第二次ポエニ戦争Ⅰ ―ハンニバル戦争とも呼ばれたローマとカルタゴとの決戦―

ローマとカルタゴの決戦 第二次ポエニ戦争

第二次ポエニ戦争とは、紀元前218年から前201年にかけて行われた、ローマとカルタゴとの戦争のことだ。また、100年以上にも及ぶ、両国間の2回目の戦争なので、「第二次」という言葉が先頭につく。

なぜポエニ戦争というのか、1回目はどんな戦争だったのかは、第一次ポエニ戦争Ⅰ ―シチリア島渡航から初海戦、アフリカ本土上陸まで―をお読みいただくといいだろう。

シチリア争奪から拡大した第一次ポエニ戦争 第一次ポエニ戦争Ⅰ ―シチリア島渡航から初海戦、アフリカ本土上陸まで―

ローマからすれば、イタリア本土の侵入を許したカルタゴの将軍ハンニバルに、恐怖のどん底へと突き落とされたので、第二次ポエニ戦争は、別名ハンニバル戦争とも呼ばれているのだ。

古代でも屈指の名将として名を残すハンニバル。制海権を握られ、圧倒的なローマとの戦力差がありながら、彼はどのようにしてローマに戦いを挑んだのだろうか。

また本土を攻められながら、ハンニバルとカルタゴに対し、ローマはどのように対応したのか。

ここでは、カルタゴの歴史を踏まえながら、第二次ポエニ戦争がどのように進行したのかを見ていくことにしよう。

第二次ポエニ戦争のきっかけ

サグントゥム問題

第二次ポエニ戦争の直接のきっかけ、それは前220年、サグントゥムという町から運ばれてきた。

サグントゥム
カルタゴ時代のスペインの地図
カルタゴ時代のスペイン
興亡の世界史3 通商国家カルタゴ より

スクロ川の北側、エブロ川のはるか南のスペイン東海岸(地中海側)にある町で、海岸沿いの平野が、ちょうど狭くなる場所に立地。岩地の上に建設された、難攻不落の都市。

サグントゥムがいつからローマと同盟関係にあったのかは、現在でも議論されている。しかしローマがハンニバルに使節を送るまえには、条約という形ではないにしろ、友好的な関係を築いていたようだ。

そのサグントゥムでは、内部で党派争いがあり、一方の指導層が追放された。この人々がスペインで勢力を拡大するバルカ家の当主ハンニバルを頼ったのである。

さらにサグントゥムと争っていた、この町の周辺部族トルボレテス族も、バルカ家の支持を期待していた。

それに対して、現サグントゥムの支配層も、強力な後ろ盾を得るために、以前から友好関係にあるローマを頼る。

しかし、第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―ローマの情勢でも説明したとおり、ローマは北イタリアのガリア人と争っていて、スペインに割く余力はなかった。それが前220年には一段落し、ようやくスペインに対応する余裕が生まれたのである。

第二次ポエニ戦争前のバルカ一族とローマ 第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―

ローマは、バルカ家のスペイン支配本拠地、カルタゴ・ノウァに使節を派遣し、当主ハンニバルに警告する。

サグントゥムへの干渉は控えるように

と。

それに対し、ハンニバルは次のように反論した。

少し前にサグントゥムで党派争いがあった時、調停を頼まれたローマは不正にも指導的な市民の何人かを処刑した。カルタゴはこの信義違反を見過ごすつもりはない。不正行為の犠牲者をけっして見捨てないのがカルタゴの父祖伝来の原則である

興亡の世界史3 通商国家カルタゴ 第八章 ハンニバル戦争

不正をしているのはローマであり、サグントゥム市の(親カルタゴ)市民を守るために、介入するのは自分たちの義務だ、とローマの警告を拒絶したのである。

ローマ使節に返答すると、ハンニバルはカルタゴ本国に指示を仰ぐ使者を送る。サグントゥムがローマとの同盟を後ろ盾に、カルタゴに従う人々に不正を働いているのを、どうすべきか、と。

ようするに、ローマに対して開戦の許可を求めたのだ。サグントゥムに介入することは、ローマに戦争を仕掛けるに等しいことだった。

ハンニバルがローマの警告を拒否した理由

サグントゥムに手出しをすることで、ローマが黙っていないことは、カルタゴ側、バルカ家ともに早くから認識していた。

できるなら、しっかりとした地盤固めをするまでは、ローマに開戦の口実を与えないようにする――イベリア半島の初代遠征将軍である父ハミルカルから忠告されるまでもなく、ハンニバルはそのつもりでいたはずだ。

しかしハンニバルはローマ使節に対し、まだサグントゥムに取り掛かっていないのも関わらず、介入を公言したのである。なぜか。

【理由1】ローマの要求がエブロ条約の範囲を越えていた

6年前、ローマとの間で取り交わした条約に、

カルタゴは戦争を意図して、イベルの名で呼ばれている川を渡ってはならない

という条項のみを取り決めた、エブロ条約があった。

この条約を交わした経緯については、第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―エブロ条約で説明しているので、ご参考いただくといいだろう。

ここでいう「イベルの名で呼ばれている川」が何を指すのかは様々な議論があるが、私は条約締結時、ローマもバルカ家も意図的に明言を避けたのではないかと思う。ただし、現在のエブロ川が「イベルの名で呼ばれている川」との認識は、両者とも持っていたはずだ。

しかしここに来てローマは、エブロ川のはるか南、カルタゴ側にあるサグントゥムへの介入に口出しをしてきた。ローマに言わせれば、イベルの川とは、サグントゥムの南にあるスクロ川、ということになる。力を付けた国が、国境線を都合よく解釈するのは、某島国のお隣を見ればわかるだろう。

ハンニバルは、このローマの対応が大国の都合であると、はっきりと感じたに違いない。そしてこの不誠実な態度こそ、先の傭兵戦争で、ローマがカルタゴからサルディーニャ・コルシカ両島を奪った姿と重なったのではないだろうか。

【理由2】スペイン各部族への明確な態度を示す必要性

サグントゥムの問題を放置し、ローマの言いなりになれば、イベリア半島の保護者を自認するバルカ家にとって、スペイン各部族へのしめしがつかなかった。

スペインの支配が盤石とは言いがたい今、ハンニバルにとってこれは死活問題となる。なぜなら彼の支配を離れ、各部族が反乱を起こすようなことになれば、これまでの十数年間が水の泡と消える可能性もあったからである。

【理由3】ローマにスペインへの足がかりを渡すことの危険性

そして最後にして最大の理由。

ローマにサグントゥムが渡れば、この都市を足がかりに、ローマがスペインへ攻めてくると予想できること。なぜなら、このサグントゥム問題は、第一次ポエニ戦争のきっかけとなったメッセネ問題と同じ構図なのだ。

さらにはサグントゥムを押さえれば、バルカ家のスペイン軍を封じ込められるだけでなく、スペイン南部を攻める際の地理的戦略的要衝となるからだった。

ハンニバルにサグントゥム介入を明言されたローマの使節も、この後カルタゴ本国へと向かうことになる。カルタゴ本国が、ハンニバルの使者やローマ使節に対してどのような回答をしたか、明確に記載されている史料はない。

ただし、この後の展開を考えると、ハンニバルの主張は本国に受け入れられたのではないかと推測できる。カルタゴ政府も、サグントゥムをローマに渡す危険は承知していたのである。

サグントゥム陥落

ハンニバルはサグントゥム攻略の準備に取り掛かると、前219年春(おそらく3月)、サグントゥムの攻囲を開始した。

西側にしかまともに攻める場所がない天然の要害だけに、ハンニバルもこの攻囲には手を焼いたようだ。ただし、攻囲途中でスペイン部族の反乱が起こったため、ハンニバルはそちらに出動する必要があったことも、攻囲戦が長引いたことと関係しているだろう。

結局前219年の10月末から11月ごろ、約8ヶ月間にも及ぶの攻囲の末、サグントゥムは陥落した。当時は豊かだったようで、ハンニバルはこの都市を落としたあと、奪ったものを次のように処理した。

  • 金銭:イタリア遠征の資金
  • 捕虜:奴隷として兵士に分配
  • 品物:カルタゴ市民への政治的扇動と人気取りのためアフリカ本国

しかしここで一つの疑問が頭をよぎる。なぜローマは8ヶ月もの間、同盟都市サグントゥムに援軍を送らなかったのだろうか。

一つは第二次イリュリクム戦争と呼ばれる、アドリア海への遠征が重なっていたためだと言われている。しかしこの戦いは早期に解決をしているし、多くの兵を徴募できるローマが、サグントゥムへ人を割けなかったとは思えない。

そこで2つ目の理由が浮かび上がる。それはローマ政界での力関係が関係しているのではないだろうか、と。

この頃ローマには、

  • クィントゥス・ファビウス・マクシムスに代表される従来の政策派、いわゆる保守派
  • ルキウス・コルネリウス・レントゥルス率いる主戦論を主張する承認利権代表、いわゆる革新派

の二派が争っており、サグントゥム攻囲当時は、対外戦争に慎重な保守派のファビウスが勝っていた。

ただしそれはサグントゥム陥落まで。サグントゥムを攻めた(介入した)ことで、攻囲と陥落に政治的な差はないものの、同盟都市が蹂躙されるのは、ローマ人の信義を重んじる心情に触れたのだろう。

同盟者を敗北させるという不名誉なままでいいのか。主戦派はこのように市民たちを焚き付け、同意を得たに違いない。

前218年春以降、ついにローマからカルタゴへ、宣戦の全権を与えられた使者が送られた。

ローマの最後通牒とカルタゴの反論

ローマはカルタゴ政府に対し、

ハンニバルとその顧問団をローマへ引き渡すか、さもなくば戦争だ

と最後通牒を突きつけた。

それに対しカルタゴは、次のような反論を展開する。

「エブロ条約」違反との避難に対して

エブロ条約は、ハスドゥルバルがカルタゴ政府の同意なしに締結したものなので無効とした。

その上で、第一次ポエニ戦争の最終条項では、イベリア半島に関する規定はなにもなく、ただ同盟国について危害を加えることを禁じているだけだ、と主張したのである。

サグントゥムについて

上記をふまえた上で、サグントゥムが前241年(条約終結時)の時点でローマの同盟国ではなかったことを強調した。


カルタゴの2つの反論をまとめると、ローマとカルタゴとの間に、イベリア半島に関するいかなる条約も存在しない。だからイベリア半島では、カルタゴ(つまりハンニバル)は、いかなる軍事作戦も自由に行えるはず、となる。

これがカルタゴの公式見解だと、ローマに主張したのである。ではカルタゴの言い分に対して、ローマ側はどのような意見を述べたのか。

前241年の条約にある「双方の同盟国」には、将来の同盟国もふくまれる。そして、サグントゥムは前219年以前に、ローマと同盟を結んだ都市である。

そのサグントゥムを、ハンニバルは滅ぼしてしまった。これは完全に条約違反ではないか。

サグントゥム問題は、明らかにカルタゴ(ハンニバル)に非があり、ローマはこの有利な開戦のチャンスを見逃すつもりはなかった。

だが、カルタゴはローマに戦争の責任を押し付けられても、ハンニバルを引き渡すつもりはない。ハンニバルを引き渡す気がない以上、交渉は完全に決裂したと言える。

ローマ使節の最年長の一人が、トガのふところを指し、カルタゴの元老院集会に述べた。

この中に戦争と平和を入れてきた。どちらでも諸君の求めるほうを置いていこう

それに対し、カルタゴのスーフェース(最高政治責任者)は答える。

どちらでも望みの方を置いていくがいい

ローマの使節は言った。

それでは戦争を

この答えを聞いたカルタゴ元老院議員の大多数が

受けよう

と叫んだ。

ローマとカルタゴの雌雄を決するだけでなく、地中海諸国を巻き込むことになる第二次ポエニ戦争の火蓋が、今切って落とされたのである。

第二次ポエニ戦争始まる

ローマとカルタゴとの力関係

この後ハンニバルは準備を始め、イタリアへの遠征を開始するわけだが、その前に前218年頃のローマとカルタゴ両者の戦力を見てみよう。

海軍力

第一次ポエニ戦争終了後、西地中海の制海権は完全にローマの手にあった。ローマは前218年の段階で、220隻の五段櫂船を保有しており、彼らが望めばスペインやアフリカにも海上から遠征することができたのである。

一方のカルタゴは、カルタゴ・ノウァとスペインの海岸に50隻程度の船があったに過ぎない。カルタゴ全体の船を合計しても、150隻程度しかなかったようだ。

陸上戦力

では陸上の戦力はどうか。

共和政ローマでは、兵役は市民の義務である。つまり、成人男子市民=兵員と考えることができる。また、この頃は政治制度を共有する単一の国家ではなく、ローマ市を頂点としてイタリアの諸都市と同盟をむすんだ、連邦国家といえるだろう。その同盟市に対して、ローマは兵を提供する義務を追わせていた。

そのローマは、第二次ポエニ戦争開始当時、46歳までの武装可能な青壮年男子は30万人強いたという。40万人を超えていたという説もある。

ちなみにこれはローマ市民のみの数であり、同盟都市の人々、いわゆる非ローマ市民の数まで含めると、90万人弱の人を動員できたらしい。

一方のカルタゴ。

あくまで概算レベルの試算になるが、人口自体はアフリカ、スペインと合わせると、当時のローマとさして変わらなかった(むしろカルタゴのほうが多かった)のではないか。

しかし、兵の動員能力となると、明らかに差が出る。確かにカルタゴも市民が兵士となることはあった。だが彼らは緊急時の兵員であり例外的戦力なのだ。

ではカルタゴは兵を何に頼っていたか。

彼らは基本、金をだして雇う戦闘員、つまり傭兵に頼っていたのである。第一次ポエニ戦争前までは、主にリビア(カルタゴのあるアフリカ)、サルディーニャ島、またバレアレス諸島(スペインの東地中海にある島々)や、イタリアのカンパニア出身者がその構成員だった。

しかし戦争の敗戦と、それに続く傭兵戦争を経験したあとは、イタリアやサルディーニャ島からの供給源が絶たれ、さらにリビア兵は反乱分子として、常に危険をはらむようになる。

そこで彼らが兵の供給元として期待したのが、スペインというわけだ。バルカ家はスペインの諸部族に対し、自分たちが保護する代わりに兵を提供する協定を結ばせた。まるでローマが同盟国に対し行ったように――。

とはいえスペインの兵力は、ハンニバルがイタリア遠征に出発する前でも10万前後であり、供給源として期待するにしても、20年弱の支配では盤石とは言い難い。いずれにせよ、ローマとの戦力差は歴然としていた。

それでもハンニバルは戦いに踏み切ったのである。彼が戦力差を埋める目算は2つあった。

一つはバルカ家がこれまで鍛え上げてきた、私兵とも呼べる傭兵たちの練度。
そしてもう一つは、ローマと同盟国の関係を断ち切る、つまりローマ連邦の解体である。

ハンニバル軍の構成

ではここで、ハンニバル軍の構成を見てみよう。

ハンニバルやバルカ家が模範としたのは、おそらく第一次ポエニ戦争中、唯一陸戦でローマに圧勝した、クサンティッポスのスパルタ式(つまりギリシア=ヘレニズム式)組織だろう。

クサンティッポスがカルタゴに、どのような軍事教練を施したかは、第一次ポエニ戦争Ⅱ ―スパルタ式軍事教育導入からハミルカルの登場、終戦まで―を読んでいただくとわかるはずだ。

シチリア争奪から拡大した第一次ポエニ戦争 第一次ポエニ戦争Ⅱ ―スパルタ式軍事教育導入からハミルカルの登場、終戦まで―

歩兵

ハンニバル軍の歩兵は、ギリシア=ヘレニズム方式の密集隊形戦術を採用しており、その中核をなしたのが重装歩兵だ。

この重装歩兵は、カルタゴ周辺から集められたものを中心に、リビア(アフリカ)およびスペインで補充されている。

重装歩兵を援護する形で、軽装歩兵、さらにバレアレス諸島から集められた、カルタゴ兵を特徴づける投石兵も歩兵として加わった。

騎兵

ハンニバル軍のキモともいえる騎兵は、主にスペイン人。ただし最精鋭部隊はヌミディア人が担っていた。彼らは幼少期から馬を乗りこなす、ナチュラルな騎馬民族だったのである。

鐙がない時代では、小さいうちから乗馬の訓練をしていないと、馬を操れなかったのだ。

戦象

カルタゴ軍として勇名なのが戦象だろう。

どのような象が戦闘で使われたかは諸説あるらしいが、おそらくハンニバル軍は森の小型の象を使用した。肩までの高さは2.4メートルと、象としては比較的小さい種類だ(インドゾウで3メートル。アフリカの灌木地帯に住む種類なら、3.3メートル)。

この象たちは小さく、よく絵にあるような、頭にかごを乗せるには小さすぎたので、一人の象使いが象の上に乗って投げ槍をつかったようである。


ローマに打ち勝つ目算の一つ、傭兵の練度について、ハンニバルはどう見ていたのか。

おそらく傭兵主体では、主力の重装歩兵のぶつかり合いでローマの正規軍に勝てないと踏んでいた。

ただし、ハンニバルが率いる軍は、スペイン支配の過程でバルカ家が何度も戦いに連れていた傭兵たちである。彼らは「将軍」に対しての忠誠度も高く、まとまりがあった。

そこにハンニバルは勝機を見出そうとしていたのである。

「ハンニバル」という人物について

目算の2つ目は、ハンニバルが戦いを進めていく中で語るとして、私は戦の行方を決めるもう一つの要因として、司令官にあると考える。ではハンニバルは、どのような人物だったのだろうか。

彼は幼少期から、勉強家であったらしい。遠征前の冬に、カルタゴ・ノウァでギリシア的教養を高めたようだが、このギリシア的な教養は、もともと父の元でギリシア人の側近たちがおり、その一団から吸収したようである。

特にギリシア・ヘレニズムの軍事関係の書物には目を通していた。

  • 松明による、通信技術
  • アレクサンドロスの軍事技師による書物

など。

また、貨幣の鋳造や、のちに同盟者となるマケドニア王フィリッポス5世とのち会にも、ヘレニズム文化の影響が伺える。もちろんギリシア語も堪能であり、ラテン語にも通じていた。

しかし、やはりハンニバルの人物形成に大きな影響を与えたのは、かつてのマケドニア王アレクサンドロス3世、つまりペルシアを征服したアレクサンドロス大王だろう。

この後アルプスを越えるハンニバルは、何千キロにもなるアレクサンドロスの大遠征に憧れ、模範としていたのではないかと思う。

どこからローマを攻めるのか

ハンニバルは、もしローマとの戦争になれば、イタリア半島、つまりローマの本拠地で戦うことを決めていた。しかし制海権もないので海路で乗り込むわけにも行かず、沿岸沿いの比較的高低差が少ない楽な陸路では、制海権を持つローマ側に捕捉される恐れがある。

なによりマッシリアというローマ側の同盟国が、中間地点で立ちはだかる。おそらくこの都市を落とすには、サグントゥムよりも長い期間が必要だろう。仮に陸側から攻囲したとしても、同盟国ローマに海側から支援されれば、さらに落とすことは困難になる。

そんな悠長なことをしている暇など、ハンニバルにはなかった。なぜなら時間をローマに与えては、ハンニバルの進軍を阻まれるだけでなく、カルタゴ本国を攻撃される恐れがあるからだ。

ならばどこからイタリア半島に侵入するのか。北側からアルプスを越えるしかないのである。父ハミルカルの代から、仮想敵国としてローマに攻め込むシュミレーションを何度もしていたことだろう。アルプス越えは不可能ではない。そう考えるまでには。

ハンニバルの準備

まずはイベリア半島の防備を固めるため、弟ハスドゥルバルに軍船多数と歩兵12,000、騎兵3,000、象21頭を委ねた。

さらにイベリア(スペイン)兵とアフリカの兵双方を配置換えする。これはバルカ家が鍛え上げた精強なスペイン兵に、本国のまもりを固めてもらう目的のほかに、徴募した土地にそのまま配置して、出身地の人々と呼応して反乱するのを未然に防ぐ狙いもあった。

出身地の人々と結びついた反乱の事例は、傭兵戦争 ―リビア戦争とも呼ばれるカルタゴ最大級の内乱―の記事を思い出してもらうといいだろう。

カルタゴ最大級の内乱 傭兵戦争 傭兵戦争 ―リビア戦争とも呼ばれるカルタゴ最大級の内乱―

この準備の間に、ハンニバルの待ちわびていた報がついに来る。

彼はあらかじめ、北イタリアとアルプス山中のガリア人に、同盟を誘う使いを何度も出していた。「ガリアとピケヌムの土地分配法」を成立させたローマが、北イタリアに住むガリア人を追い出したことで、彼らがローマに対して憎しみを抱いていたのは、第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―ローマの情勢で書いたとおりだ。

さらに彼らはアルプス北に住むガリア人と手を組み、ローマに戦いを挑むが、前225年のテラモンの戦いで敗れてしまう。そのガリア人なら、ローマに復讐の機会を狙っているとハンニバルは踏んだのである。

そればかりではない。

北ヨーロッパからアルプスを通って地中海に抜ける道は、何百年にも渡ってフェニキア・カルタゴ商人が築き上げた交易ルートであり、カルタゴと地元ガリア人との交流があったようなのである。

そのガリア人たちから、「カルタゴに協力する、アルプスを越えるのは不可能ではない」、との使いがやってきたのだ。

ついに準備は整った。あとはローマ本国に入って戦いを挑むだけだった。

イタリア遠征開始

ハンニバル、エブロ川を越える

前218年春、ハンニバルはカルタゴ・ノウァから進軍を開始した。進軍の前には、カルタゴ本国からローマへの宣戦布告の知らせを受け取っていたので、カルタゴ市民たちの指示を確信しただろう。

ハンニバルは出発前に軍集会を開き、兵士たちを前に次のことを訴えた。

  1. ローマ使節が、ハンニバルと彼の側近たちの引き渡しを要求したこと
  2. これから目指す土地が豊かであること
  3. ガリア人たちと同盟を結んだので心配ないこと

この集会の狙いは、(1)で兵士たちの怒りをかきたて、(2)や(3)で彼らを励まし、結束を促すこと。

ハンニバル軍は、次のような様々な人々からなる軍隊だった。

人種

  • アフリカ人
  • イベリア人
  • その他地中海の様々な民族

身分

  • 傭兵
  • 同盟軍
  • バルカ党のカルタゴ市民など

遠征前の集会は、彼らの結束を促すことはもちろん、ハンニバルがカルタゴの将軍であるという正当性を、彼らの合意を得ることで確保できるのである。

結束成ったハンニバル軍は、ついにエブロ川を越える。ハンニバルにとって、この川はカエサルのルビコン川と同じ意味があったことだろう。和平との決別であり、ローマとの決戦を意味するラインである。

さらにイベリア半島を北に進みながら、エブロ以北のイレルゲネス族、バングシー族などのスペイン部族を破りつつ、ピレネー山脈の麓に到達した。

ハンニバルはここで軍を再編成する。部下のハンノを、歩兵1万、騎兵1千を与え、エブロ川北の総督に任じた。これは新たに征服した種族、特にローマと友好関係だったバルグシー族)を監視するためだった。

さらにかれは2万人ものイベリア兵を故郷へと帰らせた。もちろん士気の高いやる気のある兵を選別する目的もあっただろう。と同時に故郷へと帰った兵たちが、新カルタゴ派の中核となってイベリア半島に根付くよう、さらに遠征軍の兵たちも無事に帰ることができるというメッセージだったのだ。

また遠征軍の荷物は、エブロ以北の総督ハンノのもとに保管させた。この措置も帰るところがある、と兵たちを安心させるものだ。傭兵戦争の二の舞になることは避けたかった。

この地点でハンニバルの遠征軍は、歩兵50,000、騎兵9,000になっていた。

ローマ側の対応

一方ローマも、ハンニバルのエブロ川渡河の報を聞くや、応戦の準備を整える。前218年の2人の執政官を、次の地域に派遣することを決定した。

  • プブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌスの父):イベリア半島
  • ティベリウス・センプロニウス・ロングス:アフリカ、カルタゴ本国

しかし、スキピオが遠征の準備をしている矢先、北イタリアでガリア人の蜂起が発生する。この反乱鎮圧のため、スキピオに割り当てられるはずの軍団が派遣され、スキピオはやむなく同盟国から新たに徴兵することとなった。

実はこのガリア人の蜂起は、ローマ人が北イタリアに

  • プラクンティア
  • クレモア

2つの植民都市の建設を強行しようとしたため、ボイイー族がインスブレス族とともに蜂起したのだ。

もちろんこのガリア人蜂起は、カルタゴ軍がやってくることに勇気づけられて起こした反乱であり、ハンニバルの計画が早くも形になって現れはじめたといえるだろう。

出鼻をくじかれたローマだが、航海に適した時期を待ち、前218年夏に両執政官はイタリアを出港した。

センプロニウスはシチリアのリリュバエウムに向かって艦隊を組織した後にカルタゴ本国へ。歩兵8,000、騎兵600に同盟軍の歩兵16,000と騎兵1,800を従えていた。

一方のスキピオは60隻の船でリグリア海岸を北上。ピサを経由して、マッシリア近くのローヌ川河口に錨をおろした。こちらも歩兵8,000に騎兵600、同盟軍の歩兵14,000と騎兵1,600を引き連れて。

スキピオは、ハンニバルがピレネー山脈を越えたとの情報は得ていたが、彼がローヌ川まで到達するには、まだ時間があると考えていたのである。

ハンニバル、ローヌ川を渡る

しかしハンニバルは、スキピオの予想を遥かに超えたスピードでローヌ川に達していた。それもスキピオが待ち構える河口から、さらに4日ほど行軍距離のある地点に。

ハンニバル軍の唐突な出現は、スキピオも驚かせたが、地元のケルト部族たちも目をむいたに違いない。彼らはローヌ川の対岸に集結して、この招かざる客たちをこちらへと渡らせまいと息巻いていた。

このままローヌ川を渡っては甚大な被害が出ると踏んだハンニバルは、その日の夜、ボミルカルの子ハンノ(スペイン北部を任せた人物とは別人)に一軍をあずけ、暗闇に紛れさせて上流に派遣する。

ハンノは35kmほど離れたところに、中洲がある渡りやすい箇所を見つけて渡河を済ませると、いそいで下流へと引き返した。

翌朝、ハンノ到着の狼煙をみたハンニバルは、かねてから用意した筏に兵や馬、象たちも乗せて川を渡る。ハンニバルたちが対岸に着くと、突如ハンノ軍が現れてケルト人陣営を占拠した。

ローヌ川渡河の様子
ローヌ川を渡るハンニバル軍
Henri-Paul Motte

川岸についたハンニバル軍を料理しようと待ち構えていたケルト人たちは、ハンノとハンニバル両軍の挟み撃ちにあい潰走。ローヌ川到着から5日目、ハンニバルは、象37頭を含む兵馬たちを一日で渡河させるという、離れ業をやってのけたのだった。

ローマ軍との初めての接触

ローヌ川渡河と同時に、スキピオ接近の知らせを受けたハンニバルは、ローマ軍を探るため、ヌミディア騎兵500を斥候に送り出す。一方のスキピオも、予想外に早いハンニバルのローヌ側接近の報を聞くと、騎兵300を上流へと送り出した。この騎兵同士が遭遇したのである。

ここでハンニバル軍とローマ軍は、初めて相まみえることになる。結局この小競り合いはローマ軍の勝利で終わる。200騎の損害をだしたヌミディア兵は退却し、ハンニバルの待つ本営へと戻った。

ローマ騎兵も140騎ほど失ったが後を追い、ハンニバルの陣営を見届けてからスキピオのもとへと引き返す。スキピオは騎兵が戻るや直ちにハンニバルを追って上流へと行軍したが、ハンニバルはすでに陣営を引き払い、東へと向かったあとだった。

このままハンニバルを追うか、否か――。

結局スキピオは、ハンニバルの追跡を諦める。アウェイで戦うこと不利は避けたのだ。ではどうしたか。

まず軍を二手に分け、大部分を弟のグナエウスに任せ、当初の予定どおりスペインへと向かわせた。スキピオ自身は騎兵の一部を率いてイタリアへと引き返す。

ハンニバルはおそらくアルプスを越えてイタリアへとやってくるだろう。その下山地点を狙って、ハンニバル軍を叩けばよい。ホームでの戦いのほうが、何かと有利なのだから。

そのハンニバルは、スキピオの考えたとおり、いよいよアルプスへと向かおうとしていた。季節は秋。アルプスの山頂には、ちらほらと雪が降り始めていた。

本記事の参考図書

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