ヒスパニア(スペイン)でセルトリウス相手に、何度も苦渋を味わったポンペイウス。しかし最終的にはセルトリウスを追い詰め、スペインの平定に成功する。
帰国早々、奴隷戦争の鎮圧に協力したポンペイウスは、スペインとイタリアでの功績を手土産に、凱旋式挙行と執政官立候補を元老院に認めさせた。そして若干35歳にして、元老院議員の経験もなしに執政官当選を果たした。
ポンペイウスが執政官となった目的は、スッラにより制限されてた護民官の権限を戻すこと。自分の言うことを聞く人物を護民官に就けることで、元老院を通さずにポンペイウスが望む法を民会に提出、決議できるようにしたのだ。
そして彼の思惑は、執政官を退いた2年後に実を結ぶ。長年ローマを悩まし続けていた海賊討伐の最高司令官に、ポンペイウスは就任したのである。
その結果、これまで誰も成功しなかった全地中海の海賊一掃を、ポンペイウスはわずか3ヶ月で成し遂げたのだった。
ポンペイウス、元老院から東方遠征の承認を得る
ポンペイウス、軍を率いたままキリキアで待機する
海賊討伐を終えたことで、元老院はポンペイウスに与えた大権が返還されると一安心したに違いない。しかしポンペイウスは大権を保持したまま、キリキアで冬を越すことに決めた。なぜか。
ポンペイウスはもう一つの大きな仕事を狙っていたのだ。それは、ローマの東方地域でいまだ続く、ポントス王ミトリダテス6世との戦争に決着をつけること。
そのためにポンペイウスはまたしても護民官を味方に引き入れた。彼の名はガイウス・マニリウス。前67年に任期切れの護民官ガビニウスにかわる、ポンペイウス派の人材として期待されていた。
ミトリダテス6世 VS スッラ
さて、護民官マニリウスが何をしたかを記述する前に、これまでのローマとミトリダテス6世の抗争について説明しておこう。
東方諸国の継承争いにローマが介入して起こったポントス王国との戦い、いわゆるミトリダテス戦争は、一時ポントス王ミトリダテス6世が小アジア全域を支配するまでの大きな勢力となった。
勢力を拡大したミトリダテスは、小アジアにいた8万人とも10万人とも言われるローマ人を殺戮したという。
このミトリダテス6世を討伐するために派遣されたのがスッラである。ミトリダテスとの戦争を行う権限(命令権)が、スッラとマリウスの対立の火種となったことは、ポンペイウスⅠ ―誕生からセルトリウス戦争前半まで―のマリウス、スッラの抗争でも書いたとおりだ。
政敵に背後から挟み撃ちにされる危険があったため、スッラはポントス軍を撃破したにも関わらず、ミトリダテス6世と有利な和睦を結ぶにとどまった。
スッラに敗れて占領した領土は失ったものの、ポントス王国は依然として大きな力を保ったままだったのだ。
ミトリダテス6世 VS ルクッルス
その後ミトリダテス6世は、ローマ政府に抵抗するスペインのセルトリウスと結び、再びローマとの闘争を開始する。
ローマに楯突くミトリダテスを討伐するため東方に派遣されたのが、時の執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルス。セルトリウスと戦うローマ軍に増援を提案した人物である。
ルクッルスは属州アシア、キリキアの他にローマの支配外であるビテュニア・ポントスに及ぶ広範囲な命令権を与えられると、前74年東方への遠征を開始した。
兵の数で劣っていたにも関わらず、ルクッルスはミトリダテス6世を何度も破り、ポントス王国を占領した。さらに圧巻だったのは、ミトリダテス6世が亡命した先のアルメニアで、王の引き渡しを拒否したティグラネス2世を破った戦いである。
ティグラネスは当初、進軍するルクッルスの兵の数を見て、
軍隊にしては少なすぎ、使節にしては多すぎる
と小馬鹿にしていた。しかしいざ戦闘にはいると、わずか数時間で数倍のアルメニア軍は、ルクッルスの前に粉砕されてしまったのだった。
ルキウス・リキニウス・ルクッルス
ところがこのルクッルス、将としては一級の腕をもちながら、兵士にとことん人気がなかった。のちに食道楽や贅沢の代名詞となるルクッルスだが、東方属州では過度な税の取り立てを制限するなど、属州の統治見直しに努めたらしい。
また遠征する兵士たちの楽しみの一つに敵軍の略奪があったのだが、ルクッルスはこの略奪も制限したのではないか。
しかし属州の処置は、現地の人にローマへの信頼を回復させはしたが、当のローマ側、特に金融業を請け負う騎士階級には不評だった。
元老院内部でルクッルスの大権を妬むものは、騎士階級の金融屋たちの声を利用する。前69年には属州アシアとキリキアがルクッルスから取り上げられ、さらに前68年にはビテュニア・ポントスの命令権が、護民官ガビニウスにより他の管轄下に移されてしまったのである。
命令権がなくなったことで、ルクッルスは補給を略奪に頼らざるを得なくなる。さらに兵たちへ支払う給料も乏しくなったことで、軍団兵も反抗的になる。そのうえ前67年には、ルクッルスの副官がゼラの戦いで大敗し、軍団副官24名、150人の百人隊長を含む7,000の犠牲を出す惨事が起きた。
こうして前69年には、ほぼ東方での勝利が目前だったにも関わらず、わずか2年でルクッルスが戦ってきた6年間の成果が台無しになってしまったのだった。
マニリウス法の成立
海賊討伐終了の時点で、いや海賊討伐の任務に就く以前から、ポンペイウスはルクッルスの状況をわかっていたのだろう。彼はルクッルスの戦争を引き継ぐため、冒頭に登場した護民官マニリウスを利用する。
マニリウスは次の法(マニリウス法)を民会に提出した。
- ビテュニア・ポントス、およびキリキアの統治(命令)権
- アドリア海から東の全軍に対する指揮権
この法により東方での命令権をポンペイウスは手に入れる。さらに戦争を行う現地だけではなく、後背地をすべて管轄下にいれることで、ポンペイウスの補給線を確保することができたのである。
マニリウス法は狙い通り、トリブス民会(ローマ市を35の地区に分けて、その地区単位で賛成と反対を決める)で可決された。
マニリウス法成立の報を聞くと、ポンペイウスは眉をひそめて憤慨し、
やはり戦陣の労苦は止まないものか(ずっと戦う宿命なのか)
とため息をつくと、
自分もいつかは人の嫉妬を逃れて妻と一緒に田舎に隠棲したいものだ
と言ったらしい。だがポンペイウスの思惑は公然の秘密である。彼の言葉を心から信じたものなど誰もいなかった。
ポンペイウス、ミトリダテス6世との決着をつける
ポンペイウス、ミトリダテスとの戦いに着手する
ポンペイウスはさっそくミトリダテス戦の準備を開始する。彼が行ったことは次の通り。
- 同盟関係にある王や領主を増援要請のため招集する
- 東地中海から、ボスポロス海峡までの全海岸を固めるよう艦隊に指示
- ミトリダテスに降伏を促す丁重な要請を送る
- パルティア王フラアテス3世と交渉
とくにパルティアは、ミトリダテスとティグラネスがあらかじめ自分側に引き入れようとすることがわかっていた。そこでポンペイウスはパルティアに対し、ティグラネスが治めるアルメニアを攻撃したら、ユーフラテス川をローマとパルティアの国境にすると約束し、自分に味方するよう要請した。
またアルメニアは父(ティグラネス2世、以後大ティグラネスと表記)と子(同名のティグラネス。ここからは小ティグラネスとする)の仲が悪く、小ティグラネスもパルティアにアルメニアへ攻め込むよう頼んでいた。
パルティアがポンペイウスに付きそうだと知ったミトリダテスは、アルメニアからの援軍も期待できないため、ポンペイウスの条件を聞くことにする。ポンペイウスから出された条件は、降伏とローマからの脱走兵引き渡しだった。
実はこの脱走兵とは、スッラ時代に追放された人たちがミトリダテスのもとに集った兵士たちのこと。彼らはミトリダテスとともに、反ローマとして抵抗をしていたのである。ところがミトリダテスがポンペイウスと交渉している知ると、彼らは反乱を起こした。
結局ミトリダテスは彼らの反乱を鎮めるために、ポンペイウスと戦うしか道が残っていなかった。
ポンペイウス、ルクッルスの兵を引き継ぐ
ミトリダテスと交渉している間にも、ポンペイウスはキリキアからガラティアへと軍を進める。この地でルクッルスから正式に戦いを引き継ぎ、彼の兵を自分の軍へと編入するためだった。
公式に指揮権を引き継ぐためポンペイウスとルクッルスは会合を開く。最初は穏やかだった会見も、やがてお互いを大声で罵る場に変わっていった。
ルクッルスはポンペイウスを
(人の功績を後から来て奪う)ハゲタカ
と罵れば、ポンペイウスはルクッルスを
吝嗇家(けちんぼ)
と応戦した。
ともかくこの会合が開かれたのち、ポンペイウスは自分が使えないと判断した1,600の兵のみルクッルスへの同行を許し、あとはすべて自分の軍団兵に取り込んだのだった。
このことは、後々までルクッルスにポンペイウスへの恨みを抱かせる結果となったのである。
ミトリダテス、初戦でポンペイウス軍に敗れる
歩兵3万、騎兵2,000となったポンペイウスは東へと進軍する。一方野戦でローマ軍にかなわないと考えたミトリダテス6世は、現在のトルコにあるシヴァス付近で高台に陣を築き待ち受けていた。
ミトリダテス6世はローマ軍より優位な騎兵隊を使い、輜重隊(輸送隊)のみを狙う。明らかに敵の食糧を悪化させ、撤退させる算段だった。
これに対し、ポンペイウスは一計を案じる。まず敵の騎兵攻撃を無効化するため、森の中に陣営を移した。そして翌日、ポンペイウスは「あえて」ミトリダテス軍に騎兵戦を挑んだのだ。
ミトリダテスの騎兵と戦闘にはいると、ローマ騎兵は潰走するフリをして退却を始める。当然追うミトリダテス騎兵。しかしこれはポンペイウスの周到な罠だった。
ポンペイウスはあらかじめ潜ませておいた軽装歩兵3,000と騎兵500を、通り過ぎた敵騎兵の背後から襲わせたのである。さらに退却する騎兵の前に、巧妙に隠れていた歩兵も登場し、追撃してきた敵騎兵は挟み撃ちにあって打ち破られたのだった。
ミトリダテス軍はたまらず東へ退却を始める。こうしてポンペイウスは、東方への道を確保したのである。
ポンペイウスの包囲とミトリダテス軍の夜襲
ポンペイウスはさらに東進し、小アルメニアのユーフラテス川流域へと差し掛かった。ここでキリキア方面軍3個軍団と合流。結果ポンペイウス軍の総勢は、4万を超えたとも8万になったともいわれている。
一方のミトリダテスは山の上に強固な要塞を築き、立てこもっていた。うかつに攻撃できないと判断したポンペイウスは、増員した軍団兵をフル活用し、28kmにもわたる囲いをつくり、この要塞への補給路を遮断した。
徐々に食糧が不足し、荷運び用の動物まで調理しなければならないところまで追い詰められたミトリダテスは、45日間包囲に耐えるとついに夜襲を決行。包囲網の突破に成功する。
ポンペイウスの包囲からなんとか脱出できたミトリダテスは、夜間だけの行軍で敵の目をくらまし、同盟先のアルメニアへと逃れようとしていた。
ポンペイウス、ミトリダテス軍を追撃して壊滅させる
王の逃亡をなんとしてでも阻止したいポンペイウスは、ミトリダテス6世がユーフラテス川を渡る前に決着をつけるため、強行軍で追跡する。周囲の地形を調べさせ、ミトリダテスの逃亡経路と交わる回り道を見つけていた。
強行軍のおかげで先回りをすることができたポンペイウスは、ミトリダテスを待ち受ける。そして彼らが隘路にさしかかった頃合いを見計らい、攻撃を開始したのである。
ミトリダテス軍は混乱し、戦いどころではなくなった。結局彼らは1万人以上もの犠牲を出し、あるいは捕虜となった。ミトリダテス6世はなんとか戦場を脱出して、800騎の騎兵とともに逃亡したのだった。
ミトリダテスはなおもアルメニアに逃亡を図ろうとしたが、アルメニア王ティグラネスがミトリダテスの首に懸賞金をかけているとの知らせを受けると、彼の息子が治めるクリミア(黒海の北)へと向かった。黒海沿岸にはローマ艦隊が目を光らせていたので、黒海の東岸部を陸路で進む道を取る。
ポンペイウス、アルメニアを平定する
アルメニア王ティグラネスと息子の対立
ミトリダテス6世 VS ルクッルスでも書いたとおり、ミトリダテス6世とアルメニア王大ティグラネスの間には、ミトリダテスの娘を通じて、つまりアルメニア王とミトリダテスの娘が婚姻を結んでいたことで同盟関係にあった。
そのミトリダテス(大ティグラネスにとっては舅)に、アルメニア王はぜ懸賞金を懸けて追い払ったのだろうか。これには大ティグラネスとその息子小ティグラネスの対立が関係していた。
ミトリダテスがアルメニアに逃亡する少し前、小ティグラネスは父に反旗を翻した。パルティアを味方につけての謀反だった。パルティアは息子に味方することでローマとの約束を果たし、領土を確保する狙いがあったのである。
ところが首都アルタクサタに攻め込んできたパルティアに対し、父の大ティグラネスは一旦軍勢を山間部に退避させると、パルティアが一部を残して引き返したスキに、小ティグラネスともどもパルティア軍を破ったのである。
大ティグラネスは、息子の反乱を裏で操ったのがミトリダテスだと疑った。そのため懸賞金を懸けてまでミトリダテスを自国領内に入れたくなかったのだ。
大ティグラネスの無条件降伏
一方敗れた小ティグラネスはポンペイウスを頼ることに決めた。パルティアが敗れた以上、次に頼りになるのはローマ軍というわけである。ポンペイウスは小部隊をミトリダテスの追撃に当てると、自分はアルメニアへと進軍した。
ローマ軍の動きを知った大ティグラネスは、大軍と戦うのは得策ではないと考え、ポンペイウスの出した無条件降伏を受け入れたのである。
大ティグラネスのやることは徹底していた。ポンペイウスの陣営につくや、兵に促されて馬を降り、さらに剣を渡し、外套とカフタンと呼ばれる長衣を脱ぎ、キリタス(王冠のようなもの)まで外して、ポンペイウスに平伏。
自尊心の高いポンペイウスは、王という立場を捨ててまで自分に平伏する大ティグラネスの態度を気に入った。そこで、大ティグラネスが征服した土地以外の、父祖伝来のアルメニア領は保証すると約束したのだった。
小ティグラネス、ポンペイウスに拘束される
ところが南アルメニア領をポンペイウスに与えられた小ティグラネスは不満だった。なぜなら彼はアルメニア領すべてが自分のものになると期待していたからだ。
あまりに小ティグラネスが反抗的だったため、ポンペイウスは小ティグラネスを監禁してしまった。こうしてアルメニア領は大ティグラネスが元通りおさめることになった。
アルメニアの監視を一番信用のおける部下アフラニウスに任せ、ポンペイウスは軍を3つに分けて冬営に入る。しかしこの冬営中に事件が起こったのである。
ポンペイウス、コーカサス・コルキス地方へ遠征する
オロイセス王の冬営中の奇襲
12月17日、ローマで祝われている年末のお祭り「サトゥルナリア」の初日にそれは起こった。冬営中のポンペイウス陣営3つが、オロイセス王によって奇襲を受けたのである。
オロイセスは現在のアゼルバイジャンからグルジアあたりを治めていた王だ。コーカサス地方の東、つまりカスピ海側の王(おそらく部族連合体の長)である。また監禁中の小ティグラネスと結びついていた。
周到に準備された襲撃だったようだが、ポンペイウスは撃退に成功する。それどころか逆に敵を追撃し、キュロス川を渡るオロイセス軍に大きな損害を与えたのである。
オロイセスはたまらずポンペイウスに講和を申し出た。ポンペイウスも深追いは避けたかったので、条約を結んで引き上げることにした。
ポンペイウス、ミトリダテスの追跡を断念する
年が明けた前65年春、ポンペイウスはミトリダテス追討のため、コルキス(現グルジア)へと進軍した。この地を治めていたのはアルトケスという王だ。ミトリダテスとは同盟関係にあった。
ポンペイウスはアルトケス王の奇襲計画を知ると、逆にハルマスティカの砦を襲い占領した。さらに撤退するアルトケス軍の後を追って彼の軍を撃破。結果9,000人を倒し、1万人が捕虜になったという。
結局アルトケスはローマ人に貢物を送るだけでなく、自分の子供を人質に差し出すことで、ポンペイウスとの関係を保つことができたのである。
さらに進軍するローマ軍に立ちはだかったのは、コーカサスの大自然だった。険峻な山々に深い谷もあり、行軍が遮られることも1度や2度ではない。しかしポンペイウスはローマ軍の技術力をフル活用し、この土地に120もの橋を掛け険しい山道を切り開いたという。
やがてポンペイウスは黒海の東海岸沿いまで到達した。しかしこれ以上陸路で進むのは困難だと判断し、部下の艦隊を黒海に派遣。ミトリダテス6世への補給路を断つためクリミア半島の封鎖を命じると、自身は東へと引き返した。
オロイセス王との決戦
もちろん道の険しさもあっただろう。しかしミトリダテスを追わなかった、いや追えなかった一番の理由は、アルバニアのオロイセス王に背後を脅かされる危険があったからだ。
まだ秋にもならなかったため、ポンペイウスは戦争シーズンの残りを利用して、アルバニアを攻める決心をする。
彼はオロイセスの裏をかくため、一旦黒海沿いを南へすすむと大きく迂回し、敵が封鎖する橋より上流から渡河を決行した。夏真っ盛りの川は水位が低く、橋を掛けなくても徒歩で渡ることができたのだ。
ローマ軍が地元民の協力で食糧を水を確保できたころ、ポンペイウスはオロイセスが全軍を率いて接近中との情報を得た。その数歩兵6万に騎兵2万2,000(プルタルコスの記述では騎兵が1万少ない)。
ちなみにこの騎兵はアルメニア式の装備をする重装騎兵、いわゆるカタフラクトゥスだったようだ。一方のローマ軍は数が不明だが、4万を割っていたかもしれない。
ポンペイウスは圧倒的に不利な騎兵戦を避けるため、丘陵地に陣を敷いた。さらに歩兵を丘陵地に隠し、また前面に並べた騎兵の背後にたくみに隠れるように配置する。そしてオロイセス軍めがけて騎兵を前進させた。
もちろん数で劣るため、まともに戦っては勝ち目はない。そこでポンペイウスはある程度戦ったところで負けたふりをし、自軍へと騎兵を引き返させたのである。
もちろん敵騎兵はローマ軍に追撃を仕掛ける。しかし敵騎兵を敵陣から十分に引き離したところで戻ってきた騎兵は歩兵と入れ替わり、足止めされた敵騎兵にたいして側面に回り込んだ。さらに丘陵に隠れた歩兵もこの攻撃に加わったのだ。
これは、ミトリダテス、初戦でポンペイウス軍に敗れるに書いた戦いの再現だった。数に勝るが装備と技量で劣るオロイセス軍は、ローマ兵の前に次々と血祭りにあげられた。それでも激戦だったらしく、オロイセスの弟とポンペイウスが一騎打ちをするシーンもあったようだ。
しかしそれも時間の問題だった。結局ローマ軍が圧勝し、オロイセスはポンペイウスが出した和平条件を飲んだ。こうしてポンペイウスは、コーカサス地方の平定を完了したのだった。
ポンペイウス、東方諸国を再編する
オロイセスとの戦いを終えると、なおもポンペイウスは東に進軍した。しかしカスピ海近くで毒蛇(サソリ説あり)の生息する土地に阻まれ、南へと引き返すことを決意する。
ミトリダテス6世の放棄したポントス王国と、ティグラネスから奪った旧アルメニア王国領の処置、そして周辺諸国とローマとの関係を確立する大事業がポンペイウスには待っていた。
ポントス王国の処置
ここからは時系列で追うとややこしいため、一つ一つの問題ごとに、ポンペイウスの対処を見ていこう。
ポンペイウスはまず、ミトリダテスの放棄したポントス王国に向かった。そして、ミトリダテス追撃のために放置していた要塞や拠点を征服したのである。
征服が完了すると彼は王国を二分する。西側を属州ビテュニアと併合してビテュニア・ポントスとし、東側をローマに協力的だった国や王への報酬として与えることにした。
この時ポンペイウスから分前を預かる王は、12をくだらなかったという。ポンペイウスはポントス王国の再編を済ませると、南へと向かった。
セレウコス朝の滅亡と属州シリアの創設
セレウコス朝シリアは、前84年からアルメニアに支配されていたが、前69年にアルメニアの支配が弱まると復活を果たした。
しかし東方のパルティアや周辺諸国の圧力に加え、王国内部の都市も抑えることができず、政情は不安定だった。また南をユダヤ王国とナバティア王国に侵食されていた。
ポンペイウスはこのシリアも併合することに決める。ナバティア王国の勢力を部下に追い払わせると、自らダマスコス(現ダマスカス)に進軍。ベドウィンなどの野盗からローマが守ると約束し、シリアをローマ領へと組み込んで属州シリアを創設したのだった。
ユダヤ領の占領
ポンペイウスはさらに兵を南に進め、ハスモン家の支配するユダヤ領にも足を踏み入れる。実はハスモン家は兄弟で支配権を争っている真っ最中であり、兄弟の使節がポンペイウスのもとを訪れていたのだ。
ポンペイウスはもう一つの目的であるナバティア王国攻めを急ぐため、彼らの裁定を待つよう言い渡していた。ところが弟のアリストブロスがエルサレムへの撤退を勝手にしたため、ポンペイウスはエルサレムへの進軍を決めた。
アリストブロスはエルサレム帰還の途中でポンペイウスに拘束されたが、アリストブロス派の人々が城門を閉ざしたために、ポンペイウスは包囲を決行した。そして3ヶ月ののちエルサレムは陥落する。このときなだれ込んだローマ兵に、12,000ものユダヤ人たちが命を落としたという。
結局ユダヤ領はヒュルカノスが(王ではなく)大司祭として治めるよう命じ、占領したセレウコス朝シリアの土地を返還させる。ユダヤ領は以前の1/3程度になり、残りは属州シリアに編入された。
東地中海地方の再編成
その後ポンペイウスはナバティア王国の首都ペトラまで進軍する。ナバティア王国については、2019年に「英雄たちの選択」で特集を組まれていたので、記憶している方もいるのではないだろうか。
参考 英雄たちの選択スペシャル 「ローマ帝国 VS.驚異の砂漠都市 幻の王国のサバイバル戦略」NHKオンデマンド
ペトラへまさに攻撃を開始する直前、ポンペイウスのもとに一つの報告が入る。それはミトリダテス6世が死んだ、というものだった。
ミトリダテス6世はクリミア地方で軍を再編し、黒海を通ってエーゲ海を回り、イタリアに長征する途方もない計画を立てていたらしい。しかしイタリア遠征のために重税をかけて反乱を招き、さらに息子にも裏切られたため最後は部下に自分の命を奪わせた。
思わぬ知らせにポンペイウスはペトラ攻撃を中止し、小アジアへと引き返す。そして戦後処理を1年掛けて行った後、ローマへの帰還を果たすのである。
この遠征で、ポンペイウスは小アジアからシリアまでの東地中海地方全域にまで、クリエンテス(被庇護者。子分のようなもの)を持つことになる。
アフリカ、ヨーロッパ、ギリシア、そして東方諸国。まさに地中海全域にポンペイウスの勢力が及んだことを意味していた。
ポンペイウスの映像作品なら、古代ローマ時代を舞台にしたHBO&BBC共同製作の海外ドラマ「ROME」をオススメする。
総予算200億円で制作された映像は桁違いのスケールで、忠実に古代ローマ時代を再現。ガリア戦争も大詰めから始まるドラマでは、手に汗握る陰謀劇あり、女たちの野望あり。もちろんお色気シーンも満載。
もし興味があるなら、VOD(動画視聴定額サービス)のU-NEXTをおすすめしたい。全22話が見放題なうえ、31日間の無料トライアルあり。ぜひこの機会にお試しいただければと思う。
※U-NEXTについての本ページの情報は2021年4月時点のものです。
最新の配信状況は U-NEXT サイト にてご確認ください。