第二次ポエニ戦争Ⅴ ―スキピオのカルタゴ・ノウァ急襲からスペイン制圧まで―

ローマとカルタゴの決戦 第二次ポエニ戦争その5

カンナエの衝撃は、全地中海世界にまで波紋を広げ、ヘレニズム国家随一の強国マケドニアと、シチリアのシュラクサイが、カルタゴとともにローマと戦うことを決めた。

またイタリア半島でも、カンパニア地方の中心都市カプアを筆頭に、南イタリア各地でハンニバルに門戸を開く同盟都市が現れる。

しかし全方位からなる包囲網を、ローマは優位な戦力差で徐々に押し返し、スペイン、サルディニア、マケドニアで戦況を挽回。そしてシュラクサイを陥落させると、カプア奪回に取り掛かった。

ハンニバルはカプアを救うためローマへと向かうも、すでに守備隊が街を守っていたため計画は頓挫。再び南イタリアへと引き返すハンニバルを尻目に、ローマはカプアを落とし、ついにカンパニア地方を取り返すことに成功した。

スペインでのローマ軍

コルネリウス兄弟のスペイン作戦

第二次ポエニ戦争Ⅳ ―マケドニア・シュラクサイの対ローマ参戦からカプア奪回まで―の最後にも記載したとおり、ローマのカプア奪回と同時期に、スペインではローマ軍が撤退直前まで追い込まれるが、その前にこれまでのスペイン戦線をおさらいしてみよう。

前215年、エブロ川付近でカルタゴに大勝したスキピオ兄弟率いるローマ軍は、前214年にも勝利を重ね、南スペインの玄関口サグントゥムに迫った。

この苦しい状況で、カルタゴにとっては泣きっ面に蜂とも言えるお家芸、ヌミディアの反乱が前213年に勃発し、ハスドゥルバルがスペイン兵を率いてアフリカに戻らなければならなくなった経緯も、すでに述べたとおりだ。

まだあなたが読まれてなければ、ご一読いただくといいだろう。

ヌミディア王国について

この時反旗を翻したヌミディアの王がシュファックスである。反乱はほどなく鎮圧され、ハスドゥルバルは増援軍とともにスペインへと帰還する。この援軍の中に、ギスコの子ハスドゥルバルと、ヌミディア王ガイアの子(つまり王子の)マシニッサがいた。

ギスコの子ハスドゥルバル(ハスドゥルバル・ギスコ)

カルタゴの貴族。父ギスコは、第一次ポエニ戦争末期にリリュバエウムを担当していた将軍。傭兵戦争 ―リビア戦争とも呼ばれるカルタゴ最大級の内乱―で、反乱を防ぐために傭兵たちと交渉したが、捕らえられて殺された。

ここであなたは、「あれっ?」と疑問に思われたかもしれない。なぜ反乱を起こしたヌミディアが、カルタゴに手を貸すのかと。

実は、ヌミディア王国と一口に言っても、その実態は地方ごとに異なった部族が存在する連合体、と考えていただくといいだろう。

その西側で現在のモロッコ北部、スペインに正面するジブラルタル海峡あたりからアルジェリアの北西部あたりをまとめ上げていたのが、マサエシュリー族の王シュファックスである。

一方、カルタゴの応援に向かったヌミディア人は、マッシュリー王国に住む人たちだ。彼らの国は、現在のアルジェリア東部からチュニジア西部、カルタゴにより近い地域に存在していた。

そのためカルタゴと密接に関わっており、マッシュリー王国のヌミディア貴族がカルタゴ貴族と婚姻関係を結ぶこともあった。傭兵戦争時に登場したヌミディア貴族のナラウアスが、ハミルカル・バルカの娘と結びついたのも、この延長と見てよいだろう。

コルネリウス兄弟の死

ここで話をもう一度、スペインでのカルタゴとローマの戦いに戻す。

ハスドゥルバル・ギスコと、ヌミディア王子マシニッサの援軍を得たバルカ家のハスドゥルバル(ハスドゥルバル・バルカ)は、ローマ軍に反撃を試みた。

サグントゥムを攻略し、グアダルキビル川まで迫っていたコルネリウス兄弟は、スペインのカルタゴ軍と決着を付けるため、ケルティベリア人2万を自軍に引き入れた。かねがね戦力不足を本国の元老院に訴えたが、ローマも彼らに援助をする余裕がなかったので、現地で補う必要に迫られたのだ。

しかしこの行動が裏目に出る。カルタゴ側の工作で、軍に編入したスペイン現地民の裏切りにあったのだ。前211年、兄プブリウスはマゴとハスドゥルバル・ギスコ、マシニッサの連合軍に破れ、また弟グナエウスもハスドゥルバル・バルカ、マゴ、ハスドゥルバル・ギスコに負け、ともに戦死してしまう。

カルタゴ将軍たちの不和

この結果、エブロ川以南はカルタゴの手にもどり、エブロ川の北でも多くの部族がカルタゴと手を結ぶようになった。ここで一気にローマ軍を攻めれば、スペインからローマを駆逐し、イタリアに援軍を送ることも可能になっただろう。

しかしカルタゴ側は、この好機をみすみす逃してしまう。敵が消えてしまったことで、バルカ家の兄弟と本国からきたハスドゥルバル・ギスコとの間に、確執がおこったからである。

ハスドゥルバル・ギスコは貴族出身で、出先機関である一将軍家の風下に立つ気はなかったらしい。これも本国貴族と将軍との対立という、カルタゴに昔からある政治的構造の欠陥が出た結果といえるだろう。

バルカ家のスペイン支配のやり方を無視し、独自路線で自分の力を拡大するギスコの子、ハスドゥルバル。そんな彼にバルカ兄弟も業を煮やし、ついに彼らは担当地域を決めて兵を分割し、それぞれが別の指揮権を持つようにした。

ハスドゥルバル・ギスコはルシタニア(現ポルトガル)の地へ。マゴはイベリア半島南西部のカデス付近に。そしてハスドゥルバル・バルカはスペイン中央部で現地民の反乱にあたる。スペインの民もまた、長年の戦争で重い負担に喘ぎ、カルタゴ支配に反発を覚えていたのだった。

カルタゴ・ノウァ急襲作戦

『ローマのハンニバル』大スキピオ登場

コルネリウス兄弟敗れる!

の報は、ローマにも伝わった。

カルタゴとの戦いで相次ぐ敗戦の中、ルキウス・マルキウスのもとでスペインの北西部になんとか踏みとどまっているが、それももはや風前の灯火かと思われた。いったい誰がこのような状況のスペインに向かおうというのか。

元老院議員の誰もが手を挙げない中で、一人の若者が立候補する。彼の名はプブリウス・コルネリウス・スキピオ。彼の父はスペイン遠征軍を率いた兄弟の一人で、同名のプブリウス・スキピオである。

スキピオ・アフリカヌスの胸像写真
スキピオ・アフリカヌスの胸像
Miguel Hermoso Cuesta / CC BY-SA

しかし、いくら父の跡を継いで軍を指揮するとはいえ、若干25歳の青年に、それも按察官(または造営官、アエディリス)しか官職を経験したことのない若輩者に、インペリウム(命令権、ここでは軍指揮権と解釈しておくとわかりやすい)を与えるなど、異例中の異例である。

だが、元老院が招集したケントゥリア民会で名乗りを上げたスキピオに、民衆は満場一致で可決した。そこで元老院は、彼に執政官代行格(執政官と同等の権限)のインペリウムを与える。ようするに、スペイン遠征軍の最高司令官に任命した、ということだ。

210年秋、スキピオはスペインのエンポリオン(現アンプリアス)に上陸。この時彼は10,000の増援部隊を伴っていたが、マルキウスの軍と合わせても、

  • 歩兵:28,000
  • 騎兵:3,000

しかいなかった。これはカルタゴの1将軍が率いていた数とほぼ同数の兵力である。この時点では、スペインのカルタゴ軍が圧倒的に優勢だったのである。

バルカ家支配の拠点、カルタゴ・ノウァ

では、スキピオはスペインでの戦いを、どのように進めようとしていたのだろう。

すでに記述したように、カルタゴの将軍一人が率いる兵の数は、現在のローマ軍と同数程度だ。1将軍とならなんとか勝てるものの、彼らが集まれば非常に厄介な存在となるだろう。

実はスキピオは、スペイン上陸前に行った情報収集により、カルタゴの将軍が各地域に分かれいることを、あらかじめ把握していた。

先述のとおり、バルカ兄弟のハスドゥルバルは、スペイン中央部のカルペタニ族の町を攻囲中。また、同じく兄弟のマゴは半島南西部に、ギスコの子ハスドゥルバルはルシタニアのタグス川河口付近に滞在中と、三者とも違う場所にいた。

そう、スキピオの遠征開始時、彼らの誰一人として自らの本拠地であるカルタゴ・ノウァを守っていなかったのである。町の守備隊はわずか2,000人程度。イベリア半島の心臓部とも言える丸裸の首府を、スキピオは直接叩くことにしたのだった。

制限時間は3週間

ただし守備隊が少ないとは言え、カルタゴ・ノウァは三方を海と干潟に囲まれており、唯一東側のみ狭い地峡がある。それゆえ陸からの攻撃は東からのみしかできない、難攻不落の要塞なのだ。

カルタゴ・ノウァの地図その1
カルタゴ・ノウァ

古代では、都市攻略に何ヶ月もかけて攻囲戦を行うのが通例である。あのシュラクサイですら、マルケッルスが落とすのに2年もかかっている。

しかしスキピオには、そんな悠長なことをしている時間はない。なぜなら、三将軍のいるところまで、カルタゴ・ノウァから遠くても10日程度の距離にあり、首府急襲の報を受けてから彼らが引き返すまで20日程度、つまり攻略に3週間しか時間が残されていないのである。

たった3週間でカルタゴ・ノウァを奪うことは可能か――。

スキピオは攻略実現のため、エンポリオンから南に下ったタラッコ(現タラゴナ)で入念な情報収集を行った。すると地元の漁師や船乗りから、とっておきの情報を手に入れることができたのだ。

その情報とは、次のような内容である。カルタゴ・ノウァを囲む北側の潟に、歩いて渡れる浅瀬の存在があること。とくに夕方には水位が下がり、一層渡りやすくなること。

ネプトゥヌスのお告げ

スキピオは秘策を胸に、冬営中の兵たちに訓練を施した。もちろん作戦を成功させるための練習もあるが、なによりも負け戦を経験した兵たちと新兵との混合部隊を、実戦ができるまで鍛え上げる必要があったのである。

そして翌前209年春、戦争可能な季節が訪れると、彼はエブロ川の河口に兵を集めた。守備のためタラッコに残した兵は、わずか歩兵3,000と騎兵500。それ以外の歩兵25,000と騎兵2,500で進軍を開始する。また別働隊として、親友であり部下のラエリウスに艦隊35隻を預けると、当地で合流するよう指示を出した。

このエブロ川からカルタゴ・ノウァまで、スキピオはたった7日間で踏破する。1日72km以上にも及ぶ強行軍の結果だった。無事ラエリウス艦隊との合流を果たし、東城門(唯一の出入り口)の正面にある高地に陣を築くと、翌日の総攻撃に向け、兵士たちに演説を行った。

このカルタゴ・ノウァが、敵にとってもローマにとってもどれほど重要な都市なのか。そして勇敢なものには褒賞を惜しまないこと。

最後に一つ、スキピオは付け加えた。

海神ネプトゥヌスが私の夢に現れ、助けを約束した

この言葉を、この時兵士たちが信じたかはわからない。だが、翌日スキピオは、彼らに海神のお告げが実現することを、見せつけることとなる。

カルタゴ・ノウァ奪取

翌朝、スキピオは同時に2方面から攻撃を行った。

  • スキピオ率いる本隊:東城門を2,000の梯子兵で攻撃
  • ラエリウス艦隊:南の港に侵入し、海から攻撃
カルタゴ・ノウァ初期戦闘の図

ローマ軍の攻撃に対して、守備側の指揮官マゴ(ハンニバルの弟マゴとは別人)も応戦。東の城門に迫るローマ兵に対しては1,000の武装兵で対処し、その他は南の丘から城壁越しに、飛び道具で艦隊を攻撃する。

正門から打って出たカルタゴ兵は、しばらく戦ったがローマ軍に押し込まれて城門の中へと逃げ帰ると、城内の守備兵と合流し、城壁を登ろうとするローマ兵を追い払う。あるものは飛び道具で。あるものはかけられた梯子を押し返して。

午前の攻撃を食い止められたローマ軍は、一旦休憩を挟むと、午後からもう一度攻撃を開始した。今度はより一層激しく城門に迫ろうとする。もちろん海からの攻撃も忘れはしない。それでも少数ながら士気盛んなカルタゴ兵は、この2度めの攻撃も食い止めたのである。

その日の夕方、スキピオは事前に用意しておいた別働隊500を、タラッコで雇った道案内に先導させ、北の潟の端へと配置する。そして水位が下がったことを確認すると、案内の示す浅瀬に向かって足を踏み出すよう指示したのである。

カルタゴ・ノウァ最終局面の図

午前と午後の攻撃で、守備隊は城壁の東と南に集中し、北には注意を払っていなかった。それにまさか水の上を歩いて渡るとは、想定していなかっただろう。反対にローマ兵は、指揮官とともに水上を歩く彼らの姿を見て、ネプトゥヌスの加護を信じたに違いない。

北の城壁に着いた別働隊のメンバーは、難なく登ることができた。そして北側にいた数少ない守備兵を倒して城門を確保する。突如現れたローマ兵に、城内の守備兵たちはパニックを起こし、そこに城門からローマ兵が流れ込んだ。

こうして数時間ののち、北西の城砦に立てこもっていたマゴも降伏し、難攻不落と謳われたカルタゴ・ノウァは、たった2日間であっけなくローマの手に落ちたのだった。

カルタゴ・ノウァ奪取の影響

カルタゴ・ノウァを奪ったことで、ローマ軍にはどのようなメリットがあったのか。それは、次の2点である。

大量の物資を手に入れたおかげで、戦争に必要なものを現地調達することができた

カルタゴ・ノウァには、600タラント(1タラント銀26キログラム、数十年分の収入に相当)にのぼる大量の金のほか、兵器を作る職人たちなども得ることができた。

このおかげで、本国イタリアからの補給に頼ることなく、物資を現地で調達することが可能になったのだ。

特にスペインで生産される小ぶりの剣グラディウスは、これまでローマ軍で使われていた剣よりも接近戦で力を発揮できたため、スキピオは自軍の歩兵武器に採用する。以降、ローマ軍の歩兵武器にはグラディウスが使われるようになった。

グラディウスの展示写真
グラディウス
Rama / CC BY-SA

この時代のものとは異なるが、グラディウスのレプリカもあるので、気になる方はこちらもチェックしてみるといいだろう。

人質を解放することで、現地部族の心を掴むことができた

カルタゴ・ノウァには、スペイン各地から部族の女性たちが人質として集められていた。彼女たちに対し、スキピオは兵たちの慰みにすることはもちろん、粗雑に扱うことも禁止し、信頼できる男たちに付き添わせると誓った。

実はこの女性たちへの寛大さも、スキピオの計算のうちに入っていたのである。カルタゴ・ノウァに人質が囚われていることも、スキピオは事前の情報収集で得ていた。彼は、彼女たちに紳士的な振る舞いをすることで、スペインにおける親カルタゴの人々を、ローマ陣営へと引き込むよう仕向けたのである。

特にカルタゴ軍に騎兵を数多く提供する、親カルタゴ部族イレルゲテス族はローマ軍への脅威であり、彼らを籠絡できればカルタゴに対するスペイン先住民の同盟に大きな影響を与えられると踏んだのである。


カルタゴ・ノウァ奪取は、物資だけではなく、現地人の協力とカルタゴ勢の兵力差を埋める、貴重な戦力まで手に入れることができたのだった。

カプア陥落後の情勢

カプア陥落の影響

さて、ローマがカプアを奪回したときから、スキピオがカルタゴ・ノウァを落とした前209年頃までの間、イタリアとその周辺はどのような状況だったのだろうか。

ローマのカプア奪回、ハンニバルにとってのカプア陥落は、ハンニバルがイタリアで優位を保てなくなったことを、地中海世界に知らしめることとなった。

またカプアというイタリア最大の同盟都市を失ったことで、兵士たちの士気が低下したことに加え、10年近くにもなる長い戦いで、ハンニバルが当初連れてきた精鋭たちの年齢も上がり、次第に質そのものにも変化が現れる

加えてバルカ家に私的な忠誠を誓った傭兵たちも、ハンニバルの力が弱まってきたのを感じ、指揮官との間にも不和が生まれることになった。

さらにこの頃から、ハンニバルのイタリア同盟都市に対する態度が変化する。いままで戦略の基本としてきた、ローマ連邦の解体のための同盟軍温情策も、裏切りや離反などで、いつしか厳しさと残忍さが全面に出てくるようになる。

ローマ、同盟都市を次々と攻略する

反対にローマはカプアを奪還したことで、ホームの利点を活かし大兵力を南イタリアに投入できるようになった。前210年、ハンニバルに対し、ローマは北アプリア、南サムニウムへと攻め込んでいく。

北アプリア

前214年当時はハンニバルの冬営地だったサラピアが、ハンニバルを裏切ってローマに付く。

ヘルドネアもローマへの寝返りを画策するが、ハンニバルが急行しローマ軍を破ってなんとか阻止することができた。しかし周りから孤立する町を守ることができず、住民をトゥリやメタポントゥムに撤退させ、家や屋敷を焼き払わせるしかなかった。

南サムニウム

南サムニウムでもローマによる奪回の動きは加速。山岳地方にすむヒルピニ族の土地にまで、ローマ軍の足音が響いていた。彼らは前209年までカルタゴ側に味方したものの、結局ローマに説得されてハンニバルのもとを離れていく。


この状況に、ハンニバルは一旦ルカニアまで退き、ヌミストロ近くに陣を置く。サムニウムにいるマルケッルスを、山岳地帯から平地におびき出し、戦闘に引きずり込むためだった。

これにマルケッルスは応じたが、結局決着はつかず互いに陣を退き、マルケッルスはウェヌシアに、ハンニバルはタレントゥムで冬営することとなった。

タレントゥム奪回

さらにハンニバルに対するローマの攻勢は続く。前209年、ローマの執政官となったのは、「クンクタトル」ファビウスと、フルウィウス・フラックス。彼らの狙いはタレントゥム奪回にあった。

タレントゥムは南イタリアの重要な港町で、ハンニバルにとって、カルタゴ本国やマケドニアのフィリッポス五世とのつながりを海側で保つためにも、非常に意味のある都市だったのである。

ローマ側はまず、ハンニバルに多方面から攻撃を仕掛ける。確かにハンニバル自身が率いる軍にローマ側で勝てる将はいない。しかしハンニバル軍には兵の数も信頼できる将の数も圧倒的に不足していたので、他の将が率いていたなら、ローマ軍は互角以上の戦いをすることができたのである。

執政官の一人フルウィウスは、サムニウムやルカニア地方にある、ハンニバル軍と同盟している都市を攻撃した。それも、ハンニバルの勢いが弱まり、動揺しているところを重点的に攻めていく。

一方で『ローマの剣』マルケッルスは、北アプリアにハンニバルを誘い出し、カヌシウム付近で衝突。実はこの誘い出しは、タレントゥムからハンニバル本隊を誘い出す罠だったのだ。イタリアで戦う将のなかで、唯一ハンニバルと互角に渡り合うことのできたマルケッルスだからこその大規模な陽動作戦だった。

この隙にファビウスは南イタリアへ急行し、タレントゥム城門に到達。彼は町の守備隊長であるブルッティウム人と内通して開城させると、タレントゥムを奪回したのである。奇しくもハンニバルと同じ方法で奪い返したのだ。

ハンニバルは、タレントゥムが落ちた報を聞くと、次のように嘆いたと言う。

敵にもハンニバルがいたようだ。自分がタレントゥムを奪取したのと同じ手で奪い返された

カプア陥落から2年。ハンニバルはアプリア、南サムニウム、北ルカニアを失い、いまや彼の勢力範囲は、ブルッティウムの一部と南ルカニアを残すのみとなっていた。

ローマによるタレントゥム奪回後のハンニバルの勢力範囲の図
ローマによるタレントゥム奪回後の
ハンニバルの勢力範囲

ローマ、シチリア全島を支配下に

ハンニバルの力が弱まることで、他の地域の戦況にも影響が及ぶようになる。その代表がシチリアだ。

前212年、ヒミルコが疫病で倒れたあと、カルタゴ軍を指揮したのは、本国からやってきたハンノという貴族である。彼はエピキュデスとともに、シュラクサイ陥落後もなお、アグリゲントゥムで抵抗を続けていた。

ハンニバルはシチリアの苦境を助けるため、部下のムッティネスにヌミディア騎兵をあずけ、援軍として送り出した。しかしこの援軍が仇となる。ハンノとムッティネスの間で対立が起こり、それが激化したのである。

カルタゴの典型的な貴族体質であったハンノは、リビア=フェニキアの混血人であるムッティネスをあからさまに差別した。さらに自分の意見ではなく、あくまでハンニバルの方針に従い、独自に動こうとするムッティネスに、ハンノは不満を抱いていた。ムッティネスの方でも、ハンノの古い貴族意識に憎しみが募っていく。

ハンノはこの不満を行動に移してしまう。ムッティネスから騎兵指揮権を取り上げると、自分の息子に与えてしまったのだ。

これがシチリア戦線に決定的な影響を及ぼした。前210年、ムッティネスはハンノに反旗を翻すと、ヌミディア騎兵を引き連れローマ側に寝返り、アグリゲントゥムを明け渡してしまったのである。

この結果、ハンノは本国へと逃げ帰るしかなく、シチリア全島は完全にローマの勢力下に入ることとなった。

『ローマの剣』マルケッルス死す

前208年、ローマは新執政官にマルケッルスとクリスピヌスを選出した。彼らはこの年、ハンニバルを決定的に追い詰める作戦を立てる。

その作戦とは、クリスピヌスがイタリアのつま先にあるレギオン(現レッジョ・ディ・カラブリア)からロクリ占領を狙い、一方のマルケッルスは、ウェヌシアにローマ主力軍を集めたあと、ルカニアを抜けてハンニバルの待つブルッティウムに進軍する、というものだった。

マルケッルスの肖像コインの写真
マルケッルスが描かれたコイン
Wikipediaより

ところで前208年のどこかでハンニバルは、後述する弟ハスドゥルバルのイタリア遠征の情報を得ていた。彼は弟を待ちつつ、ローマ軍に応戦する。

まずロクリ方面では、クリスピヌス率いるローマ軍に大損害を与える。クリスピヌスはたまらず退くと、ウェヌシアにいるマルケッルスと合流した。

そしてマルケッルスとハンニバルは、再び対峙する。両者は一体何度目の対決になるのだろう。だがルカニアとアプリアの境バンディア付近で、両執政官が自ら騎兵を率い、両陣営の中間にある丘の偵察に赴いた時、異変が起こった。

この占領を見越したハンニバルは、丘に伏兵を潜ませていたのである。突然のヌミディア騎兵に襲われた両執政官は、白兵戦に突入。この戦いにより、クリスピヌスとマルケッルスの息子(父に従い参戦)は、負傷しながらなんとか脱出に成功したものの、『ローマの剣』と謳われたマルケッルスは戦死してしまう。

ハンニバルは、自分を苦しめた一人であるマルケッルスの死体を探させて埋葬させた。そして執政官の印である黄金の指輪を死体から抜き取ると、銀の骨壷にいれた遺骨とともに、マルケッルスの息子に送った。

マルケッルスは、こうして60年の生涯に幕を閉じた。

メタウルス川の戦い

ハスドゥルバル・バルカ、イタリアへ!

同じころスペインでは、大量の金に職人、人質と、そして何よりカルタゴ本国とイベリア半島をつなぐ最良の港を、たった2日で奪われる衝撃的な事実を突きつけられたハスドゥルバルが、兄ハンニバルと合流することを画策していた。

実はイタリアのハンニバルとは、連絡がついていたのである。あとはいつ、どこで合流するかが問題だった。

一方のスキピオは、カルタゴ・ノウァで冬営後、カルタゴ3将軍を叩くべく、グアダルキビル川上流へと進軍する。そして前208年6月末か7月はじめ、バエクラ(現ハエン付近)で、強固な陣を敷くハスドゥルバル・バルカと遭遇した。

カルタゴの将軍たちを合流させたくないスキピオと、イタリアで兄と合流したいハスドゥルバルとの戦いは、結局スキピオに軍配が上がったが、決定的な勝利とはならなかった。

25,000のうち3分の1の兵を失った(そのほとんどがスペイン同盟兵)が、ローマ軍から逃れることができたハスドゥルバルは、そのまま北上しピレネー山脈を西から迂回してガリアへと入る。

そしてガリアで越冬後の前207年春、アルプスを越え北イタリアへと侵入することができた。ハンニバルの時よりもはるかに早く、また被害も少なかった。ハスドゥルバルは、次の3点で兄よりも有利な条件が揃っていたのである。

  • ハンニバルのアルプス越えより、季節が良かった
  • 率いる兵が少なかった
  • ハンニバルのときより、安全な道がよくわかっていた

ただしここからは、南に行くため、自力でローマ軍の網の目を突破する必要があった。

この頃のローマの様子

ハスドゥルバルがイタリアへと侵入した頃のローマは、決して楽勝ムードなどではなかった。ローマ市民たちは、前209年以降、先の見えない戦争と重い負担で次第に厭戦気分が高まっていたのである。

前209年には、12のラテン市蜂起が勃発したが、この時ローマは兵士を集めることができずに困っている。また、ローマ市のあるラティウムの北、エトルリアでも不穏な動きがあったため、ローマ軍を常駐させる必要もあった。

さらに前208年から前207年にも放火騒ぎがあり、ハンニバル側に立つカンパニア代表に罪がなすりつけられたりもした。

今ハンニバルとハスドゥルバルの兄弟合体がなってしまったら、ローマの内部に亀裂が入る可能性もあっただろう。

ネロ、ハスドゥルバルの使者を捕らえる

このような状況の中で、前207年、ローマでは新執政官にマルクス・リウィウス・サリナトルとガイウス・クラウディウス・ネロが就任した。

マルクス・リウィウス・サリナトル

前219年の執政官。スペイン、バルカ家の政策を知り尽くした人物。ローマを裏切ったカプアの長、カラウィウスの婿。

ガイウス・クラウディウス・ネロ

スキピオと同じ、ハンニバル戦争第二世代ともいえる、ローマ政界若手の人物。

ハスドゥルバルの動きは、前年に同盟都市マッシリア(現南仏のマルセイユ)から情報を得ていた。故に彼らのミッションは、北上するハンニバルを食い止めつつ、南下が予想されるハスドゥルバルを叩くこと。ただし、どこで合流しようとしているかがわからないのが難点だった。

そこでネロは、南イタリアの軍団でハンニバルの北上を阻止するため、果敢にハンニバルと戦闘を繰り返すが、結局ハンニバルの北アプリア侵入を許してしまう。ネロはさらに道という道の守りを固めつつ、カヌシウムでハンニバルと対峙した。

一方リウィウスはアレッティウムとアリミヌムに部隊を配置。中部イタリアに防衛ラインを張りつつ、ハスドゥルバルを待ち構える。

この時、ネロのもとに吉報が飛びこんだ。網を張っていた兵が、ハスドゥルバルの手紙を携えたヌミディア騎兵6人を捕らえたのである。手紙には、アドリア海沿いにウンブリア地方を通って南下し、兄ハンニバルと合流したい、と書かれていた。

ネロはリウィウスに報告の使者を出立させると、自らは7,000の精鋭を率い、リウィウスを助けるため北へ急行する。ハスドゥルバルの使いが捕まったことなど、つゆ程も知らないハンニバルは、カヌシウムで弟を待っていた。

ハスドゥルバル、メタウルスに死す

そしてもうひとり、使者がつかまったことを知らなかった弟ハスドゥルバルは、兄への手紙どおり北イタリアから南下し、アリミヌムを過ぎてメタウルス川を渡河した。

彼の軍は、この地点で次のような構成だった。

  • スペインから率いてきた精鋭
  • ガリアの招集兵
  • 10頭の戦象

数は諸説あるが、私はそんなに多くなかったかと考える。おそらく25,000程度。

この軍がメタウルス川を渡った直後に、ローマ軍に補足されてしまった。兄と合流するまでローマ軍と戦いたくなかったハスドゥルバルは、もう一度川を渡り直して退くと、上流から迂回を図ろうとした。

しかしある程度上流へと行軍したところで、ローマ軍についに捕まってしまう。ことここに至っては、ローマ軍と戦うしかない。そう悟ったハスドゥルバルは、陣を布いて決戦に挑んだ。

このハスドゥルバル軍と戦うローマ軍は、次のような構成である。

  • 執政官リウィウス率いる2個軍団
  • 同じく執政官ネロ率いる精鋭7,000
  • 法務官ポルキウス・リキヌス率いる第三の部隊(数はわからず)

総数は少なく見積もっても35,000、多ければ40,000を超えていたと思われる。

メタウルス川の戦いの図
メタウルス川の戦い

ローマ軍はポルキウスの軍を中央に据え、左翼にリウィウス、右翼にネロの軍を配置。一方のハスドゥルバルは、象とスペイン・リグリア人の精鋭部隊を右に配置して、左にガリア人部隊を置く。ガリア人にはローマ軍の攻撃を耐えてもらい、右翼精鋭で決着をつけようという戦法である。

開戦当初はハスドゥルバルの戦術がはまったかにみえた。象は暴れてしまったため、象使いに殺させるしかなかったが、ガリア人はローマ軍の攻撃を懸命に耐え、右翼から押していくかにみえた。

この状況を見たネロが、部隊を迂回させ右翼スペイン軍の側面と、さらに背後から攻撃したことで、事態は一変する。思わぬ方向からの攻撃により、右翼部隊は浮足立った。

ハスドゥルバルはなんとか体制を立て直そうと、懸命に努力を重ねたが無駄だった。そうこうするうちに、指揮官自らが戦場で命を落としてしまい総崩れとなる。あとはローマの包囲を受けた残兵が、無残にも殺されるだけ。

この戦いに完勝したネロは、ハスドゥルバルの遺体を探させると、首を胴体から切り離して剥製にさせ、それをハンニバルの陣営に投げ込んだ。

どのようなことにも動じないハンニバルが、弟の首を見たこのときばかりは動揺したという。

カルタゴの命運極まれリ。神はわれらを見棄てたり

ハンニバルは嘆くと、ブルッティウムへと退いた。

イリパの戦いとイベリア半島制圧

ハスドゥルバル・ギスコ、マゴと合流する

ハスドゥルバル・バルカ敗れる、の報は、イベリア半島にも届いていただろう。政敵であったとはいえ、カルタゴ軍がまた一つ消滅してしまったのである。ハスドゥルバル・ギスコはスペイン戦線の打開を迫られた。

そこで彼は前206年、バルカ家の末弟マゴと合流する。イベリアで現地人との同盟を増やし、兵力を増強するスキピオと戦うには、自分が指揮する兵だけでは不足していると考えたからだ。この結果、ハスドゥルバル・ギスコの手元にいる兵は74,000を数えることになった。

一方ハスドゥルバル・バルカが去ったあとのスペインで、着実にローマの勢力を伸ばしつつあったスキピオも、敵の合流を好都合と考えた。彼らさえ撃破してしまえば、イベリア半島からカルタゴ勢力を一掃できる。

ただし、この時点でスキピオの手元には、ローマの正規兵と同盟軍で25,000、スペインからの兵を合わせても48,000(うち騎兵3,000)程度の兵力でしかない。それにスキピオは、父や伯父を土壇場で裏切ったスペイン同盟軍を当てにはしていなかったのである。

イリパでの決戦

両軍は、グアダルキビル川下流にあるイリパ平原(現セビーリャ)に集結し、互いに丘の上に陣を構えた。ローマ軍が到着後、スキピオはすぐにハンニバルの弟マゴとマシニッサ率いる騎兵に攻撃を受けるも、念のため丘の背後に隠しておいた騎兵で、彼らを追い返すことに成功する。

その後は両軍のにらみ合いが、数日続くことになる。

カルタゴ軍は中央にリビアとスペインの精鋭歩兵を配置し、左右にスペインの同盟軍、さらに両翼には象を前面に出した騎兵を配置。

一方のローマ軍は、中央にローマ正規兵と同盟軍歩兵、左右にスペイン同盟軍、さらにその横には騎兵という、ある種両軍型通りの陣形である。

イリパの戦いの初期配置図
イリパの戦いの初期配置

この陣形を何日も、朝(といってもかなり太陽が高くなって)から組みはじめ、夕刻になって戦う気配なしと見たあと、丘の上の陣へと引き返したのだ。数日後には、「お決まりの行動」という空気感が漂い出す。

ここでスキピオは動いた。おそらく前日に全軍将校レベルで通達があったのだろう。その日は通常よりも朝早くから兵を起こして食事を取らせると、早々に布陣を騎兵にカルタゴ軍を攻撃させたのである。

さらにスキピオは、前日までに布いていた型通りの陣形とは、配置を変更していた。つまり、これまではローマ正規軍と同盟軍の歩兵がいた中央にスペイン同盟軍をおき、左右にローマ軍とイタリア同盟軍の歩兵を展開したのである。

イリパの戦い戦闘配置図
イリパの戦い戦闘配置

ここ数日とは違うスキピオの行動に、ハスドゥルバル・ギスコは慌てていつもどおりの布陣を命じる。このため、兵士たちは食事の時間をほとんど取ることができなかった。それはかつて、ハンニバルがトレビアの戦いでローマ軍相手に行った作戦だったのである。

前日までとは打って変わって、スキピオは軍を前に進めた。この時、中央のスペイン同盟軍にはわざとゆっくり進むように指示しておき、左右のローマ正規兵とイタリア同盟軍を、カルタゴ軍のスペイン同盟兵へと当てたのだ。なぜか。

左右の軍は、敵の弱い箇所をこちらの最強兵で崩す狙いがあるのは分かるだろう。この作戦のキモは中央だ。

カルタゴ側の最強軍が、中央のリビア・カルタゴ歩兵ということはすでに述べた。この兵たちにスキピオのスペイン同盟兵をまともに戦わせても勝ち目はない。

だが、彼らをゆっくり前進させることにより、カルタゴ中央の歩兵はスキピオ軍のスペイン兵に気を取られてしまい、左右で戦う自軍のスペイン同盟兵を助けることができなかった。助けに行こうと向きを変えた瞬間、敵中央軍に無防備な側面を晒すことになるからだ。

つまり、信用しないと決めたスペイン同盟兵たちを、スキピオは大規模な囮に利用したのである。

イリパの戦い最終局面図
イリパの戦い最終局面

敵最強部隊の無力化に成功したスキピオは、左右に展開したローマ軍とイタリア兵で敵兵を押し込み、ついにカルタゴ側スペイン同盟兵を崩すことに成功した。

こうなってはカルタゴの中央もとどまっておくことはできない。食事を取れなかったために持久力も失っていた彼らは潰走し、カルタゴ軍の崩壊が始まった。ハスドゥルバルが立て直そうとしても無駄だった。

もしここで、急な雷雨に見舞われなければ、スキピオはカルタゴ軍を全滅させることに成功していたかもしれない。しかしローマ軍の追撃により、カルタゴ側の大半は殺されるか捕虜となったのだった。

ハスドゥルバル・ギスコとマゴ、マシニッサは、戦場から逃れることができた。ハスドゥルバルはこの後船でアフリカ本国に帰還し、マゴたちはガデスで抵抗を続けることになる。

スキピオ、ヌミディア王子マシニッサと接触する

ところが、マゴとともにガデスに逃れていたヌミディアの王子マシニッサが、口実を設けてスペイン本土に渡ると、スキピオの部下シラヌスを通じて、スキピオに接触してきたのである。

マシニッサの肖像が彫られたコイン
マシニッサ

マシにッサ接触の背景には、スキピオによる数年前の根回しが効いていたと思われる。前208年、ハスドゥルバル・バルカとバエクラで戦った時、マシニッサの甥(父の娘の息子)マッシワをローマ軍が捕らえた。どうやら伯父に内緒で、戦闘に参加したらしい。

スキピオはこの時すでに、勇猛なヌミディア王子マシニッサが、スペインでカルタゴ軍とともにいることを知っていた。そこで彼に恩を売る絶好の機会だと考えたスキピオは、捕らえた少年に様々な贈り物をすると、丁重に敵陣へと送り返したのである。これに恩義を感じたマシニッサは、スキピオとの交渉に踏み切った。

マシにッサは初めて合うスキピオの姿に魅了されたという。長い髪、雄々しく美しい姿。そしてマシニッサは約束した。スキピオがアフリカ上陸を果たした折には、マッシュリー王国はローマに全面協力を約束すると。

彼の父でもある王ガイアを説得し、カルタゴからローマへと乗り換えることに対し、国民の同意を得るため、マシニッサはそのままアフリカへと渡って帰ることになる。

カルタゴ、イベリア半島支配の終焉を迎える

さて、フェニキア最古の拠点でもあったガデスを一人守っていたマゴは、本国からの指示もあり、ガデスにある艦隊でローマを攻撃することを決意する。

この戦費を捻出するため、本国からの軍資金に加えてガデスの国庫、神殿を略奪し、全市民からあらゆる金銀を持ってこさせた。

マゴはまず、スキピオに奪われたカルタゴ・ノウァの奪回を試みた。しかしあえなく失敗に終わる。そこでガデスに戻ると、町はマゴに対して門を閉ざした。密かにローマと結ぼうと画策していたのだった。

マゴは怒り、ガデスの高官たちを磔にしたが、結局イビサ島に向かうしかなく、そこから12,000の歩兵と2,000の騎兵を載せ、前205年に北イタリアのゲヌア(現ジェノヴァ)へと上陸を果たす。

こうしてバルカ家のスペイン支配だけではなく、古くから通商の拠点としてきたイベリア半島とカルタゴとの関係は途絶えた。このスペイン陥落を見て、マケドニアのフィリッポス五世も、ローマと講和を結んだのである。

カルタゴとローマの戦いは、ついに最終局面を迎えようとしていた。

第二次ポエニ戦争Ⅵへ続く

本記事の参考図書

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