クレオパトラⅠ ―誕生と女王即位、カエサルとの出会いと別れ―

エジプト最後の女王クレオパトラ

クレオパトラ。エジプト最後の女王としてあまりにも有名なこの女性に、あなたはどんなイメージを抱いているだろうか。

  • 「クレオパトラの鼻があと5センチ低ければ、歴史は変わっていただろう」と言われる絶世の美女
  • 古代ローマの将軍を次々と「たぶらかした」魔性の女
  • 豪華絢爛なオリエント風の衣装に身を包んだ、異国情緒あふれる女王

これらは史劇で強調された姿と言わざるを得ない。クレオパトラが美しいほどラブロマンスは盛り上がり、スクリーンや舞台が華やぐのである。

では実際のクレオパトラとはどのような女性だったのだろうか。この記事では彼女の生涯を追いながら、彼女の真の姿に迫ってみよう。

クレオパトラ目次

クレオパトラの魅力 ―彼女の美貌は本当なのか―

クレオパトラの生涯を追う前に、まずは彼女の「美しさ」を検証してみよう。

クレオパトラの容姿

クレオパトラの容姿について言及している古代の史書は多くない。中でもクレオパトラ存命中から比較的近い時期に書かれたプルタルコスの記述を見てみよう。

プルタルコスは『アントニウス伝』の中で、クレオパトラの容姿を次のように書いている。

(前略)クレオパトラの美もそれだけでは一向比較を絶するものではなく見る人を驚かす程のものでもなかった※1(後略)

プルターク英雄伝 十一 アントニーウス  

要約すると『美しいが(容姿だけで人を魅了するような)絶世の美女ではなかった』ということだ。

次にプルタルコスより100年以上後に生まれた人物、カッシウス・ディオの記述は次のとおり。

(クレオパトラは)並外れた美しさを持った女性であり、若さの絶頂にあった当時は、最も際立っていた

アントニウスとクレオパトラ(上) 9章 新愛姉弟神  

『並外れた美しさ』という部分が「絶世の美女」と取れなくもない。しかし世界一美しいなどの記述がないので、こちらもプルタルコスと同じような内容だと考えられる。

つまり古代の歴史家の記述どおりなら、クレオパトラは確かに美しかったが絶世の美女というほどの容姿だったわけではない、と言えるだろう。

クレオパトラの本当の魅力とは

ではクレオパトラの魅力とは一体なんだったのだろうか。

さきほど引用したプルタルコスには、クレオパトラの魅力を書いた続きがある。その部分を再度抜き出してみよう。

(※1の内容)が、交際振(つきあいぶり)に相手を逃さない魅力があり、その容姿が会話の説得力と一座の人々にいつの間にか浸み渡る性格とを兼ね備え、針のように心を打った。

プルターク英雄伝 十一 アントニーウス  

つまり彼女が話し出すとその場にいる人々が聞き惚れ、いつの間にか彼女に夢中になる、というのである。

またプルタルコスは彼女について、こうも言っている。クレオパトラは通訳を通じて話すことは珍しく、ギリシア語以外を話す下記の人々にも自分で返事をしたらしい。

  • エチオピア人
  • トローグロデュダイ族(紅海北部西岸の部族)
  • ヘブライ人
  • アラビア人
  • シリア人
  • ペルシア人(おそらくメディア王国の人)
  • パルティア人

これらの人々が一体何語を話していたのか、正確にはわからない。興味のある方は春田晴郎氏のブログを参考にしていただくといいだろう。

春日氏によると、おそらく5~6ヶ国語は最低話すことができたのではないかとのこと。クレオパトラは語学の素養があり、当時の地中海世界でもずば抜けて教養が高かったことが伺える。

要するに彼女の真の魅力とは、

高い教養に基づく機知に富んだ会話術

なのである。

クレオパトラはエジプト人ではない

ちなみにプルタルコスは、クレオパトラがラテン語を理解したとは書いていない。おそらく外交官としての役割を担うために、彼女は様々な言語を身につけた。その相手にローマが入っていないのは非常に興味深い。

実はもう一つ興味深いことをプルタルコスは書いている。それは王の中でクレオパトラがエジプト語を理解した最初の人物だということ。

これはクレオパトラが純粋なエジプト人でなかったことを表している。そして彼女が王女として生まれたプトレマイオス朝エジプトもまた、エジプト人の王朝ではなかった。

クレオパトラの王位以前

ギリシア系王朝、プトレマイオス朝エジプト

前69年、クレオパトラはプトレマイオス朝エジプトの王女として生まれた。彼女はプトレマイオス家でクレオパトラの名を持つ7番目の女性なので、クレオパトラ7世と呼ばれている。

プトレマイオス朝エジプトは、アレクサンドロス大王の有力な将軍プトレマイオスが打ち立てた国だ。大王もプトレマイオスもマケドニア出身。つまりプトレマイオス朝とはマケドニア人(ギリシア系)によって立てられたギリシア系(ギリシア語を母語とする)王朝なのである。

プトレマイオス朝の成り立ちについては、アレクサンドリア ―世界の知が集まったプトレマイオス朝エジプトの首都―にも掲載しているので、参考にしていただければと思う。

世界の知の集結地 アレクサンドリア アレクサンドリア ―世界の知が集まったプトレマイオス朝エジプトの首都―

つまり彼女はギリシア語を母語とするギリシア系マケドニア人なのである。彼女の名『クレオパトラ』とは、ギリシア語で「名高い先祖を持つ者」という意味があり、プトレマイオス家の女子によく使われていた名前だった。

クレオパトラ7世フィロパトル
ギリシアスタイルのクレオパトラ頭部
Louis le Grand, Public domain ウィキメディア・コモンズ経由で

ハリウッド映画などでイメージされるおかっぱ頭はエジプトスタイル。エジプト由来の神事に出席するときならともかく、普段のクレオパトラはギリシア人の格好をしていたのだ。

ローマの力を借りた権力

クレオパトラの父はプトレマイオス12世アウレテス。プトレマイオス家はお家芸のように内紛があり、アウレテスもまた家内のごたごたの後に即位した王の一人だった。

プトレマイオス12世アウレテス
ルーヴル美術館, Public domain
ウィキメディア・コモンズ経由で

この頃のプトレマイオス朝は内紛によって王権が弱り、他の国家(といってもローマのことだが)に頼らないと国王の地位を保つことができなかった。アウレテスもまたローマの後ろ盾を得るために腐心することになる。

前63年、東地中海に遠征するポンペイウスに対し、アウレテスは支援を惜しまなかった。彼は騎兵8,000の補給のほか、黄金冠を含む豪華な贈り物をしている。

これ以降もローマとの関係構築に働きかけてきた。その努力が実り、前59年には6,000タラントの支払いと引き換えに、

ローマ国民のともにして同盟者

の名を手にする。6,000タラントは当時エジプトの年収の約半分に相当。この巨額を投じてローマから『公式に認められた』エジプト王の地位をアウレテスは手に入れたのである。

娘の乗っ取りと復位

ところが翌前58年、アウレテスがエジプトを離れている隙に、娘のベレニケ4世(おそらくクレオパトラの姉に当たる人物)が王位を乗っ取ってしまった

アウレテスはローマに向かい、元老位に復位の支援を頼む。ここでも支援の見返りとして大金を提示したらしい。しかし元老院は渋った。加えて、秘密の信託を集めた、ローマの古い預言書であるシビュラの書に、

アウレテスは軍の助けを借りて復位されてはならない

と書いてある(と解釈された)ことで、しばらくアウレテスは軍事的支援を受けることができなかった。

アウレテスの風向きが変わったのは翌前57年。シリア総督にガビニウスが就任したのである。このガビニウスにアウレテスは復位の支援を持ちかける。報酬は銀10,000タラントン。属州総督にしては破格の報酬だった。

エジプトの経済力

衰退著しい前1世紀のプトレマイオス王朝に、アウレテスが度々提示した巨額を支払うことは可能だったのだろうか。

実はエジプトに経済的な衰退は起こっておらず、むしろ貿易で大きな利益を得ていた可能性がある。特に重要な役割を果たしていたのは繊維工業だった。ローマとインド双方にとって需要があった繊維貿易の中継地点として、エジプトは莫大な利益を得ていたようだ。

さらにこの貿易を後押ししたのが、前2世紀の終わり頃の「ヒッパロスの発見」。これはインド洋に吹く季節風を利用すると、途中のアラビア各地の中継地点を使わなくても、比較的安全に航海ができるというもの。この発見で直接インドとの貿易ルートを確保したプトレマイオス朝は、むしろ豊かになっていた。

アウレテスは一括で巨額の支払いをすることができなかったため、度々ローマの金融家に借金をしている。彼らに借金ができたのも、エジプトの経済力が担保されていたためではないだろうか。

ガビニウスはシビュラの書の信託を無視したとして訴追される恐れがあったにもかかわらず、アウレテスの提案に乗りエジプトに軍を派遣。アウレテスはローマ軍の力を借りることで娘から王位を奪い返すことに成功したのである。当然ベレニケ4世は処刑されることになった。

アントニウスの従軍

この頃ガビニウスの下に、後の三人委員会の一人でクレオパトラと結婚するアントニウスがいたようだ。この時クレオパトラにあったアントニウスが一目惚れをしたらしい。

ところでガビニウスがエジプトを去った後も、王の権力を保護するためにローマ軍が残っている。アウレテスはローマ軍が駐留することで、比較的安定した政権を維持できたのである。

クレオパトラ、共同統治者となる

クレオパトラ、女王に即位する

前51年、父プトレマイオス12世アウレテスは死んだ。この時クレオパトラ18歳。遺言には

長男プトレマイオス13世とクレオパトラを共同統治者とする

と書き残されていた。おそらく若い弟の年齢を考慮し、クレオパトラを助言役にしたかったのだろう。

ところがクレオパトラは即位後

テア・フィロパトル(愛父神)

を名乗り、単独支配を狙ったのである。なぜか。その理由は次の2つ。

  • 弟王は10歳と若く、統治能力が疑わしかったため
  • クレオパトラは自分の才覚に自信を持っていたため

ただしクレオパトラが単独の女王として君臨すると、都合の悪い人物がいた。それは弟の取り巻きだった次の2人だ。

  • 教育係:サモスのテオドトス
  • 宦官:ポティノス

彼らは弟王が権力を握ることで地位向上の機会を狙っていた。そんな中事件は起こった。

シリア総督ビブルスの息子殺害事件

前50年、シリア総督にローマの政治家ビブルスが就任した。彼は度々攻めてくる隣国パルティアに対抗するため、名目上はシリア総督の軍であるエジプト駐留軍の出動を要請。その使者として彼の息子2人をエジプトに派遣する。

実はビブルスの就任する3年前、ローマの有力政治家クラッススがパルティアに攻め込んだ。ところがカルラエの戦いで大敗北をし、自らも命を落としたのである。この戦い以降、パルティアはローマに対し強気の姿勢を貫いていた。

ところがエジプトで快適な生活を送っていたローマ軍はビブルスの要請を拒否。それどころか使者の息子2人を殺害してしまったのだ。

クレオパトラは直ちに殺害の首謀者を逮捕しビブルスのもとに送った。彼女は父同様

ローマ国民のともにして同盟者

を守るため、彼女なりにローマへの忠誠心を見せたのである。

しかしこれが駐留軍の反感を買った。プトレマイオス朝の王権の安定はローマ兵の後ろ盾があってこそ。彼らの力を借りないと、権力を狙う身内にすら殺されかねない状況だったのである。

そして女王の失敗を見逃さない連中がいた。もちろんプトレマイオス13世の取り巻きたちだった。

クレオパトラの亡命

彼女の単独支配支配は終わりを告げ、代わりに弟王とその一派が権力をにぎることになった。

王宮に居場所のなくなったクレオパトラは前49年アレクサンドリアを去った。もちろん自分の権力をもう一度取り返すために。この時妹アルシノエもクレオパトラに付き従っている。

クレオパトラはまず上エジプト(ナイル川上流、エジプト南部)で兵を集めることにした。しかし思ったよりも兵を集めることができず、エジプト国外へと亡命を決意する。

彼女はパレスティナのアスカロン(現アシュクロン)で熱烈な歓迎を受けると、この地で兵を集った。そして前48年の夏にはエジプトに向かって進軍したのである。

クレオパトラ軍に対し、弟王側は将軍アキッラスの下に終結。20,000の兵を集めると、ペルシウム(ナイル川のデルタ地帯東端)よりもさらに東、シナイ半島にあるカシウス山に陣を布き、クレオパトラを迎え撃つことにした。

クレオパトラの兵は明らかに弟軍より質が落ちる。加えて有利な地形に陣を布いている敵軍に対し、有効な手立てを撃つことができないでいた。戦いは圧倒的に弟軍に有利な状況。ジリ貧のクレオパトラが敗れるのも時間の問題かと思われた。

そんな中ローマからエジプトに思わぬ訪問者が現れる。カエサルに敗れたローマの将軍、ポンペイウスだった。

カエサルへの賭けと女王復位

ポンペイウスの訪問

前48年9月28日、ポンペイウスは弟王一派が陣取るエジプト東岸にたどり着く。彼はカエサルに敗れた後、自分のクリエンテス(庇護民)を頼ってやってきたのである。ローマではパトロヌス(保護民)がクリエンテスの面倒を見る代わりに、パトロヌスが困ったときはクリエンテスが援助をする関係があった。

パトロヌスとクリエンテス 古代ローマの親分子分 古代ローマのクリエンテラ関係 ―パトロヌスとクリエンテスについて―

ところが弟王一派はポンペイウスの訪問を快く思っていなかった。どころかポンペイウスを船から巧みに誘い出し殺してしまったのである。

ポンペイウスがどのように殺害されたかは、ポンペイウスⅥ ―デュッラキウム攻防からファルサロスの戦い、死まで―を見ていただくといいだろう。

異例づくしの大将軍ポンペイウス ポンペイウスⅥ ―デュッラキウム攻防からファルサロスの戦い、死まで―

ではなぜ弟王一派に殺されたのか。
理由は2つ。

  • 敗れたポンペイウスがエジプトを足がかりに再起を図る考えは明白で、エジプトにとって迷惑でしかなかった
  • ポンペイウスの首をカエサルに届ければ、カエサルに恩を売ることができるので一石二鳥

数日後、ポンペイウスを追ってきたカエサルがアレクサンドリアの港に到着。弟一派の一人、教育係のテオドトスはプラン通りカエサルにポンペイウスの首を届け、さっさとお引取り願う予定だった。ところがカエサルは首の検分を拒否し、ポンペイウスの指輪を見て涙を流した。

さらに弟王一派に想定外のことが起こる。カエサルはアレクサンドリアの王宮にそのまま居座ってしまったのだ。

クレオパトラ、賭けに出る

カエサルがとどまったのには理由があった。

  • 彼が軍事行動を行う当面の資金をエジプトに期待していたため
  • 東方諸国の政治を安定させるため

カエサルは上記2点を実現させるため、プトレマイオス家の内紛に積極的に介入する。カエサルは両陣営にこう伝えた。

王とクレオパトラは軍を放棄し、自分の前で話し合うように

勝ち戦も同然だった戦いに首を突っ込まれた弟陣営は、当然カエサルの決定を快く思わなかった。少数ながらもエジプトに滞在するカエサルの兵たちに、宦官ポティノスは嫌がらせを行う。ローマ軍、いやカエサル軍にさっさと退散してほしかったのである。

一方クレオパトラにとっては千載一遇のチャンスだった。ローマの第一人者が目と鼻の先にあるアレクサンドリアにいるのである。

クレオパトラは賭けに出た。今まで率いていた兵たちに別れを告げ(言い方を変えれば置き去りにして)、カエサルのいるアレクサンドリアに小舟で向かった。

ところでカエサルとローマ軍がアレクサンドリアにいたとはいえ、占領地域は王宮と町のごく一部に限られている。その他町のほとんどが弟王の息のかかった者たちで占められていた。クレオパトラはこの超警戒モードの中を小舟で進み、暗くなったところを見計らいアレクサンドリアの港に入港する。そして彼女は王宮へ忍び込むため、巧妙に隠れるのだ。

カエサルの前に現れるクレオパトラ
ジャン=レオン・ジェローム, Public domain
ウィキメディア・コモンズ経由で

この隠れ方、劇などではクレオパトラが絨毯にくるまっていることが多いが、プルタルコスでは『旅行用のベッドに長々と横たわり、そのベッドを革紐で縛って』と表現されている。これを何らかの方法でカエサルの荷物として中へ搬入したのだろう。

同じくプルタルコスの記述では『術中に捕らえられ』たカエサルがクレオパトラの誘惑に負けた事になっている。しかしローマの有力元老院議員のご婦人たちを、その魅力で次々と落としてきたカエサルだ。21歳のクレオパトラにかどわかされるとは考えにくい。

女王への復位

カエサルはおそらくクレオパトラが来ることを何らかの形で知っており、直接交渉をしてみたいと考えていた。どちらかと言えばクレオパトラのほうがカエサルの会話術にはまって恋に落ちたのではあるまいか。

ただし彼らは1人の男女以上に政治的な人間だ。カエサルがクレオパトラの願いを聞き入れたのは、次の理由があったからである。

  • 知性・教養ともに高く、ローマに忠誠の厚いクレオパトラが同盟者としてふさわしいと判断したため
  • 弟王一派と交渉するだけの状態から、もう一枚のカード(クレオパトラ)を手に入れられるため

こうしてクレオパトラと夜を共に過ごしたカエサルはプトレマイオス12世の遺言通り、

  • 姉クレオパトラと弟プトレマイオス13世の共同統治に戻すことを宣言
  • もうひとりの弟プトレマイオス14世とその姉(クレオパトラとともに亡命した)アルシノエ4世をキプロス島の統治者にする

と決めたのである。

アレクサンドリア戦争

市街戦とアレクサンドリア図書館炎上

もちろんプトレマイオス13世とその取り巻きたちがカエサルの決定に納得するはずがなかった。再びクレオパトラが力をつけてしまえば、彼らの立場も危うくなるからである。

アレクサンドリアにいた宦官ポティノスたちは、逆転を図るため将軍アキッラスと軍を呼び戻す。さらにカエサルの暗殺を企てた。

カエサルの暗殺計画は事前に露見し、ポティノスはカエサルに処刑されてしまったが、アレクサンドリアに戻った軍は、少数のカエサル軍を破るため、直ちに攻撃を開始した。

カエサルは少ない兵で野戦を戦うことは無理と判断し、アレクサンドリアの町を戦場に選ぶ。いわゆる市街戦が始まったのだ。この時敵に船が利用されることを恐れ、いち早く港を占領して焼き払ったが、その火が岸の建物に燃え移ってしまい、有名な大図書館(の一部)も焼失することになる。

アレクサンドリア図書館のイメージ
アレクサンドリア図書館
O. Von Corven / Public domain

この様子はアレクサンドリア ―世界の知が集まったプトレマイオス朝エジプトの首都―プトレマイオス朝エジプトの滅亡とローマ帝国時代でも説明しているので、興味のある方はご覧いただければと思う。

またアレクサンドリア戦争についてはユリウス・カエサルⅦ ―クレオパトラとの出会いから「来た、見た、勝った」まで―にも書いているので、ご一読いただきたい。

ローマの礎を築いた男 ユリウス・カエサル ユリウス・カエサルⅦ ―クレオパトラとの出会いから「来た、見た、勝った」まで―

戦争終結

いまでは国王軍となったアキッラス率いる兵たちに加え、アレキサンドリア市民まで加わった民兵にカエサルは相当苦しんだ。絶対数の少なさに加えて井戸の中に塩水を入れられ飲み水の確保がままならなかったり、自分の乗っていた小舟が逃げてきた兵士たちの波に飲まれて沈んだこともあった。

ところがしばらくすると、国王軍のほうが内部から瓦解したのである。

その第一歩はどこからか現れたクレオパトラの妹アルシノエ4世が、情勢を見てアキッラスの軍に合流した。そして仲違いの後にアキッラスを殺して軍の実権を奪ってしまったのである。

しばらくはアルノシエの教育係ガニュメデスが指揮を取る。ところがこの軍にプトレマイオス13世が帰ってきたところで、実権はこの弟王が握ってしまった。

しかしこの頃になると、以前から呼び寄せていたカエサルの援軍が到着。エジプトの東から攻め込んできたことで、弟王は敗れ軍は壊滅した。さらに彼は逃走中にナイル川で溺死してしまう。

こうしてアレクサンドリア戦争は幕を閉じた。エジプト側の戦争首謀者はほとんど死んでしまい、数少ない生き残りのアルノシエ4世はカエサルの捕虜となった。

クレオパトラは一世一代の賭けに勝ったのだ。

クレオパトラとカエサルのナイル巡航

ナイル川

戦争終結後、クレオパトラはプトレマイオス14世と結婚し、新たな弟王との共同統治者となった。とはいえクレオパトラはカエサルとの関係を解消したわけではない。彼女は相変わらずカエサルの『愛人』であり、女王としての『クリエンテス』だった。

カエサルはこの後エジプトに数ヶ月滞在している。ナイル巡航のたびに出た。もちろんクレオパトラも同行。彼らはこの「甘い」旅行を楽しんだことだろう。

もっとも一つの行動で複数の目的を達成するカエサルである。彼はナイル巡航を行ったことで、エジプトがもつ農業生産力や経済力を把握したに違いない。

前47年6月、小アジアで敗れた部下の救援に向かうため、カエサルはエジプトを発った。エジプトに3個軍団を残しての出発である。この軍はクレオパトラの王権を強化するとともに、エジプトを監視する役割も担っていた。

そしてクレオパトラはこの時、お腹の中に新たな生命を授かっていた。

クレオパトラ、カエサルを失う

凱旋式の出席と暦の改定

カエサルの凱旋式
カエサルの凱旋式
Andrea Mantegna [Public domain]

前46年夏、クレオパトラは出産した我が子や夫プトレマイオス14世とともにローマを訪れた。一連の戦争で敵を討ち果たしたカエサルが、自分の凱旋式に彼女を招待したためだ。彼女たちはトラステヴェレに建てられたカエサルの別荘を滞在中の宿泊施設として提供された。

カエサルの凱旋式は9月21日から10月2日に渡って計4回行われた。その2回目がエジプトを征服した記念の凱旋式。この凱旋式にアルシノエ4世が捕虜として参列。ローマ中を引き回されることになる。

一方招待客として見物したクレオパトラの胸中にはどんな思いがあったのだろう。いくら女王の地位を狙った妹だったとはいえ、立場が違えば凱旋式で引き回されていたのは自分だったと頭によぎったのではないか。アルシノエ4世に対するその後の態度を見ればクレオパトラはある程度冷淡に見ていたとは思う。しかし自分ごとに感じたとしても不思議はないだろう。

ところでクレオパトラの訪問にはもう一つ目的があった。それはカエサルの計画する暦の改定にあたり、アレクサンドリアのムセイオン(学術研究所)から天文学者ソシゲネスを連れてくること。ローマで長年使われていたヌマ暦の運用が限界を迎え、季節が何ヶ月もずれていたのである。

カエサルはソシゲネスの力を借り、太陽の運行を基準とする太陽暦を新たに作り出した。それは『ユリウス暦』と呼ばれ、以降1,500年近くに渡って長く使用されることになる。

現代に名残を残す古代ローマの暦 古代ローマの暦(こよみ) ―現代のカレンダーにも名残を残す、生活サイクルの基準―

クレオパトラのローマ再訪問

前45年にも再びクレオパトラたちはローマを訪問している。カエサルがヒスパニア(スペイン)でポンペイウスの遺児や旧友ラビエヌスを破ったため、それを祝う凱旋式に招待されたのである。

このときもカエサルは、一つのことを複数の目的に利用する。翌年計画しているパルティア遠征のために、カエサルはエジプトを後方の補給基地とすることを決めていた。そのためエジプトからの物資を借用する相談をクレオパトラに打診したのだ。

クレオパトラたちはおそらくカエサルの遠征出発までローマに滞在するつもりだったのだろう。ところが晴天の霹靂とも言える出来事が、クレオパトラを襲ったのである。

運命の3月15日とクレオパトラのエジプト帰還

前44年3月15日、カエサルは複数の元老院議員たちに暗殺された。しばらくはクレオパトラの耳に入らなかったようだが、カエサルの死の報を聞くとおそらくクレオパトラは相当動揺したはずである。

なぜなら『愛する人の死』以上に、ローマの権力者の後ろ盾を失ってしまったからだ。エジプトでの彼女の地位は、カエサルの絶対的な権力の上に成り立っているものだった。そのカエサルが死んだ以上、彼女は新たな正当性を手に入れる必要があった。

カエサルの死後、クレオパトラはしばらくローマにとどまり元老院に自分の地位を再確認している。

王位の公式承認とローマ国民の友

を認めてもらった後、彼女は急いでローマを発った。アレクサンドリアで自分の地位を固めるとともに、今後誰がローマの実権を握ることになるのか、見極めなければならなかったからである。

クレオパトラを映像作品で観るならドラマ「ROME」がオススメ!

プッロ(左)とヴォレヌス(右)の映像

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本記事の参考図書

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