ローマ帝国の領土内を網の目のように張り巡らせた街道を利用し、アウグストゥスが駅伝、郵便制度(クルスス・プブリクス)を創設したのは、古代ローマの駅伝、郵便制度 ―古代ローマ以前からアウグストゥスの創設まで―で述べたとおりだ。
この制度は、いわば国営で行われている長距離移動制度である。
と同時に、経済的に余裕のある民間人の間でも、国の命令や商売を目的をしない領土内の長距離移動、つまり余暇を楽しむ旅行をするようになったのである。
では古代ローマ時代では、
- どのような目的で
- 目的地にたどり着くために何を持っていき
- 安全の確保のため何をした
のだろうか。
この記事では、ローマ街道が整備された帝政以降に楽しまれた、古代ローマ時代の旅行について見てみることにしよう。
旅行の目的
古代ローマ人の旅行の目的はなんだろう。
『交路からみる古代ローマ繁栄史 』の著者である中川良隆氏によると、同著の中で旅行の目的は、主に次の5つを挙げている。
- 医療・健康旅行
- お祭り参加旅行
- 神託拝聴・祈願旅行
- 観光旅行
- 休暇の旅行
医療・健康旅行
古代ローマ人は、健康や癒やしに対して高い関心を持つ人が大勢いた。
そのため、彼らは帝国内の医療の聖地と呼ばれる都市へと、いわば健康巡礼という名目で旅行したのである。
彼らが健康のために向かった地は、次の3つ。
- ギリシア神話の名医として登場する、アスクレピオスが生まれたと言われる都市『エピダウロス』
- 古代ギリシアで医聖とよばれた、ヒポクラテスの生地『コス島』
- ローマ随一の名医、ガレノスの生地『ペルガモン』
エピダウロス
エピダウロスはアテナイの南西にある港湾都市として栄えた町だ。
この町にある治療の宿舎には160もの部屋があり、一つの部屋が4m × 4.5mと広い。
おそらくこの部屋は何人かの共用部屋として使われたと思われる。
かなり大勢の人が、治療のために訪れたのだろう。
コス島
アナトリア半島(トルコのアジア側の土地)南西に近い場所に位置する島。
コス島にはプラタナスの巨木が生えており、この木の下でヒポクラテスが医学を教えたと言われている。
ペルガモン
ペルガモンもアナトリア半島の西岸に位置する都市で、図書館などがある学術都市として有名だった。
名医ガレノスはいくつかの都市に遊学した後、故郷ペルガモンで剣闘士の医療に携わり、医学の技術を磨いたという。
健康旅行でもう一つ有名なのが、温泉地への旅行である。
これは風呂好きで通じる私たち日本人でも想像できる、いわゆる温泉旅行だ。
イタリアは火山活動地帯なので、数多くの温泉が湧いている。
その中でもカンパニア地方にあるプテオリ近郊の温泉と、シチリア島ちかくのリパリ島には、湯治のために多くの人が訪れていた。
お祭り参加旅行
ローマ帝国各地で行われていた競技会やお祭りにも、人々は参加、観戦に訪れた。
その中でも有名なのが、ギリシアで行われていた次の5つの祭りである。
- 4年に一度のオリンピック競技
- 同じく4年に一度のピュティア競技
- 2年に1度開催されるイストミア祭
- 同じく2年に1度開催されるメノア祭
- 毎年行われる大ディオニュソシア祭
オリンピック競技
(2019年現在では)2020年に東京で開催されることが決まり、話題となっている東京オリンピック。
その基となったゼウスに捧げる競技会が、古代に開催されていたオリンピックだ。
開催時期は真夏で、主に陸上競技が行われていた。
ピュティア競技
ご信託で有名なギリシアのデルフォイの近郊で行われていた、歌や舞踏が中心の競技会。
こちらはアポロンに捧げる祭りなので、体育ではなく芸術祭といったところである。
4年に一度、春に競技祭が行われた。
イストミア祭
ポセイドンに捧げる祭りで、2年に1度、コリントスで開催。
陸上競技を中心に、歌舞も含まれていた。
メノア祭
メノア祭は、2年に1度ゼウスに捧げる祭りとして開催された。
開催地はペロポネソス半島北東にあるメノア。
陸上競技を中心に、音楽も含まれる。
大ディオニュソシア祭
毎年3月アテネで開催される、酒と豊穣の神ディオニュソスを讃える祭。
演劇コンテストが開かれた。
このギリシアの各お祭り(で開かれた競技会)に参加したのが、暴君として有名な5代皇帝のネロである。
彼は数々の競技会に参加し、実に1,808もの栄冠を手にしたというが、そのほとんどが主催者の気遣いで与えられた勝利だったのだ。
なにせ戦車競技に参加したときなどは、途中棄権をしたにも関わらず勝者になっているという珍事件まで発生しているのだから。
このような大規模な競技会に参加できなくとも、帝国各地で行われていた戦車競技や剣闘士の試合には、近隣から観客が集まってきたという。
ちょっとした小旅行だっただろう。
神託拝聴・祈願旅行、聖地巡礼
古代において神託(神に祈りを捧げ、神の意志を知る)とは、政治的、軍事的な決断をするときに重要な判断要素となった。
そのため政治家や軍人たちは、世界各地の有名な神託所を訪れ、神の声を聞くことがあった。
いわばこの個人版が、旅行の目的になったのである。
古代の有名な神託所は、ギリシアのデルフォイ、エーゲ海のデロス島などがあった。
日本で言えば、お伊勢参りのようなものだろう。
またコンスタンティヌス一世によりキリスト教が公認されると、キリストの生地エルサレムへの巡礼が盛んになった。
その理由に、キリスト教徒のために宿泊施設が開放され、旅の準備も公費として賄われるようになったからである。
古代ローマの駅伝、郵便制度 ―古代ローマ以前からアウグストゥスの創設まで―の中のコンスタンティヌス一世の時代でも触れているので、ご参考いただければと思う。
観光旅行
古代ローマ以前、2500年前の古代ギリシア人にも、「その国を見るためだけに行く」、つまり観光をする人はいた。
帝国領土内が安全な古代ローマの時代には、この観光旅行も増えたのだろうと想像する。
では旅行者は何を見に行ったのだろうか。
基本的に彼らの目的は、現代の私達と同じく、有名な史跡を訪れたり、建物を見たり、観光スポットを歩いたりしたのである。
これら観光スポットの中でも有名なのが、ビザンチン(現在のイスタンブール)のフィロンが選定した有名な世界七不思議だ。
古代における世界七不思議とは、
- ギザの大ピラミッド
- バビロンの空中庭園
- エフェソスのアルテミス神殿
- オリンピアのゼウス像
- ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
- ロドス島の巨像
- アレクサンドリアの大灯台(フィロスオリジナルはバビロンの城壁)
のことを指す。
これらは巨大であったり、その当時にしては不思議な建築技術だったので、見に行く価値あり、という観光名所の役割を果たした。
ちなみに漫画プリニウスの8巻 で倒壊したロドスの巨像が登場しているのは、記憶に新しいところだ。
またアレクサンドリアの大灯台については、アレクサンドリア ―世界の知が集まったプトレマイオス朝エジプトの首都―でも紹介しているので、興味のある方はご一読いただくといいだろう。
休暇の旅行
ローマの上流階級、富裕層の人々は都市部の自宅とは別に、離れたところに別荘を持っているのが一般的だった。
この別荘に移動するのも、旅行といえるかもしれない。
別荘地のなかでも特に人気の高かったのは、ローマ東方のティボリや、カンパニア地方のナポリ近郊である。
バイアエには温泉付きの別荘がたくさんあった。
また2代目の皇帝ティベリウスはアウグストゥスが存命の頃、政界から一時引退したことがあり、その引退先に選んだのが、東地中海のロドス島である。
彼はここで実に10年の引退生活を送っている。
これもまた、旅の一つと言えるだろう。
古代ローマ人の中で、最も長い距離を旅した人物は誰か。
その答えは、14代皇帝ハドリアヌスその人である。
彼は治世の半分以上を帝国の巡察に費やした。
その目的は、次の通り。
- 防衛の再整備
- 行政の調整
- 皇帝の存在を帝国中にしらせ、民の忠誠心を高める
北はブリタンニア(現イギリス)の長城(蛮族侵攻に対する防壁)建設から、南はカルタゴ(現チュニジア)の水道橋建設、さらに東はアレクサンドリア(エジプト)からエルサレムまで、本当に帝国中を旅したのである。
彼のお供は妻(皇后)のサビナと元首顧問会のメンバー、ケイオニウス、アンティノウス、さらに近衛の分隊など、皇帝の巡察としてはとても小規模なものだった、とスエトニウスのローマ皇帝伝に記されている。
旅行に伴う道具
知らない土地を旅するには、地図は不可欠だ。
また、旅先の見どころを紹介してくれるガイドブックもあると、一層便利である。
実は古代ローマには、旅行をサポートしてくれる地図もガイドブックも存在していたのだ。
ここでは古代ローマに存在していた旅行に不可欠な地図と、見どころを紹介してくれるガイドブックを見てみよう
タブーラ・ペウテンゲリアーナ(ポイティンガー地図)
タブーラ・ペウテンゲリアーナとは、都市から都市をつなぐ道路と移動時間を示した、古代ローマの道路地図。
初代皇帝アウグストゥスの部下であるアグリッパが、20年の歳月をかけて測量したものを表した地図だ。
ドイツの都市ワームスで発見され、それが人文学者ポイティンガーに寄贈されたため、「ポイティンガー地図」とも呼ばれている。
この基となるものはウィプサニア列柱廊とよばれるローマの広場の壁に、「オルビス・テッラルム」として誰もが確認できるように刻まれていた。
タブーラ・ペウテンゲリアーナは、一枚が60cm × 33cmの計12枚の地図からできており、それがすべて連なった巻物になっている。
ただしこれは中世に複製されて巻物状になっているだけで、本来は旅行に必要な地図のみ携帯していたのではないかと推測されている。
地図には都市、宿場、交易所、鉱泉、巡礼地などの目印が簡単なイラストでアイコン化されているため、とても見やすい構成になっている。
さらに森林や川、山脈などの自然物もイラスト化。
都市などをつなぐ道路の距離も非常に正確に描かれているため、携帯者にとっては便利だっただろう。
ちなみにこの地図に描かれている街の数は555、寺院、灯台などの目印3,500。
ローマでは複製した地図を売る地図屋さんも存在していたらしい。
旅行・観光ガイドブック
古代ローマの旅行ガイドブックで、現在まで存在が確認できるのは、2世紀後半にパウサニアスが著した『ギリシア案内記』(全10巻)だ。
この『ギリシア案内記』は、単にギリシアに何があるかを記しただけではない。
第1巻のアッティカから、ギリシア全土を順路にしたがい神殿や公共建築物、お墓などの歴史や見どころを紹介した本、つまりそこを訪れる旅行者にとってのガイドブックになっているのである。
ただし彼のまとめた本は、分量が多いうえにパピルスで書かれているため分厚く重い。
現代のように簡単に携帯できる本ではないので、旅行者は自宅で必要な場所を写すか、誰かに持たせていたのではないかと思う。
ちなみに馬場恵二氏によって訳されたものが、岩波文庫からでているので、興味のある方は一読いただければと思う。
ヴィガレロ・カップ
地図やガイドブックではないが、当時の旅行補助道具として「ヴィガレロ・カップ」を紹介しよう。
これは銀でできたローマ時代のコップで、ローマ北方30kmの場所にあるヴィガレロの泉で4つ発見されたものだ。
このカップにはヒスパニア(現在のスペイン)のカディスから首都ローマまで、2,700kmの道中にある103ヶ所の宿場の名前と、宿場間の距離が刻まれている。
旅行者はこのカップを買い、次の宿までの距離を知ることができた、という説もあるが、
- 銀製で高い
- ヴィガレロでしか出土していない
- カディス―ローマ間しか出土していない
ことから、どうやらこの距離をしっかりと歩いたことで、泉にコップを投げ入れて祈願をするという道具に使用していたのではないか、という説もある。
何れにせよ、旅行者はこのようなものを持ち歩き、祈願旅行もしたのだろう。
旅行の道中について
旅の目的があり、地図によって目的地までの案内があったとしても、旅の道中に危険が潜んでいれば、旅行そのものを躊躇するだろう。
古代ローマでは、私的、公的に関わらず旅をする人々は、道中どのような状態だったのだろうか。
旅行の安全性
まずは道中の安全を確保することである。
いくら街道が整備されたとしても、その街道に山賊などが出没し、金目の物を奪われたり、命まで奪われたらたまらない。
前述したように、旅をする人は基本富裕層、ありていに言えば金持ちたちである。
彼らは金目の物を持っているので、狙われやすいのだ。
では旅行者に対する安全はどのように配慮されていたのだろうか。
ティベリウス帝の対策
アウグストゥス帝が創設した警備隊を、街道警備にまで拡張したのは、2代目の皇帝ティベリウスである。
彼は宿泊施設ごとに警備隊を配備し、街道の安全を確保したのである。
その証拠として、ローマ皇帝伝『ティベリウス帝』に次のような記述があるので紹介しよう。
ティベリウスはとりわけ、無頼漢や追い剥ぎや、無軌道な暴徒から世の平和と秩序を守ることに心を配った。イタリア全土にわたっていつもより多い地点に警備隊を配置した
交路からみる古代ローマ繁栄史 | 第三章 ローマ街道を使った国家統治・防衛と旅の安全・楽しみ方
しかしローマ帝国が全盛期を過ぎ、3世紀にもなると、一時アッピア街道を盗賊に支配されるという自体にも陥っていく。
3世紀の危機といわれた軍人皇帝時代の皇帝たちは、外敵の侵入とともに、帝国内部の治安についても一層の対策を練る必要に迫られたのだった。
移動の方法
旅行者の移動方法は、基本的に徒歩か馬車である。
先にも述べたとおり、旅行に行く人はたいてい富裕層だったので、彼らは移動にもそれなりの快適性を求めた。
その結果、彼らは召使い(や奴隷)をすべて引き連れ、旅を快適に過ごすための荷物を沢山持ち歩いた。
古代ローマの駅伝、郵便制度 ―古代ローマ以前からアウグストゥスの創設まで―の人を運んだ車両でも述べたとおり、馬車にも何種類かあったが、大勢のものを伴っていき、たくさんの荷物を運ぶ必要のあった私的な旅行については、屋根付きの車両を伴った4頭立ての馬車をつかったのではないかと思う。
宿泊施設、交換所など
では道中の宿泊についてはどうだったのだろう。
街道にされた宿泊施設や車体修理を行うための交換所については、古代ローマの駅伝、郵便制度 ―古代ローマ以前からアウグストゥスの創設まで―の中継地点の施設の種類で述べたとおりである。
このうち公式な宿泊所のマンシオやムスタディオは、一般に公開されていたとはいえ、役人や政府高官、つまりディプロマをもった人が優先的に使用した。
ではディプロマを持たない旅行者はどうしたのか。
かれらは民間の人間が経営していた宿に泊まるしかなかった。
ただしカウポナなどの宿は問題が多く、宿内で売春をしていたり、宿泊者がゴロツキや盗人のこともあったのだ。
また料理に人肉を出す宿もあったという。
こうなると旅行者たちは安心して宿泊することができないため、宿場近くに持参したテントを張り、奴隷を見張りに立たせて寝ることもあったようである。
現地人の観光ガイド
古代でもエジプトやギリシア・シラクサなど観光客の多い地方では、ガイドがいたようだ。
彼らは観光客に雇われ、あるいは自ら観光客とおぼしき人物のところに出向いて、半ば強引に見どころや史跡などの説明をして、料金を徴収していた様子がヘロドトスの『歴史』やルキアノスの『風刺寸劇』、キケロの『ウォレスの弾劾裁判』で描かれている。
旅行の土産
最後に、彼らが現地から帰るとき、現代のようにお土産を買うことはあったのだろうか。
実は先日ロンドンの古代ローマ遺跡から、ラテン語が刻まれた鉄筆が発見された。
鉄筆とは、書字版(表面をロウで覆ってある古代のメモ帳)に文字を刻む道具。
この鉄筆の側面に、次のような文字が刻まれていた。
私はあの都市からやって来ました。私を思い出してくれるよう、あなたに先の尖ったお土産を持ってきました。 もっと私の運が良かったら、この長い道のりと空っぽの私の財布に見合ったもっとたくさんのお土産をあげられたのに
古代ローマの遺跡から発見されたペンに彫られていた「ジョーク」とは? | Gigazine
この文字に記されているように、どこかからのお土産をプレゼントする、という習慣はあったようだ。
帰郷時にお土産を選ぶこともあっただろう。
また剣闘士の試合が行われていた試合会場では、お土産用や記念品と思われる、剣闘士をモチーフとした彫り物がほってあるテラコッタ製のカップやランプが売られていた。
このような場所でお土産を買っていく人もいたのではないだろうか。
なお現代にも剣闘士をモチーフとしたカップが売っているので、古代ローマ好きの方へプレゼントとして持っていくのはいかがだろうか(笑)。
今回のまとめ
古代ローマ時代の旅行について、もう一度おさらいしておこう。
- 古代ローマ人も、プライベートで旅行をすることがあり、その目的も様々だった
- 古代ローマでは誰にでも見れる地図があり、旅行者は携帯することができた
- 古代ローマにも観光のためのガイドブックがあった
- 古代ローマの街道は、ある程度安全が確保されていたが、自分で身を守る人もいた
帝国内が安全になり、さまざまな場所へと旅行をしていた古代ローマ人。
街道の整備という公の事業が、プライベートな楽しみまで作り出す好例ではないだろうか。
なお、あなたがもし古代ローマへトリップする予定があるなら、こちらの本を片手に楽しんほしい。