カリグラと領土問題
父ゲルマニクスの威光を受け継ぎ、軍隊には人気があったとはいえ、カリグラ自身には軍事での実績がまったくなかった。
そのためカリグラは軍事面でもコンプレックスを抱いていたのではないかと思う。
ローマ皇帝とは、ローマ軍の総司令官でもあるのだから。
ではカリグラは軍事面で、どのようなことをしたのだろうか。
次はカリグラの領土問題を見ていこう。
ゲルマニア・ブリタニア遠征
39年秋頃、カリグラはゲルマニア遠征へと出発した。
史書には見せかけのみで引き返した、とあるが、私はこのゲルマニア遠征を翌年のブリタニア遠征のための地固めだと考えている。
つまり、カリグラはゲルマニアの様子を確認するためライン川を渡り、ゲルマン人への牽制を済ませた後引き返したのではないか。
実際、オランダにあるローマ時代の砦では、年代測定でカリグラ時代の木が使われていたことが判っている。
また、カリグラ時代に生産されたコインも発見されているのである。
ともあれ大きな成果もなく冬をルグドゥヌム(現フランスのリヨン)で過ごすと、翌年早々カリグラと遠征軍はドーバー海峡へと到着。
この遠征の目的は、ブリタンニアの王子が内紛により救援を求めていたためだった。
カリグラはドーバー海峡を渡ろうとしたが、冬の大西洋に阻まれ、結局引き返すことにした。
こちらも史書では成果なく引き返すのもためらったカリグラが、海岸で兵士たちに貝殻を拾わせ、それを戦利品として持ち帰らせたとあるが、私はどうも信じることができない。
最近の研究では、カリグラの遠征は下見であって、本格的な侵攻に備えたものだったとされており、こちらのほうがまだ説得力はあるだろう。
実際カリグラは海峡に灯台を作らせ、ローマへ帰還しても略式の凱旋式ですませている。
この灯台についても、軍事目的だけではなく、商船のための灯台でもあったのではないか。
ローマの商人たちは、地中海だけではなく大西洋周りでも交易にのりだしていたのだから。
帝国東方の対応
帝国東方での問題は、もっぱらユダヤ人への対応だった。
彼らは商売敵であるギリシア人との中が悪いだけでなく、後に説明する宗教問題で、カリグラとは相性が悪かったのである。
この問題をカリグラの代わりに対処したのがカリグラの友人で、後にユダヤの領主となるアグリッパ1世だ。
カリグラは38年、エジプト長官だったフラックスを更迭、処刑する。
カリグラはもともとティベリウスの忠臣だったフラックスを信用しておらず、また母への陰謀加担やエジプトの独立を望むものたちに通じていたと言われている。
そのフラックスを調査するため、アグリッパ1世がエジプトへ派遣されていた。
またアグリッパ1世は、東の大国パルティアと共謀して反乱計画を立てたとして、ユダヤの領主を告発。
カリグラは自白したとして領主を追放し、褒美としてユダヤ領主が治めていた土地をアグリッパ1世に与えている。
マウレタニア併合
カリグラが行った中でも最も不可解なのが、北アフリカ西方にあるマウレタニア王国の併合と国王プトレマエウスの殺害だろう。
プトレマエウスは、ユバ二世とクレオパトラ・ヘレネの子である。
ユバ二世は、カエサルに殺されたユバ一世の子であり、アウグストゥスにマウレタニア王国の統治を任された人物。
一方のクレオパトラ・ヘレネはアントニウスとクレオパトラの子供であり、彼らがアウグストゥスに破れてからは、アウグストゥスの姉オクタウィアの元で育てられた女性。
では彼らがローマに対して恨みを持っていたかというと、全くそんなことはなかった。
ユバ2世はローマで教育受け、ローマ的な思想へと変化していたし、クレオパトラ・ヘレネもオクタウィアから愛情を受けたおかげで、父と母を殺された恨みなど微塵もなかったのだ。
この両親のもとで育てられたプトレマエウスも当然親ローマであり、ローマにとっても理想的なパートナーとなっていた。
にもかかわらず、カリグラはプトレマエウスをローマに呼び出すと、彼を殺害。
マウレタニア王国を属州として2州に分けてローマの領土に組み込みこんだのだ。
しかしこれは完全な悪手だった。
なぜならローマは防衛戦が広がったせいで、軍隊を派遣する必要が生じる。
だけでなく、親ローマだった王を殺されたので、ほどなくマウレタニアで反乱が発生したからだった。
カリグラがなぜこんな暴挙にでたのか、残念ながら詳細を書いた史料は散逸して残っていない。
これも、コンプレックスからくる「どこかで軍事的成果を上げなければならない」焦りだったのか。
カリグラ、神になる
生前の神格化
40年、カリグラは最高神ユピテルを自称した。
ローマでは死後に神の列に加えられる、いわゆる神格化をされることはあっても、生前から神となったことはない。
なぜなら皇帝であっても同じ市民(市民の第一人者)であり、同じ人間が神と崇められることは不合理だったからである。
それをカリグラは破ったのである。
彼はユピテルだけではなく様々な神に扮装し、人々の前に現れた。
さらに神となる自分の祭司団まで結成する。
妻カエソニア、叔父クラウディウスを祭司に任命したのだ。
皇帝であっても市民の一人でしかないと見せかける、アウグストゥスが創設したシステムを、カリグラは見事に無視してみせたのである。
これもカリグラのコンプレックスから来る、行動の一つだろう。
しかしカリグラが神を自称することは、ローマ市民には軽蔑される程度ですんだが、神は一人(一つ)しか存在しないとするユダヤ人たちにとっては、見過ごすことができない出来事だった。
ユダヤ人の報復
この頃、エジプトのアレクサンドリアではギリシア系の市民たちの、商売敵であるユダヤ人迫害が頻発していた。
ユダヤ人は使節団を派遣して、ギリシア人の不当な扱いを正してもらうため、皇帝への拝謁を賜った。
しかしカリグラは、ユダヤ人が神である自分を崇めないという理由から、彼らの訴えを退けたのである。
イスラエルのある都市では、ユダヤ人たちがカリグラの神格化に反対して建設されたレンガ造りの神殿を破壊する。
これに激怒したカリグラが、エルサレムのユダヤ神殿に自分の像を立てさせるよう、部下に命じた。
実行すれば内戦は必至。
しかしこれは部下が機転を利かせ、工事を1年以上遅らせ、その間にアグリッパ1世がカリグラを説得して命令を破棄させたようである。
カリグラの最期
財政悪化による皇帝財産の強引な収奪、元老院との対立による孤立、そして陰謀疑惑による疑心暗鬼と身勝手な処刑で、ますます深まる溝……。
このような状態で、元老院議員や騎士身分の有力者、一部の近衛兵たちの間でついに堪忍袋の緒が切れた。
カリグラの暗殺計画が、ついに実行に移される時がきたのである。
最初の暗殺未遂
40年後半、カリグラに一部の元老院議員による最初の暗殺計画が謀られる。
しかしこれは事前に漏れてしまい、失敗。
容疑者が拷問された結果、一人が無罪と引き換えに共謀者を自白した。
カリグラは犯人たちを捕らえると処刑し、彼らの父親までも死を与えたのだった。
近衛隊副長に暗殺される
しかし暗殺計画はこれで終わらなかった。
元老院議員に一部の近衛兵まで巻き込む、大規模な計画が信仰していたのである。
実行犯はカシウス・カエレア。
近衛兵副官で、元ゲルマニア軍団の兵士であり、おそらくカリグラの父ゲルマニクスの元で戦ったこともあっただろう。
塩野七生氏はローマ人の物語の中で、カエレアが暗殺を行ったのは国家のことを思ってだと書いているが、私は私憤(恨み)を義憤で包んだ感情があったと考える。
一線を踏み越えるのは、ぼんやりとした輪郭しかないものではなく、ドロッとした感情が強い憤りとなって、はっきりとした目標に向かうときだ。
それが「正義」という免罪符を与えられて、初めて行動となって表れるのだと思う。
暗殺実行日は1月24日。
17日から数日間続く皇室主催の「パラティウム祭」に行われた。
皇帝が昼食に出かける際、必ず通る狭い通路で待ち伏せをすれば、必ず成功するという確信があったからだ。
そしてついにその時は訪れた。
カリグラが正午過ぎ、若い俳優に声をかけようと狭い通路で立ち止まったとき、カエレアが短剣を抜き放ち、彼に一撃を見舞った。
それに続いて共謀者たちも次々とカリグラを刺す。
カリグラは絶命した。
享年28歳。
帝政始まって以来の、暗殺劇で幕を閉じた治世だった。
暗殺後の経緯
カリグラが襲われたことを知った護衛のゲルマン人たちは、怒り狂って暗殺者たちに襲いかかった。
あまりにも怒りが大きく、関係のないものまで犠牲になったという。
一方別の暗殺者グループは宮殿に忍び込み、皇帝の妻カエソニアを殺害。
また幼い娘ドルシッラは壁に頭を打ち付けて殺されたという。
義憤だけでは、関係のない家族に対し、こうまで残酷な殺し方をするだろうか。
彼らは続いて、カリグラの叔父クラウディウスを殺す予定だったが、別の近衛兵たちがカーテンに隠れているクラウディウスを近衛隊兵舎に運び込み、その身を守った。
後日、カリグラに懲りた元老院議員は、アウグストゥス以前の皇帝のいない「本当の共和政」に戻そうとしたが、近衛隊によって皇帝に推挙されたクラウディウスを確認すると、しぶしぶ承認。
最後の共和政回帰の計画は泡と消え、第4代皇帝が誕生したのだった。
今回のまとめ
ではカリグラについて、もう一度おさらいしよう。
- 両親からアウグストゥスの血筋を受け継ぐサラブレッドだった
- 父の死と母の流罪で子供時代に一家が離散し、カリグラは最終的に皇帝と一緒に暮らすことになった
- 近衛隊長官と手を結んで皇帝の座を手に入れたが、後にその長官と共同統治者を処刑、自殺に追い込んだ
- カリグラの治世は徹底した民衆への人気取りのため、財政が破綻し元老院との関係も悪化した
- 最後は元老院と共謀した一部の近衛兵によって暗殺された
カリグラほど民衆に期待されて即位した皇帝はいなかっただろう。
彼はそれに懸命に応えようと努力したが、若干24歳の若さでは、アウグストゥスの創設した政治システムを理解しきれなったのだと思う。
民衆はカリグラの暗殺に耳を疑い、下手人不明との報を受けると激しく怒り、騒ぎを起こしたという。
カリグラは望み通り、民衆たちに最後まで愛された皇帝だった。