あなたはガレノスという人物をご存知だろうか。
最後の五賢帝、マルクス・アウレリウス帝の侍医となり、その後長きに渡って何代もの皇帝たちを診察、治療した医者である。
またガレノスの著作は1,500年もの間に渡り、イスラム世界や西欧諸国の医学を支えてきたのだ。
まさに古代一の名医といっても差し支えないだろう。
ではガレノスとは、いったいどのような人物だったのだろうか。
この記事の内容は次のとおりだ。
- ガレノスの生涯
- ガレノス医学のその後
- ガレノスの名言
- ガレノスの主要な著作
ではさっそく古代ローマ一の名医ガレノスを見ていこう。
ガレノスの生涯
ガレノス、小アジアのペルガモンで生まれる
小アジアのペルガモンで、ガレノスは生まれた。
ペルガモンはローマ帝国のアシア属州(現トルコ南西部)にあり、エフェソスと共に繁栄した属州の中心都市だ。
また、ペルガモンの図書館はアレクサンドリアに次ぐ帝国第二の大きさを誇っていた時期もあった。
このことからもわかるように、ペルガモンは学術都市としても有名だったことだろう。
ガレノスの父は裕福な建築家で、温和な性格をしていたようだ。
ガレノスは父のことが大好きだった。
一方、ガレノスは感情的ですぐに手をあげる母のことが大嫌いだったらしい。
後に両親を振り返ってガレノスはこんなコメントを残している。
きわめて幸運なことに、穏やかで洗練され、親切丁寧な父と、怒りっぽくて女性召使いをなぐったり大声でわめきちらしたり父と喧嘩ばかりでソクラテスにとってのクサンチッペのような母がいた。父親の有徳と母親の醜態を共に接していたから、私は父を愛し従おうとして、母を憎んで避けようとした
ローマ帝国人物列伝 | 本村凌二
人の子の親なら、身につまされる思いではないだろうか。
ガレノスはこの父から、終生かわらない自尊心を育まれた。
しかし母親の怒りっぽい性格も受け継いだようで、医学の敵に対して容赦なく(論理や著書で)叩くことがあり、後にローマを離れなければならない要因にもなっている。
人格形成期における親の影響がいかに大きいか、考えさせられる事例だろう。
ガレノス、医学を志す
幼少のガレノスはこの父に、幾何や算術、論理、建築などの手ほどきを受ける。
また、彼が14歳になると、哲学の素養を学校で学ぶことになる。
その他、ガレノスは次の学問にも興味を示した。
- 農業
- 天文学
- 占星術
ここまでくるとなんでもありだと思わなくもないが、これがガレノスの土壌を育てたようだ。
結局17歳のとき、父親の求めに応じて医学の道を志すようになった。
ただし、哲学の研究も続けるという二足のわらじ状態で。
しかしこの経験が、当代のみならず、古代ローマ一の名医を作り出したのだった。
最愛の父の死
ガレノスはその後4年ほど故郷で医学を学んだ。
しかしガレノスが20歳のとき、敬愛してやまなかった最愛の父が亡くなってしまう。
彼にとってこの出来事は、とても大きなことだったに違いない。
父のいない故郷で、大嫌いな母と住むなど、考えられなかっただろう。
ガレノスはついに故郷を旅立つことを決意する。
ガレノスは
で遊学し、研究を重ね技術を磨いていく。
ガレノス、アレクサンドリアで解剖を経験する
中でも影響が大きかったのは、23歳から約5年間遊学したアレクサンドリアでの研究だった。
当時アレクサンドリアは、ローマ帝国の中で唯一医学解剖が許された場所だったのである。
後にガレノスは、こんな言葉を残している
解剖学なしの医者は、設計書なしの建築屋だ
これはガレノスが敬愛した父の職業を引き合いに出しつつも、いかに解剖の知識を重要視していたかがわかる言葉だろう。
なお、アレクサンドリアがどのような都市だったのかは、アレクサンドリア ―世界の知が集まったプトレマイオス朝エジプトの首都―をご覧いただくといいだろう。
ガレノス、剣闘士の治療医になる
さらにガレノスの医学に影響を及ぼしたのが、剣闘士を治療する、治療医としての経験だ。
27歳の頃、ペルガモンへと帰郷したガレノスは、剣闘士の訓練所で外科医を勤めた。
剣闘士がどのような職業で、何をするかは剣闘士― 民衆を熱狂させた古代ローマ帝国のグラディエーターたち―に詳しく書いてあるが、簡単に言えば見世物のための殺し合いだ。
訓練中や試合で、剣闘士は必ずといっていいほど怪我をする。
ガレノスは、大小を問わず数限りない傷を見ただろう。
この経験で、彼は外傷を
体内への窓
と表現するようになった。
ガレノス、ローマに移住する
剣闘士のドクターを 4年間勤め上げたあと、ガレノスはローマへと赴いた。
162年のことである。
その頃ローマでは、医学の学派が色々とあったらしい。
今で言えば派閥がそこかしこにあったと考えればいいだろう。
ガレノスはそのどこにも属さず、患者の治療に専念する。
研究熱心な上に、解剖や剣闘士の臨床の経験が豊富なガレノスのことだ。
その治療は的確だったに違いない。
ガレノスの評判は、またたく間に広がった。
中でもガレノスの哲学上の師を治療したことが決定的だったようだ。
またガレノスの顧客の中には、当時の執政官フラウィウス・ボエティウスもいた。
このような業況では、皇帝の耳に評判が届くのも、時間の問題だったろう。
ガレノス、疫病と医学の敵に命を狙われ、帰郷する
しかしこの頃ガレノスは一時ローマを離れることになる。
理由は2つあった。
- 東方遠征から帰還した兵士が持ち込んだ疫病が、ローマで流行ったため
- ガレノスがやり込めた医学派の敵に命を狙われたため
ローマで流行る疫病を見て、故郷のことが心配になった、というのは、おそらく表向きの理由だった。
その裏では、ガレノスに歯向かう論敵を徹底的にやり込めるという『悪い癖』が出たため、命を狙われることになったのだろう。
彼の名『ガレノス』とはギリシア語で穏やかな人、という意味がある。
診療中や普段の行動は、確かに余裕があり、名前通りの人物だったのだろう。
しかし子供時代に経験した母親の行動は、ガレノスの敵に対して発露してしまった。
三つ子の魂は、やはり生涯にまで影響を及ぼすのである。
ガレノス、ローマ皇帝の侍医になる
168年、故郷に戻っていたガレノスのもとに、皇帝からローマへと戻ってくるよう要請があった。
当時の皇帝はマルクス・アウレリウス・アントニウス。
彼には14人の子供がいたが、男子は2人しかいなく、そのうちの一人、長男が死亡したところだった。
帝位を継げる男子は一人しかいなくなったが、次男であるコンモドゥスは身体が弱かった。
そこでコンモドゥスの健康管理のため、医師の力を必要としたのだ。
後にマルクス・アウレリウス帝の跡を継ぐコンモドゥスについては、コンモドゥス ―実の姉に命を狙われ、側近に政治を任せきりだった若き剣闘士皇帝―に詳しく書いてあるので、ご参考いただければと思う。
マルクス・アウレリウス帝は、ガレノスの顧客であった執政官ボエティウスから評判を聞きつけ、ガレノスに白羽の矢を立てた。
ついにガレノスは、ローマ皇帝の侍医となったのである。
彼はマルクス・アウレリウス帝の死後も帝室の侍医でありつけた。
コンモドゥス、内乱期の皇帝たち、セプミティウス・セウェルス――。
権力の中枢にあっても、おそらく中立の立場を貫いたのだと思う。
患者に向き合う姿勢こそ、粛清されることなく生き残る原因だったように感じられるのだ。
ガレノス、ローマ医学のトップへ
帝室の侍医となったガレノスだが、彼は皇帝やその一家のみ診ていたわけではない。
侍医になる前と同じく、奴隷から貴族まで、ありとあらゆる患者を幅広く診ていた。
また、ガレノスはローマで解剖を行い、医学を学びに来た者たちに、その姿を見せ講義をしたという。
患者に向き合う臨床医として、また後を継ぐ者たちを育てる医学者として、すでにガレノスを凌ぐものはローマにいなくなった。
ガレノスは、名実ともにローマ一の名医となったのである。
ガレノスの死
ガレノスは、自分の学んだことを、膨大な著作としてまとめていたという。
しかし、192年ローマに火災が起こり、その大部分が失われてしまったようだ。
ただし、その後も執筆活動はやめなかったのだろう。
彼の著作は東ローマ帝国に遺り、さらにイスラム教世界へと渡っていくのである。
199年、帝国の侍医を努め、地中海世界で医者としての名声をほしいままにしたガレノスは死んだ。
享年70歳。
だが、彼は87歳まで生き延びたとも言われている。
ガレノスがどこで死んだのかは伝わっていない。
ガレノス医学のその後
ガレノスの死後、ローマは『3世紀の危機』と呼ばれる動乱の時代を迎えることになる。
このような状況では、医学が進歩しなくても不思議ではないだろう。
やがてローマが東西に分かれると、東と西でガレノス医学の歩みが変わっていく。
東ローマ帝国~イスラム世界
東ローマ帝国ではガレノス医学が残り、彼の著作も医学界の正典となっていく。
しかし、エデッサにあったガレノス医学を教える学校が、キリスト教の宗派の違いにより、皇帝の命で閉鎖されてしまう。
そこで学者たちは東ローマ帝国のさらに東へと移動し、サーサーン朝の西方にあるジュンディーシャープールでガレノスの医学を伝えたのである。
時が経ち、サーサーン朝がイスラム世界に飲み込まれると、ガレノスの著作もアラビア語へと訳された。
そして、ガレノス医学はイスラム世界の医学に多大な影響を与えていく。
西欧諸国
一方西ローマ帝国ではゲルマン民族の侵攻が激化し、ついに滅んでしまう。
さらにそのゲルマン民族どうしの争いも続く中で、ガレノスの著作のほとんどが失われてしまった。
また、ガレノスの著作はギリシア語で書かれていたが、西ローマ帝国領や、その後のゲルマン系国家がラテン語圏だったために、ガレノスの著作を理解できなかったのだろう。
西ローマ帝国滅亡以降、長らくガレノス医学はなりを潜めていた。
しかし11世紀になると修道士たちによって、当時のイスラム医学がラテン語に翻訳される。
イスラム世界ではガレノスの説をもとに医学が発達していたので、これは言うならば、ガレノス医学の逆輸入であった。
その後、ガレノス医学が西欧諸国に広まっていく。
サレルノ大学やモンペリエ大学、パドヴァ大学などでもガレノス医学が教えられ、実に1500年代まで西洋の医学にガレノスは君臨したのである。
ガレノスの名言
ガレノスは、自身の著作の中などで医者としての言葉を残している。
その一部を紹介しよう
外傷は体内への窓
ガレノスの生涯でも記載したとおり、ガレノスは剣闘士の治療医を約4年間経験している。
剣闘士たちが日々の生活で創った、無数の傷に対する数多くの症例にあたることができた経験から出た言葉だろう。
追剥と医者とは差別がない。
ただ追剥は山野で、医師はローマの真中で、悪事を働くだけのことだ
ガレノスがローマに赴いたとき、ローマにいた医師たちが様々な学派に別れていた。
しかし、そのどれもがガレノスにしてみれば根拠のない、空理空論だったのだろう。
このような痛烈な批判を行っていたために、彼のまわりは敵が多かったようで、一度ローマから離れる原因にもなったのだ。
解剖学なしの医者は、設計書なしの建築屋だ
建築家を父に持ち、ガレノス自身も学んだ建築を例に出した彼らしい言葉。
身体の中身を知らずにどうして患者を治療できるのか。
ガレノスが解剖から得る知識をいかに重視していたかが分かる言葉だろう。
心は脳に宿る
ギリシャの哲学者アリストテレスはその昔、心は心臓に宿ると考えていた。
しかしガレノスは解剖や実験、医者として患者を診る中で、脳こそが身体を動かし思いを作ると考えた。
この言葉はガレノスの医者としての経験から基づいた結論なのだろう。
ガレノスの著作
ガレノスは、生涯に渡って膨大な数の著作物を遺した。
192年に起こったローマの大火で、大部分が焼失したとはいえ、ガレノスの著作は500を超えるという。
その一部をリストアップしておこう。
- 人体の諸部分の有用性
- 自然の機能について
- 最良の医師はまた哲学者でもあること
- 魂の能力は身体の混合に依存する
- 医学方法論
など。
今回のまとめ
ガレノスについて、もう一度おさらいしよう。
- 建築家の父に、様々な分野の学問の手ほどきを受けたが、最終的に哲学と医学を研究するようになった
- 父の死後各地を遊学し、アレキサンドリアで解剖を経験した
- 剣闘士の治療を勤め、医者としての経験を積み、ローマに赴いた
- ローマで評判を高め、皇帝の侍医になった
- 何代もの皇帝の侍医を勤め、著作物も数多く遺した
- 死後、イスラム、西欧医学の正典となり、1500年もの間医学界を支配した
一つのことに集中せず、さまざまな学問を学んで大を成したガレノス。
解剖を重視し、病理の徹底的な原因を突き止めようとする彼の眼差しは、私達に大切なものを教えてくれようとしているのかもしれない。