ポンペイウスⅥ ―デュッラキウム攻防からファルサロスの戦い、死まで―

異例づくしの大将軍ポンペイウス

クロディウスとミロの抗争で混乱した政治を立て直すため、単独執政官に就任したポンペイウス。元老院の重鎮メテッルスの娘コルネリアとの結婚で、ますますカエサルとの溝は深まっていく。

一方ガリアを掌握したカエサルは、次の執政官選挙から就任まで属州総督職を続けられるよう、様々な手段で元老院との駆け引きを行った。

だが元老院はカエサルの要求を拒否。首都から自分の手のものが追い出されたカエサルは、ついにルビコン川を渡りイタリア本国へと攻め込んだ。

本国のまもりを任されていたポンペイウスだったが、電光石火でイタリア諸都市を次々と落とすカエサルをイタリアで迎え撃てないと考え、ギリシアへと渡るためにブルンディシウムへと向かう。

そして間一髪でカエサルの追撃をかわしたポンペイウスは、ギリシアで対カエサル用の壮大な戦略を立てるのだった。

ポンペイウス、カエサルとの戦いを準備する

ポンペイウスの対カエサル戦略

ポンペイウスの狙い通り、アドリア海を渡る船をすぐに用意できないカエサルは、ポンペイウスの追撃をひとまず諦めスペインへと向かう。なぜならスペインにはポンペイウスの将軍たちが代理で属州を統治しており、そのための軍隊を保有していたからだ。下手にポンペイウスを追うと、背後から襲われる危険があったのである。

これによりポンペイウスは一息つくことができた。そしてカエサルとの戦いに備えた戦略を練ることにした。それはどのようなものか。

まず大前提として、ポンペイウスがこれまでローマ領内外の各地に遠征を行ったおかげで、ガリアとイタリア以外のほぼすべてが彼の影響下にあった。そこでポンペイウスはこの優位性を活かし、圧倒的な兵の徴集能力と物量、資金でカエサルを封じ込める作戦を立てたのである。

そのために、具体的には次の方策をとった。

  • スペインへ5個軍団を送る。この軍団にスペイン在地の補助部隊と合体させる
  • 以前から使節を味方につけていたマッシリア(現マルセイユ)に、ポンペイウスは16隻の艦隊を送り対カエサルの防衛力を強化する

マッシリアはスペインとイタリアの中間に位置し、地中海岸沿いにある都市だ。カエサルがスペインを攻めるためには、ポンペイウス側につくマッシリアを落とす必要があったのだ。マッシリアでカエサルを足止めできれば、それだけポンペイウスにとって有利な状況になるのだった。

またポンペイウス自身は属州マケドニアの州都テッサロニケ(現ギリシアのテッサロニキ)に5個軍団で進軍し、小アシアやシリア属州などの後背地を確保する。

さらにこの地に正統政府とも言える独立した政治機関をつくった。なんといってもポンペイウスのもとに集った元老院議員は、合計すると200人にも上っていたのである。

ポンペイウスの戦力

ではポンペイウスが動員できる戦力は、いったいどれほどいたのだろうか。

ポンペイウスはテッサロニケの約60km西に陸上部隊の陣を布いていた。その兵力は以下のとおり。

歩兵(9個軍団、約54,000)

  • イタリアから率いてきた歩兵:5個軍団
  • 属州キリキア(小アジア南東部)歩兵:1個軍団
  • クレタ・マケドニアの古参兵で編成した歩兵:1個軍団
  • 属州アシアで徴募した歩兵:2個軍団

騎兵(7,000騎)

  • ローマ騎兵:不明
  • ガラティア(デヨタロス王)騎兵:600騎
  • ガラティア(他の領主たち)騎兵:300騎
  • カッパドキア(アリオバルザネス王)騎兵:500騎
  • コンマゲネ(アンティオコス王)騎兵:200騎
  • トラキア騎兵:500騎
  • マケドニア騎兵:200騎
  • アレクサンドリア(ガリア・ゲルマン・シリア属州兵)騎兵:500騎
  • ポンペイウス所領の奴隷:800騎

特殊兵器部隊(クレタ島・ポントス(小アジア北東部)・シリア属州)

  • 弓兵:3,000
  • 投石兵:1,200

1個軍団を6,000人と仮定して計算すると、歩兵戦力は54,000に達する。さらに圧倒的なのは騎兵の数だ。そしてこれら徴集された兵たちが、実に様々な地域から参戦していることを考えると、ポンペイウスの影響力がいかに広大な範囲まで及んでいたかがわかるだろう。

ただしこの大兵力にも弱点はあった。
それは次の2点。

  • 雑多な地域から参戦していることによる連携力不足
  • 兵力の補充を新兵に頼ったことによる練度の不足

要するに実戦経験とチームプレイに不安を抱えていたのである。ポンペイウスはカエサルと戦う前になんとしてでも使える戦力にしなければならない。そこで彼は自ら先頭に立ち、兵たちに訓練を施した。

アドリア海の制海権を握る

ポンペイウス陣営の陸上戦力も壮観だが、カエサルに勝る彼の強みはなんと言っても海軍力である。ポンペイウスは対カエサル戦のために船を新造し、数百隻の艦隊を生み出した。

この大艦隊は、地域別に次の人物たち分担されていた。

  • 艦隊最高司令官:ビブルス(カエサルの元同僚執政官。前48年死亡後はスクリボニウス・リボ)
  • エジプト艦隊:グナエウス・ポンペイウス(ポンペイウスの長男)
  • 小アジア艦隊:デキムス・ラエリウス・トリアリウス
  • シリア・シキリア艦隊:カッシウス・ロンギヌス
  • ロドス艦隊:ガイウス・マルケルス、ガイウス・コポニクス
  • ギリシア・ダルマティア艦隊:スクリボニウス・リボ、マルクス・オクタウィウス

ポンペイウスはこれら全艦隊をアドリア海に航行させ、マケドニアからギリシアまでの西海岸を守備させたのだ。

カエサルはポンペイウスの艦隊に、自分が統治するイリュリクムを攻められてはまずい。そこで配下のドラベッラとガイウス・アントニウス(マルクス・アントニウスの弟)に艦隊を預け、2個軍団をアドリア海のクリクタ島に派遣した。

ところがスクリボニウス・リボとオクタウィウスが率いる艦隊に撃破されてしまう。カエサル側は、かろうじてサロナ(現サロナエ)を守り、陸上からの北イタリア侵入を阻止できたにすぎなかった。

属州イリュリクム以南のアドリア海は、完全にポンペイウスが支配する海になっていたのである。

カエサル、スペインの制圧に成功する

さて、ポンペイウスにブルンディシウムからの出航を許したカエサルが、その後スペインへと向かったことはポンペイウスの対カエサル戦略冒頭で記述したとおりだ。

またカエサルは、他の方面にも派兵している。

  • ガイウス・クリオ・・・属州アフリカへ
  • ドラベッラ、アントニウス・・・アドリア海の守備へ

ただしドラベッラ・アントニウスはアドリア海の制海権を握るで記述したように、圧倒的な敵戦力の前に敗北した。またクリオのアフリカ遠征は、クリオの大敗と指揮官の死という最悪の結果を迎えた。

クリオの敗北についてはユリウス・カエサルⅥ ―イタリア制覇からポンペイウスとの決戦まで―カエサルの誤算でも書いているので、ぜひご覧いただきた。

ローマの礎を築いた男 ユリウス・カエサル ユリウス・カエサルⅥ ―イタリア制覇からポンペイウスとの決戦まで―

それはさておき、スペインへ向かったカエサルはポンペイウスの狙い通りマッシリアで妨害にあい、さらにスペインでの戦役でも不利な状況に立たされるなど、苦戦の連続を経験した。

しかしポンペイウスの予想を超えるスピードで、スペインにいたポンペイウス派の将軍たちを撃破してしまったのである。さらにスペインからの帰路でマッシリアすらも、部下に任せた攻略戦で降伏に追い込んだのだった。

このマッシリア攻囲戦で、クロディウスを殺害したミロが戦士したことは、クロディウスの死とミロ追放で記述したとおりである。

カエサルは前49年中にイタリアに帰還を果たし、12月にはブルンディシウムに12個軍団を集結させた。ただしカエサルの1個軍団は、定員数を大幅に割った軍団だったのだが。

ポンペイウス、最高指揮官に任命される

一方ポンペイウスは前49年を、正統政府の仕組みづくりや練度と連携の低い兵の訓練に費やしていたが、ようやく兵士たちが使える見込みが立ってきた。さらに前48年の年始めに両執政官(この頃はカエサルが執政官を別に立てていたので、亡命政府での執政官だが)が退任すると、元老院より最高指揮権を委ねられた。

内乱勃発時には執政官代理であっても、あくまでポンペイウス以外の命令権保持者と同格だった。しかし前48年になってようやくポンペイウスがすべての軍事指揮権を握ることになったのである。

軍を自由に動かせるようになったポンペイウスは、デュッラキウムからアポロニアまでのアドリア海東岸ラインに冬営の陣を張りカエサルを迎え撃つ計画を立てた。

それに先立ち必要物資はデュッラキウムに集められ、アポロニアでは貨幣まで鋳造された。

カエサル、アドリア海を渡る

ところがまたもカエサルは予想外の早さで行動を起こす。前48年1月4日、通常なら冬営真っ只中の季節にブルンディシウムから出航し、アポロニアの南、パライステに上陸を果たしたのである。

カエサルの上陸地点より何十キロか南のコルキュラ(現ケルキラ)に待機していた艦隊最高責任者ビブルスも、カエサルの出航と上陸は完全に意表を疲れた。彼は全く出航の準備すらしていなかったのだ。

ただしカエサルは、ブルンディシウムに集まった全兵士たちを乗せるだけの輸送船を用意することができず、15,000の兵と600の騎兵のみで渡ってきたのである。もちろんカエサルは残りの兵たちを輸送するつもりだった。そのため船をブルンディシウムまで送り返した。

ところがこの頃には準備を整え、アドリア海上を警戒するビブルスの艦隊に捕まってしまい、輸送船30隻を焼き払われてしまった。さらにビブルス艦隊の警備が強化されてしまっため、カエサルは一旦輸送を断念することにしたのである。

ポンペイウス、カエサル軍の合流をゆるす

またもカエサルの電撃作戦に後手を踏んだポンペイウスだったが、彼の軍もまた西進の途上であり、テッサロニケからデュッラキウムを貫くエグナティア街道の半ばには達していたのである。

そしてカエサル上陸の報を聞くや強行軍を決行。カエサルの行動前に、アポロニアからデュッラキウムの道を封鎖する陣を布くことに成功した。

一方のカエサルも、ブルンディシウムにいる残りの軍と合流しないことには、動くに動けないでいた。その潮目が変わるのが4月10日。ブルンディシウムで指揮を取るカエサルの将軍マルクス・アントニウスが、3個軍団のベテラン兵に1個軍団の新兵、さらに800の騎兵を連れ警戒著しいアドリア海へと出航したのである。

アントニウス渡航時に、アドリア海では強い南風が吹いていた。そのおかげでポンペイウス側の艦隊に捕まることはなかったが、カエサルのいたアポロニアはもとより、ポンペイウスの陣よりもさらに北に流され、ようやく上陸を果たすことができた。

もちろんポンペイウスは、カエサルとアントニウスの合流を拒むために動いた。しかし巧みにカエサルが行軍を行ったため、アントニウス軍とカエサル軍の挟撃を恐れてポンペイウスは帰陣し、彼らの合流をゆるしてしまった。

デュッラキウム攻防戦

カエサル、ポンペイウス軍の合流を阻止する

アントニウスとカエサルが合流を果たしたころ、東方ではメテッルス・スキピオ(ポンペイウスの義父)がポンペイウスと合流するためシリアから2個軍団を率いてマケドニアへと向かっていた。

ポンペイウスの兵力をこれ以上増やしたくないカエサルは、2個軍団と500の騎兵でカルウィヌスに足止めを任せる。と同時に補給路を確保するため5個大隊をアナトリア(ギリシアの南方)に派遣し、ポンペイウスの守備陣を追い払った。

一方のポンペイウスも息子グナエウスを派遣し、カエサルが用意する全艦隊を奪取、あるいは焼き払うことに成功したのだった。

これでカエサルはイタリアへの道を閉ざされたことになる。海上ではまだ、ポンペイウスの圧倒的優位は変わらなかった。

2重の囲い

デュッラキウムに物資が豊富にあり、また兵の数でも上回るポンペイウスと持久戦をしても、ジリ貧になるのはカエサルの方である。

なんとしてでも戦場に引きずり出し決着をつけたいカエサルは、ポンペイウスの陣を強行軍で迂回する。そしてデュッラキウムとポンペイウス陣の間に自分の陣を布いて連絡網を遮断した。

それでもポンペイウスはカエサルと一定の距離を保ち、陣を設営するにとどめた。なぜなら海上はポンペイウスが支配しているため、物資豊富なデュッラキウムから船で補給することができたためだ。

そこでカエサルはポンペイウスの陣営を封鎖する作戦に出た。周りの丘を占領して砦を築き、その間を堡塁でつなげていく。

しかしポンペイウスも黙って見ていたわけではない。彼はカエサルの作戦を完全に見抜き、逆に自分の陣営から封鎖網の内側に平行に堡塁を築いた。つまり内側の堡塁(ポンペイウス)と外側の堡塁(カエサル)の2重の堡塁が出来上がったのである。

デュッラキウム攻防戦 2重防衛の様子
デュッラキウム攻防戦 2重囲いの様子

兵力が少ないため包囲の距離を伸ばしたくなかったカエサルは、包囲の合間にポンペイウスへ攻撃を仕掛け、なるべく内側へと追いやろうとした。しかしポンペイウスに撃退されでポンペイウス側の防衛網が伸びたため、当初の予定よりも2倍の長さの包囲網を作る羽目になってしまったのだった。

ポンペイウス、「攻め」を決断する

ポンペイウスの狙いは交戦ではなく、カエサルの物資不足による士気の低下と撤退に追い込むことだった。

デュッラキウムに山ほど食糧のあるポンペイウスとは対照的に、カエサルは荒れた土地のアルバニアから食糧を調達するしかない。また小麦の刈り取り季節は、まだ数週間も先のことだったのだ。

ところがカエサル陣営は、「カラ」という名の草の球根から作った代用パンで飢えを凌いでいた。そのパンをポンペイウス陣営に投げつけて来る始末。ポンペイウスはカエサルの食糧不足に期待できなくなってしまった。

それどころか、カエサルが包囲網に流れ込む小川の流水路をせき止めたり変更したせいで、ポンペイウス陣営に水不足が起こった。人間の食糧はデュッラキウムから補給できたが、騎馬に使用する馬たちに影響が出始めてしまった。

ついにポンペイウスは戦略の方向を転換し、カエサルと戦うことを決意する。問題はいつカエサルと戦うか。その機会を虎視眈々と狙っていた。

デュッラキウムの攻防第一回戦

デュッラキウム攻防戦 第一回戦
デュッラキウム攻防戦 第一回戦

その機会が訪れたのは7月8日。デュッラキウムにいる裏切り者の手引で、カエサルに町を明け渡す算段であることが発覚したのである。カエサルは夜のうちに奇襲をかけて町を奪う予定だった。

ポンペイウスはカエサルが陣営を離れて町に近づくその背後に、騎兵を船で上陸させたのである。カエサルは計3回の交戦で、危うく命を落としかけた。しかしポンペイウスの攻撃をなんとか逃れることに成功する。

一方で、カエサルが不在だった陣営と包囲網の中心にある砦に、ポンペイウスは4個軍団をぶつけたのである。この砦にいた守備兵は1個大隊(およそ200人程度)のみ。それに2万の軍勢が襲いかかったのだ。

雨あられと降ってくる弓矢や投石、波のように襲ってくる敵兵に対し、カエサル軍守備隊は2時間も持ちこたえた。彼らを救ったのは2個軍団を率いて応援に駆けつけたプブリウス・スッラ。あのスッラの近縁に当たる人物だ。彼がポンペイウスから味方を救うとは皮肉な話である。

この戦いでポンペイウス軍は2,000の犠牲者を出した。一方カエサルは20人足らず。ただし負傷者は相当な数に上っていた。

ポンペイウス、カエサル包囲網の弱点を突き勝利する

デュッラキウム攻防戦第二回戦
デュッラキウム攻防戦 第二回戦

この戦いでもカエサル包囲網の突破を図ることができなかったポンペイウスは、次の機会を狙っていた。このポンペイウスの下に朗報が舞い込む。カエサル陣営にいたガリア貴族が、ポンペイウス側に寝返ったのである。

彼らはカエサル包囲網の詳細をポンペイウスにバラした。カエサル包囲網は完全ではなく、南の平野部に完成していない箇所があると教えたのである。

そこでポンペイウスは包囲網の弱点である南に陸海両方から総攻撃をかけることにした。6個軍団をポンペイウス側の堡塁から出撃させる。と同時に軽装歩兵と弓兵からなる特殊部隊を船で運んで外側(つまりカエサル側)の堡塁線のさらに外に上陸させ、砦を占拠する手はずになっていたのである。

7月17日早朝、ポンペイウスは細心の注意を払って作戦を実行に移す。カエサルは完全に不意をつかれた。まず2個大隊が駐屯する南の砦は、ポンペイウス軍の大軍になすすべもなく占領された。隣の陣営からきた救援部隊も簡単に蹴散らされてしまう。

なおもポンペイウスが進軍しようとするところに、南半分を任されていたアントニウスが12個大隊を率いて駆けつけたことで、ようやくポンペイウスの押し止めることができた。しかしポンペイウスはカエサル包囲網の外側に新たな陣を作れたおかげで、この陣を拠点にしてカエサルを攻めることができるようになったのである。

このころ、ようやく南の戦場にカエサルが姿を見せ、ポンペイウス軍を防ぐための塹壕を掘るよう命じた。さらに今回の損失を埋め合わせようと選抜部隊を選び、ポンペイウスの孤立した1個軍団を、奇襲で攻めるように指示をだした。

ところがこの部隊がポンペイウス軍を探すのに手間取っている間に、カエサル軍の攻撃の知らせを受けたポンペイウスの本体が救援に駆けつけたのである。

突然降って湧いたポンペイウス軍を見て、カエサル軍はパニックに襲われ一目散に逃げた。それでもカエサルは踏みとどまるよう訴え続けたが、一度逃げ出した軍を押し止めるのは至難の業である。あるものは塹壕に埋まり、あるものは堡塁の壁に阻まれて圧死する始末。

この戦いでカエサルが出した犠牲者は、次の通り。

  • 歩兵:960人
  • 騎兵:200騎
  • 軍旗:32

それでもカエサル軍が崩壊しなかったのは、ポンペイウスがあまりの勝ちっぷりに帰って慎重になり、追撃しなかったことによる。ポンペイウスの戦力でも説明したとおり、おそらく訓練の不足と連携の低さを考えてポンペイウスも二の足を踏んだのだろう。

デュッラキウムでの敗北が本当にヤバかったことは、カエサルが言った次の言葉によく表れている。

敵に勝つすべを心得ている人がいたならば、今日で戦争は終わりになっていただろう

ローマ政治家伝Ⅱ ポンペイウス 第12章 デュッラキオン、ファルサロス、死  

カエサルはなんとか軍を立て直し、夜のうちにアポロニアへの撤退を開始した。ポンペイウスはカエサルを追ったが、かろうじて殿(しんがり)に追いつくことができただけだった。カエサルはさらに強行軍でポンペイウスを突き放し、戦場から離脱できたのである。

ファルサルスの戦い

ポンペイウス、義父スキピオ軍と合流する

デュッラキウムの戦いで傷ついたカエサルを追うか、これまで通り守りに徹しカエサル軍の士気が落ちるのを待つか――。ポンペイウスは追うことに決めた。ただし後背地、特に補給路の確保に万全を期するため、デュッラキウムの守備に15個大隊(約9,000人)を残し、小カトーに任せて出発する。

ポンペイウス軍とカエサル軍の進軍路

まずポンペイウスはエグナティウス街道を東へと向かった。カエサルとの戦いに備え、義父スキピオと合流するためである。いまだスキピオの足止めをしているカエサル配下のカルウィヌスを挟み撃ちにするつもりだった。

ポンペイウスはまた、東方各地の都市や従属国の王たちにデュッラキウムの戦いで「決定的な」勝利を上げたと報告した。一種のプロパガンダである。この狙いは当たり、カエサルに味方していたギリシアの都市たちがポンペイウスへと鞍替えする。ギリシア南部へと逃れるカエサルは補給もままならず、ますます苦境に立たされた。

一方スキピオ軍と対峙するカルウィヌスは、補給の問題で偶然にもヘラクレイア(現モナスティル)へと撤退途中だった。その時放っていた斥候から、

  • カエサルがデュッラキウムを離れテッサリア地方に向かっていること
  • ポンペイウスが東に向かっていること

との情報を偶然にも掴んだのだ。

カルウィヌスはポンペイウスの到着4時間前にその場を離れた。そしてアエギニウム(現カランバカ)で合流を果たすことができた。

アエギニウムの様子
アエギニウム(現カランバカ)の景観
Mzmona, CC BY-SA 3.0  , ウィキメディア・コモンズ経由で

一方のポンペイウスも数日後にラリッサ(現ラリサ)でスキピオ軍と合流する。デュッラキウムに残した守備兵を補ってあまりある兵力が、ポンペイウスの下に集った。

ポンペイウス陣営の様子

このころポンペイウスの陣営では、将軍たち(つまり元老院議員たち)がすでにカエサルと戦ってローマに帰ったあと――当然自分たちの勝利を前提としていた――の戦後処理をどのようにするかが話し合われていた。

  • あるものはカエサル亡きあとの最高神祇官職に誰が就任するかについて。
  • あるものは政敵の追放や財産没収で、自分の懐を潤す算段について。
  • あるものはカエサルに味方する議員の有罪判決を言い渡すことについて。

つまり彼らは目の前のカエサル軍にどのような方法で勝つのかではなく、どのように勝利を味わうのかを話し合っていたのである。取らぬ狸の皮算用とは、まさに彼らの話し合いを言うのだろう。

ポンペイウスは彼らの楽観的な話し合いからは距離をおいていた。カエサルはなんと言ってもこの間までガリア人相手に壮絶な戦争をしていた相手である。ポンペイウスが持っていたスペインの軍団も、電光石火ともいえる早さで破っている。

ポンペイウスは相変わらず慎重な作戦、つまり補給困難な相手に対しジリジリと追い詰めて弱らせる作戦を考えていた。しかし陣内では決戦のムードへと傾きつつあった。ポンペイウスをクズと揶揄するものさえいた。そこでポンペイウスは、自軍に有利な地形を選んでカエサルに戦いを挑む決心をしたのである。

ラビエヌスの演説

一方カエサルはカルウィヌス率いる2個軍団と合流後、周辺の町を落として補給拠点を確保する。決戦の地はテッサリア地方の平原、ポンペイウスらがいるラリッサと自分の陣営の間にあるファルサルス(現ファルサラ)になるだろうと見当をつけていた。

テッサリア平原
テッサリア平原
Evgeni Dinev, CC BY 2.0  , ウィキメディア・コモンズ経由で

8月3日、両軍はとちらもファルサルス平原の近くに陣を設けた。そしてカエサルは8月6日から8日までの3日間、連日のように軍を動かして戦列を整えたが、ポンペイウスが丘の上に布いた陣から平原へと降りとこなかったために、戦いになることはなかった。しかし8月8日、すでにポンペイウスはカエサルに対し、戦いを決意していたのである。

ポンペイウスは決戦の前日、つまり8月8日に作戦会議で自分の作戦を説明した。カエサル軍よりも圧倒的に数で勝る騎兵をカエサルの右翼(おそらく軍列のなかで最も弱い部分)に突撃させ、さらにカエサル戦列の後ろに展開して包囲すれば、カエサル軍の歩兵とぶつかる前に勝負は決するだろう。だから安心して戦うように、と。

またこの戦いで騎兵隊を率いる「カエサルを知り尽くした男」ラビエヌスが、ポンペイウスの言葉のあとに続いた。今のカエサル軍はガリアやゲルマニアで戦っていた軍ではない。彼らは退役や疫病で抜けたため、極少数しか残っていないし、今いるのは近年北イタリアで集めた新兵や、ヨボヨボでブルンディシウムに参陣した古参兵が大半である、と。

そして彼は最後にこう締めくくった。

勝利者にあらずんば、二度と陣営に戻らず

こうして8月9日、ファルサルス平原で対峙した両軍の間で、ついに先端の火蓋が切って落とされたのである。

戦いの結果

ところがファルサルスでの会戦は、カエサルの倍の兵力と圧倒的な数の騎兵を持つポンペイウス軍が、必勝の策を実行したにもかかわらず完敗してしまったのだ。

ファルサルスの戦いの経緯は、ユリウス・カエサルⅥ ―イタリア制覇からポンペイウスとの決戦まで―の中の決戦、ファルサルスで詳しく書いているので、興味のある方はご覧いただくといいだろう。

ローマの礎を築いた男 ユリウス・カエサル ユリウス・カエサルⅥ ―イタリア制覇からポンペイウスとの決戦まで―

ポンペイウスの敗因を簡単に説明すると、頼みの綱としていた騎兵がカエサルの隠し部隊により足止めを喰らい、敗走に追い込まれてしまったからだった。

騎兵の敗走を見たポンペイウスは、勝利者どころか戦いに決着がついていないにも関わらずさっさと帰陣してしまった。そして当直の百人隊長に次の言葉をかけた。

陣営をしっかり守れ。なにか容易ならぬことが起こっても、防衛に精を出せ。自分は別の門のところを見回り兵たちを鼓舞するから

ローマ政治家伝Ⅱ ポンペイウス 第12章 デュッラキオン、ファルサロス、死  

もはや完全に現実逃避である。倍の兵力と騎兵の優位が、これまで信条としていた入念な準備と慎重さをポンペイウスから奪ってしまったのだ。必勝の第1プランが想定外の出来事で崩された場合の第2、第3プランまで用意できていなかった。

そのうち陣営には逃走者たちがどんどん溢れてくる。いまやカエサル軍はポンペイウス軍を圧倒していた。ポンペイウスは将軍用のマントを脱ぎ捨てると、馬にまたがって後門から出ていく。彼はすべてを見捨てたのである。

ポンペイウス、エジプトで暗殺される

ポンペイウス、ミュティレネで家族に再開する

カエサルが2万3,000人もの捕虜を捕らえている間、悪く言えば自分のもとで戦ってくれた兵士たちを囮にして、ポンペイウスは4人の従者とともにラリッサへと向かった。

ラリッサにはポンペイウスと同じく、ファルサルスの戦場から逃亡に成功した将軍たちが終結していたのである。ポンペイウスは彼らと海岸へと急いだ。そして一隻のローマ商船を見つけると、船長に交渉して乗船しミュティレネ(小アジア西岸の島)へと向かった。

そこにはポンペイウスの妻と次男のセクストゥスが、ポンペイウスの勝利を信じて待っていたのである。

他のポンペイウス派の様子

一方騎兵を率いていたラビエヌスも戦場から脱出することに成功していた。彼は散り散りになった騎兵たちをまとめ上げ、最終的に1600騎を集めてデュッラキウムへと向かった。

ところがデュッラキオンでは、ポンペイウス敗北の知らせを受けた兵士たちが暴動を起こしたのだ。なぜなら敗北者から略奪した金品の配当を、彼らは期待していたからだ。

またポンペイウスの下に集まっていたクリエンテス、同盟諸国の軍もポンペイウスに失望して次々と祖国へ引き上げてしまったのである。

ではデュッラキウムに残ったカトーや逃れてきた元老院議員たちはどうしたか。彼らはデュッラキウムでカエサル軍を迎え撃つことが事実上不可能であることを知っている。そこで船で対岸のアフリカ属州(現チュニジア)へと渡り、再起を図ることにした。

もちろんポンペイウスの敗北に絶望した議員(キケロもその一人)の中には、祖国イタリアへと向かうものも多かった。

ポンペイウス、エジプトで再起を図る計画を立てる

話をもう一度ポンペイウスに戻そう。彼はミュティレネで無事家族と再開することができた。そして船を数隻用意すると2日後には出航する。背後にカエサルの足音が迫っている以上、グズグズしているわけにはいかなかった。

まずポンペイウスは小アジアの南海岸、アッタレイア(現トルコ、アンタルヤ)に上陸する。先行してロドスへと向かった2人の将軍スピンデルとレントゥルスは、支援の要請に失敗したものの、ポンペイウスはここで3段櫂船数隻を手に入れ、その乗組員たちが味方となった。またポンペイウスに従っていた元老院議員も60人を数えるまでになった。

ポンペイウスたちはここから南にあるキュプロス島へと向かい、今後の方針が話し合われた。具体的にどこへ向かってカエサルとの戦いを継続するか、ということである。

まず第一候補にシリアがあがった。パルティアの支援を受けカエサルに対抗するのだ。しかしパルティア王オロデスとの関係は微妙であり、ポンペイウスが支援を求めれば、パルティアは属州シリアを明け渡せと要求することが目に見えている。シリア案は候補から外した。

残った候補はエジプトとアフリカ。ポンペイウスはこの2つを天秤にかけ、エジプトを選んだ。なぜか。

その理由は次の点にあった。

  • ポンペイウスとエジプトの関係は、ポンペイウスが東方遠征を行った前63年より続いており、一時ローマに逃れていたエジプト王プトレマイオス12世を積極的に支援し、シリア軍団を使って王を復位させたことがあった
  • キュプロスからは、アフリカよりも距離が近かった
  • エジプトとアフリカを比べた場合、エジプトのほうが圧倒的に資金力がある。つまり軍隊を雇う体力があった

積極的に支援していた王プトレマイオス12世は、すでにこの世を去っていた。ただしカエサルとの戦いにはエジプト艦隊も参加していたのである。

ポンペイウスはキュプロス島で金を借り、即席兵を2,000人ほど集めると、一路エジプトへと向かった。しかしこの航海がポンペイウスにとって最後になるとは、このとき誰も予想していなかった。

ポンペイウスの死

このころエジプトでは、少年王プトレマイオス13世とその姉であるクレオパトラ7世が統治を巡って争っていた。ポンペイウスはエジプトの海岸につくと、プトレマイオス13世に自分の到着を知らせた。

ところが少年王の家庭教師であるキオスのテオドトスは、ポンペイウスを上陸前に始末すべしと王に助言したのだ。

ポンペイウスを受け入れたら彼を主人と仰ぐことになり、カエサルを敵に回す。ポンペイウスを追い返せば両者が敵になる

ローマ政治家伝Ⅱ ポンペイウス 第12章 デュッラキオン、ファルサロス、死  

彼らにとってローマ人同士の闘いに巻き込まれるのははた迷惑であり、カエサルに恩を売っておけば万事うまくことが運ぶと踏んだのだろう。

前48年9月28日、おりしもポンペイウスの誕生日の1日前だった。ポンペイウスの大型船に一隻の小舟が近づく。それはエジプトが用意したボート。海岸は水深が浅いため、大型船では近づけないとのことだった。

ポンペイウスはこの小舟に乗り込んだ。この小舟には昔海賊討伐で共に戦ったことのある元百人隊長が、エジプトの使者として乗り込んでいたのである。ポンペイウスは幾分か安心すると、別れ際に詩を口付さんだ。

独裁者のもとに赴くものは、彼の奴隷になる。自由人としてその道をとろうとも。

ローマ政治家伝Ⅱ ポンペイウス 第12章 デュッラキオン、ファルサロス、死  

ところが小舟がいざ岸につきポンペイウスが上陸するや、この元百人隊長セプティミウスがポンペイウスを背後から剣で刺したのだ。ポンペイウスはトガを顔まで引き上げてその場に崩れ落ちた。享年58歳。この惨状は船からでも確認できたため、船に残ったものたちは急いでこの場を離れるしかなかった。

ポンペイウスの首は切り落とされ、数日後カエサルの元へと届けられた。カエサルはその顔を見ようともせず涙を流したという。カエサルはポンペイウスを火葬し、遺灰は妻コルネリアのもとに届けさせた。

コルネリアはポンペイウスの遺灰を、アルバの別荘に埋葬した。ポンペイウスはアルバの地で今も眠っている。

今回のまとめ

それではポンペイウスについて、おさらいしよう。

  • ポンペイウスはスッラ派の武将として活躍し、史上最年少で凱旋式を挙げた
  • 名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)を歩む事なく、軍事的功績と民衆からの圧倒的支持で最高政務官である執政官に就任した
  • 全地中海の海賊を掃討し、地中海の平和を確立。交易路や食糧供給の安全を確保した
  • 東方遠征でローマの支配圏を大幅に拡大し、東方支配の基盤を作った
  • ポンペイウスの影響力はガリアを除くローマ支配圏全てに及んだ
  • 東方遠征後、元老院に面目を潰されたポンペイウスはカエサル、クラッススと手を組み、第一回三頭政治を行った
  • クラッススの死とカエサルの娘でありポンペイウスの妻が死んだため、同盟関係は崩れポンペイウスは元老院側についた
  • 内乱を起こしたカエサルと戦ったが、絶対的優位な状況をひっくり返されて敗れ、逃走先のエジプトで暗殺された

父の代までに築き上げた大資産と、父の出世で大きなアドバンテージを得ていたとはいえ、時勢を巧みに読むことで一足飛びに駆け抜けて頂点まで上り詰めたポンペイウス。
経験を重視するローマにあって、彼は異例の若さで地位も名誉も手に入れた。ローマ政界の枠組みを外れた究極のアウトサイダーと呼べる存在だったのだ。

しかし彼はアウトサイダーであるにも関わらずローマ政界内での名声を欲し、最終的にローマ政界内に取り込まれる形となってしまった。
反対にカエサルはローマ政界の階段を確実に上っていったが、彼はこの枠組にとらわれることなく、新しい秩序づくりを目指した。

ポンペイウスとカエサルの運命を分けたのは、まさにこの点にある。

ファルサルス決戦前、いやデュッラキウムの攻防でせっかくカエサルに優位な状況を生かして戦略を定めたのに、最後に自らの方針を覆してしまった。これもポンペイウスの生涯がその決断に集約された結果ではないかと思う。

ポンペイウスは時代に微笑まれた俊才だったが、自ら幸運の女神に背を向けたためカエサルとの競争に破れたのではないだろうか。私にはそう思えてならない。

本記事の参考図書

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