オクタウィアヌスⅦ ―タレントゥム協定からシチリア戦争終結まで―

オクタウィアヌス カエサルの遺志を継ぐ青年

ブルンディシウムで危機を迎えたオクタウィアヌスの運命は、カエサルの古参兵が戦いを拒否することで、なんとか回避された。
そしてアントニウスとの会談で、ローマ世界を東方と西方に分割するブルンディシウムの協定が締結されたのである。

またローマの西海域を支配していたセクストゥス・ポンペイウスとの間でも和平が成立(ミセヌム協定)。
ローマにつかの間の平和が訪れた。
プライベートでもオクタウィアヌスは大きな出来事を経験する。
それは生涯の妻となるリウィアとの結婚である。

つかの間の和平にも、セクストゥス配下の提督であるメノドルスが、サルディーニャ、コルシカと2個軍団を従えてオクタウィアヌスに寝返ったことで、暗雲が立ち込める。
オクタウィアヌスはこれを期に、アントニウスの忠告にも従わず単独でセクストゥスに挑んだ。
しかし結果は思わぬ惨敗をしてしまう。

オクタウィアヌスは戦いに破れた穴埋めを、東方のアントニウスとアフリカのレピドゥスに要請するが、そこにガリアから武功を引っさげたアグリッパがイタリアに帰還。
アントニウスは会談に訪れたブルンディシウムを2度も封鎖されたため、業を煮やした彼は大艦隊を引き連れてタレントゥムに移動。
そこでオクタウィアヌスを呼び出したのだった。

オクタウィアヌス、タレントゥムでアントニウスたちとふたたび協定を結ぶ

おそらくオクタウィアヌスは、今度も約束をすっぽかせばアントニウスが立ち去ってくれると、タカを括っていたのだと思う。
しかし結果はオクタウィアヌスの予想に反し、アントニウスが大艦隊で今にもイタリアに攻めてこようかという勢いでタレントゥムに迫ったのだ。

外交手腕に定評があるマエケナスも、度重なるオクタウィアヌスの気まぐれに、今度ばかりはお手上げだった。
そしてアントニウスがセクストゥスと手を結んでしまえば、今度こそオクタウィアヌスの命運は尽きてしまうだろう。
一体どうすればいい?

この状況を打破したのは、オクタウィアヌスの姉であり、アントニウスの妻であるオクタウィアだった。
彼女は夫アントニウスに付き添っていたが、弟に対してもう一度チャンスを与えてほしいと説得したに違いない。
オクタウィアは、弟オクタウィアヌス宛に手紙を書いている。

最悪の事態が起こって、あなたとの間で戦争になれば、どちらが勝つのかはわかりませんが、私が惨めな思いをすることだけは確かです

アウグストゥス 帝国の始まり | 第10章 戦うネプトゥヌス――前三八年―前三六年

姉オクタウィアの助力のおかげか、オクタウィアヌスとアントニウスは、タレントゥムとメタポントゥムの間の川、タラス川付近で会談を行うことにした。
世にタレントゥムの協定と呼ばれるこの会談で交わした協約は、次のとおりだ。

  • 前38年12月31日で終わっていた三人委員会の権限を、さらに5年延長する
  • セクストゥスに与えていたすべてのもの(ローマの正式な公職だろう)を撤回する
  • アントニウスはオクタウィアヌスに軍船120隻と4個軍団を提供する(その代わり、パルティア遠征時にはオクタウィアヌスから兵を提供してもらう)

結局折れたのは、またしてもアントニウスの方だった。
彼はセクストゥスではなく、オクタウィアヌスを支持する方へと考えを傾けたのである。
とはいえ無条件にオクタウィアヌスを支持するわけではない。
アントニウスには次の打算があった。

  • 西方の問題はオクタウィアヌスに一任しているという建前
  • 西方オクタウィアヌスによって安定すれば、アントニウス最大の課題であるパルティア遠征も行いやすくなる実利

ブルンディシウムの協約のときも、マエケナスはアントニウスの自尊心をくすぐり、そのウラの利益をちらつかせることで、オクタウィアヌスの交渉を常に有利に運んだのではないだろうか。

タレントゥムの協約はなった。
レピドゥスには軍団を率いてシチリアに攻め込む約束も取り付けている。
後はオクタウィアヌスたちの手腕にかかっていた。

アグリッパ、オクタウィアヌス軍の泣き所を解消する

セクストゥスとの戦いの中で、オクタウィアヌスたちの泣き所はどこか。
それは海軍力と海戦の経験値だった。
この問題はオクタウィアヌスたち、というよりも、引き継いだカエサルの古参兵そのものの問題でもあった。

カエサルは共和政派やポンペイウス派との決戦は、必ず陸戦で決着をつけている。
カエサル軍の中で唯一海軍力を発揮できた将軍はデキムス・ブルトゥスだが、彼はムティナの戦いでアントニウスに破れ、すでに亡くなっていた。

この問題にいち早く気づいたのは、ガリアから帰ってきたアグリッパである。
彼は海軍と海戦の問題を一度に解決するため、

  • セクストゥスに察知されることなく軍船を建造できる場所
  • 同じくセクストゥスに察知されることなく海戦の訓練ができる場所

を探し、見つけたのだ。
そこはクマエの南東に位置するアウェルヌス湖。
直径8km、深さ34mもある巨大な火口湖であり、木々が生い茂り、周りからの視線を遮っていた。

アグリッパはここで艦隊建造に着手する。
また2万人の解放奴隷が徴募され、漕ぎ手としての訓練を施された。

古代ローマの軍艦、ガレー船

古代ローマの海戦で主に使用されたのは、ガレー船と呼ばれる船にいくつもの櫂(オール)をつけた軍船である。
古代の船の帆は四角かったので、逆風に対して前進することができなかったため、帆を張って戦うことはほとんどなかった。

ガレー船の櫂は、いわばモーターと方向を決めるハンドルが一緒になったようなものである。
そのため、漕ぎ手に奴隷を使うことはなく、市民が漕ぎ手として船の推進力を支えていたのだ。

いくら敵にみつからずに大量に船を作っても、アウェルヌス湖からでることができなければ話にならない。
そこでアグリッパは南のルクリヌス湖(現ルクリーノ湖)と、さらに南の海まで運河を切り開くことで、この問題を解決したのである。

またアグリッパは海戦用に「ハルパクス」と呼ばれる新兵器も開発した。
新兵器ハルパクスは、その昔「コウルス」と呼ばれる敵船への接舷用武器を改良したもので、投石器から敵船に引っ掛ける鈎を打ち出すものである。
コウルスのように大型ではなかったので、船の航行が不安定になるという問題も解消していた。

前37年から前36年にかけて行ったこの大事業のため、オクタウィアヌスの裕福な支援者やイタリアの各自治体が資金を提供してくれた。
またアグリッパによって、属州からも資金が集められる。

いよいよ準備は整った。
次はセクストゥスをどのように攻めるか、であった。

オクタウィアヌス、シチリアでセクストゥス・ポンペイウスに最終決戦を挑む(シチリア戦争最終ラウンド)

シチリアを三方から攻め込む

セクストゥスとの戦いに望むオクタウィアヌスの陣容は、次のようになっていた。

  • アントニウスから借り受けた軍船120隻と4個軍団
  • アフリカから参戦するレピドゥスの軍船70隻と1,000隻の輸送船に16個軍団
  • アグリッパが編成した大艦隊(数は不明)

迎え撃つセクストゥス軍は次の通り。

  • 軍船300隻以上
  • 10個軍団

セクストゥスは、オクタウィアヌスを圧倒できるとは思っていなかったが、制海権自体は保持できると考えていた。

7月1日、オクタウィアヌスたちは作戦を開始する。
まずレピドゥスは、南のアフリカから12個軍団を伴いシチリア島南部から上陸。
多くの領土を占拠しながら、西端にあるリリバエウムの港を取り囲んだ。

一方オクタウィアヌスとアグリッパは、プテオリの港から南へと向かい、シチリア北部の港を占拠し、もう一つの部隊であるタレントゥムの艦隊は、シチリア東部のタウロメニウムから上陸する作戦である。
セクストゥスをシチリア島から追い出し、海戦で決着をつけるつもりだった。

だが、作戦はうまく運ばない。
7月3日、嵐がオクタウィアヌス軍に襲いかかったのだ。
タレントゥムの部隊はそのまま港へと引き返したが、プテオリから出発したオクタウィアヌス率いる艦隊は、嵐のせいで大損害を被ってしまった。

艦隊の再建に、1ヶ月はかかるだろう。
だがそれでは航行に比較的安全な夏が終わってしまう。
セクストゥスの人気は依然として高く、ローマはオクタウィアヌスを支持するか、セクストゥスを支持するかで世論が揺れていた。

オクタウィアヌスは戦いを継続する方に賭けた。
彼を批判するものはローマに送ったマエケナスに任せると、全力で艦隊を修理し、再建したのである。

オクタウィアヌス、絶体絶命の危機を迎える

艦隊再建を完了したオクタウィアヌスたちは、艦隊を率いて再度南下した。
目的はシチリアの北から軍を上陸させ、セクストゥスの本拠であるメッシナで孤立させること。
7月に上陸したレピドゥスは、シチリア島の大半を占拠したままだった。
孤立したセクストゥスは、必ず海戦に出ると踏んだ。

オクタウィアヌスは、スコラキウム(現スクイラーチェ)にいるタレントゥムの艦隊と合流するため、アグリッパに艦隊を任せた。
イタリアの陸上部隊を艦隊に乗せ、さらに多くの兵をシチリアに運ぶためである。

しかしセクストゥスは、オクタウィアヌスの裏をかく。
シチリア北のミュラエでアグリッパと交戦したのち、一部艦隊を残してメッシナへと引き返した。
目的は、艦隊と離れたオクタウィアヌスを捕まえること。

シチリアのタウロメニウム南岸に着いたオクタウィアヌスは、その地で陣営の建設する。
しかし陣営を作り終わらないうちに、メッシナから出撃したセクストゥスの大艦隊が現れたのだ。
さらに海岸沿いに騎兵隊が、南からは歩兵隊が接近してきたのである。

オクタウィアヌスの陣は大混乱に陥り、休むまもなく陣の建設を余儀なくされる。
敵の攻撃が止むと、部下であるコルニフィキウスに陣を任せ、オクタウィアヌスは残りの艦隊を救出するために、船で出港した。

セクストゥスは、ここぞとばかりに艦隊でオクタウィアヌスを攻撃。
激しい攻撃で、オクタウィアヌス軍の船は捕獲されたり火で焼かれたりした。
オクタウィアヌスも完全に孤立し、一時は敵船から激しい追撃をうけて、自殺を考える始末。

なんとかイタリア本土の岸にたどり着いても、オクタウィアヌスは洞窟に身を隠して過ごすしかなかった。
しかしここでも苦境は続く。
オクタウィアヌスが岸辺の道をレギウム(イタリアのつま先にある都市)方面に歩いていたときに見つけた船団はセクストゥスのもので、危うく見つかりそうになった。
さらに身を隠した先では、公権剥奪公示で父の名を名簿に載せられた元将校の奴隷に攻撃をうけている。

しかしオクタウィアヌスは、絶望的な状況の中でもあきらめなかった。
どのような事態に陥っても、いずれ挽回できる時が来るまで粘り強く耐えたのである。
このようなオクタウィアヌスの精神力が、状況を徐々に変えていった。

アグリッパ、ナウロクスの海戦でセクストゥスを破る

絶望的な状況でもなんとか生き延びたオクタウィアヌスは、現地の人に助けられ、イタリア本土にいた軍団と合流することができた。

彼は直ちにこの軍団とともに、シチリアへと渡る。
またシチリアに残したコルニフィキウスに、シチリア北部を占拠するアグリッパと合流するよう指示をだした。

これでシチリアの戦況はオクタウィアヌスに有利な形となる。
オクタウィアヌスの軍はこのとき、23個軍団と2万の騎兵に5,000以上の軽装歩兵がシチリアに陣を構えていた。

シチリアの一部に領土を残すのみとなったセクストゥスは、ついに海戦を決断する。
オクタウィアヌス軍に対して唯一上回っているものと言えば海軍力であり、海の経験でも会ったのだ。
だがそれは、アグリッパの思うツボであった。

セクストゥスとアグリッパの艦隊はナウロクス沖で遭遇した。
この戦いでアグリッパの開発したハルパクスが威力を発揮。
セクストゥスの軍船は、ハルパクスによって次々と攻略されていく。
そしてついにアグリッパの艦隊がセクストゥスを圧倒し、退却するセクストゥスが総崩れとなったのである。

セクストゥス軍の提督のうち、一人は自殺し、もう一人はアグリッパに降伏した。
セクストゥスは軍船で東に逃れ、身内のものと側近たちを引き連れて逃亡。
その後セクストゥスは、属州アシアで兵を募ったが、その地の属州総督に敗れて処刑された。

レピドゥス、シチリアを狙うも軍団兵に見捨てられる

セクストゥスとの戦い、シチリア戦争で大きな役割を果たしたレピドゥスは、自分の引き連れてきた軍団兵の多さを有効活用しようと考える。
そこでレピドゥスは、軍団兵をバックにシチリアの領有権を主張した。

しかしレピドゥスの軍団兵は、オクタウィアヌスに恭順の意を示したのだ。
後ろ盾を失った結果、レピドゥスはオクタウィアヌスの指示にしたがい、政界を引退してキルケイイの町で隠居生活を送ることとなった。

こうして三人委員会の一人であり、三頭政治の一角をしめたレピドゥスも、表舞台から姿を消したのである。

オクタウィアヌス、シチリア戦争の勝利で元老院から報奨を受け取る

シチリア戦争で勝利を収めたオクタウィアヌスに対し、元老院は報奨を送ることに決める。
数ある報奨の中でオクタウィアヌスが受け取ったものは、次の3つだ。

  1. 年に一度のナウクロスの海戦の勝利を記念する祭典
  2. フォルムに建てるオクタウィアヌスの金メッキ像
  3. 護民官の身体不可侵権

このうちオクタウィアヌスが最も欲しかったのは、(3)の護民官の身体不可侵権であることは言うまでもないだろう。

護民官はもともと平民を守るために作られた役職であり、平民の代表として平民にしか就くことができな公職でもあった。
オクタウィアヌスはカエサルによって貴族になっていたため、平民の役職に就くことはできなかったのである。

だが、護民官そのものの政治的な力は強かったので、彼はその「パワー」のみ利用できるようにしたのだ。

オクタウィアヌスも市民に対し、戦勝記念の報奨を与えることにした。
それは次の3つである。

  1. 特別税の分納未払い分と、滞納している税金の免除
  2. 内乱に関連する書類の焼却処分
  3. 三人委員の臨時権限返上

ただし(3)についてはアントニウスがパルティアから戻ったとき、という条件が付いていた。
ではなぜオクタウィアヌスはアントニウスの帰還を条件に付け加えたのだろうか。

36年の春、オクタウィアヌスがシチリア戦争でセクストゥスと戦っていた同じ時期、長年準備をしていたパルティア遠征にアントニウスがついに乗り出したのだ。
そして秋、ナウロクスの海戦が終わってしばらくすると、東方のアントニウスから使者が到着し、パルティアに勝利した、という報が伝えられたのである。

だがアントニウスからの報告は、実際のパルティア遠征の実情を反映したものではなかった。


オクタウィアヌスⅧに続く

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