第二次ポエニ戦争Ⅱ ―ハンニバルのアルプス越えからトレビアの戦いまで―

ローマとカルタゴの決戦 第二次ポエニ戦争その2

ローマの同盟都市サグントゥムをハンニバルが落としたことで、ローマとカルタゴは再び戦争へと突入した。

ハンニバルは弟ハスドゥルバルにスペインを任せ、対ローマ戦の秘策を胸にエブロ川を渡る。

一方ローマでも、ハンニバルの本拠地スペインとアフリカ本土を急襲すべく、両執政官軍を送り出す。しかしローマの予想よりも遥かに早く、ハンニバルはローヌ川へと到達。さらに彼はイタリア本土に乗り込むべく、アルプスへと向かっていた。

ハンニバルのアルプス越え

ローヌ川渡河後の集会

アルプス越えに入る少し前、ローヌ川を渡ったところで、ハンニバルは北イタリアのポー川流域から来たガリア人、ボイイー族の首長マギロスたちに、兵士の前で話をさせた。

ガリア人がローヌ川まで迎えに来ていることで、アルプス越えの道案内があること、道中の食糧が約束されていることを、ハンニバルは兵士たちに示したのである。

このことは、アルプス越えがハンニバルの思いつきではなく、

  • 事前に計画を練っていたこと
  • 現地人との交渉で道筋を確保した上でのこと

なのだ。

こうしてハンニバル軍は川沿いに東へと進み、アルプス山中へと向かった。

アルプス越えのルート

アルプスを越える。それ自体は現地のガリア人にとって珍しいことではなかった。ローマと戦うため、北イタリアに住むガリア人が、アルプス以北の別の部族に援軍を求めたことは、第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―ローマの情勢でも書いたとおりだ。

ハンニバル軍はローヌ川渡河の時点で、

  • 歩兵:38,000
  • 騎兵:8,000
  • 戦象:37頭

だったという。

この4万を超える集団、それも馬や荷運び用の獣、さらに戦象までいる軍隊が、秋口に差し掛かるアルプスを越えること。それが前代未聞だったのだ。

さて、ハンニバルはローヌ川沿いを上流へと登り、支流のイゼール川沿いに東に折れたところまでは史料が一致するものの、そこからどこを通ったか諸説あるものの、はっきりしたルートはわかっていない。

しかし大別すれば、次の2つになる。

  • 北ルート:イゼール河谷(川の流れでできた谷)のどこかから登るルート
  • 南ルート:イゼール川より南のドローム河谷などからアルプスへ入るルート

ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて(講談社学術文庫)の著者である長谷川博隆氏は北ルートを採用し、興亡の世界史 通商国家カルタゴ(講談社学術文庫)の共同著者、栗田伸子氏は南ルートが説得的と書かれている。

アルプスに足を踏み入れたことも、旅をしたこともない私には、ハンニバルがどのルートを通ったか、正直言ってさっぱり検討もつかない。

だが、ハンニバルがどこを通ったかではなく、アルプスを越えるために何を考えてそのルートを選び、どのようにアルプスを越えたか、という点こそ私は記したい。

ハンニバルにとっての優先事項は、言うまでもなく

  • より早くイタリアに着くこと
  • なるべく兵力を温存して敵地に入ること

である。

彼にとって優先事項を実現するには、アルプスに住むガリア人諸部族のうち、どれが友好的でどれが敵対的かを見極め、敵対部族の土地を回避することが大事だった。

道中の情報はガリア人からすでに得た。あとはハンニバルがどのように通るか、である。

アルプスでの15日間

ハンニバルのアルプス越え絵画
ハンニバルのアルプス越え
Heinrich Leutemann / Public domain

ハンニバルがアルプスの登り口についてから約半月、ローマからすればハンニバル軍の情報がつかめなくなった15日間もの間、ハンニバルはどのように過ごしたのか。

登頂前
アロブロゲス族領主の兄弟争いに介入し、食糧などを確保
1~3日目
ハンニバル、一計を案じて攻撃するアロブロゲス族を撃退する
4~6日目
順調な行軍が続く
7~8日目
ハンニバル軍、アルプス部族の攻撃にあうが撃退する
9日目(頂上)
ハンニバル、山頂に到着
10~12日目
ハンニバル軍、がけ崩れに立ち往生する
13~15日目
ハンニバル軍、下山を終えイタリア平原に到着

【登頂前】アロブロゲス族領主の兄弟争いに介入し、食糧などを確保

ハンニバル軍はアルプスに登る前、ポリュビオスのいう「島(おそらく川の中州)」で、ガリア人部族の一つアロブロゲス族が、統治権をめぐって兄弟で争っているところに出くわした。

ハンニバルは兄を支援することに決め、弟を追放する。兄は感謝の印として、ハンニバル軍にアルプス越えの食糧を提供した。そのうえ武器や衣服、装備をすべて提供し、さらに護衛までつけて送り出したのである。

【1~6日目】ハンニバル、一計を案じて攻撃するアロブロゲス族を撃退する

ところが護衛が引き返し、いよいよ山道に差し掛かろうとした時、アロブロゲス族の攻撃が始まった。なぜ護衛までしたアロブロゲス族が攻撃したのかは謎だが、もともとこの部族はハンニバル軍に対して敵対的な態度だった。

おそらくアロブロゲス族のなかでも様々な集団があり、護衛をつけた兄王とは違う一派からの攻撃、もしくは追放された弟からの復讐だったのかもしれない。

ともかく被害が増える前になんとかしたいハンニバルは、一計を案じることにした。

アンブロゲス族は「猫山」と呼ばれる高地を占拠していたが、なぜか夜には隣町へと引き返すことを、ハンニバルはマギロスから聞いていた。

そこで彼は日が暮れる前に土塁を並べて陣営を築くと、夜には明かりを必要以上に燃やすことで、敵の注意を陣営にひきつける。そして敵の目が集中している間に、あらかじめ選抜した軽装歩兵を「猫山」に向かわせ、占拠したのである。

夜が明けると、アンブロゲス族は何が起こったのかを知ったのだ。今まで自分たちがいたところに、敵の姿があることを。

それでも彼らは、先頭にいる騎兵や象がゆっくりと進んでいるのを見て襲いかかってきた。ハンニバル軍は彼らの攻撃より、道の狭さに苦戦し、混乱をおこしたことで滑落し、犠牲者が増えていった。

しかし高地を占拠した兵たちが応援に駆けつけたことで、ようやく形成が逆転し、ハンニバルは部族の本拠地を占拠することができたのだった。敵の備蓄品を収奪した彼らは、1日の休息日をはさみ前進する。

4日目から6日目までは比較的順調に山道を進むことができた。しかし7日目にして、またしてもハンニバル軍に困難が立ちはだかる。

【7~9日目】ハンニバル軍、アルプス部族の攻撃にあうが撃退する

次にハンニバル軍を待っていたのは、地元アルプス部族による歓迎だった。彼らは戦うの意志がないことを示すため、人質を差し出したほか、山の案内役まで買って出た。ただしこれは友好を装った、彼らの罠。

しかしハンニバルはこの歓迎が偽りだと見抜いていた。だが、あからさまな疑いの目を向ければ、彼らが表立って歯向かう恐れがある。

そこでハンニバルは信じた素振りを見せ、彼らを刺激しないようにした。

しばらく進み難所に差し掛かったころ、予想通りこの部族から攻撃を受けた。ただしハンニバルは用心のため、荷を運ぶ輜重隊と騎兵を先に進ませ、重装歩兵に後衛を任せていたため、全滅をまぬがれたのである。

それでもこの部族による攻撃は、ハンニバル軍の戦力を確実に削っていく。しかし彼らは後ろにいた見慣れない生物――戦象たち――には手をださなかった。ハンニバル軍は、象たちに命を救われたのだった。

次の日も散発的な攻撃が続いたものの、それも次第になくなっていく。そして9日目、ついにハンニバル軍はアルプスの頂上に到達した。山頂付近には、すでに雪が積もっていた。

【10~12日目】ハンニバル軍、がけ崩れに立ち往生する

下りは山岳部族の攻撃こそなかったものの、行軍はさらに難しくなる。その極めつけが10日目にして起こった。ハンニバル軍の行く手をがけ崩れが阻んだのである。

ただでさえ狭い道に加えて、急勾配の坂道。積雪のため少しでも道を踏み外せば、止まるまで斜面を転がり落ちるしかない。それは死を意味していた。

ハンニバルはまず迂回を考えた。しかし雪が積もった今となっては、その道すら探し出すことは難しい。下手に道を外れると、道のないところを踏み抜く恐れがあった。

迂回もできず、通る幅もない狭い道で、ハンニバルは一体どうしたのか。

彼はまず尾根近くの雪をかき分けさせ、そこに野営地を築いた。そして塞いだ土砂を切り崩す開削工事に取り掛かったのである。この工事にはヌミディア兵が動員された。

ハンニバルは掘削のため、あらゆる技術を使った。道を塞ぐ巨岩を火で熱した後、酢を注いで割れやすくし鉄で砕いた、とリウィウスは書いている。

ただし、このテクニックはローマ人のトンネル掘削技術とよく似ているため、もしかしたらリウィウスが、ローマの技術を彼らに当てはめただけかもしれない。

ヌミディア兵による懸命な作業の結果、まず1日目で馬や荷を運ぶ動物が通れる広さになった。そして3日目、ついに象が通れる広さにまで、塞いでいた道を広げる事ができた。

この時、食べるものが尽きかけていた象たちは、やせ細った姿でようやく通り抜けたのだった。

【13~15日目】ハンニバル軍、下山を終えイタリア平原に到着

そして15日目、ハンニバル軍は冬に差し掛かろうとしていたアルプスを越え、とうとうイタリアの平原に降り立った。カルタゴ・ノウァから出発して5ヶ月後のことである。

アルプスに入る前は4万以上もいたハンニバル軍は、この時

  • リビア歩兵:12,000
  • イベリア人歩兵:8,000
  • 騎兵:6,000

にまで減っていた。約半数の兵が失われたのである。アルプス越えが、いかに過酷だったかを物語っているといえるだろう。

ただし、兵の損失割合を見てみると、歩兵が減った割合よりも騎兵が減った割合のほうが、圧倒的に少ないことがわかる。歩兵は半数近く減っているのに、騎兵は1/4程度なのだ。さらに象たちはかなりの数が残ったという。

これはハンニバルが、いかに動物を残すために気を使ったのかを示しているのではないか。やはりハンニバル軍のキモは騎兵だった。

ティキヌス河畔の戦い

タウリニ族の抵抗

ハンニバルはもともと、北イタリアのガリア人(ボイイー族)と関係を結び、この地に降り立ったのだが、この地のガリア人たちすべてがローマに反抗的だったわけではない。その一つが、ポー川上流域に住むタウリニ族だった。

彼らはやってきたハンニバル軍に対し抵抗を示す。そこでハンニバルは彼らの首府であるタウラシア(現トリノ)を落とし、占領した。これにより、ポー川上流域のガリア人部族がハンニバルの傘下に入ることとなる。

センプロニウス、北イタリアへと引き返す

一方、マッシリアから引き返してきたスキピオは、ハンニバルがアルプスを越える前に、すでにプラケンティア(現ピアツェンツァ)に到着していた。ではなぜタウリニ族を攻撃するハンニバルを迎え撃たなかったのか。

第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―ローマ側の対応でも述べたとおり、この地に派遣されたローマ兵は、反抗するガリア人対策のための兵なので、本格的な軍隊と戦うための訓練をうけていなかったのである。

そこでスキピオは、もうひとりの執政官であるセンプロニウスと彼の率いる軍を呼び戻し、ハンニバル軍に対抗する必要があった。

アフリカ上陸を目前に控えたセンプロニウスは、シチリア南にあるマルタ島をすでに占拠したにもかかわらず、イタリアへと兵を引き返した。これは事実上のアフリカ上陸作戦断念であり、ハンニバルの速さが勝った証だった。

戦い前のハンニバルの演説

とはいえスキピオも手をこまねいて見ているわけには行かなかった。なぜならハンニバルの好き勝手を許すと、北イタリアの他のガリア人たちの反乱を招きかねないからである。小競り合いにしろ、ハンニバルから勝利を上げてローマ軍ここにあり、とわからせる必要があった。

そこでスキピオは、センプロニウス合流前に騎兵2,000を率いて出発した。プラケンティアとタウラシアの中間地点、ティキヌス川(現ティチーノ川)まで進み、そこでハンニバル軍と対峙する

スキピオはハンニバルのアルプス越えが、あまりにも早かったために驚いたようだが、同じようにハンニバルもスキピオが自分の前に姿を現したことに舌を巻いた。自分の行動を予想する想像力と、その決断の速さに。

ハンニバルは戦いを前に兵士たちを集め、アルプスで捕虜にした者たちを引き出した。体は殴られて痣だらけ、飢えに苦しみ鎖で繋がれた彼らの前に、ガリア王族が決闘のときにつける甲冑と馬、高価なマントを置いて捕虜たちにこう言った。生死をかけて戦いたいものはいないか、と。

勝てばここにならべた品物と自由を与える。もし負けたとしても今の惨めな境遇から解放されるのだ。

捕虜たちは戦いを熱烈に望み、くじによって選ばれた二人が対戦することになった。一人が勝ち、もう一人が斃れる。勝者はもちろんのこと、敗者にももう苦しまなくてもよいのだ、という羨望の眼差しが集まった。

それを確かめ終えると、兵士たちにハンニバルは言った。

諸君も似たような状況に置かれているのだぞ。勝つか、死ぬか、もしくは敵の捕虜となるか……勝てば甲冑どころではない、ローマの富が諸君のものとなる。武運つたなく倒れても、死が苦痛から救ってくれる。だが、敗者となり、逃げたり捕虜となったら、それこそ無限の苦しみが待っているのだ。(中略)要するに諸君の運命は先のケルト人(アルプス部族)捕虜と同じなのだ。勝って生きのこった者と死んだ者をたたえ、あとの者を憐れんだではないか。戦え、勝つために。それが駄目なら死ぬために。敗れて生きながらえようとは考えるな。その気になれば勝利と命は諸君のもの。敵は故郷がすぐそばだから、逃げても助かると安心している。腰が入っていない。だから捨て身のわが軍に勝てるはずがないのだ

カルタゴ興亡史 ある国家の一生 七 ハンニバルと第二次ポエニ戦争(カンナエまで)

ハンニバルの演説をざっくりまとめると、次のようになるだろう。

ここまで来た以上、君たちは今しがた見た捕虜と同じような境遇だから戦うしかない、ローマは弱いから必ず勝てる

ピレネー山脈を越え、ローヌ川を越え、冬のアルプスを越えた兵士たちは、ハンニバルの演説に何を思っただろうか。

ヌミディア騎兵、ローマ騎兵を破る

ハンニバルに弱いと言われたローマのスキピオも、戦いの前兵士たちに熱弁を奮っていた。

ローヌ川で騎兵同士の戦いを思い出せ。敵将は退却し、仕方なくアルプスを越えてきたのだ。その道中で半数を失い、また生き残りも疲れて戦いどころではないだろう

騎兵同士の戦いでは自分たちが勝ったのだから、今度も勝てるだろうと兵士たちを励ましたのである。

ところが演説の3日後、両軍がまたも騎兵同士で激突すると、スキピオの言葉は完全に覆された。

まず騎兵の数に圧倒的な差があった。ハンニバル軍のヌミディア騎兵6,000に対し、ローマ騎兵2,000しかいない。

さらに顕著だったのは、ヌミディア騎兵の操馬術が、ローマ騎兵よりも巧みだったのである。鐙(あぶみ)のなかったこの時代、馬を乗りこなすには相当な技術が必要だった。

子供の頃から裸馬に乗って遊び、馬上でも両手を離して武器を扱えるヌミディア人に対し、ローマや同盟軍の騎兵では、その技術力に太刀打ちできなかったのである。

この戦いでハンニバル軍は勝利し、ローヌ河畔の敗北を取り返した。一方のスキピオはこの戦いで負傷し、ポー川の南岸まで退却するしかなかった。

トレビアの戦い

ティキヌス河畔の戦いの影響

本格的な会戦での勝利ではなかったとはいえ、ハンニバル軍が勝った影響はやはり大きかった。

まずポー川流域のガリア人最大部族であるインスブレス族が、ハンニバルに味方した。さらにスキピオ陣営にいたガリア人も、ハンニバルに鞍替えするものが続出したのである。その数2千以上。しかし信用のおけないこのガリア人たちを、ハンニバルは故郷へと返している。

さらにポー川流域にハンニバル軍の影響が及んだため、最終的に14,000ものガリア兵がハンニバルのもとに集まる。そのうち5,000が貴重な騎兵だった。

ガリア人の離脱に危険を感じたスキピオは、陣を引き払うとトレビア川の丘陵に布陣しなおした。斜面の多い土地では、ハンニバル軍の騎兵威力を削ぐことができると考えたからだ。

事実、ハンニバルは8km離れた場所に布陣すると、ハンニバル軍に反抗的なガリア人の土地を荒らしローマ軍の物資を略奪しているだけだった。私の考えだが、あえてスキピオを叩かずセンプロニウスとの合流を許したのも、この期間に加わったガリア騎兵を鍛えるためだったと思う。

センプロニウス軍の合流

ともかく12月の半ば、センプロニウス軍はスキピオと合流した。騎兵戦に敗北したことを聞いて不安を覚えた市民たちも、センプロニウス軍がローマ市内を通り抜けて北へ向かうのを確認すると、勝負はついたと安心した。

そのセンプロニウスは、周辺を荒らし回るハンニバル軍にさっそく戦いを挑み、これを退かせている。なし崩しで会戦に入ることを避けたハンニバルが、早めに退却のラッパを鳴らしたからだが、センプロニウスはこれで「ハンニバル恐れるに足らず、早期決戦すべし」と考えるようになった。

しかしスキピオは、戦いを急ぐべきではないと考えていた。その理由は次の2つ。

  • 気移りが激しいガリア人は、時間が経てば気が変わってハンニバルから離脱するであろうこと
  • 自分の傷が癒えるので、協力して戦うことができること

しかしセンプロニウスは耳をかそうとしない。彼の早期決戦を押す理由は、他にもあったからだ。

その理由とは、執政官の任期が1年であり、年末の期限までにハンニバルを叩いて功績を得たいという功名心。うまく行けば、ローマ人最大の名誉である凱旋式も挙行できるのではないか――。

負傷している今、全軍の指揮権はセンプロニウスに譲らざるを得ないスキピオは、彼の考えに従うしかなかったのである。

一方のハンニバルも短期決戦を望んでいた。彼もスキピオと同じくガリア人たちの性質は熟知していたので、勢いのある今ガリア人のパワーを利用したかったのだ。また、このまま長引いてローマ兵の訓練が進むことも避けたかった。

ハンニバルは、センプロニウスが決戦を挑む目算を立てていたに違いない。執政官の任期が焦りを生むことは、第一次ポエニ戦争でアフリカ上陸を果たしたレグルスの例もある。

それに彼は、この後の戦いを見ても分かる通り、心理戦を制する抜群の才能があった。

冬至の決戦

会戦が行われたのは前218年12月の終わり、冬至の日。

戦闘の前日、ハンニバルは弟のマゴに精鋭2,000(歩兵1,000、騎兵1,000)を与えると、別働隊としてトレビア川岸のはるか南に送り出して待機させる。そして次の日の早朝、ヌミディア騎兵にトレビア川を渡らせた。

ハンニバル軍迫る!

この報を受けたローマ軍は、食事もろくに取れず迎え撃つ羽目に陥った。しかし先発のヌミディア騎兵は以外にもろく、ローマ軍の反撃に次第に押されてトレビア川左岸に退いていく。

ローマ軍は勢いに乗り、押し返したついでに川を渡った。12月の凍てつく寒さの中、川の水も氷のような冷たさで、胸まで浸かる兵士たち。そして彼らを待っていたのは、戦の準備が完全に整ったハンニバル軍の整然とした陣形だった。

ヌミディア騎兵が退いたのは、ハンニバルの計略の一部だったのである。ハンニバル軍は腹ごしらえをし、暖も取り、準備万端で待ち構えていたのだ。

トレビアの戦い図 その1
トレビアの戦い 布陣図

左岸に渡ったローマ軍は押し返されたので、慌てて援軍を求めた。この時点でローマ軍は左岸に全軍引きづりこまれたことになる。

この時の両軍布陣は、次の通り。

ローマ軍

正規軍歩兵16,000、同盟軍歩兵20,000、騎兵4,000。

  • 最前列:軽装兵
  • 中央:重装歩兵
  • 両翼:ローマ騎兵、同盟軍騎兵

ハンニバル軍

歩兵20,000、騎兵1万以上、軽装兵、弓兵など8,000。

  • 最前列:軽装兵
  • 中央:ガリア歩兵と、左右にイベリア、リビア両歩兵
  • 両翼:ヌミディア騎兵、イベリア騎兵、ガリア騎兵

特別寒い日だった。氷雨が降ったあと、やがてそれは雪に変わる。川を渡ってずぶ濡れになり、食事もろくに取れなかったローマ軍は、それでも懸命に戦いを挑んだ。

ローマ軍は自らの強みである重装歩兵で、ハンニバル軍中央を押し込んでいく。一方ハンニバル軍は数で遥かに勝る騎兵戦を制し、ローマ騎兵を蹴散らした。

そしてハンニバル軍中央部の歩兵が耐えきれず、ローマ軍に突破されたその時、別働隊のマゴが到着、左右の騎兵とともにローマ軍を後ろから包囲したのである。

トレビアの戦い図 その2
トレビアの戦い 展開図

ローマ軍は大混乱に陥った。それでもセンプロニウスは、かろうじて突破できた兵1万をまとめ上げ、プラケンティアまで退却する。しかし残りの2万数千にも登るローマ兵は、背後の川と敵に挟まれ、騎兵と象の餌食となって全滅したのだった。

本格的な初めての会戦で、ハンニバルは大きな勝利を手にした。ハンニバル軍の死者のほとんどが、中央にいたガリア人だったという。しかしこの冬の寒さのせいで、ハンニバルの連れてきた象たちは、1頭を残しすべて死に絶えてしまったのである。

本記事の参考図書

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