オクタウィアヌスⅥ ―ブルンディシウム協定、ミセヌム協定、シチリア戦争開始―

オクタウィアヌス カエサルの遺志を継ぐ青年

フィリッピの戦いの後、オクタウィアヌスはイタリアに戻り、退役兵の土地を確保するという、困難な仕事に着手する。
だが十分な土地を確保できない上に、地方都市から土地を強制的に没収したため、兵士や土地所有者の不満が相次ぎ、暴動へと発展。
この状況を利用して反オクタウィアヌスを掲げ、兵士たちを先導したのが、アントニウスの弟ルキウスと、アントニウスの妻フルウィアだった。

彼らは挙兵してローマを制圧。
さらに北のガリア軍団と合流しようとしたが、オクタウィアヌスに阻止されてペルージアに立てこもり、抵抗をつづける。
だが、オクタウィアヌスの攻囲にあい、さらに当てにしていたアントニウス派たちにも見放されたルキウスは降伏を選択。
ペルージア戦争と呼ばれるイタリアの反乱は、一応の決着がついた。

しかしオクタウィアヌスの周りは、依然として敵が多く予断を許される状況ではなかった。
そんな中、アントニウスが担当するガリア全域を支配していたのカレヌスが死亡。
オクタウィアヌスはカレヌスの息子から、アントニウスに無断でガリアの軍を引き継ぐことに成功する。

ガリアの一件に異議を唱えるアントニウスは、ブルンディシウムを包囲。
オクタウィアヌスは絶対絶命の危機を迎えていた。

フィリッピの戦いの後、東方でのアントニウス

艦隊を従えてブルンディシウムを攻囲したことは、オクタウィアヌスⅤ ―フィリッピ後の協定からペルージア戦争まで―ですでに述べた。
ではここに至るまでの、東方でのアントニウスはどのように過ごしていたのだろうか。

フィリッピの戦いの後、アントニウスは西方よりも富がある小アジアやシリアなどで新たな課税を行った。
目的は2つ。

  • 内戦で空になったローマの国庫回復
  • パルティア遠征の資金集め

アントニウスは目的を達成するため、東方各地に9年分の税金を納付させることにした。

しかし東方ではすでにブルトゥスやカッシウスが内戦の準備をするため、豊富な富を絞り尽くしていたのである。
アントニウスは仕方なく2年間の課税へと変更するしかなかった。
だがこれではお金が圧倒的に不足する。
そこで目をつけたのが、エジプトである。

アントニウスとクレオパトラの関係

そこでアントニウスは、エジプトの実質的支配者であるクレオパトラを、キリキア(トルコ南部)に呼び出した。
クレオパトラも、カエサルに変わる新たなローマの庇護者のアテができたと思ったに違いない。
クレオパトラは、愛の女神アフロディーテに扮してアントニウスの前に現れるという「プレゼン」を披露し、アントニウスの関心を勝ち取ったのだ。

アントニウスはクレオパトラと性的な関係を持った。
とはいえローマは、とくに上流階級の男性がプライベートで関係をもつことにはおおらかだったので、アントニウスがクレオパオラの色香に惑わされた、ということはないだろう。
(カエサルですら、リフレッシュのためにクレオパトラと肉体関係をもったのだから)

それよりも大事なことは、クレオパトラが資金提供を引き受けることで、アントニウスの新たな庇護を勝ち取ったということである。
アントニウスも、エジプトという莫大な富を抱えるクリエンテスを手に入れることは、大きな収穫だったに違いない。

パルティアとペルージア戦争後の処理

シリアとパレスティナに立ち寄り、その後クレオパトラに招かれたエジプトのアレキサンドリアで一冬を越した前40年の2月頃、パルティアが不穏な動きを見せる。
シリアでパルティア側についたローマ人とともに、現地のローマ人総督を窮地に追い込んだのである。

アントニウスは直ちにテュロス(現在のレバノン南部)に急行した。
しかしテュロスで弟と妻がイタリアで戦争を始めたという知らせが、ようやくアントニウスの耳にも届く。

彼はパルティア問題をひとまず後回しにし、ギリシアのアテナイへと向かった。
そして逃亡してきた将軍プランクスと妻フルウィアに戦争の報告を受けたのである。

アントニウスは艦隊200隻を率いてブルンディシウムへと向かった。
セクストゥスとは全面的な同盟関係にならなかったとはいえ、軍事的な協力は約束済みだ。
さらにポッリオによってアヘノバルブスを味方に引き入れたことで、アドリア海は手にしたも同然。
そしてカレヌスの死と無断でガリア軍を引き入れた協定違反。

アントニウスは、オクタウィアヌスに対する攻撃の大義名分も態勢も、完全に整えたのだ。
あとはオクタウィアヌスを叩くのみ。

オクタウィアヌス、アントニウスとブルンディシウムで協定を結ぶ

オクタウィアヌスはこのとき、絶望的な状況だった。
理由は次の通り。

  • アドリア海の制海権を握っていた共和政派のアヘノバルブスが、ポッリオの仲立ちによりアントニウスについたこと
  • アントニウスとセクストゥスが、軍事的な協力体制をとっていたこと
  • ペルージア戦争が終わったばかりのイタリアで兵を集めても、士気が低いこと

セクストゥスやアヘノバルブスによって、イタリアの周りの海は完全に包囲されているといっても過言ではなかった。
そのためイタリアの食料が確保できず、この状態が長くつづけばペルージア戦争のときのように暴動が発生するだろう。

さらにオクタウィアヌスのもとに、悪い知らせが届く。
それはガリアを一任したサルウィディエヌスが、アントニウスと通じているというものだった。
サルウィディエヌスは、オクタウィアヌスが苦手とする軍を率いた戦いができる、オクタウィアヌス陣営の数少ない将軍であり、旗揚げから従う古参の部下であり、アグリッパやマエケナスと並ぶ盟友でもあったのだ。

先の見えない状況に、オクタウィアヌスはいつもの体調不良(おそらく神経性からくるもの)で、数日間寝込む事態に陥った。
それでも彼は、ブルンディシウムに軍を率いて向かうことにする。

アントニウスとの開戦は不可避かと思われたが、結局オクタウィアヌスとアントニウスの間で戦いが起こることはなかった。
なぜならカエサルの古参兵たちが、両者で起こる内戦を拒否したからである。

オクタウィアヌスを潰すチャンスでも、兵が戦わなければ司令官にはどうすることもできない。
結局アントニウスとオクタウィアヌスは、停戦と今後の話し合いのため、交渉のテーブルについた。
アントニウス側からはポッリオが、オクタウィアヌス側からはマエケナスが同席する。

この交渉で、次のことが取り決められる事になった。

  • イタリアはアントニウス・オクタウィアヌス両者が共有し、どちらも兵を徴募できるものとする
  • アントニウスはマケドニアから東の東方全域を支配領域とする
  • オクタウィアヌスは新たにガリアを獲得し、イッリュリクムから西をすべて支配領域とする

マケドニアとイッリュリクムの境はドリン川(現アルバニアの北部を流れる川)と決まった。
また、ここに来て復活したレピドゥスが、オクタウィアヌスの部下である元百任隊長(外国勢の攻撃を受けて死んでいた)が赴任していたアフリカを担当することになる。

更新された同盟を強固なものにするため、アントニウスはオクタウィアヌスの姉であるオクタウィアと結婚することになった。
アントニウスの妻フルウィアは、逃亡したギリシアの地ですでに亡くなっていた。
またオクタウィアも、夫が亡くなっていたので好都合だったのである。
こうしてブルンディシウム協定は結ばれた。

一方内通を疑われたガリアの総督サルウィディエヌスはどうなったか。
彼はオクタウィアヌスに、緊急協議のためローマに呼び出された。
協議終了後、ガリアに帰ってもいいという約束付きで。
しかしオクタウィアヌスは、命令に従いローマに戻ったサルウィディエヌスを反逆罪で訴え、処刑したのである。
これがオクタウィアヌスの盟友であり、有能な軍人の最期となった。

オクタウィアヌス、ミセヌムでセクストゥスと和解し、協定を結ぶ

ブルンディシウムの協定によって、アントニウスと共闘しイタリアを陥れるというアテの外れたセクストゥスは、サルディーニャ島からオクタウィアヌスの総督を追い出し、新たに雇った奴隷出身のメノドルスを派遣して支配下においた。
そして海上封鎖を強化し、イタリアに満足な食料を供給できなくしたのだ。

セクストゥスの海上封鎖によって、ローマの物価は高騰した。
さらにオクタウィアヌスが兵士たちに払う給料のために、新税を導入して徴収したため、各地で暴動が発生したのである。
この騒動でオクタウィアヌスは自ら市民たちに説明するため、フォルムへと出向いたが、市民たちの攻撃にあいアントニウスに助け出される一幕もあった。

結局オクタウィアヌスは、セクストゥスとの和解の道を探るしか手立てはなくなり、セクストゥスとの話し合いの場を持つことを提案する。
オクタウィアヌス、アントニウス側の会談打診に、サルディーニャ島を支配していたメノドルスは反対した。
理由は簡単だ。
このままローマを飢饉に陥れれば、相手は自滅する。
この状態を維持し、弱ったところを叩くか、少なくとも交渉を有利にする材料とするべきだ。
しかしセクストゥスは、オクタウィアヌスたちと会談を持つことに決めたのである。

前39年夏、オクタウィアヌスとアントニウス、セクストゥスとの間にミセヌム(現在のナポリ付近)で会談が開かれることとなった。

セクストゥスはこの会談に望むに当たり、6段櫂船という巨大な軍船に乗り、大艦隊を率いてミセヌムに姿を現した。
互いの接触を避けるため、 交渉は声がギリギリ届く距離を保った2組のいかだを海の上に浮かべてすることになった。

すべてはセクストゥスの発案によるものだ。
セクストゥスは幼い頃、ポンペイウスがエジプトの使者に従って小舟に移ったところを殺されていたため、交渉に最新の注意を払ったのである。
とはいえ互いに意見を言うにはどなり合う必要があったので、その場にいたなら滑稽にみえたことだろう。

のちにミセヌム協定と呼ばれるこの話し合いで、次のことが決まった。

  • セクストゥスはサルディーニャ、コルシカ、シチリア3島、およびペロポネソス半島(現在のギリシア南部)の正式な総督に就任する
  • さらにセクストゥスは鳥卜官(高位の政治家が就任する占いの祭司)に加えられ、翌年の前38年執政官に指名される
  • セクストゥスのシチリア支持者は地位を保証される
  • セクストゥス軍に加わったすべての人々の市民権が回復される(ただしユリウス・カエサルの暗殺に加担したものを除く)
  • 公権剥奪公示の対象となった元老院議員や騎士階級の人々へ、一部財産を返還する
  • セクストゥスの兵士たちは、退役時にオクタウィアヌスたちの兵士と同様の退職金を受け取る

協定の内容を見ると、オクタウィアヌスやアントニウスがセクストゥスに対して大幅に譲歩したようにも見える。
だが、オクタウィアヌスたちの譲歩は「既成事実の確認」であり、実質的な損をしたわけではなかったのだ。

またセクストゥスはローマでの自分やポンペイウス氏族の復権を強く望んだが、これは思わぬ副作用を及ぼした。
難を逃れてセクストゥスのもとに集まっていた共和政派の有力な人物たちが、自分たちの地位と安全が確保されたことで、ローマやイタリアへと帰っていったのだ。

セクストゥスはこのとき、アントニウスやオクタウィアヌスとともに、共和政派の希望の星となり第三勢力としてローマに君臨することもできたはずである。
しかしローマの公職を強く望み、立場にこだわったことで、セクストゥスは結果的にこの道をみずから閉ざしたことになる。

ミセヌムでの会談のあと、オクタウィアヌスたちを自分の船に招待して設けた宴のとき、セクストゥスの部下であるメノドルスが彼にこう囁いた。

この錨縄を切って、あなたをシチリアとサルディーニャだけでなく、ローマ帝国全体の支配者にしてさしあげましょうか?

それに対して、セクストゥスは答える。

メノドルスよ。私に言わずにやってくれたらよかったものを。今やわれわれは現状に甘んじなければならない。約束は破れないのだ

プルタルコスによる(おそらく)この逸話は、セクストゥスの性格と心情をよく反映しているのではないだろうか。

オクタウィアヌス、生涯の妻リウィアと結婚する

ミセヌム協定は、オクタウィウスにもう一つの大きな出来事をもたらした。
それは生涯の妻となるリウィア・ドルシッラとの結婚である。

リウィア ドルシッラ
リウィア ドルシッラ
Zaqarbal | Wikipedeiaより

セクストゥスが名誉回復の亡命者リストに、夫であるティベリウスの名を載せたため、無事ローマへの帰還を果たせた。
もうお気づきだろう。
リウィアはオクタウィアヌスと出会ったときすでに結婚しており、さらに夫との間に一男をもうけ、なおかつこのとき身重の身だったのだ。

オクタウィアヌスの結婚について

ここでオクタウィアヌスの結婚について、見てみようと思う。

ローマの結婚、とくに上流階級同士は恋愛による結婚は稀で、ほとんどが政略結婚だった。
オクタウィアヌスも例外ではなく、政略結婚を繰り返した。
加えてオクタウィアヌスは騎士階級とはいえ大きな資産があり、さらにカエサルの名前を受け継いでからは政治的な勢力も持つことになる。
そしてなんと言っても彼は容姿端麗、有り体に言えば「美青年」だった。

ちなみにオクタウィアヌスの結婚は、リウィアが初めてではない。
彼は生涯4度の結婚をしており、その最後がリウィアである。
では他の結婚はどのようなものだったのか。

1人目の妻プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクスの娘

前43年の夏、おそらく執政官を務めていたころ、由緒ある貴族の一人、プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクスの娘と結婚した。
理由は簡単だ。
オクタウィアヌスは資産があるといえ、地方出身の騎士階級である。
おそらく名門貴族との結びつきというハクが欲しかったに違いない。

だがこの結婚は数ヶ月で終わりを迎える。
なぜなら次の結婚相手は政治的に有効な手立てだったからだ。

2人目の妻クラウディア

2人目の妻クラウディアは、アントニウスの妻フルウィアの連れ子である。
実の父はプブリウス・クロディウス・プルケル。
あのカエサルの妻ポンペイアに横恋慕した男だ。

クラウディアとの結婚は、ずばりアントニウスとの同盟のために行われた政略結婚。
クラウディアはオクタウィアヌスとの結婚時、おそらく初潮が終わって間もない幼さだったようだ。
そして幼妻クラウディアにオクタウィアヌスは指一本触れることなく、結婚生活を終えることとなる。

3人目の妻スクリボニア

オクタウィアヌスⅤ ―フィリッピ後の協定からペルージア戦争まで―でも触れたように、アントニウスの弟ルキウスとフルウィアとの間で内乱がはじまったことにより、クラウディアとの結婚は解消。
代わってセクストゥスの動きを封じたいオクタウィアヌスは、セクストゥスの義理の叔母であるスクリボニアを妻に迎えた。
彼女との間に初めての子どもである娘、ユリアを授かっている。

だがオクタウィアヌスは、小言の多いスクリボニアとの結婚生活に嫌気が指していた。
そしてなんとユリアが生まれた同日(!)に彼女と離婚したのである。

4人目の妻リウィア・ドルシッラ

4度目にして最後の妻がリウィア・ドルシッラ。
オクタウィアヌスと出会った当時は19歳ぐらいだったらしい。
当時としては珍しく、オクタウィアヌスの猛アタックで実現した恋愛結婚だった。

すでに述べたように、彼女はこのときすでに結婚しており、はじめの夫はティベリウス・クラウディウス・ネロ。
名門貴族であるクラウディウス・ネロ家の出身である。
そして彼との間に長男のティベリウス(後の2代皇帝)、後に生まれることになる次男ドルススを設けている。

夫ティベリウスは、その時々で支持する派閥をコロコロと変え、ペルージア戦争後は流浪の身となっていた。
シチリアのセクストゥス、ギリシアのアントニウスを頼るが、どちらにも冷淡な態度をとられたため、結局スパルタに落ち着き、さらにミセヌム協定でローマへと帰還することができた。

彼らのローマ帰還後にオクタウィアヌスはリウィアを見初めた。
そしてオクタウィアヌスの求婚をリウィアは受け入れ、夫ティベリウスもリウィアとの離婚を承諾したようである。

オクタウィアヌスはたしかに美人のリウィアに熱を上げていたが、彼が何も考えずに感情のまま結婚に踏み切ったわけではない。
オクタウィアヌスにとって、リウィアとの結婚は次のメリットがあった。

  • 名門クラウディウス家とのつながり
  • 共和政派を受け入れたという世間へのアピール
  • 男子を生むことができるリウィアの身体

夫が名門クラウディウス・ネロ家の出身ということはすでに述べた。
またティベリウスは、ペルージア戦争でルキウスと共に共和政派としてオクタウィアヌスに対抗していたときがあった。
そしてこれはおそらくだが、男子を二人も生んでいるというリウィアの身体も考慮にいれたのではないかと思う。

結局リウィアとの間に子どもを設けることができなかったので、このアテは外れることになる。
しかしドルススを生んで3日後に結婚したリウィアとは、生涯を過ごす間柄となったのである。

オクタウィアヌス、再び対立したセクストゥスに大敗する(シチリア戦争第1ラウンド)

ミセヌムの協定は、ローマに一時的な平和しかもたらさなかった。
民衆のあいだでセクストゥスの人気が高まることに、オクタウィアヌスが危機感を抱いたからである。
やはりセクストゥスは倒さねばならない敵だった。

加えてオクタウィアヌスに思いもかけない朗報が舞い込んだ。
セクストゥスの提督の一人で、サルディーニャを支配するメルドルスがオクタウィアヌスに寝返ったのである。
メルドルスはセクストゥスの考えや器量に今後の不安を覚えたらしい。

前38年、オクタウィアヌスは、パルティア遠征の準備で滞在しているギリシアのアントニウスと会談の約束を取り付ける。
「国家再建三人委員会」の期限が迫っていたことと、何よりセクストゥスに対して共闘したい(または邪魔をされたくない)思惑があった。

だがアントニウスは戦争に対して「ノー」の態度をとった。
するとオクタウィアヌスは、アントニウスとの会談をすっぽかすという大胆な行動にでるのである。
アントニウスはブルンディシウムが門を閉ざし、オクタウィアヌスが姿を表さないので、セクストゥスとの戦争に強く反対する手紙を書いて、ギリシアへと戻っていった。

アントニウスの態度をみて、オクタウィアヌスは単独でセクストゥスと事を構えることに決める。
オクタウィアヌスの作戦は、北と西からシチリアの挟み撃ちである。
北のプテオリ(現ナポリ近郊の港町)からはメルドルスとオクタウィアヌスの将軍カルウィシウスが船で出撃。
一方南のタレントゥム(現ターラント)からはオクタウィアヌスが自ら軍を率いる。
またセクストゥスを攻めるため、ガリア総督になったアグリッパに一個軍団を要請していた。

これに対してセクストゥスは、部下の一人にほとんどの艦隊を任せてメルドルスたちを攻撃するよう指示し、自らはメッサナ(現メッシーナ)で、オクタウィアヌス軍を待ち構えた。

北からのメルドルス艦隊とセクストゥス軍はクマエ(現クーマエ)沖で激突。
戦いはセクストゥス側が優位に運ぶが、司令官の部下が戦死したことで決定的な勝敗はつかず。
結局セクストゥス艦隊はメッサナへと戻っていった。

オクタウィアヌスはクマエの状況を知ると、北の艦隊と合流するためにイタリア半島とシチリア島との海峡(現メッシーナ海峡)を抜けようとした。
このオクタウィアヌスの軍に、メッサナのセクストゥスが大軍で攻撃をしかけたのである。

オクタウィアヌスの艦隊はイタリアの海岸に逃亡し、多くの船が座礁したり、敵の攻撃で焼かれてしまう。
さらに運悪く、午後から強風が吹き荒れたため、半分以上の軍船が沈み、残った船もほぼ損傷をまぬがれなかったのである。

カンパニア地方に戻ったオクタウィアヌスは、セクストゥスの対応に方向転換を迫られた。
残った軍船は半分以下であり、多くの軍船は損傷している。
さらにこの敗戦で、ローマではオクタウィアヌスに対する不満が募り、不穏な動きが出るかもしれない。
この状況を鑑みて、オクタウィアヌスは再びアントニウスとレピドゥスの三人委員会に、緊急の会談を要請した。
アントニウスには、マエケナスに仲介を頼むことにする。

だがここで、オクタウィアヌスにまたしても幸運が訪れた。
ガリア総督のアグリッパが、暴動をおさめてガリアから帰還したのである。
アグリッパは、凱旋式の挙行を提案されるほど、ガリアで大きな仕事を成し遂げていた。
アグリッパの帰還は、オクタウィアヌスに自信を回復させることになった。

前37年の春か初夏に、アントニウスは大艦隊を率いてブルンディシウムに現れた。
しかしここでまたしてもオクタウィアヌスの気まぐれが発動し、ブルンディシウムは閉鎖され、自分は姿を表さないという2度めの「すっぽかし」を決めたのである。

さすがにアントニウスも、2度めはタダで引き返すことはしなかった。
彼は大艦隊をタレントゥムに向かわせ、オクタウィアヌスの来訪を求めたのである。
堪忍袋の緒が切れたアントニ数に対して、今度ばかりはマエケナスにも仲介役として打つ手がない。

オクタウィアヌスとアントニウス、一触即発の事態を迎えていた。

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