アウグストゥスⅡ ―ローマ軍と安全保障について―

アウグストゥス ローマを帝政に導いた初代皇帝

アウグストゥスが権限を獲得していく様子は、アウグストゥスⅠ ―ローマ皇帝の権力確立と権威について―で述べた通りだ。
ここからは獲得した権限を使って、アウグストゥスがどのように統治したかを見ていくことにする。

統治者の重要な義務の一つが、民衆の安全を守る、ということである。
これはローマ帝国の外敵から国を守ることだけではなく、内乱によって同じ国に住むもの同士が争わないようにすることも意味している。

アウグストゥスは、この課題にどのように向き合ったのだろうか。
今回は、アウグストゥスの安全保障政策について、見ていくことにしよう。

ローマ軍の再構築

常備軍の設置

共和政末期、軍功を狙う属州総督の都合により、配備される軍団兵がその都度かわる例が多々みられた。
さらに内乱によってローマ軍団の数は膨れ上がり、アクティウムの海戦終了時にアウグストゥスが抱えていた軍団は60を数えていた。

アウグストゥスはこの兵を、約半数の30個軍団程度にまで減らす。
理由は次の通り。

  • 国防のために配置する軍団数としては多すぎるため
  • 兵の数が多いと、国庫への負担がかかり、税を上げる必要があるため
  • 国防を任せる属州総督の率いる兵が多いと、総督の軍事力が増し、内乱が起こりかねないため

以上から、アウグストゥスは国防に必要なギリギリの兵数にし、それを外敵侵攻の可能性が高い地域や、ローマに服従していない部族が残る地域に常時配備する常備軍としたのである。

アウグストゥスが配置した常備軍は、3種類あった。

主力軍(レギオー)

構成人数 1軍団が約5,000~6,000人で構成された、約30個軍団
年俸 一般兵:225デナリウス
※百人隊長になると、15倍になる
勤続年数 20年(後6年までは16年)
退役後 植民市への入植と退職金の支給

歩兵を中心とした、ローマの正規軍。
主に志願したローマ市民によって構成されていた。

補助軍(アウクシリア)

構成人数 正規軍とほぼ同じ人数
年俸 一般兵:75デナリウス
勤続年数 25年
退役後 本人と家族にローマ市民権が与えられる(属州税の免除などの特権)

主に現地出身の属州民を中心とした、正規軍を助けるための軍。
歩兵や騎兵で構成され、民族名や地域名が部隊の名前になった。


主力軍や補助軍のほか、皇帝の警護やイタリア本国の治安維持を目的とした軍である近衛兵も存在した。

近衛兵(プラエトリアエ)

構成人数 9個大隊
年俸 750デナリウス
勤続年数 16年
退役後 退職金の支給。また除隊後、各地の軍団の百人隊長に配属されることもある。

主にイタリア出身者により構成された軍団。
首都ローマに3個大隊(約1,800人)、ローマ以外のイタリア本国に6個大隊(約3,600人)が配置された。

軍事公庫の設立

アウグストゥスは常備軍の設置に伴い、共和政末期まで軍を率いた将軍が個人的に捻出していた退職金(年金)を、国が設立した軍事公庫から捻出するようにした。

将軍が兵の退職金(や土地の授与)の面倒を見ていた時代は、兵が将軍個人に忠誠を誓い、将軍個人が強大な軍団を形成してしまうという弊害があった。
しかし退職金を国から支給することにより、将軍と兵の関係を断ち切り、国(もしくは皇帝)に忠誠を誓わせ、内乱を防ぐことができたのである。

防衛ラインの策定

アウグストゥスは、共和政末期までに行われていた領土の拡大をやめ、専守防衛に切り替えることを決める。
ではアウグストゥスは、再構築したローマ軍でどのように守ろうとしたのだろうか。

古代ローマの世界地図「オルビス・テッラルム」

アウグストゥスが、部下のアグリッパに命じて作らせた地図がある。
「オルビス・テッラルム(大地の球形)」と呼ばれる、地中海を中心としたローマ世界とその周辺の様子をあらわしたものだ。

アグリッパのオルビス・テッラルム
ローマ時代の地中海地図
アウグストゥス ローマ帝国のはじまりより

ちなみに腕時計にも地図をモチーフとした文字盤を使った「オルビス・テラルム」という名前のものがあるので、おなじみの人もいるかと思う。

腕時計の話はさておき、このオルビス・テッラルムは、アウグストゥスとアグリッパが帝国を視察した情報を基盤として、各属州の総督からの報告や、旅人の見聞をもとに制作された。

ローマを離れるほど正確さは欠くものの、アグリッパの姉妹によって建てられたウィプサニア列柱廊の壁にきざまれたため、帝国の軍司令官や総督、役人だけでなく、一般の人の目にもローマ帝国と周辺の様子が視覚的にわかりやすく提示されることとなったのである。

この地図を見ると、アウグストゥスとその右腕であり、ローマ帝国軍の実質的な総帥であるアグリッパが、帝国をどのように認識していたかがわかる。
そしてローマをどのように防衛するのかも、この地図は語りかけてくるようである。

ローマ帝国の防衛ラインをどこにするか

帝国の南、オルビス・テッラルムでいう右側の北アフリカは、南に砂漠がひろがっているため、防衛線はおのずと決まっている。
帝国の東、オルビス・テッラルムでいう上部はティグリス・ユーフラテス川付近でパルティアと接するため、パルティアへの対策と、その周辺の従属国を緩衝材として利用する。

そして帝国の北、つまりオルビス・テッラルムでいう左側の防衛ラインをどこに引くか。
アウグストゥスはこれを2つの大きな川に沿ったラインに設定した。
一つは西から東へと黒海に流れ込むドナウ川。
そしてもう一つは、ガリア東端のライン川よりもさらに東にあるエルベ川とする。

理由は単純だ。
ライン川よりもエルベ川のほうが、より帝国の北側防衛ラインが短くなり、防衛に割く兵数が少なくなるからである。
そしてエルベ川とライン川の間に、属州ゲルマニアを設置すればいいだろう。

防衛対策

ではアウグストゥスが、実際にどのように国防をしていたのかを見ていこう。
なおローマ帝国の位置関係がわかりにくい場合は、ローマ帝国最盛期の属州一覧 -ヨーロッパからアジア、アフリカまで-を参考にしていただくといいだろう。

※上記記事はトラヤヌス帝時代の最大版図時で、アウグストゥス帝時と正確には違うが、理解の手助けになると思う。

ローマ帝国最盛期の属州一覧 ローマ帝国最盛期の属州一覧 -ヨーロッパからアジア、アフリカまで-

アグリッパの生前

アウグストゥスは、先に述べたとおり防衛大臣ともいえるアグリッパとともに、ローマ帝国の防衛ラインを策定した。
アウグストゥスは実戦が苦手だったため、戦争はもっぱら他の人に任せていた。
そのため、アグリッパが生きている間は、彼を中心とした防衛(征服)をすることになる。

南方の対策

ローマ帝国の防衛ラインをどこにするかでも説明したとおり、ローマ帝国の北アフリカの領土より南は、広大な砂漠が存在している。
そのため、この地方では外敵から身を守る必要が少なく、襲ってくる相手も盗賊団程度の野盗だった

また、マウレタニア王国(現在のモロッコあたり)以外は属州化しており、唯一残っているマウレタニアにも、ローマで教育を受けたユバ2世をアウグストゥスが王としたために安定していた。
そのため、アウグストゥスはごく僅かな軍団しか配置していない。

ちなみにマウレタニア王ユバ2世の妃となる女性は、アントニウスとクレオパトラの子どもで、アウグストゥスの姉オクタウィアが養育したクレオパトラ・セレネである。

東方の対策 その1(前23年~前19年)

ローマ帝国の東方防衛の拠点は、属州シリアである。
アウグストゥスはシリアに軍団を配置し、東方の防衛にあたらせた。

パルティア対策

またローマ帝国の東にはパルティアという大国があり、東方の防衛とはパルティア対策といっても過言ではない。
パルティア対策には、次の2つの方法があった。

  1. パルティアとの戦争で勝利し、その後有利な講和条件を結ぶ
  2. 外交によってパルティアと友好関係を結ぶ

(1)は前53年クラッススがパルティアとの戦いに大敗し、アントニウスがその雪辱を果たそうとしたが、結局うまくいかなかった。

そこでアウグストゥスは(2)の外交でパルティア問題を解決することにする。
ただしクラッススが破れたときに、捕虜となってパルティアに連れて行かれたローマ兵と、奪われたままの軍旗を取り戻すという命題が残っていた。

このころ、パルティアの王位を狙うものが、パルティア王フラアテスの息子を誘拐してローマへと亡命していた。
前20年、アウグストゥスは、生き残ったローマ兵の捕虜と軍旗の返還を条件に、フラアテスの息子を王のもとに送り返す。

同時に、パルティアの北西部にあるアルメニア王国遠征を実行した。
現在のアルメニア王アルタクシアスは、ローマに対して敵対的な姿勢をとっていたので、現王を退位させ、代わりに親ローマの傀儡王を即位させるのが目的だ。

アルメニア遠征はうまくいった。
というより、戦う必要すらなかった。
なぜならローマ軍が到着する前に、アルメニア人が反乱を起こし、王を殺害してしまったからである。
アウグストゥスは、難なくローマに亡命していた親ローマのものを王にすることができた。
ちなみにアルメニアの遠征軍を率いていたのは、若干22歳のティベリウス、後の2代目となるローマ皇帝である。

アルメニアがローマ側へと移ったことを知ったパルティアは、約束を果たして捕虜の返還と軍旗を引き渡す。
アウグストゥスは、クラッススやアントニウスが万の兵士を失っても果たせなかったことを、一兵も失うことなく果たしたのだった。

その他の東方対策

アルメニア王国のように、パルティアを牽制するにはローマ東方の庇護国に目を光らせ、常にローマの味方となるようにし、緩衝材としての役割を果たしてもらう必要があった。
また、庇護国のどこかが大きな力を持つことは、大きなリスクを伴うことになる。

アウグストゥスは、基本的にアントニウスが行った東方の再編成をもとに、庇護国同士のパワーバランスを調整し、東方の安定化を図った。

またパルティアとの外交を行っていた時期、交易路の拡大を狙ってアラビア半島へ遠征も行っている(これは失敗に終わったようだ)。
NHKBSプレミアムで放送された「英雄たちの選択」で、この遠征を扱った回があったのを知る人も多いかと思う。

参考 英雄たちの選択スペシャル 「ローマ帝国 VS.驚異の砂漠都市 幻の王国のサバイバル戦略」NHKオンデマンド

前19年にはアナトリア半島(現在のアジア側にあるトルコ)中部のガラティアを併合している。

パルティアとの友好関係を築き、再編成を果たした東方は、20年ほど平穏を保つことができた。

北方の対策 その1

ローマ帝国の防衛の要は、なんといっても北方からの蛮族侵入を防ぐ対策である。

アウグストゥスは、エルベ川とドナウ川を帝国の防衛ラインと設定した。
だがこの内側には、ローマの支配を完全に受け入れていない地域が多数存在したし、ラインより東については、もっとも困難であろうゲルマニアがある。

アウグストゥスは専守防衛を決めながら、これまでの誰よりもローマの支配地域を拡大するという事業を推し進めていくことになる。

ヒスパニア遠征(前24年~前19年)

ヒスパニア(現在のスペイン)は紀元前3世紀の第二回ポエニ戦争以来、古くから属州支配をしてきた地域である。
だが北部の先住民族、アストゥレス(現アストゥリアス地方にいた)とカンタブリ(現サンタンデルとビルバオにいた)がローマ支配を受け入れていなかった。

そこでアウグストゥスは前24年、みずから遠征軍を組織しヒスパニアの攻略に向かう。
しかしヒスパニアは山間部が多く、2つの部族はそれを利用してゲリラ戦を仕掛けてきたので、結局アウグストゥスでは攻略することはできなかった。

そこで前20年からアグリッパに指揮を任せ、前19年にようやく屈服させることができたのである。
のちに、ヒスパニアは

へと分割されることになった。

ラエティア・ノクリム・アルプス征服(前15年~前14年)

イタリア北部の地域、いわゆるアルプス地方をおさえることは、イタリア本国の安全につながるだけでなく、陸路でガリアやヒスパニア、あるいは東方へとつながることができ、通商ルートの確保としても極めて重要なことだった。

前15年、アルプス近郊に住み着いていたローマ人への残虐行為に対する報復として、ラエティア(現在のスイス、リヒテンシュタイン・オーストリア西部)、ノクリム(オーストリアの東部)、アルプス(スイスからイタリア北西部、南仏の山間部)の征服に乗り出した。
司令官はアウグストゥスの妻リウィアの連れ子である、ティベリウスとドゥルスス兄弟の2人。

彼らは無事征服を果たした。
そして今後の反乱が起きないように、「過酷な」処置をする。
それは兵役適齢期の男性を、征服地から大量に追放する、という手段だった。

一世代あとに訪れた地理学者のストラボンは、「平穏な状態」に保たれている、と報告している。

パンノニア遠征(前13年~前12年)

前13年、パンノニア(現在のハンガリーを中心としたドナウ以南の平原地域)の諸部族が反乱を起こしたので、アウグストゥスはアグリッパに軍の全指揮権を与え、討伐へと向かわせた。
これでドナウ以南の征服は完了し、ローマ帝国の防衛ラインがある程度確立するはずだった。

しかしアグリッパは作戦半ばにしてローマへと引き返す。
その理由は不明だが、おそらく病気にかかっていたのかもしれない。
前12年3月、全軍を任されていたアグリッパは死に、パンノニアの征服は、ティベリウスが引き継ぐことになった。

アグリッパの死後

アグリッパの死後、防衛(征服)戦略の主役はリウィアの連れ子であるティベリウス・ドゥルスス兄弟へと移っていく。

北方の対策 その2

続パンノニア遠征(前12年~前9年)

アグリッパから遠征を引き継いだティベリウスは、前12年から4年間に渡ってパンノニアの諸部族と戦った。
この戦闘では大きな困難もなく、作戦を遂行できたようである。

ティベリウスの征討で、ドナウ川以南に平穏が訪れたかに見えた。
しかし約15年後、再びパンノニアで大規模な反乱が起こることになる。

ゲルマニア遠征(前12年~前9年)

ティベリウスのパンノニア遠征と同時期に、弟ドゥルススもゲルマニアへの遠征に出発した。
幾度かの困難があったものの、前9年にはアウグストゥスが想定したエルベ川にまで到達し、ドナウ川とエルベ川の源流にいたマルコマンニ族を破っている。
しかし前9年、ドゥルススが落馬事故を起こし、それがもとで亡くなってしまう。

この後を引き継いだのが、またしてもティベリウスだった。
彼はドゥルススが死んだ前9年から約2年間、ゲルマニア遠征を行い、目覚ましい成果を上げている。
また反抗的なゲルマン人を、アルプス遠征と同じくライン川より西へ強制移住させ、反抗の火種を消そうと努力した。

しかしゲルマン人とゲルマニアでは、完全に火種を消し切ることはできなかった。
それは約18年後、ローマ人とアウグストゥスが、身を持って体験することになったのである。

東方の対策 その2(前2年~後4年)

前6年、アウグストゥスの指名で王位についていた、親ローマの王が亡くなったアルメニアで、親ローマ派と反ローマ派の王位継承者の間に争いが起こっていた。

アウグストゥスは、すぐにティベリウスをアルメニアに派遣し、事態の収集をさせようとしたが、アウグストゥスの後継者選びに含みがあったティベリウスがロドス島へ引きこもったため、問題を後回しにするしかなかった。

しかし前2年、これまで友好関係を保っていたパルティア王フラアテスが(おそらく)暗殺されたことで、次の王がアルメニア問題に口出しをすることは目に見えていた。
下手をするとアルメニアはローマからパルティアに鞍替えするかもしれない。

アウグストゥスはここに至って、ついにアルメニアへの遠征することを決める。
遠征軍の司令官は、ティベリウスの代わりにアウグストゥスが後継者へと仕立て上げようとしていた彼の孫であり、養子のガイウス・カエサル。

結局アルメニアはローマが推薦した王が王位につき、パルティアとローマとの間で友好関係が更新される。

だがこの後アルメニアの王が次々と亡くなり、またパルティアも内部抗争に明け暮れたため、パルティアとの関係はアウグストゥスの死後にまで持ち越されることになった。

防衛ラインの見直し

ティベリウスの復帰とゲルマニア遠征の再開(後4年~後6年)

後4年、復帰したティベリウスにより、ゲルマニア遠征が再開された。
そして2年後の後6年には、あのマルコマンニ族を打ち破るべく、北と南から挟み撃ちにする計画が練られ、ついに実行に移された。

しかし数日後、ダルマティアとパンノニアで大規模な反乱が起きたとの知らせをティベリウスは受けることになる。
マルコマンニ族と直ちに和平を結んだティベリウスは、プブリウス・クインティリウス・ウァルスに後事を託し、パンノニアに急行した。

ダルマティア・パンノニア大反乱(後6年~後9年)

パンノニアでは、20万を超える反乱兵が武装していると知らされた。
おそらく誇張だろうが、ティベリウスはこの反乱を東方からの援軍が到着するまで、5個軍団(約25,000人)で迎え撃たなければならない。

しかし彼はなんとか持ちこたえると、援軍あわせて10万にもなる兵で反撃。
後8年までにパンノニアを、翌9年までにダルマティアを平定し、以後恒久的な支配を確立したのである。

アウグストゥスは、ティベリウスに対して賛辞を送っている。

ティベリウスよ。そなたの夏の軍事作戦は心からの称賛に値する。多くの困難に直面し、戦いに疲れた兵士たちを、そなたほど見事に指揮できる人間はいないと確信している

アウグストゥス ローマ帝国のはじまり
第24章 苦い結末――後一四年まで

だが、ティベリウスの見事な反乱平定も、ゲルマニアからもたらされた悲劇を伝える報によって、完全にかき消されてしまったのである。

トイトブルク森の戦い(後9年)

ティベリウスからゲルマニア遠征を任されていたウァルスは、ゲルマニアの司令官就任時に大きな認識違いを2つしていたと思われる。

  • 占領したエルベ川以西の土地が、このとき武力による征服期ではなく、ローマ化による属州化だと思っていたこと
  • ウァルスの副官であるアルミニウスが、信頼できる人間だと思ったこと

ウァルスはゲルマニアのローマ化をすすめるため、現地の部族となるべく友好な関係を築こうとしていた。
しかしゲルマン人の間では、ローマ軍とローマ人は招かれざる客としてみなされていたのである。

また、ウァルスの副官であったアルミニウスは、もともとゲルマン人のケルスキ族族長の息子だった。
だがパンノニアでケルスキ族がローマに下ったため、アルミニウスはローマ軍に入隊して軍務につくことになる。
彼は軍で自分が有能であることを証明してみせ、ローマ市民権を獲得しただけではなく、騎士階級という身分にまで登ることができた。

ウァルスはこのゲルマン人副官を信頼していた。
しかしアルミニウスは、ローマ人に反抗するゲルマン人をまとめ、罠に陥れる策を密かに練っていたのである。

後9年9月、アルミニウスは偽の情報を流し、ウァルスを自分の本拠地へ誘い出すことに成功する。
アルミニウスは、正面切っての戦いでは不利なことを承知していたため、ローマ軍を森深くの狭い道へと導き、そこで待ち伏せ攻撃をすることにした。
待ち伏せの場所はカルクリーゼ。

アルミニウスを疑わなかったウァルスは、彼の誘いに引っかかり、降りしきる雨にも関わらず、まんまと森の中へと進軍した。
第17軍団、第18軍団、そして第19軍団の3個軍団15,000人と、補助軍6個大隊合わせて約25,000の大人数である。
それが3.5kmに渡って森の中に伸び切っていた。

そのローマ軍を、森の茂みに隠れていたアルミニウス率いるゲルマン人が一斉に襲いかかった。
ローマ軍は果敢に抵抗したが、ぬかるんだ道に足をとられて思うように戦うこともできない。
さらに反撃体制を整えたところで、ゲルマン人たちはまた森の中へと姿をくらます。

そして3日目にはとうとう絶望的な状況となり、ウァルスは自殺。
3個軍団は全滅した。
ローマ人の多くは殺され、わずか1,500人が生き残った。
しかしこの生き残りの2/3もまた、奴隷に売られ、のこりは残虐な行為で殺害されたのである。

これを知ったアウグストゥスは、動揺のあまりドアに頭を打ちつけて、こう叫んだと言う。

クインティリウス・ウァルスよ、私の軍団を返してくれ!

アウグストゥス ローマ帝国のはじまり
第24章 苦い結末――後一四年まで

最終的な防衛ラインの策定

トイトブルク森の戦いで、ライン川以東の土地からローマ兵が撤退したため、アウグストゥスの策定した防衛ラインを、エルベ川からライン川へと変更せざるをえなくなってしまった。

※完全に撤退するのはティベリウスが皇帝になってから

これ以降、ローマの防衛ラインは、

  • 北・・・ライン川とドナウ川
  • 東・・・ティグリス・ユーフラテス川(時代によって変化あり)
  • 南・・・サハラ砂漠

となり、拡大路線は失われ、専守防衛へと完全に切り替わったのである。

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