤独へと追い立てることになるのである。

スエトニウスによると、彼はこう嘆いていたという。

皇帝の境遇は哀れなもの。陰謀を発見しても、殺されなければ、信じてもらえない

さらにドミティアヌスの恐怖政治を象徴する逸話に、「黒い饗宴」のエピソードがある。

黒い饗宴

饗宴とはローマの富裕層たちが催した豪華な食事会のこと。
饗宴についての詳しいことは、ケーナでの晩餐について―ローマの上流階級は本当に自堕落な食生活だったのか―に譲るので、興味のある方はご覧いただければと思う。

ドミティアヌスは壁や天井、床や家具調度、さらに食事用のベッドまでも黒で塗った部屋に、夜、議員と騎士身分の有力者を招待した。
照明といえば墓場に吊るすランプ。
招待された客は席順が決められており、席札は自分の名が刻まれた墓石。

この饗宴では、頭から爪先まで真っ黒に塗られた裸の少年たちが給士を務めており、彼らが運んでくる料理は葬儀用の供物だった。
もちろん料理も食器も、全て真っ黒。

装飾だけでも怖気がする気味の悪さなのに、招待客に話すドミティアヌスの話題は、すべて“死”や“虐殺”をテーマとしたものばかり。
これを何時間にも渡って聞かされるのだから、招待された方はたまったものではなかった。

ようやく『黒い饗宴』がお開きになって、客たちがほっと胸をなでおろしたのもつかの間、今度は彼らが一人ずつ(妻帯はもちろん禁止されていたので)、自分ではなく皇帝の用意した奴隷に運ばせる輿に乗って帰宅させられる。
おそらくこの輿は、どこか分からぬところへ連れて行かれ、行方知れずにした上で殺されると誰もが覚悟したが、無事に帰宅することができた。

しかし話は続く。
彼らは安堵感と開放感を味わったその時、皇帝の使者が来訪したのである。
今度こそ死を宣告される覚悟を決めた彼らだが、使者は銀色に塗りなおさた自分の名が刻まれた墓石と、最高級の食材が盛り付けされた料理を届けにきただけだった。

『黒い饗宴』のエピソードのように、ドミティアヌスは天国と地獄を何度も味あわせ、それを見て楽しむという冗談が好きだった。
また、処刑を決めたものに対し、はじめは優しく接してから有頂天にさせた後、死刑を宣告して奈落の底へと突き落としいたという。

ドミティアヌスの、この屈折した行動は、周りのものからすれば迷惑以外の何物でもなかった。

ドミティアヌスの最期

ドミティアヌスが関わったとされるローマの建造物は、ローマ帝国愚帝物語によると、53件にもおよぶという。
その中に、パラティヌス丘に立つ皇帝の住居、ドムス・フラウィアやドムス・アウグスターナがある。

ドムス・フラウィア
ドムス・フラウィアの遺構
Miguel Hermoso Cuesta [CC BY-SA 3.0]

彼が皇帝の住居を宮殿にふさわしい豪華な広さと外観へと変貌させたのである。
その理由は、ドミティアヌスの時代にはすでに皇帝付きの官僚たちや、侍従の規模が大きくなっていたことが挙げられるだろう。
この宮殿内で、ドミティアヌスの暗殺計画が練られ、実行に移された。

ただし、ドミティアヌスは猜疑心が強いため、常に警戒しており、簡単にことを成功させることはできない。
ドミティアヌスの散歩コースには、柱廊の壁に鏡状の大理石を使用し、暗殺者の接近がすぐにわかるようになっていたという。
また占星術師による占いの結果、ドミティアヌスは午前中に死ぬと予言されたため、彼はその時間を特に警戒していた。

ではドミティアヌスの暗殺はいかに行われたのか。
答えは、帝室付きの使用人が暗殺者として選ばれたのだ。
彼ら廷臣は、皇帝と常にともに過ごすので、近づくチャンスが十分にあったのである。
また、ドミティアヌスは帝室付きの解放奴隷を直前に死に追いやり、宮廷内からも孤立していたのだった。

こうして選ばれたのは、ドミティアヌスの姪ドミティラの家令(執事)であるステファヌス。
彼は怪我を装って左手に包帯を巻き、その中に短剣を忍ばせた。
そして密告と偽ってまんまとドミティアヌスの寝室に招き入れられると、隠し持った短剣を抜き放ってドミティアヌスの陰部に突き刺したのだ。

それでもドミティアヌスは応戦の構えを見せ、少年奴隷に枕元の剣を取るよう命じたが、すでに刀身は鞘から抜き取られていた。
さらになだれ込んできた侍従らに、計7ヶ所の傷を負わされたドミティアヌスは、ついに絶命した。

96年9月18日のことだった。
享年44歳。
晩年の恐怖政治に肝を冷やしていた元老院議員たちは、ただちにドミティアヌスをダムナティオ・メモリアエ(記憶の断罪刑)とし、公の記録から抹消した。

その結果、同時代の歴史家タキトゥスやプリニウスの酷評のみが伝わり、彼は暴君としての側面しか記録に残らない結果となってしまったのであった。

今回のまとめ

それではドミティアヌスについて、もう一度おさらいしよう。

  • フラウィウス朝3代目皇帝だが、父や兄のような軍事的功績はなかった
  • 風紀が乱れきったローマでのモラルの対応や大逆罪など、法を厳しく適用した
  • ただし自分のことになると、法の適用基準が甘くなり、他人にはダブルスタンダードに映った
  • 貨幣改悪や市民権の付与拡大までした軍に、反乱を起こされてしまった
  • 大逆罪や自らの趣向で議員や有力者を震え上がらせたが、暗殺に踏み切ったのは恨みを募らせた宮廷の人間だった

ドミティアヌスは、偉大な父や名君の名声高い兄を越えようと、皇帝稼業に真面目に取り組んだ人間だったが、あまりにも真面目に取り組みすぎたため、融通が効かず、元老院や宮廷内の人間から反発を招いてしまった。

しかし同時にドミティアヌスは、リメス・ゲルマニクスの建設など、ローマ帝国に必要な事業に一定の成果ものこしているのだ。
のちの皇帝、トラヤヌスはドミティアヌスをこう評したという。

ドミティアヌスは最悪の君主だったが、良き友人に恵まれた

彼は結局、初代アウグストゥスの創設した「市民の第一人者」、つまりおなじ市民でありながら、トップに君臨し権力を行使するという高度な「偽善」を実践しきれず、破滅を招いたのではないだろうか。

本記事の参考図書

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