ネロ ―母からの自立を願い、芸術と娯楽を愛した民衆派皇帝―

死後も愛され続けた民衆派皇帝ネロ

ネロの対外政策

さて、ネロがイタリア本国で母からの自立に明け暮れていた頃、ローマ帝国周辺部はどのような状態だったのだろうか。母殺しを行ったちょうどその頃、帝国では西と東の端で問題が起こっていたのだ。それが

  • 属州ブリタンニアの反乱
  • アルメニア・パルティア問題

の2つの出来事だった。

属州ブリタンニアでの反乱

ブーディカの像
娘二人を戦車に乗せたブーディカ
Paul Walter, CC BY 2.0  , ウィキメディア・コモンズ経由で

ブリタンニア(現イギリス)は、先帝クラウディウスが42年に征服戦争を始めて島の南部に拠点を築いた後、徐々に勢力を北方へと拡大していた。基本的にはローマと友好関係にある部族とは同盟を結び、それ以外の部族は征服していく、というやり方だったようだ。

さて、ローマと友好関係を結ぶ部族の中に、イケニ族がいた。ところがこの部族の王の死後、男性のみの継承しか認めないローマ側が、娘しかいなかった王の領土を半ば強引に帝国へと編入した。それどころか、部族の貴族たちを奴隷のように扱い、王の娘たちをローマ人が強姦したという。

あい次ぐ徴税人の取り立てに、高利貸しが横行することで苦しんでいた現地の人は、ついに堪忍袋の尾が切れた。彼らは残された王の妻ブーディカを反乱の旗印にして立ち上がる。折しも属州総督スエトニウス(『ローマ皇帝伝』の作者とは別人)がブリテン島西部に浮かぶ島、ドルイド僧の拠点モナ島を攻めている最中だった。

反乱軍はまず、当時の属州都カムロドゥヌムを攻める。ここはローマの退役兵たちが入植した町だったからだ。ここを2日で落とした後、彼らは属州経済の拠点、ロンディニウムを攻めたのである。この都市も含め、反乱軍に殺されたローマ人や親ローマの人々は7万人とも8万人とも言われている。

しかし反乱軍の快進撃もここまでだった。モナ島から引き返してきたスエトニウスは、反乱軍に比べて数で劣るため、街道がちょうど狭くなる場所を戦場に選び、待ち受けた。反乱軍はこのとき10万とも20万とも言われているが、おそらく誇張だろう。

貧弱な装備しか持たない彼らと、ローマ兵では圧倒的に質が違う。スエトニウスの狙い通り、この戦いでローマ軍は圧勝。ローマ側の犠牲者が400人程度だったのに対し、タキトゥスによれば反乱軍の犠牲者は8万を数えたようだ。反乱軍を率いた女王ブーディカは、毒をあおって自殺したという。

話は逸れるが、この女王ブーディカをテーマにした曲『ボーディセア』を、ケルト音楽家のエンヤが創作しているので、ぜひ聴いてみてほしい。

エンヤ作 ボーディセア

ブーディカの反乱と呼ばれた騒乱後、ネロは被害を受けた属州ブリタンニアの兵をライン川方面軍から補充した。そして解放奴隷を視察に遣わせたあと、締め付けが厳しかったスエトニウスを解任し、代わりに穏健なペトロニウスを総督としたである。

以後ローマに統治されている400年近くもの間、ブリタンニアでは大きな反乱は起きなかった。ネロの戦後処理は的確だったといえるだろう。

アルメニア・パルティア問題

コルブロ登場

一方東方アルメニア・パルティアの問題は、ネロの皇帝即位当初、いや即位前から火種がくすぶっていた。もともとパルティアの北にあるアルメニアとは、アウグストゥス以来の伝統として親ローマ派の王を擁立し、同盟関係を結んでいた。

54年、新皇帝即位のスキをついての行動か、アルメニアにパルティアが侵攻する。パルティア王について間もないヴォロガセスが、自分の弟ティリダテスをアルメニア王位につけようとしてのことだった。これに対し、ローマもすぐさま行動を起こす。ゲルマニアで名高かった将軍コルブロを、帝国東方に派遣したのだ。

コルブロの銅像
コルブロ
Basvb, CC BY-SA 3.0  , ウィキメディア・コモンズ経由で

ただし彼はガラティア・カッパドキア2属州の総督に任命されたのであり、東方のトップでもあるシリア総督クァドラトスが東方軍の指揮権を握っていたため、全軍を使えるわけではなかった。彼のもとに集まったのは、シリア属州から派遣された2軍団にドナウ方面軍から分遣された1軍団、そして補助軍と属州からの徴集兵、同盟諸国軍合わせて3万4千程度。

この兵数でアルメニア全土や、ましてやパルティア軍と正面きって戦うことなど考えられなかった。さらに戦場の経験が少なく、豊かな東方に勤務していたローマ兵たちは、そのままの状態では使い物にならなかったのである。

ローマにとって幸いなことに、パルティア内部で反乱があり、これ以上軍事行動を起こす余力がなかった。そこでコルブロは小康状態を利用し、徹底的に軍団兵を鍛え直す。そして58年には精鋭部隊へと変貌していたのだった。

ローマ側(といってもコルブロだが)からの打診をパルティアが断ったことで、コルブロはアルメニア侵攻を決意する。そしてまたたく間に首都アルタクサタ、第二の都市ティグラノケルタを攻略する。これでアルメニアから一時はパルティアの影響が一掃された。

この報を聞いたネロはローマの伝統に則り、アルメニア王には親ローマの王ティグラネスを就ける。またコルブロ麾下の2,200をアルメニアの防衛に当てよと命令した。またコルブロは、クァドラトスの死によって空席になったシリア総督に就任する。しかしこのままパルティアが引き下がるはずがなかった。

パルティア反撃

アルメニア周辺地図
アルメニア周辺の様子
文庫版ローマ人の物語20 悪名高き皇帝たち  の地図を参考に作成

61年、国内の問題を片付けたパルティアは王ヴォロガセスは、弟ティリダテスを王位に復帰させるため、再びアルメニアへと目を向ける。一方ネロもコルブロの意見を聞き入れ、アルメニア方面への専任将軍を派遣した。

62年はじめに派遣された将軍ペトゥスは、ドナウ方面軍を加えた3万でアルメニアへと侵攻する。一方コルブロはパルティアが西方へと軍を向けることを想定し、シリアの守りを固めた。この様子を見たパルティアは、シリアへの攻撃を諦めアルメニアへと軍を進める。そして楽観していたペトゥスめがけて襲いかかったのである。

軍を二分していたことに加えて、食料補給線の確保もおろそかにしていたペトゥスは、パルティア軍に包囲されて窮地に陥った。彼はなりふり構わずコルブロへ救援を要請する。ペトゥスからの報告を受けたコルブロは、シリア防衛に一部の兵を残し、軍を率いて救援を急いだ。しかしもう少しで到着というタイミングで、ペトゥスは降伏してしまったのだった。

パルティア軍はローマ兵を解放したが、条件としてコルブロが築かせたユーフラテス川東岸、パルティア領内の要塞を撤去を要求する。一方のコルブロも、アルメニアからパルティア軍の完全撤退を希望。これで両者は一時的にしろ引き上げたのである。

決着

ローマ軍敗北の報を聞き、またパルティア特使と謁見したネロはついに決断する。コルブロをシリア総督から外し、対アルメニア・パルティア軍最高司令官に任命すると。これはコルブロに戦争の終結はもとより、外交の決定権を与えることも意味していた。

シリアの4個軍団に各方面から集めた軍や補助兵、さらに同盟諸国軍の数を合わせ、5万の兵を率いるコルブロの動きは素早かった。彼は敗北して自信を失った兵たちを後方に残し、シリア防衛のための兵を置いてアルメニアへと向かう。コルブロの行動を見た弟ティリダテスとパルティア王ヴォロガセスは、焦ったに違いない。

パルティア王とその弟は、急いでコルブロに交渉の準備があることを伝えた。コルブロもそれに応じる。

パルティア側の主張は次のとおりだ。ティリダテスにアルメニア王を認めてくれるなら、ローマ軍の見守るなか皇帝の彫像の前でアルメニアの王冠をいただく。しかしティリダテスは神官なので、船旅は勘弁してほしい、と。

だが結局直接会談で、コルブロはネロ本人の前での戴冠も実現させてしまうのだ。船旅の件は了解した、だったら船ではなく陸路で行けばいいだろう、と。この頃になると、敵方にも勇名が轟いていたコルブロに対し、ティリダテスも素直に従う気になっていたのである。

結局ティリダテスは10ヶ月かけてローマへ向かい、ネロの前で戴冠を行った。親ローマ派の人間がアルメニア王位につき、パルティア包囲網を形成するのではなく、パルティアに近い人間がローマ皇帝の承認を経て、王位につくという、アウグストゥス以来の外交政策を180度転換する方針が、ネロの時代に行われたのである。


上記2つの問題に対応したネロは、のちの世代に災いの種を残さなかったという点で評価できるだろう。しかしこれらの対応にはある共通点があった。それはネロが直接現地へ行って対応せず、もっぱら配下の将軍たちに任せた、ということだ。

もちろん遠方にいても有能な将軍たちの能力を見極め使いこなすことは、最高責任者として必要な能力だ。ただし皇帝はローマ軍の最高司令官(インペラトール)なのである。そして軍の支持こそが皇帝の権力を支えていたと言っても過言ではない。

一連の対外問題で行ったネロの対応は、この後ネロの統治に大きな影を落とすことになるが、その前に母を排除した後のネロの行動を見ていこう。

脱・アグリッピナ

ブッルスの死とセネカ引退

母の殺害から3年たった62年、これまで影に日向に彼の行動を見守ってきた、お目付け役の近衛隊長官ブッルスが亡くなった。ネロが殺害したとも自殺とも言われているが、おそらくは病死だろう。

ブッルスの死は、同じく治世スタート当初から支えてきたセネカにも影響を与えた。セネカは自立しつつあるネロに、政界からの引退を申し出たのである。

ネロはセネカの申し出を受け入れた。そして代わりに側近となったのが近衛隊長官ティゲリヌス。ネロにとってブッルスとセネカがブレーキであれば、ティゲリヌスはアクセルだった。それもネロという車のハンドルも持たず、アクセルだけを踏むような人物である。

事実、この頃から自粛していた皇帝裁判が再開され、皇帝に逆らったとする大逆罪の数が増加している。

さてブッルスとセネカは、ネロのために母アグリッピナが用意したいわば「道」だった。ネロは二人を失ったことで自分自身の道を作っていくことになる。彼はそれを誇らしく思っていたことだろう。この頃から母が用意したものを排除する、ネロの「脱・アグリッピナ」が始まったのだ。

母が用意した次なる排除目標は、妻オクタウィアだった。

妻オクタウィアの殺害

62年、ネロはオクタウィアとの離婚を実行した。もちろん狡猾なポッパエア・サビナにそそのかされたことも、原因の一つだろう。しかし根本的な理由は、貞淑なオクタウィアと目立ちたがり屋のネロの相性が悪かったのだと感じる。また母殺しのほとぼりもようやく冷め、皇帝としての地位が安定してきたことも、オクタウィアとの離縁を加速させた。

ただし彼女は皇族の娘である。またネロが皇帝として現在の地位にあるのは、オクタウィアが皇帝の血を引いており、その結婚相手、つまり婿という後継者となったからだ。

オクタウィアとの離縁だけで、ポッパエアとの結婚をローマ市民が納得しないことは、ネロ自身よくわかっていた。そこでネロは、不倫を理由にオクタウィアに姦通罪の罪を着せ、カンパニア、ついでパンダテリア島(現ヴェントテーネ島)に幽閉した。

さらに6月9日、オクタウィアの手足の血管を開いて殺害したのである。オクタウィアの死を確かめたかったポッパエアのために、彼女の首はローマ市へ送られたという。

ポッパエア・サビナとの結婚

オクタウィアという障壁が無くなったことで、ネロはポッパエア・サビナと正式に結婚する。62年の夏だった。

大富豪の出らしく、ポッパエアは皇后になっても金遣いが荒かった。彼女の乗る皇后用の馬車を牽かせるラバには、金メッキの靴を履かせていた。また彼女は美容に関して金に糸目をつけなかった。古代にインスタグラムがあったなら、間違いなく彼女は美容系のインフルエンサーとして活躍していただろう。

彼女は出産したてのロバを、常時500頭引き連れていた。一体目的は何か。なんとこのロバたちの乳をしぼり、ミルク風呂に浸かることだった。また彼女はハチミツや小麦などを練り合わせた美容パックも行った。美白のためならと、外出時には白い肌をまもるためマスクもしていたという。

そんなポッパエアとネロの間に、63年1月、待望の子どもが生まれた。女児だった。しかしこの子はわずか3ヶ月ほどで死んでしまう。出生死亡数も幼児死亡率も高い時代、子供の死は避けられない出来事だったのだ。

芸術皇帝ネロ

青年祭の開催

ところでネロには子供の頃からの憧れがあった。それは次の2つ。

  • 人々の前で竪琴を弾きながら歌を披露すること
  • 4頭立て戦車の騎手になる、つまり戦車競争に出場すること

『パンとサーカス』で有名な古代ローマの娯楽の一つ、戦車競争については古代ローマの戦車競走 ―興奮と熱狂に包まれた、昔のF1レース―で詳しく描いているので、ぜひ読んでいただきたい。

ただし戦車競走は素人がやるには危険だし、いきなり見知らぬ人前で披露するにはハードルが高すぎた。そこでネロは知り合いを集めて芸事を披露できる祭典を行うことにした。それが『青年祭』と呼ばれる祭りである。青年祭は皇帝の庭園や宮殿で開催された。

ネロはここで出席者に芸を披露してもらうことにした。披露する芸がないものには、習いに行ってまで芸を習得させたようだ。まるで年末の余興のために、レッスン教室に通うサラリーマンを想像させる。80歳の老婦人ですら、パントマイム芸を披露したのだ。いつの時代も、上司や上役の相手は大変らしい。

そして青年祭クライマックスで、ついにネロが登場する。彼は身内とはいえ人前で竪琴を弾き、歌を歌ってみせた。しかし声量不足のうえ言葉も不明瞭。素人が芸を披露するので当然といえば当然なのだが、会場は大爆笑が巻き起こった。それでもネロの声援を送るためだけに、騎士身分出身者で組織したサクラ軍団『アウグストゥス喝采団』のおかげで、なんとか演奏をやりきることができたのだった。

ネロ祭の創設

青年祭で『貴重な経験』を得たネロは、自分のあこがれを実現するため新たなことを思いついた。古代ギリシアでは4年に一度開催されるオリンピアやピュティア祭(いわゆる古代オリンピックに相当する競技祭)に対抗して、5年に一度開催される『ネロ祭』を創設した。

現代に例えるなら、単独競技として人気のあったサッカーの試合だけで頂点を争うワールドカップを、オリンピックの合間に創設したのと似ているだろう。

ネロ祭の競技内容は体を動かす「体育」「戦車」の他に、芸を争う「音楽」の3種の競技があった。しかしネロ祭は皇帝による皇帝のために創られた祭りである。ネロは出場しなかったにも関わらず、竪琴や詩、弁論の3部門で優勝してしまったのだ。

完全な出来レースに、人々はどう感じていたのか、記録には残っていない。

ネロと剣闘士

ここで少し寄り道をして、ローマの娯楽の一つだった剣闘士とネロの関係を見ておこう。

ネロは大衆の娯楽として人気の高かった剣闘士の試合も開催したが、特筆する内容として、55年、63年に女性剣闘士を戦わせる試合を行った。またプテオリ(ナポリ近郊の港町)で開催された試合では、エチオピア女性の剣闘士同士を戦わせたようだ。

しかし女性を剣闘士として戦わせるのは当時あまり快く思われていなかったらしい。119年、ハドリアヌスは元老院議員身分や騎士身分の娘、孫、ひ孫の3代に渡って女性が剣闘士の職に応募することを固く禁止する法案を作っている。

もう一つ剣闘士絡みの話をすると、59年に開催されたポンペイの剣闘士試合で、地元ポンペイと隣町ヌケリアとの乱闘騒ぎが起きている。おそらく熱烈なサポーター同時のいざこざだったようだ。

ネロはこの騒ぎの処分として、今後10年間ポンペイで一切の剣闘士試合を禁じた。しかし後に后妃となるポッパエアの計らいにより、試合禁止処分は解かれたようである。

大衆デビュー

64年、これまで知らない人の前で歌うことのなかったネロは、ついに一般人の前で芸を披露することを決意する。ただしローマ市で披露する勇気はなかったので、わざわざネアポリス(現ナポリ)に出向いて舞台デビューを果たしたのだ。

これで自信をつけたネロは、65年に巡ってきた「2度目」のネロ祭で、ローマ市でのデビューまで果たしてしまう。どうせ出来レースなのだからと、元老院は事前に「詩作」と「弁論」の2種目の優勝を用意しておいたが、ネロはこれらの栄冠を拒否。自らステージに立って詩の披露をしてみせたのである。

結果、ネロは観客から拍手喝采を浴びる。それどころか、他の芸まで見せるように観客は求めたという。しかしこれは茶番だった。どういうことか。

ネロは事前に兵士たちに指示を出しておいたのだ。拍手をしていない客にはムチを打つように。またつまらなさそうな顔をしたり居眠りをする客、わざとネロの芸を見に来なかった客のチェックを行う係を用意し、彼らに罰を科したのだった。

芸術の武者修行に、ギリシアへ

そして66年9月にはローマを飛び出し、ネロはついに競技祭と芸の本場ギリシアへ、芸術の武者修行の旅に出たのである。日本の芸能界に満足できない俳優が、本場ハリウッドやブロードウェイで演技の腕試しをするよなものだろうか。はたまたJリーグよりもレベルの高いリーグを目指し、ヨーロッパへと向かうようなものか。しかしネロは一市民ではなく、皇帝という立場だった。

67年、ネロはギリシアで行われている各種競技会に参加する。ただしこのやり方が少々強引だった。

  • 数年前に終わった祭典を、ネロ出場のためやり直させる
  • オリュンピア競技祭、ネメア競技祭は本来行われる年でもないのに、開催年度を強引に早めさせられた
  • オリュンピア祭にはない音楽競技を新設した

そしてどの競技祭でも、結局はネロの出来レースだったのだ。それはネロ憧れの10頭立て戦車競技に出場したとき、如実に表れている。彼は戦車から途中で振り落とされてしまったにもかかわらず、なんとこのレースで優勝したのだ!

また彼は自分の出場する競技会での、観客の態度にも注文をつけた。ネロが歌っている間は、どれだけ退屈でつまらなくても劇場を出ることを許されなかった。そのため客席で出産(!)した女性が何人もいたり、閉じられ見張りのいる入り口ではなく壁によじ登って場外に飛び降りるもの、さらには死んだふりをしてお棺で運び出されるものもいたという。ネロの劇より客のほうがよっぽど喜劇に向いていると思うのだが。

またネロの劇で被害を被った将軍がいる。それがウェスパシアヌス。ネロの死後、四皇帝が次々と擁立される時代を勝ち抜き、最終的にフラウィウス朝を創立した人物である。

ウェスパシアヌスはネロの演技中にあくびをしたため、側近の席から外されてしまったらしい。

さて、ギリシアへわざわざ赴いたネロの「成果」はいかがなものだったのか。他の競技にも参加したネロは、最終的に1,808個もの栄冠を手にしたようである。その全てはおそらく競技大会責任者が「気を利かした」ものだろう。


しかしネロが自分の夢を叶えた67年には、彼の統治そのものが瓦解する寸前だった。一体ネロに何があったのか。一旦時間を戻して彼に迫りくる最終章までの道のりを追っていくことにしよう。

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