ユリウス・カエサルⅥ ―イタリア制覇からポンペイウスとの決戦まで―

ローマの礎を築いた男 ユリウス・カエサル

元老院最終勧告を無視し、ルビコン川を渡ったカエサル。
国法を犯して内乱を始める以上、一刻も早く収める必要があった。

では早期終結に一番いい方法はなにか。
もちろん敵の総大将がイタリア本国にいるうちに、叩くことである。

カエサル、地中海世界全域を敵に回す

イタリア半島制覇

兵は神速を尊(たっと)ぶ

とは、カエサルの時代から約400年前にいた中国の兵法家、孫氏の言葉だ。
もちろんこの言葉を知らないカエサルだが、ガリア戦争以来、彼は戦いにおいて常にイニシアチブを取り続けることを心がけた。
そしてルビコン川を渡ったあとも、カエサルは電光石火の速さでイタリア半島を制圧していく。

カエサルは、自らが起こした内乱の解決を、次のように狙っていた。

  • ポンペイウスとの交渉により内乱を終結し、2頭体制にもっていく
  • 上記が失敗に終わった場合、イタリア半島内でポンペイウスと決戦する

実際、カエサルはイタリア制圧中にも、ポンペイウスと手紙のやり取りを交わしている。
だが、カエサルの会談提案に、ポンペイウスは拒否。
ポンペイウスはイタリアでのカエサルとの決戦を避け、ギリシアへと渡ったのである。

ではなぜポンペイウスはイタリア決戦をさけ、ギリシアへと逃れたのか。
理由は次の通り。

  • カエサルの行動の速さにひるんだため
  • 兵力では勝っていても、戦争から遠ざかっている状態では勝てないと判断したため
  • ギリシアはポンペイウスの影響力が強いため、体制を立て直すにはちょうどよいため

アルプスを越えてガリア戦争へでも述べたとおり、この当時のポンペイウスの影響が及ぶ範囲は、イタリア半島とガリア地方を除く、地中海をぐるりと取り囲んだすべての地域である。
戦争を行う資金力も、兵士の提供力も、カエサルより圧倒的に大きかったのだ。
ポンペイウスは、総合力でカエサルに戦いを挑むつもりだったのである。

カエサルは、これを嫌い短期決戦へと持ち込む気だったのだが、ポンペイウスにギリシア渡航を許した以上、別の方法を考える必要に迫られる。

そこでカエサルはまず、イタリアの食料確保のため、部下のクリオにシチリア島、およびサルディーニャ島の制圧を指示。
イタリア防衛は、おなじく部下のアントニウスに任せると、カエサル自らはスペインへと向かった。

ヒスパニア(スペイン)属州総督であるポンペイウスの部下が、ポンペイウス代理としてスペインを治めるため、7個軍団の戦力を持っていたからである。
ポンペイウスとの決戦を前に、後方の安全を確保するため、ぜひとも叩いておかなければならなかった。

ヒスパニアの制圧

カエサルはヒスパニアへと急ぎたかったが、ここで予想外の事態が発生する。
自治都市のマッシリア(現マルセイユ)が、カエサルに対して戦いを挑んできたのである。

強力な港湾都市の反抗に、カエサルは1ヶ月も足止めを食らってしまう。
しかしカエサルは、先を急ぐ必要があった。
なぜなら、解決に時間をかければかけるほど、ポンペイウスが体制を立て直し、下手をすれば東から挟撃される恐れがあるのだ。

カエサルはマッシリアに対し、海と陸双方からの包囲網を敷くと、マッシリア攻略をトレボニウス(陸)、デキムス・ブルータス(海)に任せ、自らはスペインへと向かった。


そのスペインでは、アフラニウスとペトレイウス率いる7個軍団に、現地兵をあわせた78,000が、ピレネー山脈の麓、イレルダで待ち構えていた。
後方にはヴァッロ率いる2個軍団が控えている。
一方カエサルは、軍団に対して新しい兵士を補充しない方法をとっていたので、6個軍団27,000(通常なら36,000)にゲルマン騎兵をあわせた30,000しかいなかった。

イレルダの戦いと呼ばれる両軍の戦いは、季節外れの大雨で、カエサル軍が一時窮地に立たされてしまう。
しかしカエサルの工兵作戦でうまく窮地を切り抜けると、カエサルは包囲殲滅ができる状態にありながらも辛抱強く待ち、最後は両軍ほとんど犠牲者を出すことなく、スペインの軍を解体することに成功したのであった。

イレルダの戦いのあとは、カエサルお得意の電光石火でスペインを制圧、ヴァッロの軍も降伏、解体すると包囲戦が続くマッシリアに向かっう。
そしてマッシリアでも、2度の戦いに勝利した部下たちの活躍により、間もなく陥落。
こうしてわずか半年で、カエサルはイタリア以西の攻略を完了したのである。

カエサル、ポンペイウスと雌雄を決する

カエサルの誤算

いよいよポンペイウスのいるギリシアへと渡ろうとしているカエサルに、喜ばしくないことが3つ起こった。
その3つとは、次のとおりである。

  1. 第九軍団によるストライキ
  2. 北アフリカに派遣した3.5個軍団の壊滅
  3. アドリア海での制海権奪取の失敗

1. 第九軍団によるストライキ

第九軍団といえば、カエサルがガリア戦争初期から付き従ってきた、ベテランの軍団である。
その彼らがカエサルに対し、要求を飲まなければ従軍を拒否すると伝えてきたのである。
彼らの要求は、ズバリ「給料アップ」だった。

だがこの要求に、カエサルは断固として否と答える。
それどころか、彼らを「兵の職務を全うしていない」とし、「十分の一刑」に処すと逆に言い放ったのだ。

十分の一刑

古代ローマ軍内での刑罰の一つ。
刑罰対象の集団に対して10人ずつに分け、その中から無作為に一人を選ぶと、他の9人が棍棒や石で撲殺する。
また、撲殺を逃れた9人に対して食料配給を小麦から大麦に変えられた。
大麦とは奴隷の食事だったので、兵はプライドを大いに傷つけられたという。

彼らはカエサルの言い分に対してすっかり怖気づいた。
そこにカエサルの幕僚たちが、刑の執行を許してほしいと嘆願する。

実は「十分の一刑」も幕僚たちの嘆願も、第九軍団のストライキを解決するためにうった、カエサルの芝居だったのである。
いまやすっかり腰の引けてしまった彼らに対し、カエサルは次の言葉を伝えた。

刑の執行は延期する。諸君の顔を次の集結地ブルンディシウムで見出すかどうかは諸君しだいである

第九軍団の中に、ブルンディシウム(現ブリンディシ)で顔を見ないものは一人もいなかった。

2. 北アフリカに派遣した3.5個軍団の壊滅

ヒスパニアを制覇したからといって、地中海の制海権まで手に入れたわけではない。
地中海の西側を制するには、北アフリカを抑える必要があった。

この任務に、カエサルは食料問題解決のために、シチリアとサルディーニャ両島を抑えたクリオを派遣した。
クリオはもともと元老院派の人間であったが、ガリア戦争最終年度のローマでの政局をカエサルの有利へと導くため、カエサルが寝返らせた人物であった。
当時はカエサルから、アントニウスよりも重用されていたのである。

ただしクリオは、才能は豊かではあったが、次の点が不足していた。

  • 戦争指揮の経験
  • 若さゆえの自律心

また、護民官時代に提出していた、ヌミディア王国への税負担を増加する法案があったことも災いした。
ヌミディアは、アフリカの西にある、かつてポエニ戦争時にスキピオ・アフリカヌスと組んだマシニッサがいた王国である。
現ヌミディア王のユパは、クリオが出した法案について知っており、クリオを快く思っていなかった。

クリオは援軍に駆けつけた、このヌミディア王の罠に、簡単に引っかかってしまった。
そしてクリオが率いた3.5個軍団は、ヌミディア軍に完膚なきまでに叩きのめされたのである。
クリオはこの戦いで戦死し、陣営に残されていた5個大隊のみが北アフリカから逃れることができるという、カエサルにとっては初の大打撃となった。

3. アドリア海での制海権奪取の失敗

ギリシアとイタリアの間にはアドリア海がある。
補給路を確保して攻め込みたいカエサルは、ギリシアにいるポンペイウスと戦うために、ぜひともアドリア海の制海権を手に入れておきたかった。

そこでカエサルはアントニウスの弟であるガイウス・アントニウスと、キケロの娘婿ドラベッラに40隻をあたえ、ポンペイウス側の船を叩くよう命じていた。
しかしポンペイウス側は船の多さに加えて、経験値の高い指揮官が揃っていたため、失敗に終わってしまったのである。

カエサルは、北アフリカ戦線とアドリア海の制海権を失ったまま、ポンペイウスとの決戦に挑まなければならなくなってしまったのであった。

ドゥラキウム攻防戦

ヒスパニア制覇後、ローマに立ち寄って独裁官となったカエサルは、経済対策をしたあと翌年の執政官に当選し、独裁官を辞任する。
これでカエサルは、「元老院最終勧告」を受けた『国賊』ではなく、反政府軍を打倒する『正規軍』へと変わったのである。
だが、兵の数、経済力では遥かに凌ぐ臨時政府と『反政府軍』が、まだギリシアの地に存在していた。

カエサルはローマをたつと、ブリンティシウムに到着。
ここから2回に分けて、兵を対岸のギリシアへと送り、ポンペイウスの待つドゥラキウムへと向かった。
しかし、アドリア海の制海権を握るポンペイウス側の妨害にあい、2手に別れた兵は合流できたものの、船をすべて失ってしまう。
これでカエサルは、イタリアからの補給もままならない状態で、ポンペイウスとの戦いに望まなければならなくなった。

そのポンペイウスは、9個軍団54,000の重奏歩兵に6,000の騎兵を持っていた。
ドゥラキウムの町には食料も豊富に備えている。
また、カエサルの娘ユリアと死別後に再婚した妻の父、メテルス・スキピオがシリアから2個軍団を従えて合流する気配を見せていた。

一方のカエサルは10個軍団、といっても精鋭だけをより揃えての軍団編成で、1軍団2,500人程度しかいないため、25,000の重装歩兵に、騎兵1,300。
さらに、カエサルには長期戦を戦う充分な食料も物資も不足している。
カエサルに選択肢はなかった。

カエサルはドゥラキウム郊外でポンペイウスに戦いを挑む。
メテルス・スキピオ軍の合流阻止に、5個大隊(1,200人程度)と少数の騎兵を派遣すると、カエサルお得意の戦法で、ポンペイウスを砦と柵で包囲する方法に出た。
一方ポンペイウスもカエサル包囲網の内側に、同じく自陣を囲む砦と柵を築き上げる。
アレシアならこの状態で兵糧切れを待てばよかったカエサルだが、ポンペイウスには、海から船で兵糧の支援があったのである。

さらにポンペイウスはカエサルからの脱走兵により、カエサル包囲網の弱点を聞き出した。
この情報を活用し、ポンペイウスはカエサル包囲網を一気に攻めたのである。
カエサルはポンペイウスの攻撃に耐えきれず撤退するしかなかった。

決戦、ファルサルス

カエサルはドゥラキウムで1,200の損害を出していた。
ポンペイウスにもそれなりの打撃を与えたのだが、25,000中の1,200はやはり痛かった。

カエサルはここで戦略を変更する。
ポンペイウスを戦場に引きずりだして会戦にもちこみ、一気に決着をつけるつもりでいた。
その餌に、ポンペイウスの舅、メテルス・スキピオを選んだ。

カエサルは撤退しながら、簡単に言えば逃げるフリをして、メテルス・スキピオを足止めしているドミティウスとの合流を果たした。
このままカエサル軍を放置すると、メテルス・スキピオ軍を襲われかねないポンペイウスは、ドゥラキウムを出てカエサルを追うことにする。

カエサルは合流を果たしたあと、なおもギリシア中央部へと向かった。
狙いはポンペイウスを、海軍が支援できる沿岸部からなるべく引き離すこと。
一方ポンペイウスも、メテルス・スキピオと合流をしたあとも、カエサルを追った。
そして両軍は、ファルサルスの地で対峙したのである。

両軍の戦力は次の通り。

ポンペイウス軍

重装歩兵 47,000
騎兵 7,000

カエサル軍

重装歩兵 22,000
騎兵 1,000

そしてポンペイウスの騎兵を率いるのは、ガリア戦争時にカエサルのもとで首席副将を務めたラビエヌスである。

この両軍、将棋で例えると、こうなるだろう。

飛車2枚に角2枚の大駒(騎兵+ラビエヌス)を持ち、大量の歩と香車をもつポンペイウス。
数は少ないが歩と香車を持ち、金、銀、桂(ガリア戦争以来のベテラン兵)の数ではポンペイウス軍を上回るカエサル。

ポンペイウスの戦術のキモは、なんといってもラビエヌス率いる騎兵の活用だった。
そしてカエサルの戦術のキモは、そのラビエヌスを止めること。
果たして結果はどうだったか。

カエサルは、自身の戦いの方法を知り尽くしているラビエヌスすら考えも及ばなかった方法で、騎兵の進撃を止めたのだ。
すなわち、騎兵同士の戦いを避けた後、敵兵から巧妙に隠したベテラン兵(金将、銀将たち)に、長い槍をもたせ、騎兵の突撃を食い止めたのである。
それどころか、食い止めた後はジリジリと囲いを狭め、背後から突撃を避けた自軍の騎兵を回り込ませたのだ。

本来ならカエサル軍の後背をつき、包囲殲滅を狙ったラビエヌスだが、こうなってはなす術がなかった。
囲いを逃れた騎兵が、散りじりに逃げるだけである。
ポンペイウスは、騎兵の突撃が不発と見るや、早々に退場する始末。

逆に歩兵同士では、一日の長があるカエサル軍が押していた。
そこに、囲い込みと騎兵の撃退に成功したカエサルの騎兵、およびベテラン兵が側面と背後から襲いかかる。

またカエサルは、余力として残したベテラン歩兵たちに、最初に敵兵とあたった歩兵たちと交代させた。
交代した歩兵は息を整えたあと、さらにポンペイウスの歩兵の側面と背後に回り込む。

ここに至ってポンペイウス軍は総くずれとなり、敵歩兵は次々と潰走したのである。
敵将ポンペイウスは戻っていた陣営から脱出し、戦場から脱出。
それに従ったのは、メテルス・スキピオ以下30騎程度であったという。
彼らはギリシアからも脱出し、エジプトへと向かった。

また、無事ファルサルスから逃げ延びたラビエヌスと、ポンペイウスの長男グネウス、ドゥラキウムで留守をしていた小カトーらは、ポンペイウスと再起をはかるために、北アフリカへ逃れた。

こうしてファルサルスの戦いは、

ポンペイウス軍

戦死者 6,000
捕虜 24,000

カエサル軍

戦死者 200

となり、カエサル軍の圧勝で幕を閉じたのである。

余談ではあるが、ポンペイウスの捕虜の中に、カエサルの愛人セルウィリアの子もいた。
セルウィリアからの願いを聞き届け、全軍に至るまでブルータス助命を行き渡らせていた結果、生け捕りにできたのである。
彼の名はマルクス・ブルータス。
後年、カエサル暗殺の首謀者となる人物であった。

ポンペイウスの死

カエサルは、ローマにいる自派の執政官に、カエサルの執政官任期切れに伴い、自分を独裁官へ任命するよう手紙をだした。
またアントニウスを騎士団長(独裁官補佐官)に指定してアントニウスをローマへと送り出した。
アントニウスには、カエサル不在時のローマの内政を任せたのである。

そしてカエサル自身は、小アジアの西側を第六軍団と少数の騎兵だけ従えて、ポンペイウスのあとを追った。
ここでポンペイウスを逃しては、内乱が長引く恐れがあったからだ。

そのポンペイウスだが、当初はシリアへと逃れ、再起をはかるつもりでいたようである。
しかし、ファルサルスの戦い以降、立ち寄る土地全てに門を閉ざされ、また陸路で追撃するカエサルが、ポンペイウスの「クリエンテス」である領域をすべて「カエサル派」へとひっくり返していることにすっかり意気消沈し、シリア行きを諦めたのだ。

そこで、かつてカエサルの利益誘導によりクリエンテスとなったエジプトへ行くと決める。
エジプトへの使者を遣わし、客人として受け入れてくれるよう要請した手紙をもたせた。

しかしそのエジプトは、クリエンテス関係を結んだプトレマイオス12世がすでに他界し、代わりに少年王プトレマイオス13世とその姉クレオパトラ7世が統治していた。
といっても内情は、傀儡王であるプトレマイオス13世一派がクレオパトラを追い出し、国政を牛耳っていたのだ。

その彼らからすれば、カエサルに負け、行くところ全てに門を閉ざされた敗将の来訪など、迷惑極まりないのである。
ポンペイウスには快諾の返答をした。
しかしエジプト側の胸の内は決まっていた。

ポンペイウスが、ガレー船でアレキサンドリアの港につくと、エジプト側に港の外で待機するよう指示があった。
そしてポンペイウスを迎えに来たのは小型船。
この小型船に、かつての部下であるセプティミウスが乗っていることに安心して、乗船した。

だが、これはエジプト側の罠であった。
小型船がガレー船から離れたところで、ポンペイウスはセプティミウスに殺された。
エジプトに駐屯するローマ軍は、すでにエジプト側に染まっていたのである。

4日後、アレキサンドリアの沖合に、船で姿をあらわしたカエサルのもとに、香油づけのポンペイウスの生首と、彼の金の指輪が届けられた。
ポンペイウスの変わり果てた姿を見たカエサルは、涙を流したという。
しかしカエサルが書いた『内乱記』には、たった一行しか記されていない。

アレキサンドリアで、ポンペイウスの死を知った

と。

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