古代ローマで行われた医療や医師たちのことを、あなたはご存知だろうか。
2,000年も前に行わていたにも関わらず、現代にも通じる手術道具や治療薬が使われていた一方、麻酔などの痛みを操作する術が未発達なため、壮絶な治療現場になることもしばしばあった。
また治療に関わった彼ら医師たちは、現代のように必ずしも収入がよく、結婚したいランキングに登場するような職業ではなかったのである。
では一体古代ローマではどのような医療が行われ、それに関わる医師はどのような人たちだったのだろうか。
この記事では、古代ローマの医師や医療について見てみよう。
※タイトル下のイメージは、「知」のビジュアル百科古代ローマ入門 から拝借させていただきました。
共和政末期までの医療の歴史
初期の医療
ローマ古来の医療といえば、民間医療だった。
日本で言えばおばあちゃんの知恵袋のようなもので、例えばこの草は止血や腹痛によいといった具体的に効果のあるものから、(本当にあるかどうかはともかく)部屋の中を3周して戸を4回叩くと悪霊が逃げていき、病気が回復するなど信仰に近いものまであった。
また医療知識は、家父長(家族で一番年上の男性)が身につけるものとされており、彼らは家族を治すために民間療法的な医療行為をおこなったようである。
ギリシア医学の到来
紀元前3世紀になると、ローマの領土が南イタリアにまで及び、マグナ・グラエキア(ギリシア本土以外の植民都市)に接触する機会も増えるに連れ、ギリシア医学とギリシア人医師たちがローマへと流入するようになった。
ギリシア人医師たちは、信仰的な民間医療に頼らない、なぜ治るかを理論的に説明できる科学的な医療行為を行う者たちだった。
彼らは半信半疑ながらも、ローマ人たちに影響を与えたのだろう。
ギリシア人医師の流入を示す具体的な例が、紀元前219年ごろローマへ公式に迎えられたギリシア人医師アルカガトスだ。
しかしアルカガトスは次の二つの理由により、ローマ世界で成功することはできなかった。
- アルカガトスの行った外科的処理がローマ人の反感を買った
- 彼の理論主義がローマ人に受け入れられなかった
しかし彼が成功できなかったのは、彼個人の問題というより、このころローマ世界に進出してきたギリシア人医師たちの問題でもあった。
つまり、ローマにわざわざ来るギリシア医師たちは、本国で成功できなかった医師たちであり、良心的なものがいる一方で、金銭目当てに不当な代金を要求したり、いい加減な理論を振りかざして医療行為を行う質の悪い医師も多かったのである。
ギリシア医師たちの広まり
その後、ローマが地中海世界へ領土を広げると、ギリシア人医師たちはますますローマ社会に組み込まれていく。
その多くは戦争捕虜や奴隷として連れてこられたもの、成功を求める外国人として、働き口を求める者たちだった。
ローマ側も、領土拡大に伴い医師の需要はますます大きくなったと考えられる。
紀元前1世紀、上記のような時代背景の中で、ローマに来て成功したギリシア人医師がアスクレピアデスである。
彼はもともと修辞学の教師をするためにローマにやってきたが、その後生計を立てるため医師に転向した。
アスクレピアデスが成功した理由は、なんといっても患者を実際に治療する臨床医としての腕に長けていたことだろう。
アルカガトスの例に見られるように、これまでのギリシア人医師が頭でっかちだったのに対し、アスクレピアデスは患者を治すことを実践し、効果をあげたのだ。
このアスクレピアデスの態度が、実利を重んじるローマ人たちの気質に合っていたのである。
古代ローマの医師の待遇
医師の身分と人々の認識
冒頭でも書いたとおり、古代ローマでは医師は憧れの職業ではなかった。
というより、どちらかというと卑しい職業とされていた。
理由は次の3つ。
- 医師はギリシア人から供給していたが、戦争捕虜の奴隷としてローマにくる事が多かったため
- 自由民でも、医療知識や治癒能力の怪しげな急増医師が多かったため
- 医療行為自体は尊いものだが、治療でお金を受け取ることは良く思われていなかったため
もちろん時代が下るに連れ、奴隷から解放されたり、医療行為が信頼される医師や医学史的にも重要な人物が登場するようになり、医師を見る目は徐々に改善したはずだ。
しかし当時は現代とちがい、ローマ人が医師たちを見る目は尊敬の眼差しばかりではなかったのである。
医師に対する優遇策
とはいえローマの領土が増えると、それに比例して医師たちの必要度も増してくる。
医師の数を確保するため、時の権力者たちは彼らに対しどのような方策をとったのだろうか。
前46年、カエサルはローマ市に住む教師と医師に対して、ローマ市民権を与えた。
これは医師たちに対して、ローマ市をより魅力的な都市としてアピールし、ローマ市に呼び寄せる狙いがあったようだ。
またカエサルの時代には、医師がより重要な存在になっていた証拠だといえるだろう。
後6年、大規模な飢饉でローマ市が食糧不足に陥った時、アウグストゥスは一部の例外を除いた奴隷や外国人たちをローマ市から追い出した。
しかし医師(と教師)は除外している。
アウグストゥスには、彼らがローマ市からいなくなった時の混乱を避ける目的があったようだ。
古代ローマの教師と医師についての著書、古代ローマのヒューマニズム(井上雅夫著) の中で、1874年にペルガモンで発掘された碑文が紹介されている。
その碑文によると、後74年に時の皇帝ウェスパシアヌスは、医師(と教師)に対して、次のような勅令を布告した。
- 医師や教師には、舎営の割りあてが課されることも、税金が要求されることも決してないこと
- 医師や教師を不法に傷つけたり、拘束したものは罰金を課されること
- 医師や教師は組合をつくることが許されること
舎営の割りあてとは、兵士たちの駐屯地に選ばれた都市では、兵士たちに自宅を提供して宿泊させる義務のこと。
宿泊費は家主持ちだったので、空間的金銭的な負担が大きかったが、医師はこの負担を免除してもらえたようである。
その他、医師については様々な優遇措置が取られているようなので、医師の重要度がますます大きくなっている証明だと言えるだろう。
古代ローマの医師の種類
家付きのパーソナル医師
古代ローマの医師として多いのが、富裕層の奴隷として買われた医者が侍医、いわゆるパーソナル医師になるケースだ。
彼らは奴隷や解放奴隷身分のものが多かった。
彼ら侍医は、家の中に待機しておくだけでなく、主人が戦争に行くときは主人と共に戦場へと趣き、また主人が旅をすれば旅のお供に付いていった。
開業医
外国からローマへやってきた自由民は、開業医、いわゆる町医者になることが多かった。
彼らは自宅の一室を治療室として使用し、治療を行っていたようである。
また開業医の名声が上がると、皇室に召し抱えられることもあった。
公共医師
公共医師とは、各都市から治療費が支払われる医師のこと。
古代ローマ時代には、すでにパブリックな医師が存在していたのである。
治療費のほかに、都市から診察室を提供されることもあった。
軍医
古代ローマ時代は、初めて軍医制度が確立した時代としても有名だ。
軍の中で治療を行う軍医は、兵士たちの負傷や病気の治療を行った。
また戦場だけではなく、軍事病院でも医療を行っていた。
古代ローマの医療費
では古代ローマの医療費は一体どれぐらいかかったのだろうか。
これは医師によってまちまちで、ピンからキリまであったようだ。
例えば2世紀後半に活躍したガレノスのような名医の場合、1回の診察で天文学的な医療費を請求していたらしい。
ただし、このような医師は例外中の例外で、無名な町医者なら限られた額しか要求できなかっただろう。
どちらにしろ、資産を作ることができるぐらい大きな額を請求できた医師は、ローマでの待遇や身分的なことから鑑みても、そう多くはなかったはずである。
医師になる方法と資格
医師への道のり
古代ローマの医師の待遇で説明したとおり、身分的なことや人々の医師に対する認識から、医師は積極的になりたい憧れの職業というわけではなかった。
それでも医師になりたいものは、どのような道を歩めばよかったのだろう。
裕福な家庭に生まれた場合、ある程度の教育を終えたあと、医学の本場へ積極的に遊学する方法があった。
例えばガレノスは、出身地が東方のギリシアに含まれる上、裕福な家庭に生まれたため、医学の盛んな地域を遊学し、アレクサンドリアの図書館で医学の触れる機会があった。
このように、自ら知識を吸収して医学を学ぶ方法をとったのである。
親が医師の場合、子供は親の助手を務めることで、現場の医療知識を学ぶことができた。
また親が蓄積する医学書を目にする機会にも恵まれていただろう。
この場合、親が子供の教育を担うので、医学的な教育費は無料だった。
とくに古代ローマ時代の女医は、親が医師だった例が多かったようである。
しかし親が医師ではない場合はどうしたか。
基本的に医師のもとで見習い生(弟子)となり、助手を務めながら実地訓練を受けるのは、親が医師だった場合と同様だ。
ただし受け入れる医師は、見習い生から訓練費用を受け取って教育を行っていた可能性がある。
こちらは確たる証拠がないため、あくまで可能性でしかないが、十分考えられるケースだろう。
もう一つ特殊な例として、奴隷が医師の訓練を受ける場合がある。
彼らは教えてもらう医師も元奴隷の解放奴隷で、同じ主人のもとにいた間柄だったようだ。
ではなぜ奴隷の医師がさらに下の奴隷に教えたのか。
実は奴隷に教育を施す医師は、新たな主人のもとに自分が育てた奴隷医師を貸し出し、利益を得ていたのである。
医師の資格
では最終的に医師と認められる資格はどのようなものだったのか。
実は古代ローマでは、医師と名乗れば誰でも開業することができたのである。
そのため、医師とは名ばかりのインチキ医師やヤブ医者、質の低い医師たちが横行することもあった。
また、医師と名乗れば市民権の付与や免税などの特権を得ることができたため、アントニヌス・ピウス帝は一つの都市に最大何人までの医師しか認めないと制限を設けたようだ。
古代ローマの診療場所
総合病院などない古代ローマでは、患者はどこで医師たちの診療を受けたのだろうか。
富裕層
ドムス(戸建て住宅)を持つ富裕層の場合、奴隷の医師や巡回医を招いて、自宅で診療してもらった。
もちろんこの時代、診察室と治療室の区別などなかったので、診察室で外科手術を行うことも珍しくなかった。
一般の人々
戸建て住宅ドムスを持たない一般庶民は、開業医の自宅の一室で診療をしてもらった。
また都市によっては、手術室が町の一角に提供されている場合もあった。
軍人
軍人の場合、傷の手当は戦場の陣営か、行軍途中の都市にある富裕層が提供した自宅を利用して行われた。
また、軍人専用の軍事病院が設立されたため、彼らはそこでも軍医から治療を受けることができた。
その他
珍しい例では、主人が病気で役に立たないと判断された奴隷たちの収容場所に、ローマ市を流れるティベリス川の中洲にあったアスクレピオス神殿がある。
ここは治療というより療養施設だったようで、彼らはここで(奇跡的にも)病気が治ると奴隷から解放されたという。
古代ローマの医療道具
古代ローマでは、現代にも通じる道具が医療で使われていた。
ここでは外科手術に使われていた、医療道具の一部を紹介しよう。
メス
古代ローマでは、細かい作業から筋肉切断、脊柱管の切開用まで、実に10種類以上ものメスが使われていた。
また、メスの中にははが交換できるものもあるようだ。
鉗子
鉗子とは、モノを掴んだり、抑えたり、引っ張ったりする道具のこと。
体内に刺さった破片や矢を取り除くときに使用した。
また、抜歯に使われることもあった。
カテーテル(S字管)
驚くべきことに、古代ローマではカテーテルが使われていた。
彼らは尿管からカテーテルを差し込み、膀胱結石を除去する治療も行っていたのだ。
その他
もちろん古代ローマでも、治療のために様々な植物を調合した薬草を使っていた。
ただし麻酔はなかったので、アルコールやアヘンなどの麻薬を混ぜた飲み薬で意識を朦朧とさせ、現代の全身麻酔の代用としていたようだ。
また変わったところだと、足型の陶器に湯を入れた湯たんぽを使って、関節症や関節炎の治療をすることもあった。
古代ローマの外科手術
ここでは古代ローマで行われていた外科手術の一例、頭頂部を切開する様子を紹介しよう。
手順1. 痛覚を鈍くする薬を飲ませる
何度か記述しているように、古代ローマには全身麻酔がなかったので、麻酔代わりにアヘンなどの麻薬やきついアルコールを飲ませて意識を朦朧とさせ、痛覚を鈍くする処置を行った。
手順2. 体を抑える or 縛る
いくら痛覚を鈍くしたとはいえ、患者が痛みに耐えられず暴れる危険もある。
そこで子供程度なら助手が手足と頭を抑える程度で動きを封じることができたが、成人男性の場合だと体全体を台座に縛り付けた。
手順3. 頭頂部を切開する
頭頂部の切開は、次の手順で行う。
- まずメスで表面の皮膚を剥がす
- 頭蓋骨から皮膚を剥がしたあと、環状カッターのような道具を折りたたみ式の小さな弓を上下して回転させ、頭蓋骨に穴をあける
- 必要な処置をする
ただし、これは大人の場合で、子供だと頭蓋骨が薄いために脳を傷つけてしまう恐れがあったため、より小さな円形の錐のようなものを使ったようだ。
手順4. 手術部位をつなぐ
必要な処置を終えたあと、頭蓋骨の蓋をし接合する。
この時、古代ローマでは縫合ではなく骨製のピンで止めていた。
手順5. 傷口の後処理をする
最後に手術箇所に、瘢痕化(皮膚が元通りになるのを促すこと)のため、湿布を当てたり薬草を調合した軟膏を塗った。
古代ローマの有名な医師たち
最後に古代ローマの有名な医師たちを紹介しよう。
すでに共和政末期までの歴史ですでに紹介した、アルカガトスとアスクレピアデスは除くことにした。
ケルスス
前1世紀から後1世紀、アウグストゥス帝からティベリウス帝の頃にいたとされる人物。
ただしこの人物は謎が多く、プラノーメン(個人名)さえ不確定のようだ。
彼は医師というより博物者的医学者で、『医学論』を著した人物として有名。
『医学論』の中には、白内障の除去や結石の処置、骨折の治療などが記してある。
またケルススはガンの英名『cancer』のもととなるラテン語の名付け親でもある。
アントニウス・ムーサ
紀元前1世紀から後1世紀にかけて活躍した、アウグストゥスの侍医。
前23年、アウグストゥスが死を覚悟するほど重い病気にかかった時、冷水治療法を提案して採用され、見事完治させた実績をもつ。
しかし同じ病に倒れたアウグストゥスの甥であるマルケッルスにもこの治療法が試されたが、残念ながら命を救うことはできなかった。
クセノフォン
紀元1世紀に活躍し、クラウディウス帝の侍医にまで上り詰めたのが、クセノフォンだ。
彼はコス島(アナトリア半島の南西部)にある島の出身で、比較的医学が盛んな土地だった。
彼はナポリで開業医として成功し、相当な資産を得た。
そしてクラウディウス帝の侍医となってからは、コス島のことを訴えて、島民全員の税を免除してもらったようである。
しかしクセノフォンは、その後ネロの母アグリッピナと共謀し、クラウディウス帝の毒殺に関与したという。
ディオスコリデス
ディオスコリデスはネロ帝の治世下で活躍した人物。
彼はブリタニアで軍医を務めたほか、薬学者や植物学者としてローマ中を旅したようだ。
彼の著した全5巻からなる『薬物誌』は、古代最高の薬学書と言われており、ディオスコリデスはしばしば「薬理学の父」、「薬草学の父」と称される。
ガレノス
古代ローマ最高峰の医師として名を残す有名な人物。
裕福な家庭に生まれたガレノスは、若い頃から医学を極めるため各地に遊学する。
剣闘士訓練所付きの医師を務めたあと、ローマに趣き開業医として評判を得ると、時の皇帝マルクス・アウレリウスの侍医となった。
ガレノスの詳しい説明はガレノス ―1,500年もの間、著作が医学の規範となった古代ローマ一の名医―でもしているので、興味ある方はご一読いただくといいだろう。
今回のまとめ
それでは古代ローマの医師と医療について、おさらいしよう。
- 民間医療中心だった古代ローマに、ギリシアで行われていた科学的な医療が到来したのは、紀元前3~2世紀ごろ
- 医師は身分的に低く見られ、また卑俗の職業として人々から認識されていた
- 医師の需要が増えたため、時の権力者に優遇措置が与えられた
- 医師にはさまざまな種類がおり、医療費もピンキリ
- 医師に資格はなく、医師への道も数種類あった
- 古代には驚くほど多様な医療道具があった
古代ローマの医師は、尊敬と軽蔑の二種類の目を、常に気にしていたように思う。
それでも彼らは、需要の増えたローマ帝国で医療を発展させ、現代にまで至る医療の道筋を残したのである。