あなたは古代ローマの「カラカラ」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。
カラカラの名で有名なものといえば、カラカラ浴場だろう。
古代ローマの大浴場、テルマエの代名詞とも言えるカラカラ浴場は、ローマ皇帝カラカラによって造設された施設だ。
またカラカラ帝と言えば、(一部の例外を除き)ローマ帝国領内すべての自由人にローマ市民権を与える「アントニヌス勅令」を公布した人物でもある。
この2つを見ると、カラカラは領民にサービスを提供し、身分差別をなくす努力をした、ローマの民を思う心優しき皇帝を想像するだろう。
しかしカラカラは、『ローマ帝国衰亡史』を書いたエドワード・ギボンから、「人類共通の敵」とまで非難されている。
一体なぜカラカラは、ギボンからこのような評価を受けたのだろうか。
その謎は、カラカラの生涯を追っていくことで解き明かしてみよう。
※タイトル下イメージは、「ダークヒストリー3 図説ローマ皇帝史 」より拝借しました。
カラカラ誕生!
「カラカラ」の名の由来
188年4月4日、ガリアのルグトゥヌム(現リオン)でカラカラは誕生した。
父はセプティミウス・セウェルス。
後にアフリカ出身者として、初のローマ皇帝となる人物である。
実は「カラカラ」という名は本名ではない。
生まれた時の名は「ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス」。
この名も、故マルクス・アウレリウス帝の養子となったことで変更され、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」となった。
ではなぜ彼は「カラカラ」という名で呼ばれていたのか。
それは、彼がケルト風のフード付きトゥニカ(ローマでの普段着)を愛用していたため、この服の名称「カラカラ」が彼のあだ名になったのだ。
服の名があだ名になるなど、とても愛らしいと思われるかも知れない。
しかしカラカラは、そんな愛らしさとは無縁の残虐な人物に成長していく。
その評価を裏付ける行動として手始めに行ったのが、カラカラの義父である近衛隊長官プラウティアヌスを始末することだった。
近衛隊長官の始末
202年、カラカラは近衛隊長官プラウティアヌスの娘、プラウティアと結婚する。
プラウティアヌスは、当時ローマでセウェルス帝を凌ぐほどの権力があり、巨額の富を貯めていたという。
カラカラは、何かにつけて口を出す小うるさい義父と、新妻が嫌いだった。
そこでカラカラは一計を案じる。
彼は、プラウティアヌスが皇帝暗殺を下士官に命じる密書を捏造したのである。
この件でプラウティアヌスは処刑され、その娘プラウティアは追放。
カラカラはまんまと思い通りにことを運んだのだ。
この時カラカラはまだ16歳。
ちなみに処刑された近衛隊長官の財産は、皇帝によって没収された。
プラウティアヌスが所有していた富があまりにも多かったため、彼の財産を管理する専用の役職が特設されたという。
弟ゲタとの確執
小うるさい義父の死でタガが外れたのか、カラカラは若者特有の放蕩三昧な日々を送る。
剣闘士、戦車騎手など、いわゆる「不良(とみなされていた身分のもの)」たちと交友関係を結び、婦女暴行を働く始末。
さらに劇場や戦車競走にものめり込み、遊びに熱中していたという。
カラカラにはゲタという1歳違いの弟がいた。
兄弟仲は子供時代から最悪で、何かにつけて反目し合う間柄。
さらに皇帝の息子たち=将来の皇帝候補という立場から、彼らに取り巻きができたため、周りからも煽られてますます仲が悪くなる悪循環ができあがる。
ある時は兄弟が戦車競技で張り合い、カラカラが落馬して足を骨折する事故まで起きている。
この兄弟仲の悪さが、やがて悲劇を生むことになる。
カラカラ、皇帝に即位する
父セウェルス帝の死
父セウェルス帝は、治世晩年に差し掛かる208年、体調不良(ひどい痛風)を押し、カラカラとゲタを伴ってブリタンニア(現イギリス)遠征へと出発した。
この遠征は自らの栄誉もさることながら、息子たちの行いを心配した父が、ローマから子供を遠ざける目的もあったようだ。
セウェルス帝はハドリアヌスの長城修復を命じる一方で、ピクト人(現スコットランドの原住民)たちを攻めた。
しかし奮闘むなしく彼は211年に遠征先のブリタンニア、エプラクム(現ヨーク)で病没する。
セウェルス帝は死ぬ前に、カラカラの弟ゲタをカラカラと同じく共同統治者に指名した。
カラカラとゲタの仲の悪さは周知の事実であり、このままカラカラが単独で皇帝になると、権力を利用してゲタを抹殺しかねなかったからだ。
セウェルスは、死ぬ間際にこう言い残した。
兄弟、仲良くせよ
しかしこの言葉は、息子たちに守られることはなかった。
弟ゲタとの共同統治
父の死後、ゲタとともに皇帝に即位したカラカラはまず、自分ひとりに忠誠を誓わせようと軍隊の取り込みに動いた。
弟との共同統治など、ハナから頭になかったのである。
しかしこの目論見は、兄弟に忠誠を誓ったと言われ失敗。
それどころか、先帝セウェルスに外見が似て寛大なゲタの方が、粗暴なカラカラよりも軍に人気があったのだ。
ゲタの追い落としに失敗したカラカラは、ブリタンニアからの撤退を決め、首都ローマへと帰還する。
父の始めた戦争は、兄弟2人にとってさほど重要なことではなかったのだろう。
この帰路でも兄弟の仲の悪さは相変わらずだった。
彼らは互いに不信感を抱き、暗殺を警戒。
道中も同じ宿舎に泊まらないばかりか、毒殺されることを嫌って食事に同席することもなかった。
首都ローマに着き、父の神格化を済ませた後でも兄弟の確執は変わらない。
宮殿は2つの空間に分かれ、通路すら塞がれる始末。
彼らは公務で同席する以外、顔を合わせようとしなかった。
あまりにも仲が悪いので、ついにはボスフォラス海峡(現イスタンブールのある、アジアとヨーロッパを隔てる海峡)を境界とする帝国二分案まで飛び出し、兄弟仲を心配する母ユリア・ドムナに「私を殺して、遺灰も2分するがいい」と泣きつかれたという。
ゲタの暗殺と「記憶の断罪」刑
ここまでくると、一方がもう一方を抹殺するまで時間の問題だ。
カラカラは弟ゲタを亡き者にしようと画策。
そのために利用したのが母ユリアだった。
カラカラは母に、兄弟仲良くするから弟を呼び出してほしいと頼みこみ、母もこれを承諾。
母の招きに応じて、ゲタはカラカラの前に姿を表した。
しかしカラカラは、抱き込んでいた百人隊長たちを密かに配置し、弟の姿が見えた途端一斉に襲わせたのである。
護衛もいなかったゲタは、この襲撃で重傷を負い、母ユリアに抱かれ22歳の若さで死んだ。
カラカラの弟に対する憎しみは、命を奪っただけではとどまらない。
彼はゲタを「この世から完全に抹消」するため、「記憶の断罪」や「記録抹殺刑」と呼ばれるダムナティオ・メモリアエを実行したのである。
カラカラは、ゲタの名をあらゆる公文書から削除した。
さらにローマにあるセウェルスの凱旋門に刻まれている碑文を削り取り、違う文章で上書きするという念の入れよう。
フラスコ画に描かれた家族の肖像にあるゲタの顔を黒くぬりつぶさせたりもした。
ゲタに対するこの処分は、
- 弟殺し
- 皇帝殺し
の二重の罪を正当化するためでもあった。
カラカラはゲタ殺しの理由を、
弟の陰謀で命を狙われたので、仕方なく弟を殺害した
と主張したが、カラカラの話を信用するものがどれほどいたか、不明である。
カラカラは、ゲタの関係者をことごとく血祭りに上げた。
同時代に生きたカッシウス・ディオは、2,000名の人間が処刑されたと記している。
この数がどれほど真実に近いか知る由もない。
ただ、兄弟仲を心配したというだけで殺されたもの、この機会に以前の皇族が処刑されたことは確かだ。
故マルクス・アウレリウス帝の娘コルニフィキアは、ゲタの死を悲しんだ母ユリアにもらい泣きをしたという理由だけで、自殺を強いられたのである。
軍への厚遇
先帝セウェルスは、兄弟仲の他にもう一つの遺訓を残していた。
それが
軍を富ませよ。それ以外は無視せよ
という、軍人優遇政策である。
セウェルス帝は、ドミティアヌス帝以来上がっていなかった兵士の年給を50%もアップしている。
カラカラはもう50%アップ、2700セステルティウスへと引き上げた。
これは実にアウグストゥス帝時代の3倍に当たる金額。
さらに1人あたり1万セステルティウスの下賜金を与える大奮発をしたのである。
理由は、軍に好かれていたゲタを殺害したことで、軍を懐柔する必要があったため。
しかしこの代償はあまりにも大きかった。
なぜなら軍事費用はローマ帝国にとって最大の負担であり、兵士の給料がアップすると、慢性的に財政が赤字になってしまうからである。
カラカラ帝の後に皇帝になったマクリヌスが、兵士の給料を「支払不能」と泣き言を言わなければならなくなるほど、負担が大きくなったのだった。