古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―

ローマ社会の基盤を支えた古代ローマの奴隷

古代ローマの奴隷。
一説によると、ローマ帝国全体の全人口における奴隷の比率は、15%から20%もあったと言われている。
人権や道徳的な問題はともかく、奴隷なくしては社会が成り立たないほど、古代ローマでは重要な存在だったのだ。

では古代ローマにおける奴隷とは、どのような人々だったのだろう。
この記事では、古代ローマの奴隷と主人との関係を面白く描いている『奴隷のしつけ方 』の記述内容をもとに、次のことを書いていく。

  • 古代ローマの奴隷とは
  • 奴隷の権利
  • どのような人が奴隷になったのか
  • 奴隷の売買
  • 奴隷の種類
  • 奴隷の罰
  • 奴隷による反乱
  • 奴隷の解放

それでは、さっそく古代ローマの奴隷について見てみよう。

古代ローマの奴隷とは、どういう人々か

2世紀の法学者、ガイウスの書である『法学提要』には、ローマ帝国に住む人を、次の2種類に大きく分けている。

  • 自由人
  • 奴隷

自由人は、ローマ市民権を持つ『ローマ市民』や、『ユニオン・ラテン人』など、さらに細かい区別があるが、この記事の趣旨に合わないので、省くことにする。

一方の奴隷だが、上記では「自由人以外の人間」、ということができるだろう。
では「自由人以外の人間」とは、どのような存在だろうか。

奴隷を一言で表すなら、

誰かの所有物であり、ローマ法が適用されない人々※

ということができるだろう。

ローマ法が適用されないので、法律によって守られる一番の恩恵である、裁判を受ける権利や控訴権がない。
不当な扱いをうけても、訴える場所が与えられないのである。

また奴隷は法律上でも主人の所有物なので、主人が何を命じようと(極端に言えば命を奪おうと)文句すら言えなかったのである。
(ただし帝政期には奴隷の不当な扱いを緩和する法律ができる)

※ただし、所有者(主人)がいなくても、奴隷身分から解放されることはなかった

奴隷に対するローマ人の意識

ローマ人は奴隷を、どのような意識で見ていたのだろうか。
一番わかりやすい例としては、『ペット』や『AI付きの家庭用電化製品(家電)』を想像してもらうといいだろう。
奴隷はモノを言う家畜であり、また便利に働く道具なのだ。

あなたがペットや家電をどのように扱うか、想像してほしい。
動いてもらうには電気(餌)が必要だろう。
高い製品なら大事に扱うだろうか。
でも調子がわるくなったら、修理にも出さず捨ててしまうこともあるだろう。
あるいは叩いたら直るかもしれない。

ペットなら交配も自由自在だ。
もしペットに価値があり、増やした個体を売ることだってできる。

奴隷に対するローマ人の意識とは、このようなものだったのである。

古代ローマの奴隷の権利

ローマの奴隷には、法律上権利がほとんどない。
だが、都市部の奴隷については、既成事実として次のことが認められていたようである。

  • 原則として奴隷の財産は主人のものだが、奴隷個人として蓄財した財産を認めていた
  • 奴隷は(奴隷同士であっても)結婚することはできなかった。しかし事実婚は認められていた
  • 農村部では、奴隷を管理する役割の奴隷が存在した。その奴隷については結婚が認められており、夫妻で畑と家の中を監督した

また、主人の所有物であるため、奴隷は次のようなことも見受けられた。

  • 主人に不当な仕打ちをされても、裁判を受けることができなかった
  • 奴隷のうち一人が主人を殺せば、主人が所有する奴隷全員が処刑された
  • 主人の身に危険が迫っているにもかかわらず放置し、殺害された場合、現場にいた奴隷は処刑された
  • 女奴隷や少年奴隷は、主人の性の相手をさせられることもあり、それに対して訴えることができなかった
  • だが女奴隷が子どもを4人以上作れば、奴隷の身から解放されることもあった

もちろん、古代ローマの時代や主人の個人差によって、奴隷の権利や扱いに違いはある。
だが、奴隷の権利は非常に制限されたものだった。

どのような人が奴隷になったのか

ではどういった人たちが奴隷になったのだろうか。
大きく分けると、下記のようになるだろう。

戦争捕虜

古代ローマの中で、要因、人数ともに一番多かったのが戦争捕虜である。
戦争に敗北した兵士はもちろん、町の住人なども奴隷として売り飛ばされることが多かった。

ガリア戦争で、カエサルが奴隷として売った人は100万人とも言われている。
またユダヤ戦争で陥落したエルサレムの住人全員が、奴隷として売られたこともあった。

外国から来た奴隷

ローマ帝国の外(外国)から連れてこられた奴隷もいた。
外国とは、主に東欧、中近東、アフリカ諸国など、ローマ帝国周辺の国々である。

誘拐された人

海賊により誘拐された人も、奴隷として売られた
海賊たちは、地中海沿岸部の町を襲って住人たちをさらい、奴隷商人に売りつけていた。

捨て子

古代ローマでは、捨て子は日常茶飯事であった。
街角に捨てられた赤ん坊は、たいてい命を落としたが、運良く拾われた子供も、奴隷として売られることが多かった。

女奴隷が産んだ子供

女奴隷の産んだ子は、法律上奴隷だった
女奴隷の主人は、自分が産ませた子や奴隷同士でできた子を育て、転売することもあったという。

借金のかたに売られた人

借金で首が回らなかった挙げ句、債権者(貸し主)が債務者(借り主)を奴隷として売り飛ばすこともあった。
彼らはいわゆる「正真正銘の」奴隷と区別されていた。

貧しさで自分から奴隷になった人

自由民に生まれても、貧しさが理由で「自らを売る」ことで、奴隷になるものもいた。

古代ローマの奴隷を手に入れる方法

古代ローマで奴隷を手に入れるには、次の2つの方法があった。

  1. 購入する
  2. 女奴隷に子供を産んでもらう

1. 奴隷を購入する

奴隷を手に入れるのに一般的な方法は、奴隷を買うことである。
ではローマ人はどのようにして、奴隷を買っていたのだろうか。

奴隷を売っている場所

奴隷は、通常フォルムや商店など、ひと目につくところで売られていた
広場を例に出すと、首都のローマであれば、

  • フォロ・ロマーノのカストル神殿の裏手
  • サエプタ・ユリア(催事場や市場としても使われる場所)

などである。

町を歩けば、ショーケースの商品のように、何人かの奴隷が木製の台に並べられたところに遭遇しただろう。

奴隷を売っている人

奴隷を売っているのは、マンゴネスと呼ばれる奴隷商人だ。
奴隷商人は、ローマ社会では卑しい職業とされていた。

奴隷商人たちが仕入れる商品(奴隷)の仕入先は次の通り。

  • ローマ軍
  • 海賊などの人さらい
  • ローマ領土外の奴隷商人
  • 奴隷を持つ富裕層

ここから仕入れた奴隷たちを、奴隷商人は商品として売っていたのである。

奴隷の購入方法

奴隷を売る様子
ジャン=レオン・ジェローム [Public domain]

奴隷を売っている場所(リンク)でも述べたように、広場など公衆の面前で、奴隷は堂々と売られていた。

奴隷たちは、木製の高い競り台にのせられ、買い手からよく見えるように並べられる。
奴隷たちの首からは、名前や出身地、簡単な特徴などがわかるよう、首から札がかけられていた。
札に書かれた内容は、次のようなものだ。

「ヌビア出身、力は強く、少食である。喧嘩は好まない」
「ガリア出身、パン・菓子職人で、どんな仕事も器用にこなす。片目が見えない」

自殺未遂暦の有無を明らかにしなければならない、など法律で決まっているものもあった。
ただし、奴隷商人たちが少しでも値段を吊り上げるため、欠点を巧妙に隠し、書いていないことも多かったらしい。

買い手は、商品の品定めのため、奴隷の身体を自由に触ることができた。
もちろん女性の胸なども例外なく、である。

こうして買い手は、ほしい奴隷が見つかれば、奴隷商人との交渉にはいる。
油断ならない奴隷商人との交渉に、人一倍気を使いながら。

奴隷の値段

奴隷の値段は、時代や需要と供給のバランス、奴隷の能力によって決まるため、一概には言えない。
奴隷に対するローマ人の意識(リンク)の中で、奴隷を『AI付き家電』と例えたが、この意識が手がかりになるのではないかと思う。
もっとも、値段の例えならば、自家用車なみという方が適切かもしれない。

ある研究者の試算では、帝政前期で男性なら1,000セステルティウス、女性なら800セステルティウスぐらいではなかったかと言われている。
子供や年配だと若干値段が下がったようだ。

セステルティウスの価値

子供2人の4人家族が、1年間最低限食べていける金額が、500セステルティウス。
健康で文化的な、最低限度の生活を送るためには、1,000セステルティウスぐらいが必要だったようである。

なお当時の物価が気になる方は、ポンペイ―ヴェスヴィオ火山の火砕流と灰に埋まったタイムカプセル都市―が参考になるだろう。

高額奴隷の例

お金持ちが買う奴隷の値段は、それこそ青天井だった。

第二回三頭政治の一人、マルクス・アントニウスが買った、美しい双子の少年奴隷は20万セステルティウスしたという。
実は双子は奴隷商人の嘘だったという、いわくつき商品ではあったのだが。

また、ティベリウス帝の腹心セイアヌスが売った宦官の値段は、なんと5,000万セステルティウスだった。
これは正規の値段というより、快楽とステータスのための価格だったようである。

2. 女奴隷に子どもを産んでもらう

奴隷を手に入れるもう一つの方法は、女奴隷に子供を産んでもううことだ。

女奴隷の子供の身分は、自動的に奴隷となり、女奴隷の主人が子供の持ち主になった。
女奴隷が産んだ子供のことを、家内出生奴隷という。

家内出生奴隷の父親は、女奴隷の主人である場合が多かった。
農村部では、主人の指示で、奴隷同士を(恋愛感情関係なく)組み合わせ、ペットのように交配させることもあったという。
現代で言えば、主人がブリーダーのようなことをしていた、と言えるだろう。

こうして生まれた子供は、外から連れてきた奴隷よりも従順なため、主人の子供の従者として同じように教育を受けさせることもあった。
グラックス兄弟の弟、ガイウス・グラックスにつかえていた奴隷は、ガイウスが死ぬと自分も後を追って自殺したと言われている。

もちろん、このように育てられれば運がいいほうで、たいがいは奴隷の補充要員として育てられるか、教育を施されても、転売目的であることが多かった。

また、女奴隷は4人以上子供を生むと、その功績として奴隷身分から解放されたという。

古代ローマの奴隷の種類

奴隷の運命は、買い主の主人がどのように使うかで決まる、くじ引きのようなものだった。
では、その奴隷はいったい、どのように使われたのだろうか。

家内奴隷

ローマなどの都市部で、家の中の用事をする奴隷。
この奴隷の仕事は、多岐にわたる。

  • 門番
  • 料理
  • 洗濯
  • 掃除
  • 裁縫
  • マッサージ
  • 散髪
  • 乳母
  • 子供の世話
  • 饗宴時の演奏
  • 来客の名前を呼ぶ
  • 輿担ぎ
  • し尿処理
  • 家庭教師
  • 医者
  • 秘書
  • 手紙の朗読
  • 代筆

など。
前述したとおり、奴隷は現代で言う『家電』と同じなのである。
その家電が行っている、いやそれ以上の(家人が面倒がる)あらゆる仕事をこなしていた

また奴隷たちは、簡単な仕事なら何役もこなすこともあったが、医者や教師など専門知識を必要とする高度な仕事となると、その仕事専用の奴隷がいたという。

農業用奴隷

主人の農地を、主人の代わりに耕し、作物を育てる奴隷。
彼らは自作農のもとで働く奴隷と、より大きな農場で働く奴隷で、仕事に大きな差があった。

自作農民のもとで働く奴隷

ローマ人はもともと農耕民族だったため、自作農民は作業の補助要員として、奴隷を1人、もしくは2人程度養っていたという。
奴隷は自作農民にとって非常に高価であり、安くない投資のため、大切に扱われていた。

大規模な農園で働く奴隷

ローマが対外戦争に勝利し、戦争捕虜を大量に獲得すると、イタリア半島やシチリア島にいる奴隷の数が一気に増加する。
また戦争による徴兵や貧困で没落した自作農の土地を買い上げ、大規模な農地を経営する富裕層が現れた。
このような富裕層たちが所有する大規模な農園では、大きいところで3,000人もの奴隷がいたという。

大規模な農園では、奴隷は『管理する側』と『管理される側』に分けられた
『管理する側』の奴隷は『管理される側』の奴隷を、主人に変わって効率よく働かせることが求められた。
時代や農園によって差はあるが、鞭で打つなどの暴力に訴えて働かせることは、効率が悪く、投資対象の奴隷が疲弊するため、あまりいい方法だとは考えられなかったらしい。

奴隷に与えられる食事は質素だった。
ただしローマでは奴隷にもワインを与えていたという。

奴隷の飲むワインについては、古代ローマのワイン―起源やたしなみ方、当時のブランドと現代に受け継がれたワイン造り―で書いているので、興味のある方は読んでいただければと思う。

また農園で働く奴隷たちは、エルガストゥルムという、主人の邸宅とは別の質素な小屋で寝泊まりしていた。

剣闘士奴隷

剣闘士とは、古代ローマの娯楽の一つで、闘技場の中で命をかけて戦う試合をする人のことをいう。
彼らは過酷な環境に置かれたため、興行師(試合をプロデュースする人)たちに買われた奴隷が、使われることが多かった。
なお剣闘士については、剣闘士― 民衆を熱狂させた古代ローマ帝国のグラディエーターたち―に詳しく書いているので、参考にしていただければと思う。

娼婦や男娼などの性に関する奴隷

娼館に売られた奴隷は、性を奉仕するものとして働かされた。
彼女たちは「壊れる」か、ぼろぼろになる(病気や過労、容貌が衰える)まで使われたという。

一般的には女性だが、性のタブーが比較的緩やかだったローマでは、男娼も存在した。
当時は娼婦よりも男娼のほうが、値段が高かったらしい。

公有奴隷

公有奴隷とは、国家ローマや属州などの地方自治体が所有している奴隷のこと。
公共サービスである水道の管理や清掃、公衆トイレ、公衆浴場、都市の清掃、道路の補修など、インフラ整備を行う役割を担っていた。
また、警察消防隊、食料倉庫での任務、食料配給など、国家公務員の役割も、公有奴隷たちが行っていた。

公有奴隷のなかでも特に過酷なのが、港での作業と鉱山で働く奴隷たちだ。
彼らは荷物運びや鉱石の採掘のなどを、朝起きてから寝るまで休みなく行っていたという。

皇帝や属州総督などの私有奴隷

公有奴隷の中でも、教養のあるものは、皇帝や属州総督のもとで働いた。
彼らは、現代で言えば官僚の役割を担い、帳簿整理や公文書の発行など、財務や行政の役割を担っていた。


上記のほかにも、どのような仕事を奴隷が行っていたのかは、『古代仕事大全 』に詳しく書かれているので、興味のある方はご一読いただくといいだろう。

古代ローマの奴隷がうけた罰

奴隷が受けた罰にはどのようなものがあったのだろうか。

ムチ打ち

軽い罰として比較的よく行われていたのが、ムチ打ちである。
革製で、ところどころに結び目があるムチで、身体を打つ。

凶悪なものでは、先に鋭い金属や骨片がついたものもあった。
またムチは、拷問の道具としても用いられることがあった。

焼印

主人のもとから逃亡した奴隷は、『前科』の印として額に『F(逃亡の意味であるfugの頭文字)』の焼印を押された。
盗みを働いたものに対しても同様に、『F(泥棒を意味するfurの頭文字)』を焼印された。

拷問

こちらは厳密には罰ではないが、犯罪を犯すなどの証拠集めとして、拷問が用いられることがあった。
拷問の手段としては、

  • ムチ打ち
  • 手足を引っ張って関節を外す
  • 重い木片を2つ使って足を折る
  • 熱いタールや金属板、たいまつなどを当てて焼く
  • 鋭い鉤(かぎづめ)で脇腹をえぐる

などがあった。

鉱山送り、ガレー船送り、猛獣刑などの極刑

重い刑を犯した奴隷については、極刑が用意されていた。

  • 鉱山送り
  • ガレー船送り
  • 猛獣刑

など。

猛獣刑

剣闘士たちが戦う闘技場で、武器も持たずに猛獣の前に放たれる刑。
剣闘試合の前座として、観客達が見守る中で処刑されたという。

古代ローマの奴隷による反乱

古代ローマで起こった奴隷による大規模な反乱は3度ある。

1度目と2度目はシチリア島で発生した。
反乱軍は万を超える兵に膨れ上がったが、ローマ軍により鎮圧された。

3度目は別名スパルタクスの乱とも呼ばれる、イタリア全土を巻き込んだ最大の奴隷反乱となった。
カプアの訓練所から脱走した剣闘士スパルタクスを中心とした反乱軍は、一時10万を超える規模となったのである。
だが、この反乱もローマの将軍クラッススにより鎮圧された。

スパルタクスの乱については、スパルタクス―第三次奴隷戦争と呼ばれる反乱を指揮し、故郷を目指した剣闘士―で詳しく書いているので、参考にしてもらうといいだろう。

スパルタクスの乱以降、帝政期には大規模な奴隷反乱は起こっていない。
だが主人に対して起こすスト、サボり、軽い嘘、仮病、ごまかしなどのささやかな抵抗は、日常的にあったと言われている。

古代ローマの奴隷の解放

古代ローマの奴隷の特徴は、その身分から解放され、ローマ市民になれたことだろう。
奴隷身分から解放されたものたちは解放奴隷と呼ばれていた。

では奴隷から解放されるには、どのような方法があったのだろうか。

奴隷の解放方法

正式な手続きによる解放

国が認める正式な奴隷の解放は、古代ローマを知る事典(アマゾンリンク)によれば、次の3つの方法があった。

1. 杖による解放

政務官(国の重職)の前で、奴隷の主人が細い杖で奴隷に触れ、解放を宣言する方法。

2. 戸口調査による解放

人口を調査する戸口調査のときに、奴隷をローマ市民として申告する方法。

3. 遺言による解放

奴隷の所有者が遺言の中で、解放を命じる方法。
ただし、たくさんの奴隷を所有する場合、一度に解放できる奴隷の数には制限があった。

非正式な手続きによる解放

上記のほかに、奴隷の主人の友人や知人を承認として、奴隷の解放を宣言することもあった。
この方法は、ローマ法にのっとったものではないため、正式な方法で解放された奴隷と区別された。

奴隷解放の制限

税による制限

奴隷を解放するために、奴隷の所有者は奴隷の価値の5%を税として収めなければならなかった。
現代なら自家用車なみの価格だった奴隷である。
その5%となると、なかなかの出費だったに違いない。

遺言による制限

遺言により、一度に奴隷を解放できる数は、初代皇帝アウグストゥスにより、制限されていた。
これは奴隷の労働力が社会の基盤となっているため、一度に大量の奴隷を解放して、社会構造に影響が出ることを避けたかったためだと考えられる。
アウグストゥス帝の定めた法によると、遺言による奴隷解放には、次の制限があった。

遺言で解放できる奴隷の上限

奴隷の所有数(人) 解放できる上限
2~10 1/2まで
11~30 1/3まで
31~100 1/4まで
101~500 1/5まで

経歴による制限

またアウグストゥス帝は、奴隷が次の経歴を持っている場合、解放されても権利に制限のある降伏外人とした。

  • 罰として足枷をつけられたことのある奴隷
  • 烙印を押された奴隷
  • 自分が犯した罪について、拷問による尋問を受けたことがある奴隷
  • 剣闘士として戦う刑、または猛獣と戦う刑を宣言されたことがある奴隷

これはローマ市民として適切なものを取り込むために、品質管理を試み、国家ローマに好ましくないものがローマ社会に組み込まれることを防ぐための手段だったのである。

解放奴隷と元主人との関係

奴隷は解放された瞬間から、いままで主人だったものとの間に縁がなくなるかというと、そうではない。
奴隷から解放されても、元主人に対して何年かは労働する義務があった。

また、元主人と奴隷のあいだには、パトローネス(保護者)とクリエンテス(被保護者)との関係が結ばれた。
パトローネスはクリエンテスをいろいろな形で守る義務があり、またクリエンテスはパトローネスに対して労働や政治活動の手伝いなどをおこなうローマ社会独特の関係性である。

このように、解放奴隷と奴隷との線引は思ったよりもはっきりせず、曖昧だったらしい。

今回のまとめ

古代ローマの奴隷について、もう一度おさらいしよう。

  • 古代ローマ人の奴隷に対する意識は、現代人でいう『家電』のようなもの
  • 奴隷の仕入先は戦争捕虜、誘拐、外国からの輸入、捨て子などがあった
  • 奴隷は公衆の面前で、台に並べて売られていた
  • 奴隷の用途は多岐に渡り、現代の家電なみの種類があった
  • 奴隷は解放されてローマ市民になることができた
  • 奴隷は解放されても、元の主人と関係が切れることはなかった

古代ローマ人たちは、奴隷たちをローマ市民として迎え入れることより、社会階級の流動性を保ってきた。
現代社会なら忌むべき存在である奴隷も、古代ローマ人にとっては、なくてはならない存在だったのである。

この記事で、古代ローマ人の奴隷に対する考えについて、あなたの理解が深まれば幸いだ。

本記事の参考図書

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